a
玉突きを見るとしよう。玉が突かれ、その動きを他の玉に伝える。見るわたしは、見られる
ことのなりゆきに、まったく影響を及ぼさない。後の玉の動く向きと速さが、先の玉の向きと速さを通して定まる。わたしが、みずからを、ただに見る者としている限り、後の玉の動きについてなにごとかが言えるのは、その動きが生じてからである。
いきなり、玉突きのことから、三の章は起こされます。ことは、突かれて動く玉、それを見るわたし、そして、ただに見る者であろうとするわたしのことです。いきなりのようですが、すでに二の章とのかかわりがあらわです。「見る」は、迎える向きに沿ってすることです。「みずからを、ただに見る者とする」は、迎える向きに沿い、向かう向きを抑えることです。それは、密(ひそ)かながら、人のする働きです。人が、そう、みずからを持ちこたえるには、かなりの力を要します。どうぞ、アクテイプにお付き合い下さい。増して、これを読んでいれば、目の前に玉ではなく、活字があるまでですから、なおさらアクテイプに人がいあわせないと、埒があきません。(「みずからを、ただに見る者としている」に当たるのはmich
bloss als ein Beobachter verhaltenです。bloss は「ただに」の意、beobachten〈見る〉については、はじめの回にふれました。そして、mich verhaltenは、いわば「みずからを抑えて保つ」ことです。くどい訳かもしれませんが、ことがらをふさわしく述べることになりますので、「みずから」を、そのまま残します。)
そして、こう続きます。
わたしが見るの内容を追って考えはじめると、ことがらが異なる。追って考えるは、ことについて考えをつくりあげるべくである。わたしは、弾む玉という考えを、他の考え、つまりは力学にいう考えと繋ぎ合わせ、また、ことにその場その時なりのもろもろをも計算のうちに入れる。わたしは、すなわち、わたしの及ぼす働きなしに繰り出すことに、もうひとつ、考えの域において生じることを付け足そうとする。そのもうひとつのことは、わたしに左右される。その証しに、わたしが見ることをもって満ち足りて、考えを求めることを、すっかりしないでいることもできる。つまり、それを求める気が起こらないときである。しかし、その気が起こっていると、わたしが、みずからを安らわせるのは、玉の形、硬さ、動き、ぶつかり、速さなどといった考えを、それなりに繋ぎ合わせてこそである。それにつれ、見られたことのなりゆきが定かなありようにおいで立つ。
右に述べられていることは、ひとたび、向かう向きが起こったときのことです。その向きは、なるほど、抑えておくことができます。しかし、抑えていても、宥(なだ)まりはしません。なおも起こりつつであり、いつかは解き放たれなければなりません。しかし、ただ解き放たれるだけでも、宥まりはしません。その向きを宥めるには、わたしが及ぼす働きを要します。そこにおいて考えのプロセスが繰り出します。そして、そう、わたしがする働きを及ぼして、考えのプロセスが繰り出すことが、「追って考える」と呼ばれます。(「及ぼす働き」にあたるのは
Zutunであり、zu 〈向けて〉tun〈する〉ということばの名詞化です。もちろん、それも二の章にいうTatigkeit〈する働き〉です。そして「追って考える」に当たるのは
nachdenkenであり、nach〈後から〉denken〈考える〉というつくりです。あれれ、ややや、というように、いわば、いったん立ち止まって、そこから辿りなおす形での「考える」です。わたしたちのつねづねに使うことばでは、たとえばですが「考えてみる」というのが、それに当たると思います。そして、いわゆる科学は、その形での「考える」に基づいています。つまり、生じたことを巡って営まれます。なお、「定かな」にあたるのはbestimmtであり、bestimmen〈定める〉から来て、いわば「なんとなくではなく」「どっちつかずではない」ことです。)
そして、右の二つのことをまとめながら、こう続きます。
確かに、ことのなりゆきは、わたしに左右されずに生じる。同じく確かに、考えのプロセスは、わたしの及ぼす働きなしには繰り出さない。
ここから二の段に入りますが、「確かに」というのは、見てとるから繰り出す情です。わたしが、みずからを見る者にしているにおいて、先のことを外に見てとり、後のことを内に見てとります。見てとられることは内外と違っても、わたしが見てとることに変わりはありません。そのことを、わたしは、まさに確かめることができます。もっとも、みずからを見る者とはしていないところ(ことに従来の哲学者)からは、いろいろと難癖がつくことになります。つまりは、パッシプに見てとるだけで、働きと、する働きとを、しっかり分かつことができないためです。しかし、まさにアクテイプに見てとるなら、もしくは、ここまでをアクテイプに読んでくれば、難癖のかわりに、こういう問いが立ちます。(なお、「生じる」にあたるのはsich
vollziehen であり、「繰り出す」に当たるのはsich abspielen であり、ともに、自ずからのこととして、「働きWirken 」の内に入ります。)
すなわち、その、難じる情からでなく、確かさの情から立つ問いは、こうです。
わたしたちは、ひとつのことのなりゆきに向け、ひとつの考えの対を付け加えることとによって、なにを儲(もう)けるだろうか。
そして、三の段です。いうところの儲けは、じつにすてきな儲けです。
わたしにとって、ことのなりゆきの節々が互いにどのようであるかは、それなりの考えを見いだす前と後とで深くから異なる。ただに見るにおいては、ことのなりゆきの節々を、なりゆきのままに追うことができる。しかし、その節々のかかわりが、考えの助けを受ける前には、暗いままである。わたしは、玉がしかじかの向きと定かな速さをもって、もうひとつの玉へと転がりゆくのを目にする。そして、当たって生じることを、きっと、待ちうける。そしてまた、それをも目で追うことがきる。もしもだが、当たるその時、ことのなりゆく場を、誰かが覆い隠すとすると、わたしは
—ただに見る者としてその後に生じることを知らないままである。しかし、わたしが、いちいちのありように向けて、覆い隠しの前から、それなりの考えを見いだしていると、違ってくる。その場合には、見ることができなくなっても、生じたことをそれと言うことができる。ひとつの、ただに見られたこと、もしくは対象は、ただそれだけでは、他のこと、もしくは対象とのかかわりについて、なにも告げ知らせない。そのかかわりは、見るに考えるが繋がり合えばこそ、見えるようになる。
まずは、おしまいのことから、取り上げていきます。ものごとのかかわりが見えるようになるのは、わたしが、見ると考えるを繋ぎ合わせればこそです。そのことを見やすくするような例を、いくつかあげてみます。
週刊誌を開くと、お楽しみ浮き出し絵とか題してあって、頁いっぱいに太めの線やら点やらで、わけのわからない模様が刷られています。それを六メートル離して見てくださいとあります。なんじゃらほい、この部屋で六メートルもとれるかいとかなんとか言いながらも、それを窓のところに立てかけて、後ずさりしてみると、あるところから、それがモナリザのほほえむ顔になっています。そこで、こんどは近づいていくと、あるところから、またわけのわからない模様に戻ります。モナリザのほほえむ顔が、いわば宙に浮いたままになります。しかしまた、それが週刊誌であるということは、遠ざかってみようと、近づいてみようと、宙には浮きません。宙に浮くどころか、いよいよ動かないこと、ほぐし難いことになります。
地下鉄の駅の見取り図が、その駅の通路をちょくちょく通っていながらも、見た目に重なり合わないことがあります。この向きで歩いたら、あちらに出るはずなのに、こちらに出てしまう。ちょくちょくしくじってからは、あちらに出るように歩きはするものの、歩きながら、どうも向きが逆のような気がしてならない。見取り図は、ふさわしく描かれているはずだし、わたしも出るところには出られるものの、そのあいだのことが、定かでありません。言ってみれば、そのあいだの道すがらに、わたしにとって、目ぼしいものが欠けているせいです。いや、地下通路のせいにしてもはじまりません。わたしが、その道すがら見るものについては、考えないで歩いているせいです。
大人たちが話に夢中になっていて、ふと、気づいてみると、子どもたちが隣の部屋に居いるはずなのに、静まり返っている。まぁ、お絵描きでもしているんだろうと思って、話が一段落してから隣を覗いてみると、子どもたちが壁や襖や障子やにお絵描きの真っ最中、「あらららら」「・・・」「あんたたち、なにやってんの」「・・・お絵描き」「だれ、これ、描いたのは」「・・・ぽく」「じゃ、これは」「わたし」「なんでなの」「・・・」「だれが描こうっていったの」・・・考えてみると、おかしなやりとりです。お絵描きでもしているんだろうと思っていたのですから、あれこれ問いたださなくてもよさそうなものですが、大人としては、ひとしきり、そういうやりとりをしてからでないと、手の打ちょうがなかったりします。また、それで、ついつい、子どもたちを叱りすぎてしまったりもします。
おそまつな例はこのくらいにして、次には、少し立ち返ってみることにします。表立っては書かれていませんが、問いは、こうも立ちます。まさに密かな問いですが、ものごとのありようは、みずからを、待ちうける者にすることによっても、異なりはしないでしょうか。はじめて見るにおいて、ものごとが、風変わりで、ものめずらしいように、みずからを、待ちうける者とすることによって、ものごとが、ありありと、まあたらしくなりはしないでしょうか。そして、みずからを、待ちうける者にするには、いわば「先立って考える vorausdenken
」ことを要します。
たとえば、どこそこのラーメン屋さんがうまいと聞き知って、その店先に長く並んで待つことのできる人には、そのラーメンが一はや口にする前からーなんぼかおいしいことでしょう。たとえば、子どもが育ち、人が育つことを待つことをしているときには、子どもの姿、人の姿が、まさにありありと、まあたらしいものです。いかがでしょうか。だれしも、なんらかの憶えがあるはずです。そして、憶えがあればあるほどに、もしくは育つということを知れば知るほどに・・・。(「ありよう」に当たるのはVerhaltnisseであり、「ことのなりゆきの節々が互いにどのようであるか」の「ある」に当たるのはsich
verhaltenです。そして、それは、さらに先の「みずからを、ただに見る者としている」の「みずからを・・・している」に当たるmich verhalten と応じ合います。すなわち、見る者のありようと、見られるものごとのありように、同じ形のことばが使われています。右の問いは、その同じ形からも促されます。また「待ちうける」に当たるのはabwarten
であり、ab〈離れて〉warten〈待つ〉というつくりで、「生じるのを待つ」「期して待つ」といった意です。もちろん、「期す」もしくは「先立って考える」ことがふさわしくないと、待ちぼうけをくったり、しっぺがえしをくらったり・・・。なお、そのことについては、十一章を待って詳しく述べられます。まずは「追って考える」ことが、どの限りでふさわしいか、それを問うのが、これまでのことからして本筋です。)
先に進みましょう。四の段です。
考えると見るは、人が精神において勤しむことのすべてにとって、ふたつながらの出発点である。もちろん、人がその勤しみをそれとして意識する限りにおいてである。ありきたりの人の分別が仕立てることごとも、いたって込み入った科学が探り究めることごとも、その、わたしたちの精神の、ふたつながらの基の柱を支えとする。哲学者たちが、さまざまなおおもとの対し合いから説を起こしている。理念と現実、主観と客観、現象と物自体、わたしとわたしならざるもの、表象と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などなど。しかし、このことは楽に見てとれよう。それらの対し合いのすべてに、きっと、見ると考えるが、人にとってなにより重きをなす対し合いとして先立つ。
いうところの精神が、人のする働きとして、ぐんとリアルにひびけばなによりです。考えるは、人が、向かう向きをもってする働きであり、見るは、人が迎える向きをもってする働きです。考えるを、まさに考えるとし、見るを、まさに見るとするのは、精神としての人の他ではありません。そして、人が、見ると考えるのあいだの「と」において立つところから、勤しみはじめます。その勤しみが、さらに引き続き見ると考えるの、ふたつながらの柱によって支えられます。なお、いうところの「考える
Denken」は、想、思、惟、念、憶など、さまざまな形ないし定かさでありますし、いうところの「見る Beobachtung」もまた、目にする(視る
sehen)をはじめ、味をみる、湯加減をみる、かえり触ってみる、顧みる、考えてみる、惟るなどなど、さまざまな形ないし定かさであります。「目」は、いわば感官の代表、「見る」は、みるの代表をつとめるまでです。(「ありきたりの人の分別が仕立てることごと」に当たるのは Die Venichtungen des gemeinen Menschenverstandes
決心です。Verstand 分別〉はverstehen 〈分かる〉から、verstehen 〈分かる〉はstehen 〈立つ〉から来ます。そして、 Verrichtungen〈仕立てることこと 〉
は、先の回にふれたerrichten〈立てる〉と同じく、richten〈向ける〉から来て、設える」の意です。すなわち、分かるがあり、立つがあって、仕立てるがあります。さらに、「いたって込み入った科学が探り究めることごと」に当たるのは die verwickeltesten wissenschaftlichen Forschungen です。
Wissenschaft〈科学〉は、先の回でふれたとおり、wissen 〈知っている〉から来ます。そして、Forschungen〈探り究めることごと〉は、forschen〈 研究する〉から来ます。すなわち、知っているがあって、研ぎ究めるがあります。もちろん、それは、いわゆる科学に限ったことではありません。さらに、その一続きに、この三の章において、もうひとつのことが引き続きます。)
そして、五の段です。
どういう原理を立てるにも、わたしたちは、それを見られることとして指し示すか、だれにも追って考えることのできる明らかな考えの形に表すかである。どの哲学者も、みずからのおおもとの原理について説きだせば、きっと、考えの形と、もってまた考えることとを、用いている。哲学者は、そのことをもって、間接にこのことを認める。哲学者は、みずからの営みに向けて、すでに考えることを先立てている。考えることが世の変遷の主要因であるかどうか、それについては、ここではまだ云々するに及ぶまい。しかし、哲学者が、考えることなくして、それについての知識を得ることはできないということは、はなから明らである。世の現象がそれとして立つにおいては、考えることが脇役を演じても、世の現象につき、ひとつの見解がそれとして立つにおいては、考えることに、きっと、主役が割り振られる。
見解は、人が、見るをワキ、考えるをシテとして儲けるものです。人が知ろうとすること、人が精神において勤しむことは、その人の見解という形において報われます。そして、人が、ひつとひとつの見解をそれとして立てるにおいて、まさにその人となりゆきます。すなわち、人となりも、また、人が、見るをワキ、考えるをシテとして儲けるものです。なお、また立ち返って、「みずからを見る者とする」は、考えるをワキ、見るをシテとしてのことです。そして、そのする働きも報われます。他者の定かさ、親しさ、新しさという形においてです。(「見解」に当たるのは
Ansichtであり、an〈ついて〉sehen〈視る〉から来ます。また「現象」に当たるのはErscheinung であり、erscheinen〈現れる〉から来ます。人の側から言えば、〈見える〉〈見ゆ〉です。すなわち「現象」は、人がただに見るところです。そして「対象」に当たるのは Gegenstand であり、gegen〈対して〉stehen
〈立つ〉から来ます。すなわち「対象」は、人が、見つつ考えるところです。なお、人となりについては、六章を待って、詳しく述べられます。)
※
そのとおり、一から五の段までは、一と二の章を受け、それを押し広げながら、この章でのことを告げています。すなわち、この三の章でのことは、「求める(こころの向き)」「欲する(こころの起こり)」「質(こころの素地)」と段々に続く基の側を「欲する(こころの起こり)」の段へと降りて、そこから「考える」のみなもとへと遡ってみることです。「見る」は、感官をもってすること、まさにおおもと、わたしたちが降りることのできるぎりぎりですることです。そして、そこは、憶える、ないし憶うという形での「考える」が基づくところでもあります。その、憶える、憶うのみなもとへと遡るにおいて、「考える」をぎりぎりまでつきつめてみます。昇り降りの幅が大きくなるぶん、そのあいだにおいて立つこと、すなわち人の立場に立つことには、なおさらなアクテイビティを要します。そのアクテイビティを欠くと、他に寄り掛かることにもなります。言うまでもなく、それは、〈わたし〉の欲するところではありません。〈わたし〉は、なおさらなひとり立ちを欲します。そして、「自由の哲学」は、他に寄り掛かることも、他から寄り掛かられることも、きっぱりと拒み、人がまさにその人のする働きによって立つことを、さかんに促します。まさに、その意味において、「見ると考えるは、人にとってなにより重きをなす対し合いとして先立ち」ます。
