「自由の哲学」について、章を追いながら、述べられていることと、述べられていることの形を、かいつまんでお伝えすることにします。その本をじかに読むことへの橋渡しになれば、幸いです。
人は考えると振る舞うにおいて精神の自由な者であるか、それとも、ただの自然法則の、かたくなな必然に強いられつつであるか。
これが、はじめの章の、はじまりの文であり、はじまりの問いです。問われているのは、なにごとでしょうか。それが、はじめから、まるごとピンとくるという人は、そういないのではないでしようか。ちょっと読んだだけでは、なんだか有り余るような、一筋縄ではいかないような、とにかく、すぐには答えの出しかねる問いです。それでも、しばらくお付き合いください。はじめは、それとなく読み過ごしていても、読み進むうちには、それと気づいて、立ち返るということがあります。はじめから尻込みするには及びません。なるほど、言い回しは難しくても、いちいちのことばは、あらかじめ専門的なことを知っていなくても、読んでいけるはずです。それらのことばも、言い回しも、まずもっては、考える手だてです。そして、振り返って分かることが度重なるほどに、そもそもの読みがはかどります。
はじまりの問いにおいて、たとえば「精神の自由」と「自然法則の必然」が対し合うかのようです。 なるほど、問われていることのひとつは、いわゆる「意志の自由」です。しかし、それについても、あらかじめなにかを知っていなくても、別段さしつかえはありません。むしろ、あらかじめ知っていることが、かえって仇になりがちです。「ああ、自由意志、とっくにけりがついてるのに、なにをいまさら」とか。
いや、そう思う人にしても、「どれどれ、ひとつ、その間抜けぶりを見てやろう」という気になれば、先を読もうとします。そうした読みでも、あながち捨てたものではありません。まずは、シュトラウス、スペンサー、スピノザの説が引かれて、「選ぶ」「求める」「欲する」に、光が当てられます。もしくは、意識が向けられます。なにかを「選ぶ」として、そのもとには「求める」があり、「求める」のもとには「欲する」があります。なんとなく選ぶにしても、そのもとには「求める」とはいえないまでも「こころの向き」があり、「こころの向き」のもとには、「欲する」とはいえないまでも「こころの起こり」があります。さらに、「欲する」のもとにも、なんらかの[基(もとい)]があります。そもそも、こころが起こるのは、なにかによって起こされてこそです。
(「基(もとい)」に当たるドイツ語はGrundであり、地面、土台、根底、証拠などを意味します。)
そう辿ることは、いわば、もとへと降りることであり、からだへと迫ることです。さらにまた「意志の自由」を巡る論争のみなもとへと遡ることでもあります。その論争のはじまりには、こういう説がありました 。
たとえば、石が突かれて動く
。・・・かりに、石が動いているうちに考えだし、みずからがなおも動きつづけようとしているのを知るとしよう。その石がそれだけを意識し、それにつきどうでもよくはいなくなるとして、こう信じるだろう、みずからはまったく自由だ、みずからが動こうとするゆえに動きつづけるのだと。それが、とりもなおさず人の自由だ。だれしもがみずからのことと唱える自由とは、みずからの欲ばかりを意識して、その欲を決めている基を知らないことの他ではない。たとえば乳飲み子は乳を自由に欲しがると信じ、腹を立てた子どもは腹いせを自由にすると、腰抜けは自由に逃げると、さらに酔っぱらいは言わずもがなを自由に言うと信じる。
そう、スピノザという人が、いまから三百数十年前に説いています。いかがでしょうか、読めば読むほど、すっきりと見通しのきく、意識的な説ではないでしょうか。人は、欲することを意識しても、その基を意識しない。よって、自由であると想い込む。つまり、意志の自由は幻想である、と説かれています。そして、スピノザの後の人々(おもに知識人たちですが)も、そのことを延々と言い立ててきました。「自由の哲学」が書かれた頃、いまから百年余り前は、その勢いがピークを迎えようとしていた頃であり、それが「科学的な」説として認められ、公に幅をきかせるようになっていました。
さて、そのスピノザの説に対しては、こうあります。
