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略伝自由の哲学第一章⑥

 ここにおいて、すなわち、ういういしいこころにおいて、いまひとたび、はじまりの問いを据えてみましょう。

 

人は考えると振る舞うにおいて精神の自由な者であるか、それとも、ただの自然法則の、かたくなな必然に強いられつつであるか。

 

じつに意識的な問いではありませんか。先にいうとおり、その「と」という間合いにおいて、人が、後先を結んでこそ、人であります。それに加えて、(かなり先取りしていうことになりますが)こうも言うことができます。その「それとも」という間合いにおいて、人が、後先を分かちつつ、はからいつつ、こころを決めつつ、身をもって選んでこそ、なおさらに人となります。その間合いは、秘めやかな間合いでありえます。見た目には短くても、輝く考えと自由な(まさにその人からの)意欲をとりなす要でありえます。そして、なおさら人となることは、なおさら自由になることです。

 その間合いが、秘めやかに息づくとき、そこには、きっと、愛と名づけられるものが湛えられています。そもそも、自由と愛は手に手をとって来たります。「考えは情けの父なり」にならっていうなら、情けは考えの子であり、意欲は情けの母です。すなわち、自由な意欲が、輝く考えを宿して(取り込んで)、愛する情を育みます。そもそも、自由も愛も、まずは理想という想いです。なお、そのことが、ことに八、九、十章にかけて、精神の側を昇りながら述べられます。

 そのとおり、「問う」は、章を通してものをいう形であり、まさに意識的なこころに適った形です。「意識して人の振る舞う」という、はじめの章のタイトルも、そのことを高らかにうたっていましょう。問いは、疑いとは異なります。疑いに

苛まれますが、問いには苛まれません。つまり、問いが問いとして明らかに確かに抱かれる(取り込まれる)ほど、問いに苛まれることがなくなります。その明らかさは、意識の他ではありません。その確かさは、想いの確かさです。そのことが、ことに五、六、七章にかけて、精神の側を降りながら述べられます。

 そして、答えは、問うことへとやって来ます。かの輝きから、明らかに、ありありとです。逆に、問いが立っていなければ、なにごとも答えにはなりません。自由を巡る問いは、なおさらです。その問いに、他の人から答えてもらっても仕方がありません。ことは、ほかでもなく、その人の身の上のことですから。果ては、身をもって生き、身をもって振る舞うことまでが、そのまま答えです。そのことが、十一、十二、十三、十四章にかけて、基の側を昇りながら扱われます。

 さらには、問う問わないまでもが、それぞれの身に任されます。はじめの章のお終いには、こうあります。

 

わたしたちは、ことがらを欲するとおりに掴むことを好む。そして、きっと、いやましに明らかになろうことだが、人が振る舞うということをこととして問うは、もうひとつの問い、考えるということのみなもとへの問いを、前もって据える。そこから、わたしは、まずもって、その問に向かおう。

 

まずは、身勝手な好みからでも、ことが起こされていれば、とつおいつ、ことの明るみが訪れます。とにもかくにも、わたしたちは、繰り返し、想いを新たにするものです。ことがらも、わけがらも、それにつれて、たわわに富み、みずみずしく深まります。そして、その富みと深みのもとに、「考える」があります。じつに遍く広いことではありませんか、それは。なお、それが、ことにこのはじまりの一章から二、三、四章にかけて、基の側を降りながら述べられます。(「好む」はmogen、「きっと」はmussen、「向かおう」の「う」はwollenの訳です。英語のmay,must,willに当たります。情、知、意という、こころの働きないし趣を指す助動詞です。すなわち、必然は、考えられるところであり、まこと考えられた必然から、欲することへと自由が及び、感じることへと愛が及びます。さらに言うなら、ここでの「きっと」は、きっと、時代の必然です。)

 いかがでしょうか。ここまで読んできて、「わたしは、その問いに向かおう」というように、意識をもってういういしく言えるとしたら、まさしく幸いです。よしんば、なんとなく読みはじめていても、あるいは、先の例の「どれどれ、ひとつ・・・」という、いわば意地悪な好みから、読むことを選んでいても、ことは、遅かれ早かれ、明るみ、富み、深まって引き続きます。人が、道を行きつ戻りつ、こころを降りつ昇りつするにおいてです。つまりは、人が引き続き「考える」においてです。「自由の哲学」のサプタイトルに「自然科学の方法に沿うこころの所見」とあるのは、その昇り降りを意識的にすることを言いましょう。それは、自然科学が自然のもろもろに光を当てて、その法則をあかるめるのと変わりありません。(「見」に当たるのは、Beobachtungであり、まずは「意識を向ける」ことであり、さらには「目をかけ、愛で、尊ぶ」ことです。)

 そのとおり、「自由の哲学」においては、ことに動詞がものをいいます。いわば、動きを指すことばです。その動きは、まずもってこころの動きであり、人が意識してするこころの働きです。そして、先にみたとおり、接続詞も、秘めやかな動きを湛えることになります。はては、名詞さえも、動詞のごとくです。そのとおり、「自由の哲学」におけることばは、まずもって、こころの動きを指す基ですが、やがては、こころと精神を宿す器でもありうることばです。そして、そもそも、ことばは、その二つの向きにおいて用いられて、いよいよことばです。

 「こととい」ということばもありますが、お終いに、ゆかしいことばを引きます。いまを意識することに向けてです。

 

 

こころの乞食は、幸いなり

 

こころの乞食(ほかい)というのは、こころの糧を乞うことを意味するとして、かつては、おそらく、なによりも祈ることを指していたでしょうが、いまは、そして、これからは、なによりも問うことを指すはずです。ここにいう精神は、まがいようもなくこころの糧です。それは、ういういしいこころへと来たります。わたしたちは、分別をもってしても、もうそれだけでは、ういういしいこころになりがたいものです。いくら情報を仕入れても、からだを鍛えても、その尻から、こころは飢えて干からびます。いまは、まさしく意識的に問う、もしくは問いを明らかに確かに抱くという形において、こころがういういしく糧を得て、みずみずしく蘇ります。その「いま」を、「自由の哲学」のもうひとつのサプタイトルは、ありのままに、また願い込めて、指していましょう。「ひとつの現代的世界観」が、そのサブタイトルです。そして、想うに、「ひとつ」は、人それぞれ、持ち場において、手だてにおいて、さまざまに現代的であるなかの「ひとつ」であり、また、さまざまに現代的でありうるなかの「ひとつ」です。