見憶えがあるといい、身に憶えがあるといいます。憶える、憶うは、わけても、生きたからだと切り離せません。そして、息づかいともいいますが、生きたからだのこととして、ことに息の吸い吐きは、わりあいにですが、意のままになることでもあります。さて、吸うことを意識するのと、吐くことを意識するのでは、その意識にやや違いがあります。いかがでしょうか。吐くことは、むしろ降りることに適い、吸うことは、むしろ昇ることに適います。そして、降りることは、むしろ迎えることに適い、昇ることは、むしろ向かうことに適います。つまり、吐くことは、みずからを見る者とすることに沿いやすく、吸うことは、追って考えることに沿いやすい。といっても、要は、吐くと吸うのあいだの「と」です。言うならば、吐くと吸うのあいだが、人であることの意識のありあわせる間合いです。からだは、その意識にとって、まさしく基です。そして、わたしたちは、からだを生かし整えることで、こころをアクティプに使うことができますし、逆にまた、こころをアクテイプに使うことで、からだを生かし整えることもできます。もちろん、労せずにはできないことですが、すればしただけのことはあります。そして、この三の章において、これからしはじめることは、「考える」を「見る」ことです。言い換えれば、「見る」がそのまま「考える」であり、「考える」がそのまま「見る」であることを、してのけることです。生きたからだへと降りながらも、それに押し流されることなく、いきいきとからだを超え・・・
。
bー1
さて、見るに当たって、わたしたちのなりたちは、わたしたちがそれを要することのうちにある。わたしたちが馬について考えることと、馬という対象とは、ふたつのものごとであり、わたしたちにとって別々に出て来る。そして、対象は、わたしたちに、見るを通してこそ近しくなる。わたしたちが、馬をただに見つめるだけでは、馬という〈考え〉を、ほとんどなしえないように、わたしたちは、ただに考えるだけで相応の対象を生みだす立ちようは、ほとんどしていない。
わたしたちのする精神の働きのうち、なによりも先立つふたつ、ふたつながらの基の柱、見ると考えるを巡って、この回は三の章の六の段からです。まず、はじめの文から見ていきます。
見るに当たって、わたしたちのなりたちは、わたしたちが要するところであり、さらに―そもそもなら立ち返って気づくところでしょうが、はなからあらわに言ってしまいます―わたしたちがたわわになりたたせることができるところでもあります。ただし、アクテイブに見るという条件の下においてです。そして、そのことを、わたしたちがありありと知ることができるのも、ありていに見るにおいてです。(「・・・においてある」に当たるのはdarinliegenであり、da〈・・・の〉in〈うちに〉liegen〈横たわる〉という言いまわしです。そして、「横たわる」は、「起こる」「立つ」および「起こす」「立てる」へと通じていきます。)
たとえば、わたしたちは、見るに目を要しますし、まさに要して、なおさらになりたたせます。逆に、よく見ないと、見る目が養われませんし、見る目が養われないと、よく見ることがなされませんし、見る目のなんたるかが知られることもありません。(「なりたちOrganisation」および「Organ組織ないし器官」ということばは、すでに二の章において使われています。迎える、向かうという、二つの向きをもつこころのなりたち、もしくは知、情、意という、こころの三重のなりたちとしてです。ここからは、さらに、こころが生きて起こること、さらにまた、こころをいきいきと起こすことを通して、からだのなりたちと精神のなりたちに、光が当てられていきます。)
そもそも、生き物にあって、働きとなりたちは、いわば、つかず離れずであり、働きがあって、なりたちがあり、なりたちがあって、働きがあります。そして、ことにわたしたち人にあっては、働きのうちに、する働きが含まれますし、なるのうちに、なすが含まれます。たとえば、わたしたちは、立つ、歩くにおいて、足を要します。しかも、わたしたちは、見つつで立ち、見つつで歩きます。その意味において、足もまた、わたしたちが見るに要するなりたちです。ゆかしくも見の字は目をひとあしが支えるかたちです。さらに光の字も・・・。
次に、二つ目の文です。馬について考えることが、ひとつのことであり、わたしたちが向かう向きに沿うにおいて、繰り出します。まさに馬の馳せるがごとく、さながら光の速やかであるがごとくです。かたや、馬という対象が、ひとつのものであり、わたしたちが迎える向きに沿うにおいて、やって来ます。また、馬という対象がやって来るのを―クレーンとかによって吊り降ろされてくるのでなければですが―わたしたちは、横か斜めの向きにおいて追います。かたや、馬について考えることが繰り出すのを、わたしたちは、まずもっては、縦の向きにおいて追います。(「ものごと」に当たるのはDingeであり、「もの」ないし「こと」の意であるDingの複数形です。「出て来る」に当たるのはauftretenであり、auf〈上り〉treten〈踏みだす〉というつくりで、「登場」の意です。)
さらに、三つ目の文です。ものごとが、わたしたちに近しくなるのは、わたしたちが迎える向きに沿うほどにです。すなわち、ものごとが、わたしたちへと現れ、対して立ち、著しく迫り来るのは、わたしたちがありありと見るほどにであり、ものごとが、わたしたちに、定かさ、親しさ、詳らかさを増すのは、わたしたちがアクティブに見るほどにです。そのとおり、ものごとのありようが、わたしたちのする見るの対です。(「近しいものとなる」に当たるのはzuganglichwerdenであり、zu〈及び〉gang〈行き〉lich〈易く〉werden〈なる〉というつくりで、いわば親しくなる、詳らかになるといった意です。また、そのかかわりにおいて、erscheinen〈現れる〉ところがErscheinung〈現象〉と呼ばれ、gegeniiberstehen〈対して立つ〉ところがGegenstand〈対象〉と呼ばれ、著しく迫り来るところがEindruck〈印象〉と呼ばれます。なお、現象については、次の章において詳しく光が当てられます。)
そして、お終いの文です。ひとつに、馬という〈考え〉は、わたしたちが、考えるにおいて、考えをとらえつつ、また憶(おも)いをもとらえつつ、なすところです。もっとも、見つつ立ちどころにというようには、なかなかまいりません。(「なす」に当たるのはmachenであり、「作る」の意です。また「考え」に当たるのはGedankeであり、denken〈考える〉からきて、「考えられるところ」であり、「〈考え〉」に当たるのはBegriffであり、begreifen〈とらえる、ないし握る〉からきて、「とらえられるところ」です。)
そして、もうひとつには、あと四つの段を読んだところから立ち返ることができます。(なお、「立ちようをしている」に当たるのはimstandeseinであり、stande〈立つ〉im〈うちに〉sein〈ある〉というつくりで、そこから「しかじかができる」との意もでてきます。もちろん、そのことばは、はじめの文の「横たわる」との兼ね合いにおいて、意識的に用いられていましょう。)
bー2
時の上で、見るは考えるに先立ちさえする。そもそも、考えるをも、わたしたちは、きっと、見るを通して知るようになる。この章のはじめともに、考えるが、とあるなりゆきについて灯りつつ発し、その及ぼす働きなしに与えられたところを踏み越えることを言ったが、それもそもそもは見るところを述べている。なんであれ、わたしたちの生きる境へとやって来るところに、わたしたちは、まず、見るを通して気づくようになる。感覚、覚え、観、情、意欲からすること、夢やファンタジーの相、おもい、〈考え〉、理念、幻想、妄想など、いずれの内容も、わたしたちには、見るを通して与えられる。
いうところの時は、たとえば、なにかが遠くからやって来るのを見る時です。わたしたちは、まずなにかを見て、あるところから、そのなにかがなんであるかを知ります。そして、知るを顧みて、考えるを知ります。すなわち、わたしたちは、見つつで知るにいたり、知るにいたって、考えるヘと遡るようになります。(「先立つ」に当たるのはvorausgehenであり、voraus〈先に〉gehen〈行く〉というつくりです。)
いうところの時は、また、なにかを見初める時です。わたしたちは、見て、見初め、見初めた後に、憶います。見ても、見初めていなければ、見過ごしているまでで、後に憶いはしません。そして、繰り返し見るにつき、繰り返し憶うにつき、なおさら考えるを知るようになります。(「知るようになる」に当たるのはkennenlernenであり、kennen知ることをIemen習うというつくりです。ついでに、習うとなるも、つかず離れずです。わたしたちは、なって、習い、習って、なり、なろうとして習います。そして、なるにも、習うにも、見るが先立ちます。見よう見まねというのが、そのプロセスのはじまりを言いましょう。)
そもそも、光ないし明るみにおいて見るがあり、見初める、見直すにおいて、ひらめきの光があり、知る、憶いを新たにするにおいて、考えるからの光があります。見初められるなにかの輝きも、その光があっての輝きであり、知られるなにかの著しさも、その光に映えての著しさです。さらにまた、発見、発明、発想ということばも、その光のありようを伝えましょう。そして、わたしたちが、その光を見ること、日の光を見るに同じです。そもそも、見るは、わたしたちが光と明るみを得ようとしてする働きです。(「灯りつつ発する」に当たるのはsichentzilndenであり、「あかりが灯る」ないし「光が発する」ことです。)
そして、わたしたちは、見初めたあの時を、いまこの時に憶い、さらにまた新たないまこの時に憶って、時の流れを知ります。そもそも、時から時が引き続くというのは、わたしたちが憶いに重ねて考え、憶いを引き続き考えるからです。つまり、時の引き続きというのは、まずもって考えられるところです。考えるは、その意味においても、与えられたところを踏み越えます。ちなみに、「ある」ということばも、時もしくは考えるとのかかわりにおいて、三通りのありようを呈します。たとえば、「ことあるごとに」や「あった、こんなところに」の「ある」であり、「・・・である」の「ある」であり、「きのうからある」の「ある」です。(「踏み越える」に当たるのはUber…hinausgehenであり、Uber...〈…を超えて〉hinaus〈出て〉gehen〈行く〉というつくりです。)
そもそも、馬であれ、目であれ、憶いであれ、憶うであれ、考えであれ、考えるであれ、それらが、わたしたちにとって、ありはじめるのは、わたしたちが、からだにおいて生きつつ、それらに気づくようになりつつであり、わたしたちが、それらに気づくようになるのは、光を見つつです。すなわち、わたしたちは、わたしたちのからだにおいて生きつつ、光を見つつで、ものとことを立て、わたしたちのこころとからだを起こします。また、発意、発し、発起、起心といったことばも、そのことを指しましょう。(「気づくようになる」に当たるのはgewaluwerdenであり、gewahr〈まことであるように〉werden〈なる〉というつくりです。なお、いうところの「まこと」には、真の字とともに誠の字も当たります。)
そして、わたしたちは、アクテイブに見るほどに、生きることを得ます。みずみずしく起こるこころのみずみずしさも、鮮やかに蘇る憶いの鮮やさかさも、光に映える生きる働きの盛んさに他なりません。
かたや、わたしたちは、考えるにおいて、考えをとらえ、さらに憶いに重ねて考えるにおいて、憶いをもとらえます。そして、そうアクテイブに考えつつ、〈考え〉をなすほどに、生きる働きを失います。
そのとおり、考えると見るは、まさにふたつながらの基の柱であり、それぞれでありつつも、ともどもに立ちます。そもそも、わたしたちのなりたちは、考えると見るという、二重の精神の働きからなりたちます。というよりも、ありのままに気づいてみれば、そのようななりたちをしているのが、わたしたち人です。
加えて、これも考えるから知られるところでが、見初める、気づくにおいて起こるこころが後に憶うにおいて起こされるこころに通じます。なお、「憶う」「憶い」のなんたるかは、六の章から取り上げられるところですが、そのアクテイビティの面を先取りすることにしました。
bー3
さて、いよいよ、わたしたちは、考えることそのことを、まっこうから見ます。明るみは、すでに考えるから及んで来ています。わたしたちが要するのは、その明るみのみなもとの考えるを、生きる働きを得つつ、こころを起こしつつ、アクテイブに見ることです。逆にまた、わたしたちが、考えるを、アクテイブに見るにおいて、考えるがわたしたちに近しく、定かに、親しく、詳らかになります。その見るを欠くと、考えるが、遠く定かならず、よそよそしく、あいまいなままであるまでです。そして、わたしたちは、人として、ことにいまの人、ひとり立ちを求める人としてその見るを要するということを、その見るのプロセスをもって、なおさらはっきりと気づくようになります。まずは、こうです。
ただし、考えるは、見るの対象として、他のものごととそもそもから異なる。机にしろ、木にしろ、その見られるところは、わたしへと入りくる。すなわち、それらが対象として、わたしの生きるの地平に浮かぶやいなやである。しかし、それらの対象についての考えるを、わたしは、時を同じくしては見ない。机を、わたしは見る。机についての考えるを、わたしは繰り広げる。しかし、わたしは、それを、その時には見ない。わたしは、きっと、まずもって、わたしのする働きの外へと立場を移す。すなわち、わたしが、机についてのわたしの考えるを見ようとするにおいてはである。対象やなりゆきを見るも、それらについて考えるも、まったく常日頃の、おりおりのわたしの生きるにありふれた立ちようであるが、考えるを見るは、いわば例外の立ちようである。そのことが、きっと、ふさわしく顧みられる。すなわち、他のあらゆる見るの内容へと及ぶ考えるのありようを定かにするにおいてはである。人が、きっと、このことについて明らかでいる。人が考えるを見るにおいて考えるに向けてすることは、残りの世の内容のまるごとを見てとるにとってはノーマルな立ちょうであるが、そのノーマルな立ちようにおいての考えるにとっては、入りこないものである。
言い方からして、なんだか例外的にひびきますが、いたしかたないところです。それでも、アブノーマルなひびきは、できるだけかなでたくないものですが・・・。こころみに、述べられていることを、ことのほか際立たせるような例をあげてみます。
たとえば、こころにもないことを言ってしまうことがあります。それを言ってしまってから、それがこころにもなかったことに気づきます。
また、考えを整理するのに、書いてみるということをします。書きながら、ああでもない、こうでもないと知ります。とにかく、わたしたちは、考えていることを、目の前に出してみて、それと知ります。考えていることと、考えていることをそれと知ることは、時を同じくしていません。
さらにまた、同じことを、あの人は、いいと言い、この人は、いけないと言います。そのうちに、どうやら、その同じことで、あの人は、いい憶いをしており、この人は、いやな憶いをしていることが、分かってきます。なるほど、あの人がこの人の憶いをすることも、この人があの人の憶いをすることもできませんが、しかし、あの人も、この人も、互いの憶いに重ねて考え、そこから立ち返って、分かりあうことはでます。ただし、言うまでもなく、まさに人が、それをしようとすればこそですが・・・。(「立場」に当たるのはStandpunktであり、Stand〈立つ〉punkt〈点〉というつくりです。それは、机や木をどこに立って見るかの「どこ」を指しますし、どの憶いに立って見るかの「どの憶い」をも指しましょう。)
たとえば、「あ」の口をしながら、「い」を憶うことが、なかなかできません「い」を憶うと、つい「い」の口になってしまい、「あ」の憶いが、ふっとんでいます。
また、冬に風鈴の音を耳にして、なんだかそぐわしくなく感じたりします。もっとも、そうは感じないという人もあるでしょうが、それはそれとして、ともかく、そう感じる人なら、その感じを介して、冬のたたずまいをいまさらながらに知りますし、さらにそこから立ち返って、なぜ〈夏〉に〈風鈴〉が〈そぐわしい〉のかと問うこともできます。
あるいはまた、赤い布 −人がすっぽり隠れるぐらいの大きさです−
もしばらく見せられて、ぱっと、緑の布に変えられると、ほとんどずっこけます。わたしたちが色をどう見ているかということで、試しになされたことですが、わたしは赤を見るあいだ、なーに、赤を見たって、これこのとおり、どうということもないし・・・とか思いながらいました。それが緑でみごとに引っ繰り返されます。緑を前にしてみると、赤に対しては、張り合うような立ちょうをしていましたし、そのうえに、赤とは別のことを考える立ちょうをしていました。そして、そこから赤へと立ち返って、いよいよ赤を見てとるにいたります。すなわち、わたしたちの立ちようが、見ると、憶うと、考えるに懸かります。(「立ちょう」に当たるのはZustandであり、Zu〈及んで〉stand〈立つ〉というつくりで、「ありよう」の意です。)
考えるも、見るも、見てとるも、思うも、憶うも、わたしたちがつねづねにしていることであり、思うは、考えつつ見るから、憶うは、見てとるから、見てとるは、見つつ考えるからです。そして、そのことが、見つつ考えるの立場を違えて知られます。まず、その意味において、考えるを見るは、いわば、日を背にして立ち、先に立つ人の背を見て、日があることを知るがごとくです。(「見てとる」に当たるのはbetrachtenであり、「見つつ考える」のかたちのひとつです。わたしたちは、考えるにおいて、とらえつつ、つかみつつ、とりつつで、ものごとが確かに分かりますし、みずからをしっかり立たせます。逆に、分からないと、みずからが揺らぎます。)
cー1
これは考えるの独自な自然であるが、考えつつの者は、考えつつのあいだ、考えるを忘れる。その者にする働きをさせるのは、考えるでなく、考えるの対象であり、その者の見るところである。すなわち、わたしたちが考えるに重ねてする見ることの、はじめのひとつであるが、考えるは、わたしたちのつねづねにおける精神の生きるの、見られない元手である。