これは駁する人もあるまいが、乳を欲しがる乳飲み子も、あとで悔いることを言い放つ酔っばらいも、ともに不自由だ。ともに、身の深くで働き、抑えがたく強いる働きを及ぽしてくる、おおもとのことがらについて、些かも知らないでいる。しかし、その類いの振る舞いと、振る舞うことをのみか、振る舞うことへのきっかけとなる基をも意識しての振る舞いとを、ひとつ鍋にしてもいいか。人の振る舞いは、みながみな、ひととおりの趣(おもむき)か。戦場での兵士の行動、実験室での科学者の手順、もつれた外交での政治家の手腕と、乳飲み子の乳を欲しがるとを、科学だと同じ次元に置くのが許されるか。
(「趣(おもむき)」に当たるのはArtであり、様相、種類など を意味します。)
加えて、ハルトマンの説が引かれ、人の「質(たち)」に光が当たります。人は、それぞれに想いを抱く。それぞれの想いから、それぞれの振る舞いをする。しかし、それぞれの想いは、それぞれの質に強いられている。よって、人の振る舞いは、人それぞれでも、人の自由ではない、というのがハルトマンの説です。「基」が、外のもろもろ、からだにかかわるものごとなら、「質」は、内のもろもろ、こころの素地です。しかし、人は、質をも意識すること、基を意識するのと同じです。そもそも、人が、質を云々するのは、それを意識するところからでなくして、どこからでしょうか。
(「質(たち)」に当たるのはCharakter〈特性〉ないしcharakterologische Veranlagung〈特性論において論じられる素性〉であり、性格、素質などのことです。)
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ここで、はじまりの問いは、こう言い換えられます。
わたしの振る舞いの意識された基と意識されないはずみとのあいだに、それなりの違いがあるからには、意識された基からなされる振る舞いも、やみくものつきあげからの振る舞いと、違って判断されなければなるまい。その違いを問うことが、まずはじめだろう。そして、そこから言えることに、そもそもの自由の問いにどう応じるかということも懸かってこよう。
振る舞いの基を知っているとは、いかなることか。人が、この問いを顧みないできたのは、分かちえない一つ、すなわち人を、二つに引き裂いてきたからだ。人が、振る舞う者と、知る者とを、てんでに扱ってきた。そして、なによりも要である、知ることから振る舞う者が、なおざりにされてきた。
人は、知るによって、確かに立ちます。知らないと立場がないものです。人が振る舞うのも、その立ったところからです。そして、知られたところが、追って考えられます。こうも言えます。意識があるのは、いわばおのずからでも、意識をもつ、意識を向けるのは、いわば人ならではのおのずからです。人が意識をもち、意識を向けることと、人が人であることは、いわば表裏です。そして、それは「考える」からです。なお、どう考え、どう意識を向けるかが、その人その人のすることです。こうもあります。
わたしたちの振る舞いが、ただに獣としての欲を満たすという域から些かなりとも抜きんでるや、わたしたちの振る舞いの基は、きっと考えに貫かれているものだ。
はじまりの問いにおける「考えると振る舞う」の「と」は、要の「と」です。そこに、人という者の「者」、人であることの「こと」が懸かります。いわば、その「と」という間合いにおいて、人が、後先を合わせていればこそ、人であり、人という者です。
その要の「と」、まさに人の立場に立って、さて、「振る舞いの基を知っている」は、どういうことでしょうか。人が、立ちつつ、振る舞いつつ、外を知り、内を明るめるにおいて、知られた外のものごとも、明るめられた内のものごとも、そのまま立つことの支えであり、振る舞いの基です。そこでは自然法則が、「ただの」でなく、いわば「親しい」自然法則です。必然が、「かたくな」でなく、いわば「輝き、なごんだ」必然です。それは人を「支え」こそすれ、「強い」はしません。板に付く、堂に入る、といった、まあ、古いことばも、そこから使われていましょう。なお、内のものごと(求める、欲する、質)も、まずはおのずからにあり、まずもっては自然に他なりません。そこにある法則も、まずもっては自然法則です。もっとも、なにかというと分子や遺伝子をもちだす人からは、そのことがなかなか認めてもらえません。しかし、その人も、まさにその「もちだす」という振る舞いがなにに強いられてであるかを、みずから振り返ってみるなら、そのなにかが、その人に親しく、その人のものとなり、次からはそれに強いられることもなくなります。
