· 

略伝自由の哲学第一章③

 では、はじまりの問いにおける「精神の自由」は、どうでしょうか。

 そもそも、「ただの自然法則」というのは、ただの考えです。そのただの考えをはじめ、もろもろの考え、想い、知識が、人を縛りもします。いゃ、こちらが人を縛ることでは、自然が人を強いるよりも、輪をかけてはなはだしいものがあり ます 。「おまえは、そもそもどういうつもりなのだ」と、たとえば親から意見されて、みずから、その「つもり」に気がついたりします。いつのまにか、その「つもり」をもっていたことに、振る舞った後から、はっきりと目覚める、といったらいいでしょうか。そのように、うすうすの「つもり」という形をとった考えに、ハマリングの説が引かれることで、光が当てられます。(「つもり」に当たるのは Entschlussであり、schliessen〈結び〉ent〈取る〉というつくりの entschliessen から来て、「こころを決めること」ないしは「決められたこころ」 を意味します。ついでにお尋ねしますが、「つもり」は「つもる」という動詞から来るのでしょうか。もしそうだとすると、「つもる」とは、そもそもなにごとをいうのでしょうか。どなたか、知っていたら教えてください。)

 「想い」も、それとはなしの「はからい」という形で人を縛ることがあります。 そのことに、レの説を引くことで、意識が向けられます 。(「想い」に当たるのは Vorstellungであり、vor〈前に〉stellen〈立てる〉という語から来て、「想い浮かべること」ないし「想い浮かべられたもの」を意味します。なお、「想」の字を当てているのは、いうところの「想い」が「相をそなえた考え」であることからです。)

 いわんとするところは、想い込み、想い過ごし、なんとかのひとつおぼえなど、いわば、知ってはいても、ついつい仇となる「わけがら」です。読み手のわたしにも、振り返れば、にがにがしく想い当たるふしが多々あります。また、想い当たらずに、笑い物になっていたり、顰蹙をかっていたり、「わけがわからん」と怒りをかっていたりすることも、けっこうありそうです。(「わけ」に当たるのは Motivであり、いわば、振る舞いを導く考え、ないし想いです。)

 しかし、これまでのことを悔やんでばかりいても仕方がありません。 これからに目を向けましょう。はずみ、つきあげ、こころの素地が人を強いるのは、いわば光が及ばなくてですが、考え、想い、知識が人を縛るのは、いわば光から目が逸らされてです。いうところの目は、こころの目であり、人がそそごうとしてそそぐ意識のことです。人は、こころを決めよううとして決めもしますし、はからおうとしてはからいもします。そこでは、つもりが明らかにそれと意識され、はからいが確かにそれと知られています。そのわけを分かとうとすれば、分かつこ とができます。そして、それらのことは、いずれも「考える」からのことです。よって、つまるところ、こういう問いに行き着きます。

 

こと考えるが、どういうことであるかを、知ればこそ、また、考えるが、人の振る舞いに、どういう役を演じるかも、明らかにしやすくなろう。「こと考えるが、 獣ともどもに授かれるこころを、精神に仕立てる。」これは、ヘーゲルで、しかりだ。ならば、また、考えるは、人の振る舞いに、人ならではの彫琢を与えよう。

 

 問いは、すなわち、「考える」がどういうことであるかであり、「考える」が「振る舞う」にどうかかわるかです。いかがでしょうか、ここまでに述べてきたことに限ってみても、「考える」は、なんとも大いなることをなしとげていますし、し でかしています。そして、いうところの精神は、少なくても、考えることの通うこころ、ないし、そのこころに宿るもの(知識、想い、考え、意識の明るみ、輝き・・・)です。そして、人が、その人の振る舞いを、その人ならではに磨くのは、精神からです。(「彫琢」に当たるのは Geprageであり、pragen〈鋳造する〉  から来て、いわば切磋琢磨されてあるありようを言います。人の振る舞いも、その人ならではに磨かれて、あかぬけするものです。 そして、 オイリュトミーも,

人のする振る舞いです。)

次に続く