この回は三の章の十一および十二の段からです。その二つの段をもって、先の回に取り上げたことが、ひっくるめて述べられていましょう。見る、欲する、感じる、憶う、考えるなど、わたしたちのする精神の働きのうち、ただひとつ、考えるは、まさにわたしたちがその働きをしているあいだ、その働きに気づいていません。わたしたちが気づいているのは、その働きの対象であり、また対象によってさせられてしている働きです。(「忘れるvergessen」は「識る」の対です。すなわち、「識る」が、なにかに気づいていること、なにかによってこころが起こっていることであるのに対して、「忘れる」は、なにかを心から亡くすことであり、なにかについての心を亡くすことです。「忘」の字がどういう心からつくらたかは知りませんが、字の形はどちらの面を指すにも適いましょう。)
言い換えれば、考えるの他の、わたしたちのする働きという働きは、つまるところ、わたしたちが、わたしたちの他のなにかによってさせられてする働きです。(「する働きをさせる」に当たるのはbeschaftigen であり、schaffen 〈為す、成す〉から来て、「内的に勤しませる」「仕事を与える」といった解があります。なお、「させる」がきつすぎるようでしたら、「促す」と読み換えてください。)
そして、そのことをわたしたちが知るのも、まさに見るを通してです。すなわち、まさに見るところ、わたしたちは、日々に、見つつ、欲しつつ、感じつつ、憶いつつ、いきいきと精神のする働きを繰り広げますが、そのいずれにも、考えるが、いわば密かに伴っています。なるほど、日々つねづねの見るからすれば、へんな言い方ですが、しかし、そのことを、まさにアクテイブに、例外の見るをもって見てとると、とらないとでは、大きく異なること、ただの無知と無知の知が大きく異なるに同じです。(「元手」に当たるのはElementであり、ここでは、見る、欲する、感じる、憶う、考えるなどなどを指しましょう。すなわち、わたしたち人が生きるのは、それら精神のする働きをもとにしつつです。)
*
ついでに、こんな親子の対話があります。京舞の井上八千代という方と、次男で能楽師の片山慶次郎という方のです。右に述べることとのかかわりにおいて、気づくことが多々あると思いますので、どうぞ読んでみてください。
「お母さんは舞を舞うてる時、何考えてる?」
「阿呆かいな、舞を舞うててものを考えますかいな」
「いや、そやないね。舞うてる最中に、ここはもうちよっとつっ込んでやろうとか、あっ、しもた、もうちよっと間をためるにゃったとか、ここは殊更気を入れんならんところやとか、この舞台は舞いにくいとか、あのお客めざわりやなとか・・・いろいろあるやろがな」
「そんなことちょっとも思わへん」
「ほんまになんにも考えへんの」
「はあ」
「全然?」
「そうや」(中略)
「ほな、どうしてそんなに無心になれるね?」
「そないにいわれても困るけど・・・わてかて、そんなもんむつかしい考えてしてるのと違うえ。今舞うてるやろ。そしたらそれだけや。舞うことだけに精出したらええにやがな。なんでもあらへんがな」
「(中略)どないしたらなにも考えんと舞えるにゃろなあ」
「そらもっと稽古するしかしょうがないな。稽古して稽古して、あきるほど稽古しておみ、もう考えることてあらへんえ」
(「井上八千代芸話」、渡辺保「日本の舞踊」〈岩波新書〉からまご引きしています。)
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さて、「自由の哲学」を読むことも、まさしく稽古です。まずは、なによりもアクテイビティ、すなわち、する働きを要します。むつかしく考えるには及びません。ことがらは、すべて見てとられることがらです。七面倒な理屈や定義、専門知識や専門用語などには、なんらかかずらわるまでもありません。訳のいたらなさを棚に上げて言いますが、どの章も、どの段も、どの文も、まさに読もうとすれば、ひととおり読めます。ただ、うまく読めていないときが、たびたびあります。読んだあと、なにかに引っ掛かっていることで、そのことが知られます。そこでまた読みます。そこで要するのも、また、なによりもアクテイビティ、すなわち、する働きです。そして、繰り返し読みながら、これだ、このことだと、ことを得ることもたびかさねてあります。そこからまた、ありあわせのことばを、ささやかながら鍛えなおすにも至ります。そのようにして捗る読みが、稽古の道すじでなくしてなんでしょうか。言ってみるなら、考えると見るの稽古です。さらに言うなら、その稽古は、ありとあらゆる稽古に通じていますし、その目指すところは、生きることをより自在に意識するようになることです。(
なお、初版の前書きには、そのことが、今の時代とのかかわりにおいて詳しく述べられています。)
そして、稽古には、それなりの段取りないし方法があります。すなわち、十三の段が、こう続きます。
なぜ、わたしたちは日々の精神の生における考えるを見ないのか、その基は、ほかでもない、その考えるが、わたしたちみずからのする働きの上に安らうからである。わたしが生みださないところは、対し合うものとして、わたしの見るの分野に入り来る。わたしは、わたしが、それ、すなわち、わたしをさしおいて立ち現れたものと対し合うのを視る。それは、わたしへと、迫り来る。わたしは、それを、きっと、わたしの考えるプロセスに先立って要するところとして迎え入れる。わたしが対象を追って考えるあいだは、わたしが対象をもってする働きをさせられてあり、わたしのまなざしが対象に向けられている。そのさせられてする働きが、考えつつ見てとるである。わたしのする働きにでなく、する働きの客のほうに、わたしの見る目が注がれている。言い換えれば、わたしは、考えるあいだ、わたしの生みだす考えるをでなく、わたしの生みださない、考えるの客を視ている。
まず、はじめの文から取り上げます。いうところの基は、ここまでにいう基(わけても一の章を見てください)と異なります。いうところの基は、いわば上の基であり、ここまでにいう基は、下の基です。すなわち、わたしたちの考える立ちようは、みずからの身の上をよりどころにしています。そして、わたしたちが考えつつ気づくのは、みずからの身であり、わたしたちの他のなにかによってさせられてしている働きであり、そのなにかに向かう立ちようです。(「みずからの」に当たるのはeigen
であり、「・・・に属する」「・・・が有する」の意です。ここでは「人に属する」「人が有する」の意であり、さらに「人がみずからのものにしている」「人が身につけた」の意です。そもそも、人が、精神のことを「有する」には、「身につける」が先立ちます。)
さらにまた、いうところの基は、問うと答えるのよりどころであり、ここまでにいう基は、からだ、およびからだのよりどころです。そもそもにおいて、問いが立つのも、答えが来るのも、考えるからです。そして、考えるは、わたしたちの日々の精神の生において、見られないところとしてあります。なぜでしょうか。まさにその問いは、考えるから立たなくて、どこから立つでしょうか。はたまたそれへの答えも、まさしく明らかに、考えるから来ます。すなわち、それへの答えは、こうです。考えるは、わたしたちみずからのする働きの上にあります。言い換えれば、考えるは、わたしたちが、わたしたちの他によってさせられてする働きの上にあります。さらに言い換えれば、考えるは、わたしたちの向かう立ちようの上にあって、その立ちようを支えています。(「・・・の上に安らう」に当たるのは
auf...beruhenであり、beruhen はruhen
〈憩う、安らう〉から来ます。さきの回においては、それを「・・・の上に憩う」というように、少しばかりネガテイプに訳しました。すなわち、わたしたちの身における精神のアクテイビテイの不足を言うためでした。しかし、ここでは「安らう」というように、ポジティブに訳します。すなわち、考えるが、わたしたちの精神のアクテイビティとして、密かながらも、わたしたちを支え、わたしたちの身へとおよび、わたしたちの身に落ち着きを醸していることを言うためです。もちろん、「憩う」にしても、「落ち着き」のうちですが・・・。なお、また「落ち着き」は、二の章にいう「上澄み」の「澄み」に通じましょう。)
そして、二つ目の文です。考えるは、わたしたちみずからのする働きの上に安らうのみではありません。わたしたちは、考えるを、向こうへと生みだしもします。言い換えれば、わたしたちは、なにかについて考えるにおいて、考えるを、そのなにかの上へともたらしもします。かたや、わたしたちが生みださないところ、すなわち、いうところのなにかが、わたしたちの見るを通して、わたしたちへと入り来ます。(「生みだす」に当たるのはhervorbringen
であり、hervor 〈前へ〉とbringen 〈もたらす〉というつくりであり、「持ち出す」「産出する」の意があります。二の章にいう「わたしたちが、ものごとにおいて求める上澄み」というのが、まさにわたしたちの持ち出すところです。)
次に、三つ目の文です。わたしたちは、つねづね、なにかを見つつ考えます。みずからに引きつけて言えば、なにかを迎えつつ、そのなにかに向かいます。すなわち、わたしたちは、日々に生きつつ、あっちのなにかとこつちのみずからを、ともに視るものです。なにかとみずからの対し合いを意識するものです。(
「視る」に当たるのはsehenであり、「目で見る」ことであり、そこからまた「見て分かる」といった意があります。ちなみに、目で見るにおいては、耳で聴く、舌で味わうなどにおけるよりも、「対し合い」がきわだつものです。)
さらに、わたしたちは、その対し合いの意識を、さまざまなほどにおいてもつものです。言い換えるなら、わたしたちは、迎えつつ向かう、ないし見つつ考えるのほどを、低めもずれば、高めもするものです。そのことが、四つ目の文から述べられています。すなわち、あっちのなにかが、立ち現れ、迫り来て、こっちのみずからが、まなざしを向け、迎え入れます。言い換えれば、あっちが、こっちに、する働きをさせ、こっちが、あっちを追って考え、見てとります。わたしたちは、客を迎えつつ客に向かい、客を見つつ客に重ねて考えます。そして、後、見る目を客に注ぐかわりに、客の上へと注いでこそ、なにを考えていたかを知ります。言い換えれば、立場を違え、下をよりどころにする立ちようのかわりに、上をよりどころにする立ちようにおいて、考えていたことを見てとります。(
「見る目を注ぐ」に当たるのはAufmerksamkeit richten であり、Aufrnerksamkeit〈注意を〉richten〈向ける〉という言い回しです。また「・・・に重ねて考える」に当たるのはuber...denkenであり、「 ...について考える」の意ですが、Uber〈上〉を生かして「重ねて」としました。)そして、次の段が、こう続きます。
cー2
わたしが例外の立ちようを入り来させ、わたしの考えるを追って考えるにおいてさえ、ことは同じである。わたしは、わたしのまさにしている考えるを、見ることができない。ただ、わたしは、わたしの考えるプロセスとの重なりにおいてしていた経験を、後から考えるの客にすることができるのみである。もし、わたしが、わたしのまさにしている考えるを見ようとしたら、きっと、わたしを、ふたつの人となりに引き裂かなければなるまい。すなわち、考える人となりと、その考えるのさなかにおいてみずからを見やる人となりとである。それは、わたしには、できない。わたしは、それを、ただ、ふたつの別々のアクテイビティとしてすることができるのみである。見られる考えるは、まさにその時にしているそれでなくて、別のそれである。わたしが、考えるを見るために、わたしが先にしていた考えるに重ねて見ることをするか、あるいは、ほかの人の考えのプロセスを追おうか、あるいはまた、前の玉突きの玉の動きの例でのように、仮りの考えのプロセスを先に据えるかは、ことの要ではない。
わたしたちが例外の立ちようを入り来させ、言い換えれば、わたしたちが上をよりどころとする立ちようをみずからへと降り来たらせ、考えるを追って考えるにおいてさえ、言い換えれば、考えるに重ねて見つつ考えるにおいてさえ、ことは同じである。すなわち、わたしたちが見てとるのは、考えていたことに他なりません。(「入り来させる」に当たるのはeintreten
lassen であり、treteo〈踏み〉ein〈入るに〉lassen〈任せる〉という言い回しです。すなわち、「踏み入る」は、「立つ」との縁であり、みずからの身における考える(もしくは向かう)のアクテイビティの高まりを指し、「任せる」は、いわば「被るleiden 」との縁で、みずからの身における見る(もしくは迎える)のアクテイビティの高まりを指します。なお、lassen は、英語のlet に当たります。)
わたしたちは、わたしたちのまさにしている考えるを、見ることができません。言い換えるなら、わたしたちは、考えるを、後から振り返って見てとるのみです。
ただ、わたしは、考えるプロセスとの重なりにおいてした経験を、後から考えるの客にすることができるのみです。言い換えると、わたしは、考えを見て、その考えが先立っての考えるの残した考えであることを見てとるきりです。
もし、わたしの身が、ふたつあるのなら、話は別ですが、わたしが見て知るかぎり、わたしの身は、わたしなりにひとつあるきりです。なるほど、わたしは、いろいろなものごとを見つつ考えます。もしくは、いろいろなものごとを見つつ考えるの客とします。しかし、まさにひとつの身をもって、まさにいちいちそのつど、ひとつのものをであり、ひとつのことをです。もし、みずからひとつの客について考えながら、考えているみずからを客にしようとしたら、もうひとつのみずからを要します。なるほど、身がいくつあっても足りないというときもあるにはありますが、はたして身がいくつもあった日には、かえって始末におえなくなるかもしれません。なにしろ、このひとつの身でさえもてあますときがあるくらいですから。もしもということで、話が脇道に逸れました。元に戻します。そもそも、わたしたちの例外の立ちよう、
すなわち、わたしたちの考えるを見る立ちようは、わたしたちがみずからを引き裂く立ちようではなく、わたしたちがみずからへと入り来させる立ちようです。
加えて、考えは、みずからの考えも、ほかの人の考えも、さらには仮りの考えも、同じく見るの客となります。なぜでしょうか。まさに見つつ考えてみてください。(やがて五の章において、そのことの基が述べられます。)
そして、さきの二つの段が、こうまとめられます。
ふたつは相容れない。しつつ生みだすと、観つつ対して立てるとである。そのことを、すでにモーゼの一の書は知っている。そこでは、はじめの六日において神が世を生みだす。そして、世がまずあって、世を観る可能性がありあわせる。「そして、神は視た、神がつくったすべてを。そして、視よ、そは、すこぶるよきかな。」わたしたちの考えるも、またそのとおりである。考えるが、きっと、はじめにあってこそ、わたしたちが考えるを見ようとする。
考えるは、まさにわたしたちがする精神の働きであり、かつまた、わたしたちが客へと生みだすところであり、見るは、わたしたちのする精神の働きであっても、なおかつ、客からさせられてする働きです。その二つ、考えると見るは、まさに「わたしたちの精神の、二つながらの基の柱」です。すなわち、わたしたちの精神の生きるが、見ると考えるを基に起こり、わたしたちの身が、下と上の基に立つものの、はじめに見るがあるかぎり、つまり、させられてする働きが先立つかぎり、考えるも、上の基も、密かなままです。そして、ただひとつ、わたしたちの例外の立ちようにおいて、つまりは、わたしたちが考えるを見ようとするにおいて、はじめに考えるがあります。( 「観つつ」にあたるのはbeschaulichであり、schauen 〈広やかに見る〉から来て、「じっくりと見やるさま」「静観するさま」といった解があります。かたや、
わたしたちは、しつつ生みだすをもって、振る舞います。そして、いわば振る舞いの最たるものが、舞です。まさに舞を舞い手が、舞のきわみにおいて、「もう考えることてあらへんえ」といっているとおり、わたしたちの振る舞いは、かぎりなく考えるに重なりえます。いわば、どこまでも安らかな振る舞いとなりえます。もちろん「あきるほど稽古してみ」た果てにですけれども。なお、そのことが、八の章から述べられています。)
そして、次の段、この回の六つ目の段は、こうです。
わたしたちにとって、おりおりの、まさに繰り出しつつの考えるを見ることができないことの基は、わたしたちにとって、考えるが、ほかのいちいちの世のプロセスよりも、じかに、親しく知られることの基と同じである。まさにわたしたちが、考えるを、生みだすゆえに、わたしたちは、考えるのなりゆきのことさらなところ、そこに見てとられるところとなることのいかになされるかを知る。ほかの見るの時空において、ただ間接に見いだされるところ、すなわち、ことがらとしての相応のかかわりと、いちいちの対象のありようとを、わたしたちは、考えるにおいて、まったく直接に知っている。わたしたちの見るにとって、なぜ、稲妻に神鳴りが続くのかを、わたしは、すんなりと知っているわけではないが、わたしの考えるが、なぜ、神鳴りという〈考え〉を稲妻という〈考え〉に結ぶのかを、わたしは、そのふたつの〈考え〉の内容からじかに知っている。もちろん、わたしが、神鳴りと稲妻についての正しい〈考え〉をもっているかどうかは、ことの要ではない。わたしがもつ、それらのかかわりは、わたしに明らかであり、しかも、それらそのものから明らかである。
稲妻というのは、読んで字のごとく稲の妻であり、いうところ妻は夫のほうを指します。すなわち、天からひらめく光が、父、ないし父のもの、地から生えでた稲が、母、ないし母のものであり、そのあいだで結ぶ実、お米が、子、ないし子のものです。すなわち、かつての人が、そのように考えたところから、稲妻ということばを、生みだしました。
