ルドルフ・シュタイナー

普遍人間学

教育の基として

 

1919年8月21日から9月5日までシュツットガルトでの14回の講義と8月20日の挨拶

 

シュツットガルト・自由ワルドルフ学校の設立に際する教師のための学びのコース 第一部

目次

 

挨拶 シュトットガルト、一九一九年八月二〇日

 ワルドルフ学校、ひとつの文化の行ない。一貫性のある学校としてのワルドルフ学校。妥協もやむをえないこと。学校と政治。授業の墓場としてのボルシェヴィズムの学校。共和制の学校運営。教育コースの節分け、あまねきかたちでの教育学、方法論、練習。アントロポゾフィーと授業、および宗教の授業。教師に欠かせない性質、世への関心、熱いこころ、精神のしなやかさ、沿う・尽くすということ。

 

一 シュトットガルト、一九一九年八月二一日

 教育の課題のモラル・精神のアスペクト。ワルドルフ学校の設立、「世の精神の祝い事」として。今日の文化が人のエゴイズムに応じていること、不死についての問いを例に。教育が「生まれる前における高いものたちの働き」の引き継ぎであること。「胎教」の問題。この世での「ある」へと降りるにさいし、二重の三節、精神の人、生命の精神、精神みずからと、意識のこころ、分別もしくは情緒のこころ、感覚のこころ (こころ・精神) が、さらなる二重の三節、アストラルのからだ、エーテルのからだ、フィジカルなからだと、動物界、植物界、鉱物界 (体・からだ) につながること。こころ・精神を、体・からだと折り合わせることが教育する人の課題であり、それは一、呼吸を神経・感官のプロセスと調和させるによってであり、二、目覚めと眠りのふさわしいリズムを教えるによってであること。教師と子どものあいだの、内なる、精神におけるかかわりの意義。

 

二 シュトットガルト、一九一九年八月二二日

 授業の基としての、アントロポゾフィーの知にもとづく心理学。現代の心理学の、内容を欠いた <考え>。想うと欲するの中心的な意義。想いが像の特徴を有し、生まれる前のところの映し返しであること。意欲が死の後のこころと精神のリアリティの萌しであること。生まれる前のリアリティが想いになりかわるのは、アンチパシーによってで、その力が嵩じ、憶える力、<考え> となること。欲するのシンパシックな力が嵩じ、ファンタジー、イマジネーションとなること。血液と神経。神経の、物質になろうとする向き、血液の、精神になろうとする向き。脳、脊髄、交感神経でのシンパシーとアンチパシーの混じり合い。人の三分節、頭であるところ、胸であるところ、手足であるところ。三つの節の働き交わしと、そのそれぞれとコスモスのかかわり。教育における意欲の養いと想いの養い。

 

三 シュトットガルト、一九一九年八月二三日

 万有の法則を広やかに観ることも、教師であることの基であること。人というものを二つの節に分かつことが、今日の心理学の大きな間違いであること。エネルギー保存の法則が間違いにつながること。人において新たな力と素材がつくりなされること。自然のうち、分別でつかまれるのは、死しつつのところであり、なりつつのところが、意欲でつかまれること。<わたし> という感覚の基としてのからだ。感官から自由な考えるのうちの自由のひととき。人がいなかったら、自然が死するであろうこと。地の繰り出しにとっての、人の亡骸の酵素機能。死をもたらす力が、(死した) 骨のシステムと (死しつつの) 神経のシステムに司どり、生命を与える力が、血液のシステムと筋肉のシステムに司ること。佝僂病について。骨が「幾何をする」こと。幾何がコスモスの動きの映りであること。世を見遣る者でなく、世の「現場」としての人。血液と神経が触れ合うにより、素材と力が新たに汲まれること。科学の方法。なにもかもを定義する代わりに、公準をたてること。

 

四 シュトットガルト、一九一九年八月二五日

 意欲との重なりにおける情。欲するものとしての九分節の人。いちいちの節における意欲のかたち、からだでは、本能としてフィジカルなからだのうちに、もよおしとしてエーテルのからだのうちに、慾として感覚のからだのうちに、こころでは、意欲が <わたし> に取り込まれ、動機として、精神では、萌しながらも、願いとして精神みずからのうちに、意図として生命の精神のうちに、つもりとして精神の人のうちに。分析心理学が、わたしたちのうちの「もうひとりの人」の、意識されない意欲を探ること。老いた意欲としての知性主義、なりつつの意欲としての情。社会主義の教育。意識してする繰り返しによって意欲が耕され、つもりの力が高まること。そのかかわりで芸術の練習の意義。

 