(「かたくなな」に当たるのは、ehemであり、真鍮のことです。 そのことばは、金、銀、銅などの輝きとの対としても用いられていましょう。すなわち、 振る舞いつつ意識を向ける人にとって、必然は、親しく、輝き、なごみます。また、「基」すなわち「Grund」が「証拠」すなわち「証しの拠り所」という意味をもつのも、そこからです。そもそも「証す」は「明るくする」こと「光を当てる」ことです。)
では、はじまりの問いにおける「精神の自由」は、どうでしょうか。そもそも、「ただの自然法則」というのは、ただの考えです。そのただの考えをはじめ、もろもろの考え、想い、知識が、人を縛りもします。いゃ、こちらが人を縛ることでは、自然が人を強いるよりも、輪をかけてはなはだしいものがあり ます
。「おまえは、そもそもどういうつもりなのだ」と、たとえば親から意見されて、みずから、その「つもり」に気がついたりします。いつのまにか、その「つもり」をもっていたことに、振る舞った後から、はっきりと目覚める、といったらいいでしょうか。そのように、うすうすの「つもり」という形をとった考えに、ハマリングの説が引かれることで、光が当てられます。(「つもり」に当たるのは
Entschlussであり、schliessen〈結び〉ent〈取る〉というつくりの entschliessen から来て、「こころを決めること」ないしは「決められたこころ」 を意味します。ついでにお尋ねしますが、「つもり」は「つもる」という動詞から来るのでしょうか。もしそうだとすると、「つもる」とは、そもそもなにごとをいうのでしょうか。どなたか、知っていたら教えてください。)
「想い」も、それとはなしの「はからい」という形で人を縛ることがあります。 そのことに、レの説を引くことで、意識が向けられます 。(「想い」に当たるのは
Vorstellungであり、vor〈前に〉stellen〈立てる〉という語から来て、「想い浮かべること」ないし「想い浮かべられたもの」を意味します。なお、「想」の字を当てているのは、いうところの「想い」が「相をそなえた考え」であることからです。)
いわんとするところは、想い込み、想い過ごし、なんとかのひとつおぼえなど、いわば、知ってはいても、ついつい仇となる「わけがら」です。読み手のわたしにも、振り返れば、にがにがしく想い当たるふしが多々あります。また、想い当たらずに、笑い物になっていたり、顰蹙をかっていたり、「わけがわからん」と怒りをかっていたりすることも、けっこうありそうです。(「わけ」に当たるのは
Motivであり、いわば、振る舞いを導く考え、ないし想いです。)
しかし、これまでのことを悔やんでばかりいても仕方がありません。
これからに目を向けましょう。はずみ、つきあげ、こころの素地が人を強いるのは、いわば光が及ばなくてですが、考え、想い、知識が人を縛るのは、いわば光から目が逸らされてです。いうところの目は、こころの目であり、人がそそごうとしてそそぐ意識のことです。人は、こころを決めよううとして決めもしますし、はからおうとしてはからいもします。そこでは、つもりが明らかにそれと意識され、はからいが確かにそれと知られています。そのわけを分かとうとすれば、分かつことができます。そして、それらのことは、いずれも「考える」からのことです。よって、つまるところ、こういう問いに行き着きます。
こと考えるが、どういうことであるかを、知ればこそ、また、考えるが、人の振る舞いに、どういう役を演じるかも、明らかにしやすくなろう。「こと考えるが、 獣ともどもに授かれるこころを、精神に仕立てる。」これは、ヘーゲルで、しかりだ。ならば、また、考えるは、人の振る舞いに、人ならではの彫琢を与えよう。
問いは、すなわち、「考える」がどういうことであるかであり、「考える」が「振る舞う」にどうかかわるかです。いかがでしょうか、ここまでに述べてきたことに限ってみても、「考える」は、なんとも大いなることをなしとげていますし、しでかしています。そして、いうところの精神は、少なくても、考えることの通うこころ、ないし、そのこころに宿るもの(知識、想い、考え、意識の明るみ、輝き・・・)です。そして、人が、その人の振る舞いを、その人ならではに磨くのは、精神からです。(「彫琢」に当たるのは
Geprageであり、pragen〈鋳造する〉から来て、いわば切磋琢磨されてあるありようを言います。人の振る舞いも、その人ならではに磨かれて、あかぬけするものです。そして、オイリュトミーも、人のする振る舞いです。)