また、神鳴りというのも、読んで字のごとくです。すなわち、それは、知ってのとおり、雲の上にいて、虎の皮の禅をしめ、太鼓を打ち鳴らして、臍をとるという神さまの仕業です。すなわち、そう考えるのも、それなりひとつの、考えるのなりゆきです。
さらにまた、知ってのとおり、光にも速さがあり、音にも速さがあり、光は音よりも速く、それゆえに、光のほうが先に人の耳へと届きます。すなわち、そう考えるのも、それなりひとつの、考えるのなりゆきです。
そして、いずれの、考えるのなりゆきにおいても、なりゆきの節々のかかわりは、そのなりゆきを辿るわたしに明らかであり、しかも、それそのものから明らかです。まさに考えるのなりゆきというなりゆきは、「視よ、そは、すこぶるよきかな」です。そして、そのことの基は、「まさにわたしたちが、考えるを生みだす」ゆえにです。すなわち、わたしたちが考えるにおいてじかに知るところ、もしくは、わたしたちが考えるを見るにおいてまさに見るところですが、わたしたちは、考えるを生みだすにおいて、考えるの明らかさ、もしくは光を生みだし、考えるのなりゆき、もしくは考えるの筋道を生みだし、ことがらとしての相応のかかわりと、いちいちの対象のありようを生みだします。(「ことがらとしての相応のかかわり」に当たるのはder
sachlich-entsprechende Zusammenhang であり、いわば「ことのがら」であり、「いちいちの対象のありよう」に当たるのはdas Verhaltnis der einzelnen
Gegenstande であり、いわば「ものごとの相ないし仔まい」です。なお、「ことのがら」は「思い」に通じますし、「ものごとの相」は「想い」に通じますし、「ものごとの仔まい」は「わたしたちの居ずまい」と対です。それについては、六の章において詳しく述べられます。)
そして、「よくない」のは、たとえば、さきのふたつの、考えるのなりゆきを、理科ないし物理の時間に持ち込むことであり、あとのひとつを、社会ないし歴史の時間に引き込むことです。たとえばまた、その「よくない」を、考えるのなりゆきそのものの「よくない」と取り違えることです。
さらに、次の段がこう続きます。
cー3
その、考えるプロセスに重なる、見通しのきく明らかさは、考えるの生理基盤についての、わたしたちの知識に、まったく左右されない。わたしが、ここに話しているのは、考えるについて、わたしたちのする精神の働きを見るから出てくる限りにおいてである。わたしが考えを操るあいだ、わたしの脳のひとつの物質過程が、もうひとつに、いかに弾みを与えるか、もしくは、いかに影響するかは、そのさい、いささかも見てとられるところには入らない。わたしが考えるについて見るところは、わたしの脳のどんな過程が稲妻という〈考え〉を神鳴りという〈考え〉に結ぶかではなく、なにが弾みになって、わたしが、そのふたつの〈考え〉を、ひとつの定かなありようへともたらしたかである。わたしが見るところから出てくるのは、このことである。わたしの考えの結びつきに向けて、わたしがわたしを立てるよりどころは、わたしの考えの内容のほかにない。わたしの脳の物質過程によってではないのである、わたしがわたしを立てるのは。わたしたちの時代よりも物質主義が甚だしくない時代に向けてなら、こういうことを言うのは、もちろん、すっかり余計であろう。いまは、しかし、物質がなんであるかを、わたしたちが知れば、物質がいかに考えるかも知られるというように信じる人たちがいる。よって、きっと、言わなければなるまい。人は考えるについて語ることができる。しかも、すぐさま脳生理学とかちあうには及ばずにである。いまや、すこぶる多くの人にとって、考えるという〈考え〉を、その紛れのなさにおいてつかむことは、難しかろう。わたしが、ここに、考えるについて繰り出した想いに対し、すぐさま、カバニスの文、「脳が考えを分泌すること、肝臓が胆汁を、唾液腺が唾液を等々と同じである」をもちだす者は、なんのことはない、わたしがなにについて語っているかを、知ってはいないだけである。その者は、考えるを、ただの見るプロセスを通して見いだそうとしている。つまり、わたしたちが、ほかの対象としての世の内容を巡ってするのと同じようにである。しかし、考えるは、その道では見いだされない。なにしろ、考えるは、さきに追って示したとおり、まさにそのノーマルな見るを免れるからである。物質主義を凌ぐことができない者には、みずからに、いうところの例外の立ちようを引き寄せる力が欠ける。すなわち、ほかの精神のする働きという働きにともないつつ意識されないままであるところを、意識へともたらす立ちようである。みずからをその立場に置こうという、よき意欲をもたない者とは、考えるについて語ることが、ほとんどできないこと、色の見えない者と色について語るに同じである。ただ、その意欲をもたない者も、わたしたちが生理のプロセスをもって考えると見なしているとは信じてほしくない。その者が考えるを説き明かせないのは、その者が、考えるを、そもそも見ないからである。
わたしの見るかぎり、考えるプロセスに重なる明らかさは、たとえば脳について、わたしが知っていることに左右されません。もちろん、脳をゲノムと置き換えて読んでも、ことは同じです。
また、わたしの見るかぎり、考えと考えの結びつきは、たとえは物質としての脳のプロセスからでなく、ただに考えの内容から明らかになります。
さらにまた、わたしの見るかぎり、そのことは、わたしが、考えを操りつつ、考えと考えを結ぶにおいても、変わりありません。すなわち、わたしが、考えと考えを結ぶのは、ただに考えの内容が弾みとなってであり、ただにその明らかさを支えにしてです。(「考えを操る」に当たるのはeine Gedankenoperation
ausfilhren であり、eine〈ひとつの〉Gedankenoperation 〈考えの操作ないし手術を〉ausfilhren〈執り行う〉という言い回しです。おそらく脳生理学との縁で使われていましょう。訳は、考えの筋道にちなんで「操る」としました。いわば、考えを、とらえ、つかみ、とりつつ、いじりまわすことです。また、「弾みを与える」に当たるのはveranlassenであり、いわばver〈さっと〉an〈触れて〉lassen〈任せる〉というつくりであり、「しかじかにしかじかのする働きを促す」といった意です。なお、そのことばは先の「する働きをさせる beschaftigen」と対し合わされていましょう。)
そのとおり、わたしたちは、考えるを見るにおいて、考えるという〈考え〉を、その紛れなさにおいてつかむことができます。すなわち、脳を見るでなく、脳についての知識に縛られず、さらには憶うこと、信じることにもとらわれず、ただに考えの明らかさに向けて、わたしたちが、わたしたちを立てつつ生きることができます。
そして、わたしたちは、その立ちよう、生きようを、わたしたちみずからへと引き寄せることもできます。すなわち、思うこと、信じることへ、脳についての知識へ、さらには脳へと、まさにわたしたちの明らかな意識を重ねることができます。
そして、そのことができる、できないは、わたしたちの意欲に懸かります。そもそも、そのことは、なにかに促されてすることではなく、ひとえにわたしたちのする精神の働きによることであり、まさにわたしたちがしようとしてすることです。(「よき意欲」の「よき」は「すこぶるよきかな」の「よき」です。)
そして、「自由の哲学」を読むことは、きっと、その意欲、その欲するを、いきいきと起こすことに通じています。
さて、この回のお終いには、宮沢賢治「春と修羅」から「林と思想」と題する詩を引きます。
そらねごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ`
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行って
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ
dー1
しかし、考えるを見る技量をもつ、どの人にとっても −そして、よき意欲のもとにおいては、ノーマルななりたちをした、どの人も、その技量をもつ−
その見るが、当の人のなしうる見るのうち、もっとも重きをなす見るである。そもそも、その人が、その人の生みだすところを、見る。その人が、さしあたりよそよそしい対象とでなく、まさにその人のする働きと対しあうのを、視る。その人が、その人の見るところの、いかに立つようになるかを、識る。その人が、ありようとかかわりを、見とおす。そこに、ひとつの、しっかりとした点が儲けられている。すなわち、その点からは、人が、基のある望みをもって、残りの世の現象の説き明しを、探ることができる。
この回は、三の章の十八の段からですが、まず、これまでのことを振り返ります。
考えるは、わたしたちのつねづねの見るには見られない働きです。すなわち、わたしたちは、考えるを、まさに考えるを見るという、いわば例外の、気高い見るによって見てとります(六から十二の段)。
また、考えるは、まさにわたしたちのする働きです。よって、わたしたちは、考えるを、他のことということよりも、じかに、親しく知ります。明るく見とおします。
また、考えるは、わたしたちの生みだす働きです。よって、わたしたちは、考えるを、まさに見ようと欲すればこそ見てとります。つまり、その欲するは、まさにわたしの欲するです(十三から十七の段)。
さらに、それらのこととともに、わたしたちのなりたちのことがありました。
わたしたちのなりたちは、わたしたちが見るに要するところであり、また、見るに要して、さらになりたたせるところです(六から十二の段)。
そして、わたしが考えるを見るに要するのは、紛れなく精神のなりたちです。すなわち、さきのことの繰り返しになりますが、考えるを見るは、ただにわたしのする精神の働きであり、ただにわたしがなりたたせる精神の働きのなりたちであり、わたしのこころ(知っていること)にも、わたしのからだにも、なんら左右されません。もしくは、なんら依りかかっていません(十三から十七の段)。
そして、いよいよ十八の段です。わたしたちは、その、紛れのない精神のなりたちを、ノーマルななりたちにおいても、いささかなり、もってはいないでしょうか。
言い換えれば、わたしたちは、考えるを見ようとするこころを、つねづねにおいても、多かれ少なかれ、起こしてはいないでしょうか。
いったい、わたしはわたしですといい、わたしにも考えがありますとった、どこか侵しがたいものいい、おうおうにして、それを言っちゃ、おしまいだよ、というようにしか扱ってもらえないものいいにしても、どこからなされるているでしょうか。
そもそも、わたしたちは、考えるを見るという、紛れのない精神のなりたちと、ノーマルななりたちとの重なりにおいて、考えるを見る技量をもちます。(「技量」に当たるのはFahigkeitであり、fahig〈できる〉から来て、才覚、技能、手腕などのことです。すなわち、いうところの技量は、みずからの身についた、わたしの精神のなりたちです。そして、わたしがみずからを見るかぎり、技量という技量がそのようななりたちをしています。なお、そのことについて、詳しくは八の章から取り上げられます。)
そして、考えるを見るという、紛れのない精神のなりたちを、まさにそれとして立てつつ、それをみずからへと引き寄せ、重ね合わせることの意味、言い換えれば、よき意欲を起こし、考えるを見る技量を発揮することの意味が、こう述べられます。
まず、「その人が、その人の生みだすところを、見」ます。それは、紛れなく精神において生きつつです。そして、そもそも、意味という意味が、そこから出てきます。
さらに「その人が、さしあたりよそよそしい対象とでなく、その人のする働きと対しあうのを、視」ます。それは、生きたこころ(考えや思い)との重なりにおいてです。よって、その人が、その人から、こころの向きを定めることができます。いわゆる自律です。(「視る」に当たるのはsehen であり、すでに先の回においてふれたとおり、「見てとる」ないし「見て分かる」ことを指しましょう。「目」は、見る器官ないしなりたちの代表であるにすぎません。)
さらに「その人が、ありようとかかわりを、見とおし」ます。それは、感官を通して迎えられる周りの世との重なりにおいてです。よってその人が、その人から、ものごとを立てることができます。いわゆる見識です。(「見とおす」に当たるのはdurchschauen であり、<durch〈通して〉schauen〈観る〉というつくりです。なお、schauen 〈観る〉は、これまた先の回においてふれたとおり、「広やかに見る」ことです。)
なるほど、わたしたちは、ノーマルななりたちとして、知、情、意という、こころの三重のなりたちをもち(二の章)、また、それとの重なりにおいて、いわば、おのずからながら、精神と、こころと、からだという、人の三重のなりたちをもち、さらにまた、つねづねに生きるにおいて、いわば、いつのまにか、自律と、自立と、見識とを、多かれ少なかれ得ています。しかし、そのことの意味は、考えるを見るという、紛れのない精神のなりたちを、まさに紛れなく立てずには、得られません。よって、また、自律と、自立と、見識とをアクテイプに得ようとする意欲を、まさにわたしから起こすことも、できません。よって、さらにまた、確かに問うことをするかわりに、疑いにさ心苛まれることにもなります。
その意味において、考えるを見るは、もっとも重ききをなす見るです。その見るは、視る、識る、見とおすの要であり、意味という意味のみなもとであり、そもそもにおいてわたしがわたしにおいて安らうの要です。そして、その要、ひとつの、しっかりとした点は、わたしの生みだす点として、まさにわたしの意のままに、どこにでも設けることのできる点であり、そして、その点から及ぶ意味、その点から広がる望みが、パ一スペクテイプ(展望、構図、さらには遠近法)
と言われましょう。
さて、その意味において、人が、考えるを見るようになったのは、つまり、考えるを見ることを、まさにこととして立てるようになったのは、そう古いことではありません。たとえば、前々回において、世阿弥、芭蕉、蕪村、宣長のことにふれましたが、ことにヨーロッパのこととしては、絵画において、遠近法という、新たなパ一スペクティプが使われるようになったのと同じく、哲学において、近代哲学という、新たなパ一スペクテイブが開かれるようになりました。そのパ一スペクテイプが、まさにそのものとして、ルネ・デカルト(1596-1650) の著述にあらわです。
ひとつの、そのようにしつかりとした点をもつとの情が、近代哲学の基を据えた者を、こう促している。すなわち、レナートゥス・カルテシウスが、人の識ることのまるごとを、この文、わたしが考える、よって、わたしがある、ということに基づかせた。他のものというもの、他のことということは、わたしをさしおいて、ある。わたしは、それらが、まこととしてあるのか、まやかしや夢としてあるのかを、識らない。わたしが、だだひとつ、まったくの無条件で確かに識るのは、そもそも、わたしが、それをそう確かにあるまでにもたらすゆえにだが、わたしの考えるである。それが、さらに異なるみなもとをもとうとも、それが、神から来ようと、なにから来ようとも、それがあるのは、わたしが生みだすという意味においてであることが、わたしには確かである。さらに異なる意味を件の文の基に据えるべきいわれは、カルテシウスにとって、まずは、いささかもなかった。ただただ、わたしが、わたしを、世の内容のうちに、わたしの考えるにおいて、すなわち、まさにわたしのする働きにおいて、つかむということだけを、かれは言い立てた。それに繋げられるところ、すなわち、よって、わたしがある、ということが、なにごとを言っているかについては、多くの論が戦わされてきた。しかし、それが、ひとつの意味をもちうるのは、ただひとつの条件のもとにおいてである。ひとつのものについて、わたしが言いうる、もっとも単純なことは、それがある、それが存在するということである。そして、そのあるということを、いかようにして、さらに詳しく定めることができるかは、わたしの生きる地平に立ち現れる、なにものについても、すぐさま立ちどころには言うことができない。どの対象も、まずは、他とかかわるありようにおいて、探られることになる。そうしてこそ、いかなる意味において、それがあると言えるのかを、定めることができる。ひとつの生きられたことが、もろもろの覚えの集まりでもありうるし、はたまた夢でもありうるし、幻覚でもありうるし。とにかく、わたしは、それがいかなる意味において存在するのかを、言うことができない。その意味を、わたしは、当のことそのことからは引き取ることができない。わたしが、その意味を経験するようになるのは、そのことを、他のものごととかかわるありようにおいて、見てとるときである。しかし、それでもまた、わたしが識りうるのは、そのことが、いかに、他のものごととかかわるありようにおいて立つかということ以上ではない。わたしの探るが、いよいよ、ひとつのしっかりとした基の上へと至るのは、わたしが、客のあることの意味を、その客のそのものから汲みだせるような、ひとつの客を、見いだすときである。そういう客であるのは、しかし、考えつつの者としての、わたしそのものである。そもそも、わたしは、わたしのあるに、それそのことにおいて安らう内容、すなわち、考えつつのする働きを与える。さて、わたしは、そこから外へと出て、こう問うことができる。他のものごとが存在するのは、それと同じ意味においてか、違った意味においてか。
そもそも、よき意欲との重なりにおいては、情も、また、よき情として起こります。すなわち、デカルトは、わたしが考える、よって、わたしがあるということばを、考えるを見るという、紛れのない精神のなりたちから湧きおこる、ういういしく、みずみずしい情をもって語っています。いや、むしろ、そうであるからこそ、そのことばが精彩を放ちます。そして、そこから、かれは、考えつつの者であるかれその人の他の、ありとあらゆる、疑いうるものごと、つまり、さしあたりはよそよそしく見える、ものごとのすべてを、確かに、親しく見てとることができるとのパ一スペクテイブを得て、ものごとのひとつひとつを探りはじめます。