五 シュトットガルト、一九一九年八月二六日

 こころの三つの働きが注ぎ合うこと。知に沿うところと意欲に沿うところのつながり、視るというアクトでのアンチパシックなプロセスとシンパシックなプロセスのつながり。人は動物よりも周りの世から括れていること。考えると欲するが通い合うこと。観るで世から括れ、ふるまうで世とつながること。動物的で「シンパシックな」本能との戦いが、モラルの理想を組み入れるによってなされること。こころの働きと働きの注ぎ合い、人の、客に沿った判断の技量を巡るブレンターノとジグヴァルトの論争を例に。情が抑えられた知であり、抑えられた意欲であること。欲すると考えるのうちに潜むシンパシーとアンチパシーの顕れ。情がからだであるところに生じるのは、血液と神経が触れ合うによってであること、目と耳を例に。音楽を聴くでの知と情を巡るワーグナーとハンスリックの争い。今日の心理学の弊害、感官の教えを例に。カント主義の間違い。

 

六 シュトットガルト、一九一九年八月二七日

 コースの節分け。人をここまではこころの視点から、終りにはからだの視点から、そしていまからは精神の視点から見てとること。意識のありよう。考えつつ知るは、まるまる意識される・目覚めての働き、感じるは、半ば意識される・夢みつつでの働き、欲するは、意識されない・眠りつつでの働き。夢みがちの子および鈍い子とのつきあい。<わたし> がすっかり目覚めて生きるのは、世の像においてのみ、現実の世ではそうはいかないこと。<わたし> がこころの働きのうちに生きるのは、像をもって目覚め、考えつつ知るのうちにであり、夢みつつ、かつ意識されないインスピレーションとともに、感じるのうちにであり、眠りつつ、かつ意識されないイントゥイションをもって、欲するのうちにであること。悪夢について。イントゥイションが昇り来ること、ゲーテの『ファウスト、第二部』の創作を例に。像をもって知るには、イントゥイティブな欲するが、インスパイアーされる感じるよりも近しく重なること。眠りつつの欲するから頭が引き離されていること。

 

七 シュトットガルト、一九一九年八月二八日

 精神の視野における人、意識のありようを見てとること。とらえるということについて。精神であるところをからだであることのうちに受け入れる力が、年をとるとともに失せること。子どもの感じつつ欲するから、老人の感じつつ考えるへ。大人については、まぎれなくこころであるところが見られること。自由のひととき。感じるを欲するから解き放つことが、教育の課題であること。感覚というもの、今日の心理学の間違った見解、モーリッツ・ベネディクトの真っ当な知。感官の域としての、からだの表側の眠りつつ・夢みつつの自然。感官による感覚の、意欲の趣であり、情に沿いつつの自然。子どもの感覚と老人の感覚の違い。人の空間的なつくりのうちの、目覚める、夢みる、眠る、すなわち眠りつつ・夢みつつの周辺と内側、そのあいだに神経のシステムがあること。神経とこころ・精神であるところとの重なり、すなわち、こころ・精神であるところに向けて、弛まず死しつつのところにより、空 (から) の空間がつくりなされること。人の時間的であるところとの重なりでの、眠る、目覚める、すなわち忘れる、想い起こす。

 

八 シュトットガルト、一九一九年八月二九日

 忘れる、想い起こすを、眠る、目覚めると比べること、睡眠障害を例に。想い起こすということ。想い起こす力と、意欲が教育されるのは、習いであるところに働きかけるによってであること。憶える力が強まるのは、集中的な関心を呼び覚ますによってであること。人の自然を一面で節分けしてつかみ、もう一面でまとめて観ること。十二の感官。<わたし> の感官、他の人の <わたし> を覚える (知のプロセス) と、みずからの <わたし> を覚える (意欲のプロセス) の違い。考えの感官。感官を十二の節に分かつこと、意欲の感官として、触覚、生の感官、動きの感官、バランスの感官、情の感官として、嗅覚、味覚、視覚、熱覚、知の感官として、<わたし> の感官、考えの感官、聴覚、言語の感官。世が十二の感官によって切り分けられ、判断するでまたつなぎあわされること。精神を、意識のありよう (目覚める、夢みる、眠る) で、こころであるところを、生命のありよう (シンパシー、アンチパシー) で、からだを、形のありよう (球の形、月の形、線の形) でつかむこと。

 

九 シュトットガルト、一九一九年八月三〇日

 はじめの三つの七年。論理的に考えるの三つの節、結び、判断、<考え>。結びが健康に生きるのは、まるまる目覚めた生のうちであり、判断が夢みるこころへ、<考え> が眠るこころへと降りること。こころの習慣が養われるのは、判断するの趣によってであること。眠るこころへと降りる <考え> が、からだのつくりに働きかけること、ことに今日の一様な顔立ちは、その働きかけによること。生きた <考え> が欠かせないこと。定義する代わりに、ことを述べるということ。動きゆく <考え> と固まった <考え>。人というイデーを築き上げていくということ。子どもの意識されない基の気分、はじめの七年での「世は善く」、よって倣うに値するとの気分、それは生まれる前の、過ぎ去ったことの志であり、二つ目の七年での「世は美しい」、芸術のうちに生きること、いまを楽しむこと、三つ目の七年での、素地としての「世はまことなり」、科学的な授業、これからへの志。

 