ここまでを、いまひとたび振り返ります。シュトラウス、スペンサー、スピノザ、ハルトマン、ハマリング、レ、ヘーゲルと、七人の説が引かれることで、選ぶ、求める、欲する、質、考え、想い、知っていることに、光が当たりました。わたしたちは、こころの向き、こころの起こり、こころの素地というように、自然の側を降り、からだへと近づきながら、求める、欲する、質というように、人として確かに立つことの支え、ことがらにかなって振る舞うことを助ける基のかずかずを知り、そして、考え、想い、知っていることというように、意識の明るみの側を降り、精神を宿しながら、つもり、はからい、わけがらというように、振る舞いを導く「わけ」のかずかずを知りました。
そのとおり、『自由の哲学』においては、述べることの形が、そのまま、人のこころの形です。そもそも、考、想、知、選、求、欲、質といったことばは、人のこころの段々であるありようを指して用いられています。人が、意識的に、こころを昇り降りするにつれて、こころの異なる趣が知られます。その趣の段々は、あくまで段々であって、離れ離れにはありません。いわば重なり合い、通い合ってあります。しかし、分かとうとすれば、分かつことができます。まさに昇りつつ降りつつ、こころの働きをまさに働きとしながら、意識を向けることによって、光を当てることによってです。そして、光が当たることは、趣がなりかわることでもあります。たとえば、こころの素地が質へと、たとえば、ただの考えがつもりへと、なりかわります。ちなみに、人は「質」に強いられると説いたハルトマンという人は、みずからを厳しく律した人でもあります。また、人は「つもり」に縛られると説いたハマリングという人は、繰り返し病の床にあって、そこからそのつど想い立っては、創造的な仕事をやってのけています。その想い立ちは、まさしく縛られずに抱かれた「つもり」の他ではなかったはずです。説いていることと、していることとが、ちぐはぐで、変といえば変ですが、こころと精神のこととしては、まさしくまことではないでしょうか。『自由の哲学』の書き手が、かれらの説を引いたのは、かれらの人となりを讃えるつもりからでもあったかと想います。
さて、「選ぶ」に、あらためて意識を向けます。たとえば、ここまで読んできた人なら、これを読むことを選んでいるはずです。そのことを振り返ってみるとして、どうでしょうか。さらには、そのつどしているはずの「選ぶ」を振り返ってみるとして、いかがでしょうか。
よりどりみどり、えりごのみ、わたしたちは、こころの向くまま選んだり、こころの向きを抑えて選んだり、想いどおりに選んだり、なんとはなしに選んだり、深く考えて選んだり、浅はかに選んだり・・・。「選ぶ」は、「求める」「欲する」に比べて、かなり蔽通のきくことです。そして、融通がきくということに、間違うということが根ざします。味の素ではありませんが、間の取り違えの素は、融通性にあります。
「選ぶ」において、「好く」「嫌う」という情の繰り出しが知られます。そして、「好く」から「取る」があり、「嫌う」から「捨てる」があります。その「取る」「捨てる」が、考えにおいてなされもします。ひっつけ、はっつけ、とっかえ、ひっかえ、考えが、好かれて取られ、嫌われて捨てられます。しかも、その「好く」「嫌う」は、ことがらに根ざさず、わが身の好き嫌いに過ぎなかったりします。理屈と膏薬はどこにでもくっつくとかいいますが、いまの人のする分別は、えてしてそうなりがちです。はなはだしきは、「好く」から「捨て」、「嫌う」から「取る」ことすらします。
考えるは考えるでも、そうした分別の働きをもっては、自由どころではありません。しかし、「考える」は、さらに異なる形でもなされます。
考えは情けの父なり
心への道は頭を経る
顧みれば、情が繰り出すのは、考えからです。心がときめくのは、頭を経て道が及べばこそです。その道は、想いとして、考えから続きます。さらに、見初め、馴れ初めの時が顧みられます。それは、いわば想い初めの時でもあります。さらにまた、想い出の始まる時が顧みられます。その想い出は、ことさら輝かしく、ことのほかみずみずしく想い出されるところです。そして、その時から、意識してする働きが始まります。そして、「顧みる」も、意識してする働きです。そして、意識してする働きは、「考える」から発します。(「心」に当たるドイツ語はHerzであり、心臓のことです。こころの働きのうちでも情の働きのきわだつところです。)
心と情けは、振る舞いの基をつくりなさない。心と情けは、振る舞いの基を前もって据えて、取り込む。わたしのこころに憐れみが湧くとして、それは、わたしの意識に、憐みをそそる人についての想いが浮かび来ればこそだ。