ちなみに、デカルトのことばについて、パスカルがこう言っているそうです(「パンセおよび小論文」、落合太郎訳「方法序説」の訳注から、孫引きします)。
かれがその主張したとおりに成しとげたかどうかをよくは検べていないけれど、私はかれが成しとげたものと想定する。この想定にもとづいて私はあえていう、同じただの一語でも、かれの書いたものに見るのと他の人人がそれを通りすがりに口にしたのとではその相違が大きすぎる。生命と力に満ちた人間を死んだ人間に比べるようなものである。
また、レナートゥス・カルテシウスというのは、ルネ・デカルトのラテン名です。かれは、みずからの本、いわゆる「方法序説」において、みずからの考えを語るのに、いわば、かれにとって最も親しいことばである、フランス語を用いました。それは「全く単純な生得の理性のみを活用する人人」に向けてであるとともに、また、まさにみずからの考えを、ういういしさ、みずみずしさをもって語ろうとするところからでもあるでしょう。いうところの序(discours)は、論ないし教え(traite) に対する、いわば語りのことであり、いうところの方法は、「著者の理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための」です。そして、その方法の語りが、そのころの知識人たちにも読んでもらうために、かれらの公用語であるラテン語に訳されました。つまり、いわば、かつてのギリシャ・ラテン文化の栄光を引きずりながら、そのころの人たちの暮らしから遠く隔たるようになっていた、ヨーロッパの学識者たちに向けてです。そして、なによりも、このことば、いわば、そもそもの要の文は、いかがでしょうか。フランス語においてje
pense,donc je suis、ラテン語においてcogito, ergo sumないし ego cogito, ergo sum, sive existoと訳され、さらに、たとえばドイツ語において ich denke, also bin
ich、日本語において、私は考える、それ故に私はある、と訳されてあることばです。それらのことばは、何語で読んだとしても、読み手にとって、まずもってのところ、ただなる考えを、表すというよりも、指していることばではないでしょうか。言い換えれば、まずは、そのただなる考えに、見る目を向けて欲しいと言っていることばではないでしょうか。
すなわち、デカルトの本「方法序説」においては、書き手とともに、読み手がものをいいます。読む人が、まずは、ただなる考えに目を向け、そして、そこから、みずからを、ういういしく、みずみずしく起こすことになります。まさに読む人が、する働きをすればこそ、いわば下から上への道を行き、そして、上から下への道を生みだせばこそ、そもそもの読みが捗ります。そして、ここに「自由の哲学」は、「方法の語り」であるのはもとより、「語りの方法」そのものでもありえます。すなわち、考えるを見るにおいて、わたしがわたしと語らいつつ、精神を見てとり、それとの重なりにおいて、わたしがわたしのこころと語らいつつ、こころを見てとり、わたしがわたしのからだと語らいつつ、からだを見てとり、さらには、わたしがものごとと語らいつつ、ものごとを見てとります。そして、そのことを通して、わたしが、精神と、こころと、からだと、ものごとを、明らかに、確かに、いきいきと起こすようになります。その語ると見るの方法から、je
pense,dooc je suis は、はっきりと、こう訳し変えることができます。
わたしが考えるを見る、そこから、わたしが明らかにありはじめる。
ちなみに、日本語として、通例、「思惟」と訳されるpense もしくはcogito は、「見る」をひそかに含んでいます。たとえば、落合太郎は、こう言っています。
デカルトの思惟(penser,cogitatio)は、そのものを直接的に意識するという仕方で、私どものうちにあるもの一切である。この意味で思惟は意識(conscientia)および知覚(perceptio)と同義であると解せられる。要するに意識作用のすべてである。
すなわち「直接的に意識する」というのは、わたしたちが、考えると見るを取り合わせつつすることです。言い換えれば、わたしが、わたしのなりたちと語らいつつすることです。わたしたちは、その取り合わせ、その語らいを、いわば上から下へと、いく重にもわたって、することができます。すなわち、知に重ね、情に重ね、意に重ねつつ、こころの三重のなりたちにわたって、または、精神に重ね、こころに重ね、からだに重ねつつ、人の三重のなりたちにわたってです。そもそものこと、わたしたちは「考えるをも見るから識り」ます。すなわち、最も上の、知の織りなしにおいて、または、精神の明るみにおいてです。
また、その意味において、近代の哲学はもとより、現代の哲学はなおさらですが、おおもとにおいて、もしくは、つまるところにおいて、新たなことばを身につけることよりも、身についていることばを新たにとらえることを、新しいことばを作りだしたり、もてはやすしたりすることよりも、ありあわせのことば、ありきたりのことばを、鍛えなおすことを求めるものでもあります。
ついでですから、このことにもふれておきたいと思います。人が、そもそも考えるを見るようになるのは、憶いそめるころ、座ろうとして座ることをしはじめるころです。もちろん、考えるを見ることを、まさにこととして立てるようになるのは、後々になってからのことですが。
ちなみに、たとえばジャン・パウル(1763-1825)の自伝に、こうあります。
わたしは忘れない。これまで人に語りはしなかった、わたしにおける現れ、わたしがわたしのおのれの意識の生まれるに立ち会ったことを。その時と所を、わたしは知っている。ある朝、ほんに幼いわたしが家の戸口のところに立ち、左手に薪が積んであるのを視ていた時、内の視覚、わたしがひとつの〈わたし〉であることが、稲妻のように天からわたしを見舞い、その時から照らしつつ留まった。その時、はじめて、わたしの〈わたし〉がわたしの〈わたし〉を視た。しかも、とわに。ここに憶い違いがあるとは考えがたい。余所からの話が紛れ込んで飾り立てたとかはあるまい。ただに人の、ヴェールのかかる、いたって聖いところに、にわかに生じたことであり、ひとえにその真新しさが、日頃の余事に、留まることを与えた。
dー2
さて、考えるを見ることの、まさにことさらなところが、さらにこう述べられます。
人が、考えるを、見るの対象とするにおいては、その残りの、見られる世の内容へと、つねづねなら見る目を免れるところを、継ぎ足す。しかし、趣は変えない。それは、人が他のものごとに対するありようとも同じである。人が、見るの客の数を増やす。しかし、見るの方法は増やさない。わたしたちが他のものごとを見るにおいては、世のことへと−わたしは、まさにいま、見るをも、世のことのうちに数え入れる−ひとつの、見すごされるプロセスが紛れ込む。すなわち、他のあらゆることと異なること、ともには顧みられないことが、ありあわせる。しかし、わたしが、わたしの考えるを見てとるにおいては、そういう、顧みられない元手が、ありあわせない。そもそも、まさにいま、後ろの基において浮かぶところも、また、ただに、考えるである。見られる対象が、そこへと向けられる、する働きと、質において同じである。そして、そのことも、また、考えるの、まさにそれならではの独自さである。わたしたちが、考えるを、見るの対象とするにおいては、質において異なることの助けをもってするようには強いられず、同じ元手の内にとどまることができる。
わたしたちは、つねづねに、ものごとを見てとります。しかも、そのとるを、見すごしつつです。しかも、そのとるのうちにして、考えを、ものごとへと、重ねつつです。(「継ぎ足す」に当たるのはdazufiigenであり、dazu 〈そこへと〉fiigen 〈継ぐ〉というつくりです。なお「継ぐ」は「宛てがう、嵌めこむ」の意です。)
しかし、つねづねに、ものごとを見てとるも、気高く、考えるを見てとるも、見てとるに変わりはありません。ともに趣であり、方法は、まさに同じです。(「趣」に当たるのはArtであり、「方法」に当たるのはMethode 、もとはギリシャ語でmethodos であり、どこそこへの道、探るの歩み、といった意だそうです。すなわち、面の向きから、歩みと道が続きます。なお、そのことについては、やがて六の章において詳しく述べられます。)
そして、まさにこのこと、わたしが考えるを見る、よって、わたしが明らかにありはじめる、からすれば、考えるも、見るも、まさにわたしがわたしを生かす元手であり、まさにこととして世に属します。(「まさにいま」に当たるのはjetzt であり、まさに「いま」のことです。すなわち、わたしが考えるを見つつである、まさにいまです。そもそも、考えるを見るは、いつなりとも、まさにいまのこととしてのみ、ありうることです。)
ただ、考えるを見てとるにおいては、そのとるが 、見てとられます。
そのとるが、とられるところと、質において同じです。(「後ろの基」に当たるのはHintergrund であり、Hinter 〈後ろの〉grund〈基〉というつくりです。すなわち、いうところの後ろは、生みだす〈hervorbringen前へともたらす〉の対です。言い換えれば、人が、まずもっては上にある基を、生みだすによって、前へともたらし、かつ、生みだすを見てとるにおいて、後ろにももたらします。なお、いうところの前後は、わたしたちのからだの前後でもありえますが、そもそもにおいては、どこにでも設けることのできる「ひとつの、しつかりとした点」を要にしての前後です。)
すなわち、わたしたちは、考えるを見てとるにおいて、前にも後ろにも考えるという元手をもって、つまり、他から強いられずに、ことをまかなうことができます。
わたしが、わたしの及ぽす働きなしで与えられる対象を、わたしの考えるへと紡ぎ込むにおいては、わたしが、わたしの見るを超えて、その外へと踏み出す。そして、そのことの要となるのは、このことだろう。なにが、わたしに、そうすることのふさわしさを与えるのか。なぜ、わたしは、ひとえに対象がわたしへと働きかけるままには任せないのか。どんなふうにして、わたしの考えるが対象との重なりをもつことは、ありうるのか。それらは、みずからの考えのプロセスを追って考える、どの人も、きっと立てよう問いである。人が、考えることそのことを追って考えるにおいては、それらが抜け落ちる。わたしたちは、考えるへと、考えるにとってよそよそしいことを継ぎ足しはしない。よって、また、そうした継ぎ足しについて申し開きをするにも及ばない。
はたして、わたしたちがものごとについて考えるのは、いいことでしょうか、いけないことでしょうか。見ることだけをしていれば、わざわざ考えなくてもよさそうなものですが、なぜ、考えるのでしょうか。そもそも、見ることは見ることであり、考えることは考えることであるのに、見られるところが、なおかつ考えられもするというのは、いかなることでしょうか。それらのことが、きっと、だれしもに考えられるはずです。そして、考えてみれば、それらのことが、きっと、問いとなります。「言われてみれば、それもそうだな」というように、きっと、思うことになるはずです。いかがでしょうか。そして、なんと答えるでしょうか。答えはともかく、それらのことが問として立つのは、ほかでもなく、みずからの考えのプロセスを追って考えるからです。しかし、考えのプロセスでなく、かんがえることそのことを追って考えるにおいてはそれらのことが抜け落ちます。ここまで、わたしたちは、考えるを見てとってきましたが、まさにそのあいだ、それらのことを問いとして立てていた人が、どなたかおいででしょうか。そもそも、考えるを見てとりつつの人にとっては、なぜ考えるのですかといった問いは、じゃまです。まさに考えるを見てとりつつの人にそう問うたとしても、その人からは、せいぜいのところ、「ちよっと待ってください。いまそれどころじゃないんです。それは後で考えさせてもらいます」といような答えが返ってくるぐらいでしょう。(なお、「紡ぎ込む」に当たるのはeinspinnenであり、ein 〈入れて〉spinnen 〈紡ぐ〉というつくりです。それは、すなわち、さきの「継ぎ足す」とともに、考えのプロセスのことです。)
ここまでの二つの段が、主として場における後先であるなら、ここからの二つは、主として時における後先です。
シェリングは言う。自然を知るは、すなわち、自然を生みなすである。−この、大胆な自然哲学者のことばを、ことばとおりに取る者なら、おそらく、その後ずっと、自然を知ることを、すっかり罷めなければなるまい。そもそも、自然は、ひとたびそこにある。そして、人が、それをふたたび生みなすには、それがそうある原理を知らなければならない。人が、いよいよ生みなそうとする自然に向けて、そのあるの、すでにありあわせている法則を、見ならわなければなるまい。その、生みなすに先立たなければならない、見ならうは、しかし、自然を知るである。よしんば、また、うまく見ならって後、生みなすが、につちもさっちも行かなくなるとしてもである。
自然のもとではありえないこと、知るまえに生みなすを、考えるのもとで、わたしたちはやってのける。もし、考えるをそれと知るまで控えるとしたら、考えるには至るまい。わたしたちは、きっと、きっぱり、向かって、考えるからこそ、後から、まさにわたしたちのなしたことを見るにより、考えるを知るに至る。考えるを見るについては、まさにわたしたちが、まずもって、ひとつの客を生みなす。他の客という客があることは、わたしたちの及ぽす働きなしに、工面されている。
先には「時の上で、見るは、考えるに先立ちさえする」とありました(七の段)。それは、すなわち、つねづねの見るにおいてこそ、ありうることです。考えるを見てとる(すなわち知る)
においては、きっと、考えるを生みなすが先立ちます。そして、そもそも、考える見るには、考えるが先立ちます。加えて、わたしたちは、考えるを見ようと欲しようと、欲すまいと、幼いみぎりのとあるところから、ますますもって、考えるようになりきたっているものです。(なお「工面されてある」に当たるのはbesorgt
sein であり、besorgt 〈配慮されて、もしくは世話をされ、もしくは気づかわれて〉sein 〈ある〉の意で、いわば、原理ないし法則をもってなりたっていること、さらには、なりたたされていることを言いましょう。)
そして、次の段が、こう続きます。
ややもすると、わたしの文、わたしたちは、きっと、考えるからこそ、考えるを見てとることができる、に対して、他の文を同じくふさわしい文として立てる人があるかもしれない。すなわち、わたしたちは、また、消化するをも控えてはいられないからこそ、消化のプロセスを見るに至った。それは、ひとつの言い返しとして、パスカルがデカルトに言ったことと等しかろう。かれは、こうも言えると言い立てた。すなわち、わたしが散歩する、よって、わたしがある。まったく確かに、わたしは、きっと、きっぱり、消化するからこそ、消化の生理プロセスを学ぶに至った。しかし、もしもだが、そのことが、考えるを見てとることと等しいと言えるのは、わたしたちが、消化を、後から考えつつ見てとろうとするでなく、食べて、消化しようとしてこそだろう。これも、また、基なしのことにあらずだが、消化するは、消化するの対象にならないものの、考えるは、すこぶるよく、考えるの対象になりうる。
はたして、いうところの基は、なにを指すでしょうか。きっと、下の基、すなわち、わたしたちのなりたちを指しましょう。さきのふたつの段においては、ものごとの巧みななりたちが引き立てられていましたが、この段においては、わたしたちのなりたちが引き立てられています。すなわち、わたしたちの、知、情、意、ないしは、精神、こころ、からだという、三重のなりたちも、さらには、その三重のひとつひとつのなりたち、ないし働きも、きっと、考えるに適ったところであり、また、考えるに適いうるところです。言い換えれば、すこぶるよく、考えのプロセスが繰り出されるところであり、また、すこぶるよく、考えが、継ぎ足され、紡ぎ込まれるところでもあります。たとえば、おもう(思、想、・惟、念、憶)
の働きも、情の波うちも、意欲のたぎりも、さらには、消化、吸収、代謝などの働き、ないし器官までが、考えるに適ったところであり、また、考えるに適いうるところであること、たとえば、考えに、あまい考え、しぶい考え、こなれた考え、こなれていない考え、わたしの養いにしやすい考え、わたしの養いにしにくい考えなどがあるごとくです。
こうして、ここに、「自由の哲学J は、わたしが、考えるを、こころへ、からだへ、そしてものごとへと、確かに、いきいきと、明らかに導く、見ると語るの道でもありえます。そして、その道の向かうところは、自律と、自立と、見識であり、まさにものごとというものごと、まさに世そのものであります。
さて、この回のお終いには、八木重吉の詩から、二つほど引きます。
森へはいりこむと
いまさらながら
ものというものが
みいんな
そらをさし
そらをさしているのにおどろいた
すべて
もののすえはいい、
竹にしろ
けやきにしろ
そのすえが空にきえるあたり
ひどくしずかだ
e−1
すなわち、これは疑いのないことであるが、考えるにおいて、わたしたちは、世のことを、ひとつの端においておさえている。そこに、わたしたちが、きっと、いあわせればこそ、ことが立つに至る。そして、それが、まさに、要のことである。これは、まさに、わたしたちに対して、ものごとが謎めいて立つことの基であるが、わたしたちは、それらが立つに至ることに与っていない。わたしは、それらを、ただ、前に見いだすばかりである。しかし、考えるのもとにおいては、それがいかになされるかを、わたしは識る。そこから、世のことということを見てとるに向けての、なによりみなもとの出発点が、考えるである。