十 シュトットガルト、一九一九年九月一日

 球の形がからだの三つの節のいずれのもとにもあること、一、頭 (ただなるからだ) では、球がまるまる見えており、二、胸 (からだ、こころ) では、月の形、球の片割れだけが見えており、三、手足 (からだ、こころ、精神) では、輻だけが見えていること。世の知性と意欲の顕れとしての頭と手足、それとのかかわりで管状の骨と器状の骨。つくりかえられた脊椎としての頭の骨。裏返された頭の骨としての管状の骨。頭の中心、胸の中心、手足の中心。世の動きとの重なりでの頭と手足。世の動きに倣うことが踊りにおいてなされ、音楽に移されること。感官による感覚の源と、彫塑的芸術と音楽的芸術のかかわりの源。頭の球、胸の球、手足の球との重なりにおける、からだ、こころ、精神。八六九年の公会議、カトリック教会が自然科学の物質主義を引き起こしたこと。頭が動物の世から育ってきたこと。人と万有のかかわりについての情の、教師にとっての意義。芸術としての教育。

 

十一 シュトットガルト、一九一九年九月二日

 こころ・精神の世との重なりにおける人のからだ、頭では、すっかりつくりなされたからだ、夢みるこころであるところ、眠る精神であるところ、胸では、からだ・こころであるところが目覚め、精神であるところが眠ること、手足では、まだすっかりはつくりなされていない、からだ・こころ・精神であるところが目覚めていること。そのパースペクティブからの教育の課題、手足の人と、胸の人のひとところを育てること。幼児期における言語 (「言語のゲニウス」) の教育的な働きかけ、乳児期における母乳 (「自然のゲニウス」) の教育的な働きかけ、すなわち人の眠る精神を呼び覚ますこと。教育が子どもの発育の力に及ぼす影響、憶える力を使わせすぎることで、発育が急き立てられ、ファンタジーを使わせすぎることで、発育が阻まれること。教師が学年から学年を通して、子どものかたらだの育ちを覚えることが欠かせないこと、学年ごとに教師が替わることの無意味さ。憶える力の子とファンタジーの子。

 

十二 シュトットガルト、一九一九年九月三日

 フィジカルなからだと周りの世との重なり合い。人のからだの構え、頭から発する動物の形が、胸のシステムと手足のシステムによって弛まず凌がれること、そのことの相関としての考え。胴のシステムが植物界に重なること。人の呼吸が植物の同化作用の逆のプロセスであること。人のうちに植物であるところが繰り出すことが、病気の因であること。すべての病気の像としての植物の世。人の栄養のプロセスが、植物において捗る燃焼のプロセスの中間部であること。植物のプロセスのアンチとしての呼吸。呼吸と栄養のつながりが、からだであるところとこころであるところのつながりであること。これからの医学と衛生の課題、今日の医学が細菌を探し出すこと。手足のシステムが鉱物であるところに重なること。鉱物が手足のシステムによって弛ます融解されること。糖尿病や痛風のような病気が、体における結晶化のプロセスのはじまりであること。<わたし> が力のからだにおいて生きること。

 

十三 シュトットガルト、一九一九年九月四日

 手足の人のつくり (外から内へ) の逆が、頭の人のつくり (内から外へ) であること。人がこころ・精神であるところを「堰きとめる装置」であり、精神・こころのプロセスを吸い込みつつであること。余分な物質 (脂肪) が胸・腹のシステムで生み出され、それが手足のシステムに働きかけるこころ・精神であるところによって費やされること。精神・こころであるところが頭でわだかまり、神経の路に沿って「折り返す」こと。生きた・オーガニックなところが精神を通さず、骨・神経のフィジカルで・死んだところが精神を通すこと。体での仕事で精神の働きが過分になり、精神での仕事で体の働きが過分になること。意味を抜きにした働きと意味に満ちた外側の働き、それが眠りに働き及ぶこと、そのかかわりでの体操とオイリュトミー。「実践的なダーウィニズム」としての、スポーツの過度な動き。「試験前の一夜漬け」の無意味さ。考える働きの健康な趣と不健康な趣。教育的で・社会的なところが、仕事に精神を通わせるによって、外へ、教育的で・衛生的なところが、仕事に血を通わせるによって、内へ。

 

十四 シュトットガルト、一九一九年九月五日

 からだの三分節。頭の三分節、頭における頭であるところ、胸であるところ (メタモルフォーゼした肺としての鼻)、手足であるところ (口)。メタモルフォーゼした顎としての手足。頭と手足のあいだの胸・胴のシステム。胸の自然の上の方が、細やかな頭のつくりなしの発端 (喉頭と言語) であり、胸の自然の下の方が、粗い手足のつくりなしの発端 (性ということ) であること。小中学校高学年では教える題材をもってファンタジーに訴えること、ピタゴラスの定理を例に。教師の生の条件、教える題材を情に沿った意欲をもって貫き、ファンタジーをいきいきと保つこと。アンモラルとしてのペダンテリー。教育にファンタジーを用いることについての、十九世紀の見解。シェリング。教育のモットーとして、ファンタジー、まことへの感官、責任の情。

 

付録 「自由ワルドルフ学校の開校式における挨拶から マリー・シュタイナーの序とともに

 

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