振る舞いの基も、想われるところの他ではありません。まさに想い初められて、基が基として据えられます。ときめく心とみずみずしい情(気持ち)により、かつ、明るさのさなかにおいてです。そこから、基が、人として確かに立つことを支え、ことがらにかなって振る舞うことを助けます。どんな質でも捨てたものではありません。想いようでは、臆病な質も繊細な質でありえます。短気な質も大胆な質でありえます。そして、その想いようが、想い初めようから発します。(「前もって据える」に当たるのはvoraus-setzenであり、「想う」と訳してあるvor-stellen〈前に立てる〉と応じ合いましょう。すなわち、前もって据えて、取り込んでいればこそ、後から内において取り立てて、前に立てることができます。)
多くがなに気なく素通りして、えくぽに気づかず、ひとりがえくぼを見そめる。そこからこころに愛がめざめる。そのひとりがしたのは、多くがしない想をしたでなくしてなにか。多くが愛を抱かないのは、想いを欠くからだ。
人がらへの愛、ことがらへの愛も、想い初めの、みずみずしく、輝かしい想いにおいて目覚めます。ひとりがひとりであり、まさにそのひとりからしようとすることも、また、そこからこからはじまります。(「あばたもえくぼ」の警えにからめて「えくぼ」としてありますが、もとのことばは、Vorzugeで、いわば「引き立つところ」です。)
そして、すでに見初められたところが、見直されもします。すでに馴れ初められたところも、あらためて馴れ初められもします。そこでも、それまでになされない想いがなされます。想いがあらたまります。たわわになります。そのような時、いわば、ういういしいこころの時が、これまでにいくたび訪れたことでしょうか。そして、これからもいくたび訪れることでしょうか。そして、その時が、訪れるのみか、招かれもします。まさに「考える」によってです。もしくは、明らかに確かに問うによってです。
そのとおり、「考える」は、かえすがえすも不思議なことです。そして、「精神の自由」、もしくは「精神」も「自由」も「愛」も、きっと、「考える」へと至るにおいて、紛れなく知られるところとなります。わが身も、きっと、そこから取って返すにおいて、なおのこと自由になります。
ここにおいて、すなわち、ういういしいこころにおいて、いまひとたび、はじまりの問いを据えてみましょう。
人は考えると振る舞うにおいて精神の自由な者であるか、それとも、ただの自然法則の、かたくなな必然に強いられつつであるか。
じつに意識的な問いではありませんか。先にいうとおり、その「と」という間合いにおいて、人が、後先を結んでこそ、人であります。それに加えて、(かなり先取りしていうことになりますが)こうも言うことができます。その「それとも」という間合いにおいて、人が、後先を分かちつつ、はからいつつ、こころを決めつつ、身をもって選んでこそ、なおさらに人となります。その間合いは、秘めやかな間合いでありえます。見た目には短くても、輝く考えと自由な(まさにその人からの)意欲をとりなす要でありえます。そして、なおさら人となることは、なおさら自由になることです。
その間合いが、秘めやかに息づくとき、そこには、きっと、愛と名づけられるものが湛えられています。そもそも、自由と愛は手に手をとって来たります。「考えは情けの父なり」にならっていうなら、情けは考えの子であり、意欲は情けの母です。すなわち、自由な意欲が、輝く考えを宿して(取り込んで)、愛する情を育みます。そもそも、自由も愛も、まずは理想という想いです。なお、そのことが、ことに八、九、十章にかけて、精神の側を昇りながら述べられます。
そのとおり、「問う」は、章を通してものをいう形であり、まさに意識的なこころに適った形です。「意識して人の振る舞う」という、はじめの章のタイトルも、そのことを高らかにうたっていましょう。問いは、疑いとは異なります。疑いに苛まれますが、問いには苛まれません。つまり、問いが問いとして明らかに確かに抱かれる(取り込まれる)ほど、問いに苛まれることがなくなります。その明らかさは、意識の他ではありません。その確かさは、想いの確かさです。そのことが、ことに五、六、七章にかけて、精神の側を降りながら述べられます。
そして、答えは、問うことへとやって来ます。かの輝きから、明らかに、ありありとです。逆に、問いが立っていなければ、なにごとも答えにはなりません。自由を巡る問いは、なおさらです。その問いに、他の人から答えてもらっても仕方がありません。ことは、ほかでもなく、その人の身の上のことですから。果ては、身をもって生き、身をもって振る舞うことまでが、そのまま答えです。そのことが、十一、十二、十三、十四章にかけて、基の側を昇りながら扱われます。