この回は、三の章の二十五の段からです。「すなわち」とあるとおり、この段も、これまでのことをまとめるかたちで述べられています。よって、さきの回と同じく、この回も、これまでのことを振り返るところからはじめることにします。これまでのことを振り返ることが、この段に述べられていることを、まさにこととして、いきいきと起こす助けとなります。まずは、十二の段に、こうありました。
すなわち、わたしたちが考えるに重ねてする見ることの、はじめのひとつであるが、考えるは、わたしたちのつねづねにおける精神の生きるの、見られない元手である。
すなわち、まずもって、世のものごとが、つねづねの見るの客となり、考えるが、例外の、気高い見るの客となります。その意味において、考えるは、世のことのひとつであり、わたしたちみずからのする働き(向かう働き、もしくは及ぼす働き)の上に安らいます。(「世のこと」に当たるのはWeltgeschehen であり、Welt〈世〉は、〈わたし〉に対しあうところであり、geschehen〈こと〉は、起こること、生じること、出来することです。)
また、わたしたちは、考えるを生みだしもします。もしくは、前へともたらしもします。そこから、考えのプロセス(考えるの辿った跡)が、追って考えられます。もしくは、後から考えて見られます。その意味において、考えるは、考えのプロセスの前に潜む客となり、後ろに控える客となります。なお、潜む客というのも、控える客というのも、例外の見るの客という意味です。すなわち、例外的にきこえるかもしれませんが、その客は、つねづねの見るに、見られない客であり、例外の見るを通して、まさに「見られない客」として見てとられます。
また、考えのプロセスが追って考えられるのは、わたしたちみずから、すなわち、わたしたちのこころとたからだを基にしてでもあります。その意味において、考えるは、わたしたちの下の基に重なる客となります。そして、ここまでのことが、主に十三の段から十七の段までのことです。そのとおり、考えるは、わたしたちの上へも、前へも、後ろへも、下へも、わたしたちがあらしめる客であり、もしくは、わたしたちが立てる客であり、まさにわたしたちがあらしめ、わたしたちが立てるゆえに、わたしたちにとって、じかに親しい客として立つに至ります。その意味において、考えるは、謎めきません。(なお「立つに至る」に当たるのはzustande
kommem であり、stande〈立つ〉zu 〈へと〉kommen 〈来る〉というつくりであり、ことが起こり、生じ、出来するプロセスを指しましょう。)
そして、それらのこととともに、わたしたちのなりたちのことがあります。さかのぼって、六の段のはじめに、こうありました。
さて、見るに当たって、わたしたちのなりたちは、わたしたちがそれを要することのうちにある。
すなわち、まずもって、考えるを見るは、ただにわたしたちのする精神の働きであり、そのまま、わたしたちの紛れのない精神のなりたちです。もしくは、まさにわたしたちが、まさにわたしたちの精神の働きとして立てる、まさにわたしたちの立ちようであり、わたしたちのひとところです。また、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちを、わたしたちは、下へ、みずからへと引き寄せることができます。そして、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいて、わたしたちは、わたしたちのこころとからだのなりたちを、安らかに識り、しっかりと起こします。逆に、また、わたしたちが、わたしたちのこころとからだのなりたちを、まがりなりにも知っており、まがりなりにしろ起こすのも、ほかでもなく、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいてです。
また、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちを、わたしたちは、前へ、わたしたちの他のものごとへと引き寄せることができます。そして、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいて、わたしたちの他のものごとのかかわりとありよう、もしくは、ことのがらと、もののたたずまいを、安らかに識り、しっかりと立てます。逆に、また、わたしたちが、わたしたちの他のものごとのかかわりとありようを、どうにかこうにか知っており、どうにかこうにか立てるのも、ほかでもなく、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいてです。そして、ここまでのことが、主に六の段から二十二の段までのことです。
そのとおり、考えるを見るは、ただにわたしたちのする精神の働きとして、紛れのないわたしたちの精神のなりたちとして、いわば気高く、上に安らうところから、その安らかさともども、下ヘともたらされて、わたしたちのこころとからだのなりたちに重なり、前へともたらされて、わたしたちの他のものごとのなりたちに重なり、それらのなりたちが、しっかりと識られます。その意味において、考えるを見るは、しっかりとした点であり、わたしたちが、世のものごと、すなわち、わたしたちみずからのなりたちと、みずからの他のものごとなりたちを、安らかに見てとる、そもそもの要です。
そして、二十三の段のお終いに、こうありました。
考えるを見るについては、まさにわたしたちが、まずもって、ひとつの客を生みなす。他の客という客があることは、わたしたちの及ぼす働きなしに、工面されている。
すなわち、わたしたちにとって謎めくのは、例外の見るの客でなくて、つねづねの見るの客です。言い換えると、わたしたちが疑いうるのは、ただ前に見いだされるばかりの客です。(「前に見いだす」に当たるのはvorfindenであり、vor〈前に〉finden〈見いだす〉というつくりです。そして、hervorbringen 〈生みだす、前にもたらす〉の対であり、また、Zutun〈及ぼす働き〉の対でもあります。)
そして、わたしたちは、まさに例外の見るの客から、つねづねの見るの客を、疑うでなくて、問うことができます。すなわち、いかに工面されているのか、というようにです。その問いは、ほかでもなく、客のなりたち(もしくは、かかわりとありよう)への問いであり、きっと、みずみずしく、親しい問いでもあります。なにしろ、その問いは、まさにわたしが立てる問いであり、わたしの前において、世のものごとを親しく迎えつつ、わたしの下において、みずからをいきいきと起こしつつの問いですから。そして、答えは、他でもなく、例外の見るの客から来たります。その答えをもって、世のものごとのなりたちが、しつかりと、安らかに立つようになります。なにしろ、その答えは、わたしが、わたしの上から下へと、安らかに、わたしの後ろから前へと、しつかりと及ぼす答えであり、世のものごとの「横たわるvorliegen」なりたちを(六の段)、みずみずしく、親しく立つに至らせる答えですから。
そして、わたしたちの見るは、わたしたちが、さらに培うことのできることでもあり、なりたちというなりたちは、わたしたちが、さらに立てることのできるところです。すなわち、ひとつに、考えるを見るという、わたしたちの紛れのない精神のなりたちが、なおさらに生みなされうるところです。またひとつに、それとの重なりにおいて、世のものごとというものごとのなりたち、すなわち、わたしたちのこころとからだのなりたちと、わたしたちの他のものごとのなりたちが、なおさらに起こされうるところです。その意味において、見るの客という客が、わたしたちの見るを、みずみずしく、親しく引きつけるところとなり、わたしたちによって、しつかりと、安らかに立てられることを待つところとなりえます。そして、いうところの上も、前も、後ろも、下も、いわば限りのある上であり、前であり、後ろであり、下であり、その限りは、わたしたちの見る、ないし、わたしたちのなりたちに限りのあるところから来ています。その意味において、わたしたちは、考えるを、上においてであれ、前、後ろ、下においてであれ、そのつど、ひとつの端において、おさえているまでです。まさに、世のことごとのうち、なによりも、考えるこそは、その大いなる広がりにおいて、「世のことWeltgeschehen」と呼ばれるにふさわしいものです。なお、そのことが、引き続き、四、五、六、七の章において、詳しく光が当てられ、引き立てられていきます。
とにかく、わたしたちが「ほとんどしていない(六の段)」ことながらも、「考えるを見るについては、まさにわたしたちが、まずもって、ひとつの客を生みなす」とある、その生みなすが、わたしたちのしつかり立つことの要であり、まさにそのひとつの客が、わたしたちの安らかに世を見てとることの、ぎりぎりのはじまりです。もしくは、わたしたちが、世を見てとることを遡るにおいて、つまるところです。逆に、また、わたしたちが、まがりなりにも立って、どうにかこうにか世を見てとるのも、それとは識らないものの、考えるの助けによってです。(なお「なによりもみなもとの」に当たるのはursprunglicher であり、urspru
nglich すなわちur 〈おおもとにおいて〉sprung 〈湧くところ〉lich〈の〉という形容詞の比較級です。)
e−2
さて、二十六の段が、こう続きます。
わたしは、さて、ひとつの広く行き渡った誤りにも、ふれておきたい。その誤りが、考えるに重ねて幅をきかせる。その誤りは、人が、こう言うことのうちにある。考えるは、それそのことのあるがままにおいては、わたしたちに、どこにおいても与えられていない。わたしたちの経験の見られるもろもろを結びつけ、〈考え〉網をもって紡ぎあげる、考えると、わたしたちが、後に、ふたたび、見るの対象から剥き取って、わたしたちの見てとるの対象とする、考えるとは、けっして同じようではない。わたしたちが、まず、意識しないで、ものごとへと織り込むところは、わたしたちが、そこから、意識をもって、ふたたび解し出すところと、まったく異なっている。
いかがでしょうか。当の言い分がなされるのは、ほかでもなく、考えるを、見られない客として、見てとるということを、こととして立てていないところからです。
そして、そのことを、こととして立てることができないのは、考えるを見るという、まさに例外のことを、こととして起こしていないところからです。
そして、そもそもにおいて、方法についての意識を欠くところからです。
ちなみに、それら三つのことは、さきに、こういう文のかたちにおいて述べられていました。三つ目、二つ目、ーつ目のことの順で引きます。
哲学者たちが、さまざまなおおもとの対し合いから説を起こしている。理念と現実、主観と客観、現象と物自体、わたしとわたしならざるもの、表象と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などなど。しかし、このことは楽に見てとれよう。それらの対し合いのすべてに、きっと見ると考えるが、人にとってなにより重きをなす対し合いとして先立つ。(四の段)
これは考えるの独自な自然であるが、考えつつの者は、考えつつのあいだ、考えるを忘れる。その者にする働きをさせるのは、考えるでなく、考えるの対象であり、その者の見るところである。(十一の段)
そして、そのことも、また、考えるの、まさにそれならではの独自さである。わたしたちが、考えるを見るの対象とするにおいては、質において異なることの助けをもってするようには強いられず、同じ元手の内にとどまることができ
る。(二十の段)
はたして、当の言い分に対し合わされて、次の段が、こう続きます。
そう決めつける者は、このことをとらえていない。その者にしろ、その趣においては、考えるから飛び出すことが、まったくできはしない。わたしは、考えるを見てとろうとするにおいて、考えるを抜け出すことが、まったくできない。人が、意識するまえの考えるを、後から意識する考えるから分かつにおいては、このことを忘れないで欲しいものである。その分かちは、まったく外からの分かちであり、当のことそのことには、いささかもかかわらない。一体全体、わたしは、ひとつのことを、考えつつ見てとるによって、異なることには、していない。わたしは、こうは考えることができる。まったく異なる趣の感覚器官と、異なる機能の知性とをもつ者なら、馬について、わたしがもつのと、まったく異なる想いをもつかもしれない。しかし、わたしは、こうは考えることができない。わたしみずからの考えるが、わたしに見られるによって、異なるものになるとか。わたしは、わたしがなしとげるところを、見る。いま言うところは、わたしの考えるが、わたしの知性とは異なる知性にとって、いかに見えるか、でなく、わたしの考えるが、わたしにとって、いかに見えるか、である。しかし、いずれにしろ、わたしの考えるの相が、異なる知性のうちにおいて、わたしみずからのよりもまことであることは、ありえまい。ただ、仮りにだが、わたしが、考えつつの者でなく、考えるが、わたしにとってよそよそしい趣の者のする働きとして、わたしへと向かってくるならばこそ、わたしのもつ、考えるの相が、なるほど、それなり定かに立ち現れるということを、わたしは言いうるだろうし、その者の考えるが、しかし、それとして、どうであるか、そのことを、わたしは識ることができないでいよう。
まず、はじめの三つの文は、ーつ目のことにかかわります。すなわち、わたしたちが「考える」ということを言うのは、考えるを見てとるところからでなくして、どこからでしょうか。考えるを見てとるということは、「考える」と「見る」と「とる」からなりたちます。その「とる」が、つねづねの見るには見られなくても、つねづねの見るの後ろに控えます。すなわち、その「とる」が、例外の見るをとおし、見られない客として立つに至ります。そもそも、わたしたちが「見てとる」ということを言うのは、その「とる」を例外的に見るところからでなくして、どこからでしょうか。そして、そもそも、「見てとる」を欠く語りは、とらえどころのない語りです。( なお「決めつける」に当たるのはschliessenであり、「結ぶ、閉じる、帰結する」の意です。つまりは、「つまるところにおいて断じる」ことを言いましょう。)次の三つの文は、二つ目のことにかかわります。すなわち、見るは、わたしたちが対象へと働きかけることでなく、わたしたちが対象から働きかけられることです。そのことは、考えるを見るにおいても変わりはありません。
そして、さらに続くところは、三つ目のことにかかわります。すなわち、考えると見るは、人にとってなによりも重きをなす対し合いとして先立ちます。そのことの意識が薄れると、つい、考えや思いが、よそよそしく、ひとり歩きをしはじめます。そして、そのことの意識が薄れるのは、わたしのこころとからだにおけるアクテビティが減じることからであり、アクテビティが減じるのは、わたしが、わたしのこころとからだにいあわせないことからです。言い換えれば、わたしたちの精神の、ふたつながらの基の柱、考えると見るが、それとして立てられないところからであり、ひとりの人のなしうる、もっとも重きをなす見る、考えるを見るが、ないがせにされるところからです。なお、そのことは、主にーの段から五の段までおいて述べられていました。(「よそよそしい」に当たるのはfremdであり、intim〈親しい〉の対です。)
ついでですが、いうところの「よそよそしさ」は、いまの公のシーンにおいて、ことのほかあらわです。すなわち、「わたしたちにとってよそよそしい趣の者のする働き」という仮りの思いもうけが、まさに仮りの思いもうけであることを問われないままに、まかりとおります。たとえば、「異なる知性(神、仏、天才、偉人などです) 」という名のもとに、さまざまな推量がやたらに好まれ、「物質(原子、分子、遺伝子、ゲノム、カルシュウム、フェロモンとかです) 」という名のもとに、こころと精神についての有象無象の情報が賑やかに飛び交い、「無意識」という名のもとに、もろもろの憶測が居丈高に幅をきかせます。
といっても、それに対して、むやみに肩肘を張るには及びません。要るだけの勇気は、まさに要るだけ、考えるを見るから、静かに起こりますし、考えるを見なければ、そもそも勇気を要するまでもありません。すなわち、ことは、考えるを見るにかかります。まさに考えるを見るから、しっかりとした一点が、どこにおいてであれ、儲けられます。そして、そこから、じかに、親しくなるものはなり、ならないものは立ち去ります。
すなわち、次の段が、こう続きます。
しかし、わたしみずからの考えるを、異なる立場から見やること、さしあたり、わたしにとって、そのことへの弾みは、つゆほどもありあわせない。わたしは、なにせ、残りの世のまるごとを、考えるの助けをもって見てとる。なのにどうして、わたしは、わたしの考えるのもとにおいて、そのわたしの考えるを、ひとつの例外にすべきなのか。
「さしあたり、わたしにとって」というのは、なんと強く、かつ、なんと慎ましく響くことばでしょうか。そのことばは、わたしが明らかにいあわせ、かつ、わたしの見るの限りを明らかに認めるところから響いてきます。すなわち、わたしが、つまるところにおいて、考えるを、見られない客として、広やかに、安らかに、見つつ、それを、上から、前へ、後ろへ、下へ、明らかに、しっかりともたらし、かつ、わたしの限りある見る、わたしの限りあるなりたちを、親しく認めつつ、世(ものごと)のなりたちへの問いを、いきいきと起こすところからのことばです。(「さしあたり」に当たるのはvorlaufigであり、vor〈前に〉laufen〈走る〉から来ます。そして〈前〉は〈後〉との対、〈走る〉は〈立つ〉との縁です。すなわち、そのことばは、人が立ち歩むにおいて、なおさら人となりゆくプロセスないしパ一スペクテイブをも指していましょう。)
さて、この回のお終いには、山村暮鳥「聖三稜玻璃」から、「岬」と題する詩を引きます。
岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指
fー1
この回は三の章の六回目であり、はじめから数えて三十番目、おわりから数えて四番目の段を取り上げます。こうです。
右をもって、わたしがそこそこに足りる論であると見てとるのは、わたしが世を見てとるに、考えるから起こす時である。アルキメデスは、梃子をあみだして、こう信じた。その道具を支えることのできる一点さえ見いだしたなら、その助けをもって、コスモスのまるごとを持ち上げることができるであろうと。かれが要したのは、他のものによってでなく、それそのものによって担われるものであった。考えるにおいて、わたしたちは、それそのことによって立ちつづける原理をもつ。そこから、そこはかと誘われていてほしいものである、世をとらえることは。考えるを、わたしたちは、それそのことによってつかむことができる。問いは、ただ、わたしたちが、それによって、その他をもとらえることができるかどうかである。
思い起こせば、この章は、玉突きを見ることから起こされました。
そして、ただに見る、考えをもって見る、ただに考えるという、三つのことが、玉の動くことと同じく、見るを通して見られるところ(現象) となり、考えるを通して考えられるところ(見解)となりました。
そして、その三つのことが、わたしたちによって起こされつつ、見てとられること、玉の動きが、わたしたちによって生じつつ、見てとられるに同じです。その意味においては、見るも、考えるも、玉が動くと同じく、世のことであり、ひとり見てとるのみが、わたしたちの、見ると考えるを取り合わせつつ、する働きです。
さらに、その三つ目のことのことさらなところは、こうでした。
わたしが考えるを見てとることにおいては、ことのまるごとが、わたしにとって、隈なく見とおしがきき、わたしが、ことのまるごとを大らかに見わたします。なぜなら、ことのまるごとが、わたしによってあきらかに生じ、わたしが、ことのまるごとによって安らかに起こされる故です。
そして、そこからは、わたしが、世のものごとを、安らかに、明らかに見てとることへの望みが萌します。その望みは、いわば、わたしが、世のものごとを見てとりつつ、考えるをなおさらに見てとり、逆にまた、考えるを見てとりつつ、世のものごとをなおさらに見てとるによって叶えられよう望みです。
そして、つまるところ、わたしが見てとるは、ひとりわたしが見てとるによってのみ生じ、さらにわたしが見てとるによってこそ捗ります。
さて、このたびのはじめの文です。
右をもって、わたしがそこそこに足りる論であると見てとるのは、わたしが世を見てとるに、考えるから起こす時である。
繰り返しますが、考えるを見てとることは、まさにわたしが起こすことであり、ことがわたしを起こすことです。そして、わたしは、そのことを、そのことの明らかさにおいてつかみつつ証し、そのことの親しさにおいてとらえつつ論じます。よって、そのことの論は、論じつつ証すむきにおいてよりも、証しつつ論じるむきにおいて確かに仕立てられます。( 「・・・から起こす」に当たるのはvon…〈・・・から〉aus〈外へ〉gehen〈行く〉という言い回しであり、「・・・から出発する、・・・を起点とする」の意です。)
また、そのことの証しは、わたしがことを起こしつづける時に稼がれ、望みとして時とともに叶えられようことをも含みます。よって、そのことの論は、時につれて、ありきたりのことばを鋳なおすことをも促します。(「時」に当たるのはwenn であり、「・・・のあいだ」「・・・のたび」とも訳されます。すなわち、「持続、継続、反復」の意の条件節を導く接続詞です。)
わたしは、そこから、そのことの論を、ひとまず、そこそこでよしとします。(「そこそこに足りる論である」に当たるのはgenugend
gerechtfertigtで、gentugend 〈そこそこに足りて〉ge-recht〈ふさわしく〉fertigt〈仕上げられた〉という言い回しであり、recht〈ふさわしく〉fertigen〈仕上げる〉には、慣用として「是認、容認、弁明」の意があります。)
なるほど、そのことの論も論であって、ほかのだれかに読まれるものです。しかし、その読みも、読む人がことを起こしつつ読んでこそ捗ります。そして、わたしは、読む人のする証しに免じて、そこそこの論を安んじてさしだします。(「わたし」に当たるのは、いわゆる人称代名詞一人称ichですが、なんとも奥ゆかしく遣われています。それは書き手を指すのはもとより、読み手を容れることのできる広がりをも湛えています。もっとも、訳の文が、その広がりを、わずかでも伝えていればですが・・・。)
さらに思い起こします。ことは、引き続き、わたしが考えるを見てとることに他なりませんが、異なる面から思い起こします。また、重きは、思いにでなく、起こすに懸かります。
わたしが考えるを見てとる「時」が、まさにわたしによって起こされるとおり、もしくは、まさにわたしによってはじまるとおり、わたしが考えるを見てとる「点」が、まさにわたしによって生みだされます。もしくは、まさにわたしによって灯されます。まずもっては、いわば、わたしの上においてわたしを安らかに支える点としてであり、世に沿って言い換えれば、天からわたしを明らかに照らす点としてです。
すなわち、次のひとくだりが、こうです。
アルキメデスは、梃子をあみだして、こう信じた。その道具を支えることのできる一点さえ見いだしたなら、その助けをもって、コスモスのまるごとを持ち上げることができると。かれが要したのは、他のものによってでなく、それそのものによって担われるものであった。
わたしが考えるを見る「点」が、それそのことによって支えられ、それそのことによって持ちこたえられ、それそのことで担われます。その点は、さながらお天道様のごとくであり、わたしが目覚めるにおいて、天に明るみ、わたしが目覚めているにおいて、天から照らしつつ「どこにでもついてまわり」ます。(「支えるaufstiltzen」「持ち上げるheben」「担うtragen 」は、「立つ(立てる)」プロセスをも伝えています。なにかが生じ(生みだされ) 、起こり(起こされ)、立つ(立てられる)のは、そのなにかが支えられ、持ち上げられて、担われつつです。なお、日本語において、たとえばなにかを担うのは、ふつう、そのなにかの他ですが、ドイツ語においては、そのなにかそのものであることも普通です。いわゆる再帰表現が、それです。)
f−2
そして、こう続きます。
考えるにおいて、わたしたちは、それそのことによって立ちつづける原理をもつ。そこから、そこはかと誘われていてほしいものである、世をとらえることは。
まず、先の文です。まさに右のとおり、わたしが考えを見てとりつつとらえて、考えるという〈考え〉が儲けられます。考えるという〈考え〉は、それそのことでとらえられる〈考え〉です。その〈考え〉を、公理といい、原理といいましょう。まさに考えるという考えは、公理中の公理であり、原理中の原理です。(「立ちつづける」に当たるのはbestehenであり、比〈まさに〉stehen 〈立つ〉というつくりで、「存立、現存、存続」の意です。「原理」に当たるのはPrinzip であり、言うならば「そもそもの拠り所となる〈考え〉、人がそもそもの支えとする〈考え〉」です。なお「〈考え〉Begriff」および「とらえるbegreifen」については、3-bの)
回を見てください。)
そして、後の文です。まさに考えるという〈考え〉の立ちつづけから、そこはかと誘いが及んで来ます。その誘いは、いわば、ものごとをありありと見てとることへの誘いです。そのそこはかさは、いわば、ものごとをういういしく見てとることのそこはかさです。(「そこはかと誘われていてほしいものである、世をとらえることは」に当たるのは es〈それが〉versucht 〈誘われて〉sei 〈あれかし〉,die Welt〈世を〉zu
begreifen〈とらえることへと〉という言い回しであり、いわゆる接続法一式として、希(こいねが)いを湛えた形です。なお、そのes 、非人称代名詞 −英語のitに当たります− を訳すにこと欠いて「そこはかと」なることばをもちだしましたが、それについてはすぐ後でふれます。)
すなわち、わたしがものごとを見てとるに、考えるから起こす時、わたしが考えるを見てとる点が、わたしによって、ものごとの上へと安らかに設けられます。ものごとが、わたしに、明らかに(ありありと)展け、わたしが、ものごとを、親しく( ういういしく)望むのは、まさにそのことの徴です。その点は、わたしを支えつつ照らすとともに、ものごどを照らしつつ支えるにおいても、太陽のごとくです。わたしがみずからで確かに立ち、ものごとがものごととして確かにきわだつのも、まさにその点からです。
言うまでもありませんが、誘いは、他のもろもろからも、とりわけ他のもろもろの〈考え〉からも及んできます。そして、わたしが、他のもろもろからの誘いのままになるにおいて、いうところの明らかさも、親しさも、安らかさも、確かさも、立ち去ります。もちろん、立ち去っても、また、わたしが、いうところの時をもちかえすにおいて、繰り返し立ち返ります。すなわち、そこはかとなく、それらの情が湛えられてあるのは、わたしが、いうところの時を持ちこたえ、考えるという〈考え〉からの誘いに任せるあいだであり、わたしが、いうところの時を持ちこたえ、考えるという〈考え〉からの誘いに任せるのは、そこはかとなく、それらの情が湛えられてあるの程に応じてです。とにかく、わたしがものごとをとらえるには、そうしたわたしの立ちようが、まさに望ましく、まさにありあわせて欲しいものです。(さきの非人称代名詞 es は、その「湛え」のみずみずしさを言いましょう。なお、初版の序には、それを指して「エーテルAether」とのことばも使われています。)
読みにくさの言い訳ではありませんが、ここまでのことは、主として、ただに精神のことであり、紛れのない精神のなりたちであり、ここまでの述べようは、からだはもとより、いわゆるこころをも置き去りにした、とらえどころがないといえば甚だとらえどころのない述べようです。しかし、ことの要は、まさにとらえることにあります。そして、まさにとらえる手だてとなるように、すこし先取りすることになりますが、こういう補いをしておきたいと思います。
いうところのわたしの立ちようが、たとえば弓道においてきわだちます。
我々弓の師範は申します。射手は弓の上端で天を突き刺し、下端には絹糸で縛った大地を吊るしていると。もし強い衝撃で射放すなら、この糸がちぎれる虞(おそれ)があります。意図をもつもの、無理をするものには、その時天地の間隙が決定的となり、その人は天と地の間の救われない中間に取り残されるのです。あなたは正しく待つことを習得せねばなりません。(オイゲン• ヘリゲル「弓と禅」稲富栄次郎・上田武訳、福村出版)
たとえばまた能に言うところの構えにおいてきわだちます。
両足を揃えて立ち、右手に扇または中啓をもち、左手で軽く袖口をつかみ、両肱を少し張った形である。この構えを見れば、一瞬にしてこの人はどのくらい舞ができるかが即座にわかる。舞ばかりでなく、この構えは、能全体の中の身体の基本形であり、この基本形から舞も能のドラマの部分の変身もふくめた、全ての身体の動きが行われる。この構えさえしっかりしていれば、どんな人物、精霊にも変身できる。いわば、この構えこそ動きの基本形であると同時に、さまざまな役に変化する可能態としての身体のかたちなのである。(渡辺保「日本の舞踊」岩波新書)
たとえばまた子どもにおいてきわだちます。ことに考えはじめる頃の子どもです。
A は、なにかがわからなくて、追って考える時、身を安らかに立て、両手を後ろに据えて置く。目は大きく開き、遠くに向けられ、口はいくぶん引き締まり、まさに黙っている。だいたいは、そのように努めているうちに、軽い疲れにみまわれる。その表情が立ち消える。すなわち、自然が、張り詰めの緩みを工面する。
(E.Kohler: <Die Personlichkeit des dreijahrigen Kindes> Leibzig I926 なお「A」とあるのは、二歳六ヵ月になる女の子のことです。)
そもそも、いうところのわたしの立ちようがみずみずしくきわだちつつ、下の基に立つからだの立ちようを安らかに、明らかに、親しく、確かに仕立てます。
そして、上と下、ふたつの基に立つ立ちようが、わたしたちの立ちようです。ただ、上の基に立つ立ちようが引き立てられるかどうかが、わたしたちの、考えるを見てとるにかかります。言い換えれば、考えるを見る技量は、ノーマルななりたちをした、どの人にもあります。いわば横たわってあります。要は、それが縦になるかどうかであり、つまるところ人が考えるを見ようとするかどうかです。
そもそも、考えつつの者は、考えるあいだ、考えるを忘れます。その意味において、考えるは、わたしたちにとって、陽の光のごとくです。わたしたちは、つねづね、陽の光の下で陽の光を忘れてこそ、ものごとを安らかに見てとり、明らかにつかみ、親しくとらえつつ、確かに引き立てます。その安らかさ、明らかさ、親しさ、確かさのほどが、陽の光のほどであり、また考えるを見てとるのほどです。考えるは、そのとおり、じつに大いなる、精神のする働きです。
そして、考えるを見てとるところから立つ問いは、ただにこうです。すなわち、お終いのくだりが、こう続きます。
考えるを、わたしたちは、それそのことによってつかむことができる。問いは、ただ、わたしたちが、それによって、その他もとらえることができるかどうかである。
考えるを見てとるところからすれば、わたしたちが、ものごとを、見つつ、とり、つかみ、とらえること、たとえば射手が、的に応じつつ、弓を引き、頃合いをはかり、矢を放つごとくです。なるほど、師範ならば、矢は的を射抜くでしょうが、師範ならぬ射手は、しばしば的をはずします。その、応じる、引く、はかる、放つのあたいのかかわり、もしくは、見る、とる、つかむ、とらえるのあいだのかかわりが、次の四と五の章を待って見てとられるところとなります。(なお、見てとり〈betrachten〉つつで、つかむ〈erfassen〉があり、つかみつつで、とらえる〈begreifen〉があること、支え〈aufstutzen〉つつで、持ち上げる〈heben〉があり、持ち上げつつで、担う〈tragen〉があるごとくです。そして、支える、持ち上げる、担うが、主として足にまつわる働きであり、(見て)とる、つかむ、とらえるが、主として手にまつわる働きです。そのことについては、すでに3-bの回において少しふれてあります。)
さて、この回のお終いには、「万葉集」から一首、いわば手痛いとらえそこねの歌を引きます。
あづさ弓引きみゆるしみ思ひみて
すでにこころはよりにしものを
g−1
この回をもって三の章を一巡りすることになります。残るは三つの段で、まずはこうです。
わたしは、ここまで、考えるについて語るのに、その担い手、人の意識を顧みなかった。いまにおいて哲学する者のおおかたは、わたしに、こう言い返すだろう。考えるがある前に、きっと、ひとつの意識がある。よって、意識から起こすべきであり、考えるからではない。考えるは、意識なしには、ないと。わたしは、きっと、それに対して、こう答える。わたしが、考えると意識のあいだに、どんなありようがあるかについて明るめようとするにおいては、きっと、それについて追って考える。わたしは、そのことをもって、考えるを先に据える。さて、人は、それにつけて、なるほど、こう、ことばを返すこともできよう。哲学する者が、意識をとらえようとするにおいては、考えるを用いる。哲学する者は、その限りにおいて、考えるを先に据える。しかし、ありきたりに生きるにおいては、考えるが意識の内に生じる。よって、考えるは、意識を先に据えると。そのことばは、世の生みなし手にして、考えるを造りだそうとする者に向けられるならば、疑いなく、ふさわしいことばであろう。人は、おのずからながら、前もって意識を立てずには、考えるを生じさせることができない。しかし、哲学する者にとって、ことは、世を生みなすでなく、世の生みなしをとらえるである。哲学する者は、そこからまた、世を造りだすに向けてでなく、とらえるに向けての起点を探すことになる。わたしは、人が、哲学する者に対して、こう詰るのを、まったくおかしいと見つける。哲学する者は、なによりも、みずからの原理の正さに気をつかって、とらえようとする対象に、すぐには取りかからないと。世の生みなし手なら、きっと、なによりも、考えるに向けて担い手をいかに見いだすかを、識っていただろう。しかし、哲学する者は、きっと、あるものをとらえるべく、確かな基盤を探す。わたしたちが、意識からはじめて、それを考えつつ見てとるの下に据えても、その前に、考えつつ見てとるによって、ものごとにつき明らかさが得られるかどうかについて、なにも識らなくては、なんになるのか。
ここでもまた語らうという形において論が進められます。しかも、それは、これからありえよう語らいです。そして、テーマは、ものごとの起こり、ないし、ものごとの後先です。(はじめから二つ目の文の「・・・だろう」に当たるのはwerden であり、「未来」というモード(話法、気分)を表します。)
いまの(いまから百年ほど前のいまです)哲学の主な流れ、たとえば一の章に名の見えるスペンサーやハルトマンがリードする流れは、意識から考えが抽象される、もしくは憶いから考えが紡ぎだされるとの考えを、識ってか識らずか原理として立て、方法として通します。そこからやって来ようものいいに対して、『自由の哲学』の書き手は、こう言い返します。
わたしが、考えると意識のあいだにどんなありようがあるかについて明るめようとするにおいては、きっと、それについて追って考える。わたしは、そのことをもって、考えるを先に据える。
そのやりとりは、いわゆる哲学者たちのあいだの、専門的な、悪く言えば実の世に疎いやりとりのようですが、それだけには尽きません。(なお「きっと」に当たるのはmussen であり、「必然」というモードを表します。すでにーの章においてふれたとおりですが、それは、まさに考えるをきわだたせるるところから生じる、明らかで、確かなモードです。)