さらには、問う問わないまでもが、それぞれの身に任されます。はじめの章のお終いには、こうあります。
わたしたちは、ことがらを欲するとおりに掴むことを好む。そして、きっと、いやましに明らかになろうことだが、人が振る舞うということをこととして問うは、もうひとつの問い、考えるということのみなもとへの問いを、前もって据える。そこから、わたしは、まずもって、その問に向かおう。
まずは、身勝手な好みからでも、ことが起こされていれば、とつおいつ、ことの明るみが訪れます。とにもかくにも、わたしたちは、繰り返し、想いを新たにするものです。ことがらも、わけがらも、それにつれて、たわわに富み、みずみずしく深まります。そして、その富みと深みのもとに、「考える」があります。じつに遍く広いことではありませんか、それは。なお、それが、ことにこのはじまりの一章から二、三、四章にかけて、基の側を降りながら述べられます。(「好む」はmogen、「きっと」はmussen、「向かおう」の「う」はwollenの訳です。英語のmay,must,willに当たります。情、知、意という、こころの働きないし趣を指す助動詞です。すなわち、必然は、考えられるところであり、まこと考えられた必然から、欲することへと自由が及び、感じることへと愛が及びます。さらに言うなら、ここでの「きっと」は、きっと、時代の必然です。)
いかがでしょうか。ここまで読んできて、「わたしは、その問いに向かおう」というように、意識をもってういういしく言えるとしたら、まさしく幸いです。よしんば、なんとなく読みはじめていても、あるいは、先の例の「どれどれ、ひとつ・・・」という、いわば意地悪な好みから、読むことを選んでいても、ことは、遅かれ早かれ、明るみ、富み、深まって引き続きます。人が、道を行きつ戻りつ、こころを降りつ昇りつするにおいてです。つまりは、人が引き続き「考える」においてです。「自由の哲学」のサプタイトルに「自然科学の方法に沿うこころの所見」とあるのは、その昇り降りを意識的にすることを言いましょう。それは、自然科学が自然のもろもろに光を当てて、その法則をあかるめるのと変わりありません。(「見」に当たるのは、Beobachtungであり、まずは「意識を向ける」ことであり、さらには「目をかけ、愛で、尊ぶ」ことです。)
そのとおり、「自由の哲学」においては、ことに動詞がものをいいます。いわば、動きを指すことばです。その動きは、まずもってこころの動きであり、人が意識してするこころの働きです。そして、先にみたとおり、接続詞も、秘めやかな動きを湛えることになります。はては、名詞さえも、動詞のごとくです。そのとおり、「自由の哲学」におけることばは、まずもって、こころの動きを指す基ですが、やがては、こころと精神を宿す器でもありうることばです。そして、そもそも、ことばは、その二つの向きにおいて用いられて、いよいよことばです。
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「こととい」ということばもありますが、お終いに、ゆかしいことばを引きます。いまを意識することに向けてです。
こころの乞食は、幸いなり
こころの乞食(ほかい)というのは、こころの糧を乞うことを意味するとして、かつては、おそらく、なによりも祈ることを指していたでしょうが、いまは、そして、これからは、なによりも問うことを指すはずです。ここにいう精神は、まがいようもなくこころの糧です。それは、ういういしいこころへと来たります。わたしたちは、分別をもってしても、もうそれだけでは、ういういしいこころになりがたいものです。いくら情報を仕入れても、からだを鍛えても、その尻から、こころは飢えて干からびます。いまは、まさしく意識的に問う、もしくは問いを明らかに確かに抱くという形において、こころがういういしく糧を得て、みずみずしく蘇ります。その「いま」を、「自由の哲学」のもうひとつのサプタイトルは、ありのままに、また願い込めて、指していましょう。「ひとつの現代的世界観」が、そのサブタイトルです。そして、想うに、「ひとつ」は、人それぞれ、持ち場において、手だてにおいて、さまざまに現代的であるなかの「ひとつ」であり、また、さまざまに現代的でありうるなかの「ひとつ」です。