人がいわゆる哲学を嫌い、いわゆる哲学者を悪く言うのは、おおかた、普通の、一般的な意識からです。そして、意識から考えが抽象されるとの考えを立てる哲学者がよりどころとするのも、こういう、一般的な、ありきたりの意識です。人は、ありきたりに生まれ、ありきたりに育つにおいて、だんだんにものごころがつき、だんだんにはっきりと考えるようになる・・・。(「さて」ではじまる文における「・・・こともできよう」に当たるのはkann であり、「可能」「認容」といったモードを表します。)
なるほど、それはそのとおりですが、なおかつ、『自由の哲学』の書き手は、こう言い返します。
そのことばは、世の生みなし手にして、考えるを造りだそうとする者に向けられるならば、疑いなく、ふさわしいことばであろう。
藪から棒のように「世の生みなし手」が引き合いに出されて面食らうようですが、言わんとするところは、だんだんにはっきりと分かってきます。(「・・・ならば、・・・であろう」に当たるのはwurde,wareであり、いわゆる接続法として、「仮定」という意を表します。)
世は、それなりのありようをもってあり、それなりのなりたちをもってなりたちます。その世の内に、意識があり、考えるが生じます。それは、世のこととして、おのずからなプロセスです。(「おのずから」に当たるのはnaturlichであり、Natur〈自然〉の形容詞形です。)
かたや、人は、世のありようとなりたちをとらえようとし、とらえるための明らかで確かなよりどころを探そうとします。それは、おのずからでなく、まさに人のする働きであり、まさに人が考えるから起こすプロセスです。(「追って考えるnachdenken」「考えつつ見てとるdenkend betrachten」は、まさにその「する働きTatigkeit」を指しましょう。)
そして、先の回に言うとおり、わたしが、世を見てとるに、考えるから起こすにおいては、ことのまるごとを見とおします。すなわち、ことが世のこととして生じ、起こり、立つプロセスと、ことをわたしが生じさせ(支え)、起こし(持ち上げ)、立てる(担う)プロセスとが、同じひとつのプロセスとして、隈なく繰り広がります。そこにおいては、ことが世のこととして大らかにあり、わたしが、ことの担い手として、慎ましくあります。その、世とわたしのありようは、さながら晴れのありようのごとくです。(「担い手」に当たるのはTragerであり、tragen〈担う〉から来て、「担う者」の意です。)
それにひきかえ、わたしが、世を見てとるに、ありきたりの意識から起こすにおいては、世のことと人のことを、識らず識らずのうちに、はきちがえがちです。言い換えれば、世の働きを人のする働きのごとくに思い描いたり、人のする働きを世の働きのごとくに思い倣していたりします。たとえばですが、「米作り」といいますが、米が出来るものでもあることが、とくに米を作らない人からは、忘れられていたりします。あるいは「・・・になっています」「・・・と考えられます」とか、あるいはまた「庶民は・・・」「世論は・・・」といった言い回しが、ときどき耳障りに聞こえるのも、いうところのはきちがえが、どこかしらに紛れ込んでいるためです。なるほど、ありきたりの意識は、ありきたりという意味においては慎ましやかですが、しかし、人が、そこをよりどころにしてしでかすはきちがえには、はなはだしい偏りがあり、きわめて厚かましい行き過ぎがあります。そして、その偏りが、やがて張り合いを殺ぎ、その行き過ぎが、いつか行き詰まること、さながら褻(け)のありようのごとくです。(「ありきたり」に当たるのはgewohnlich であり、gewohnen〈慣れる、馴染む〉から来て、「習いの、お馴染みの」といった意です。)
すなわち、右は、なによりも、ひとりの人が晴れのありようと褻のありようのあいだで交わす語らいであり、また交わすに値する語らいです。もちろん、いわゆる哲学者たちにも交わし合って欲しいものですが・・•。そして、その語らいは、きっと、いまも(『自由の哲学』が書かれてから百数年の後のいまです)、というより、いまにいたって、なおさらアクチュアルな、なおさらに人の要するところとなっています。(「哲学する者」に当たるのはPhilosophであり、ありきたりには哲学者と訳されますが、右のとおり、いわゆる学者を指すには尽きないはずですので・・・ 。また「世の生みなし手」に当たるのはWeltschopfer であり、習いでは「創造主」と訳され、漢語の「造物主」にも通じるでしょうが、Welt〈世〉をそのまま生かしました。なお、その語は、後にひときわ鮮やかに使われます。)
そのとおり、いや、すでにはじめの文にあるとおり、人の意識は、考えるの担い手です。ただ、そのことが、晴れのありようにおいては、見てとられつつ識られており、褻のありようにおいては、見おとされつつ忘れられています。そして、すこし先取りして言いますが、人の意識は、考えるを担おうとして担うほどに、なおさらに人の意識となります。(「人の意識」に当たるのはdas
menschliche Bewusstseinで、menschlich〈人の〉はMensch〈人〉の形容詞形であり、比較級もありえる形です。つまり、人間はより人間的でありうる存在です。そのことについては、後に章を追って見ていくことになります。)
ともかく、この段は、書き手からの、こういう問いをもって結ばれます。
わたしたちが、意識からはじめて、それを考えつつ見てとるの下に据えても、その前に、考えつつ見てとるによって、ものごとにつき明らかさが得られるかどうかについて、なにも識らなくては、なんになるのか。
逆に、ものごとについての明らかさが得られるのは、考えつつ見てとるによってであることが、考えるを見てとるによって識られます。 そのとおり、明らかさ、ないし識は、考えつつ見てとるほどに嵩じます。そして、前の回においてふれた、とる、つかむ、とらえるは、その嵩じるのほどをこそ伝えていましょう。(「下に据える」に当たるのはunterwerfenであり、unter〈下に〉werfen〈投げる〉というつくりで、「・・・の支配下におく」「・・・にゆだねる」といった意です。)
さて、この回は、はやばやと、ここまでのことにちなんで、こんな旬を引きます。
己が身の闇より吼えて夜半の秋 蕪村
g−2
*
さらに、次の段がこう続きます。
わたしたちは、きっと、はじめに、考えるを、まったくニュートラルに、考える主や考えられる客との重なりなしに、見てとる。そもそも、主と客において、わたしたちは、すでに、考えるからなりたたされている〈考え〉をもっている。このことは、否むべくもない。他のことがとらえられる前に、きっと、考えるがとらえられる。それを否む者は、このことを見落としている。その者も、人として、生みなしのはじめのひとところでなく、しんがりのひとところである。それゆえに、人は、〈考え〉によって世を説き明かすのに、あるの、時の上におけるはじめの元手から起こすことはできない。できるのは、わたしたちに、最も近いもの、最も親しいものとしてあるところからである。わたしたちは、わたしたちを、一飛びに世のはじまりへと移して、そこから見てとりはじめることは、できない。わたしたちは、きっと、いまの一時から起こして、後のものから先のものへと遡れるかどうかを、視る。地質学は、思い描きによる回転運動を云々して、地球のいまのありようを説き明かしていたあいだは、闇の中を手探りしていた。いよいよ、いかなるプロセスがいまなお地球において繰り広がるかを調べることをもって取りかかり、そこからかつてのことを見積もって、はじめて、ひとつの確かな地盤を得た。哲学は、原子、運動、物質、意志、無意識など、ありとあらゆる原理を思い設けるあいだは、宙を漂うであろう。いよいよ、哲学する者が、しんがりもしんがりを、その者のはじまりと見つけるようになってこそ、目標へと至ることができよう。そのしんがりもしんがり、世の繰り出しがもらたしたそれが、考えるである。
はじめの文は、まさにいまのことを語っています。それを、いまひとたび引くことにします。
わたしたちは、きっと、はじめに、考えるを、まったくニュートラルに、考える主や考えられる客との重なりなしに、見てとる。
わたしたちは、まさにいまと言うにおいて、きっと、そのとおりのありようにおいてあります。そして、みずからのことを振り返れば、まさにいまと言う時が、「ものごころ」がつきだしてより、たびかさねてありました。その時という時においても、わたしたちは同じくそのとおりのありようにおいてありました。わけても「しかじかに目覚めた」という時を振り返るにおいては、そのとおりのありようがありありときわだちます。なるほど、その「しかじか」は、かつてのこととして蘇りますが、しかし、その「目覚め」は、いまに引き続き、いまに重なって、まさにいまのことです。そもそも、考えるを見るは、つねに、いまと言う時においてなされることであり、晴れやかなありようであることです。(「はじめに」に当たるのはerstであり、いわば時の上の起点を示す副詞で、まず(はじめに)」「つい(いましがた)」「ようやく(やっと)」「いよいよ(これから)」などさまざまな情のニュアンスをもって使われます。)
次に、この一文は、まさにいまと言う時のたびかさなり、まさにいまという時の引き続きとともに、晴れやかさが嵩じるにおいてのことを語っています。
他のことがとらえられる前に、きっと、考えるがとらえられる。
他でもなく考えるという〈考え〉がとらえられるのは、しかじかの〈考え〉に先立ってであり、しかじかがとらえられるに先立ってです。そして、考えという〈考え〉は、考えられ、とらえられるものです。(「〈考え〉」に当たるBegriff については、3-b の回を見てください。)
さて、続くひとくだりにおいて、ふたたび藪から棒のように「生みなし」ということばが使われます。わたしたちは、世のものごとに目覚めるものです。その時、そのものごとは、そこにありあわせます。わたしたちは、そのものごとが、いつから、どのようにありあわせるに至ったかを、さしあたりは説き明かせません。
加えて、わたしたちのこころと、こころのなりたちも、わたしたちのからだと、からだのなりたちも、同じく世のものごとの内です。わたしたちは、まずもって、それに目覚めるものです。なおかつ、わたしたちは、世のものごとに目覚めてより、だんだんにそれを見てとり、つかみ、とらえつつ、説き明かすようになります。それは、わたしたちがその目覚めを引き継ぐかぎり、きっと、こういう道筋をもってです。
わたしたちは、きっと、いまの一時から起こして、後のものから先のものへと遡れるかを、視る。
それは、思い描きでなく、思い設けでなく、まさに考えつつ見てとらえながら、その明らかさを引き継ぎつつ、だんだんに世のはじまりへと遡るプロセスです。なんと、考えるは、わたしたちの目覚めの時の先にまで遡ります。ここに、考えるは、いよいよもって世のことであり、世のまるごとに及んであることです。(「思い描りに当たるのはerdichtenであり、dicht 〈濃い、凝ごった〉から来て、「創作」「仮構」の意です。また「思い設け」に当たるのはannehmen であり、an〈ついて〉nehmen〈取る〉というつくりで、「仮定」「仮想」の意です。」
加えて、そのプロセスは、見つつ、とる、つかむ、とらえるようになる、いわばおのずからなる、明らかさへのプロセスを、その明らかさを保ちつつ、とらえる、つかむ、とる、そして見るへと、とってかえすプロセスでもあり、さらには精神のなりたちから、こころのなりたちへ、さらにはからだのなりたちへと、降りる道筋でもあり、そのなりたちを立てる道筋でもあります。そもそも、わたしたちのなりたちは、見るにおいて、横たわってあります(3-bの回を見てください)。なお、その道筋は、ー、二、三、四の章立てにおいて、みごとに踏まえられています。
そして、いよいよ、おしまいのひとくだりです。
いよいよ、哲学する者が、しんがりもしんがりを、その者のはじまりと見つけるようになって、目標へと至ることができよう。そのしんがりもしんがり、世の繰り出しがもたらしたそれが、考えるである。
考えるも、世のこととして、繰り出しつつ、いまのとおりに繰り出すようになりました。たとえば、世という〈考え〉が、ギリシャの、ソクラテスに先立つ哲学者たちがとらえるようになったものであることも知られますし、また、追って考えると、八の章から取り上げられることになる、いわば先立って考えるは、エピメシウスとプロメシウスの神話の形において発していることも、まさにいまにして、まさにいまから追って確かめられます。(ここではerstに「いよいよ」のニュアンスを当ててみました。まさに「これから」のことであることを強めようとしてです。「世の繰り出し」に当たるのはWeltentwickelung であり、Welt 〈世の〉Entwickelung〈繰り出し〉というつくりです。ついでにEntwickelung〈繰り出し〉は「発達」「発展」「進化」などとも訳されます。)
さて、この段にちなんでは、こんな句を掲げることにします。
埋火や壁には客の影法師 芭蕉
そして、こういう解もあります。あわせて見てください。
「芭蕉句集」の前書などを参考にすると、「曲翠を旅館に訪うて、埋火を中にして静かに相対していると、壁にはくろぐろと客である自分の影法師がうつっている」という意のように考えられる。埋火のかすかな火の色、黙しがちな主と客、しずかにゆらぐ灯火、そして壁に凍てついたように動かぬくろぐろとした影法師、寒夜の身に泌みるような寂寥とともに、温い心の触れあいが感じられ、そこに挨拶の心を読みとることができる。しかし、芭蕉の校閲を経たはずの「続猿蓑」に前書を付さずに収められているところから察すると、あるいは、この句に独立性を与え、草庵独座の句として位置づけようとしたものかとも考えられる。その場合は己が影を「客」といったことになろう。私は句としてはその方に惹かれている。・・・
(加藤楸 邨「芭蕉全句」のちくま学芸文庫)
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そして、ついに、おしまいの段です。
こんなことを言う人もある。わたしたちの考えるが、それとして正しいかどうか、わたしたちは確かさをもって決め置くことができない。すなわち、そのかぎり、その起点も同じく疑わしいままであると。そのように言うことが理性的であること、ひとつの木がそれとして正しいか否かを疑うのと、まさに同じほどである。考えるは、ひとつの事実である。そして、それが正しいか誤りであるかについて云々するのは、意味がない。わたしが疑いを抱きうるのは、せいぜい、考えるが正しく使われるかどうかである。それは、これこれの木が、しかじかの器具をつくるのに、ふさわしい材料となるかどうかを、疑いうるのと同じである。世について考えるを用いることの、どのかぎりで正しいか、どのかぎりで誤りか、それを示すことが、まさにこの書の課題となってくる。もし、世について考えてなんになるとの疑いを、誰かが抱くのなら、わたしにはわかる。しかし、考えるがそれとして正しいかどうかを、誰かが疑いうるというのは、わたしにとっては、とらえようがない。
わたしたちは、目覚めるにおいて、とにかく世にまみえます。そして、すでに見てきたとおり、わたしたちは、とにかく考えるにもまみえます。すなわち、考えるも世のことのうちです。その晴れやかな時におては、世を疑ういわれが、どこにもありあわせません。わたしたちは、まさにあるがままを迎え、まさにあるがままに向かうばかりです。
そのありようは、「旧約」の「視よ、そは、すこぶるよきかな」という世の生みなし手のありように通じます( 3-c の回)。
あるいは、こうもありました。
考えるを、わたしたちは、それそのことによってつかむことができる。問いは、ただ、わたしたちが、それによって、その他をもとらえることができるかどうかである。(3-fの回)
その「ただ」も、また、晴れのありようを伝えています。その他の問い、さらには疑いが出てくるのは、考えるを、褻のありようから用いるにおいてです。
すなわち要は、考えるを、いかに用いるかです。
考えてなんになる
との問いは、わたしがふさわしく考えることができるかどうかという意味において、わたしにも十分す、ぎるほどわかります。しかし、
考えることそのことがふさわしくないのでは
という疑いは、わたしにも、晴れのありようをどうにかこうにか立てつつ引き寄せられるかぎりにおいては、とらえようがありません。
さて、この段につけては、こういう詩句を引きます。
一人称にてのみ物書かばや、
我は寂しき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。
与謝野晶子の「そぞろごと」と題する詩の一節ですが、その詩は雑誌「青踏」の創刊(1911) に寄せられて、その巻頭をかざる、まさに晴れやかなおりの、晴れやかな詩でもあります。
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なお、三の章の構えとタイトルについても、すこしふれておきたいと思います。わたしたちが、考えるを見るにおいて、こころは、みずみずしく起こります(3-fの回) 。そのみずみずしさ、そぞろさ、そこはかとなさを、まさに見てとるところから、こう言うことができます。
これまでの七回において取り上げたことが、それとなく、こういう七つの面を引き立ててもいます。
g 「いま(担う)」ということで「維持」
f 「誘う」ということで「熱交換」
e 「抜け出す」ということで「排泄」
d 「こなす」ということで「消化」
c 「生みだす」ということで「生殖」
b 「なりたち」ということで「成長」
a 「昇り降り」ということで「呼吸」
その七つの面は、すなはち、わたしたちが生命の働きとして考えるところでもあります。
そして、章のタイトルは
「考える‐世をつかむに仕えつつの‐」
(Das Denken im Dienste zu Welterfassung)
です。