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略伝自由の哲学第二章①

 はじめの章を受けて、この二つ目の章は「知識もといへの基のもよおし」と題されます。そして題のとおり、この章でのことは、問い、学び、知るということを促す基へと降りてみることであり、そのことをもって、考えるということのみなもとへと遡ってみることです。

 人は、知ろうとし、考えようとします。知ろうとするも、考えようとするも、人のする働きであり、広い意味では振る舞いですが、その振る舞いおもむきの基は、いかなる趣でしょうか。

 いや、べつだん考えようなどとはしないという人、ことさら知ろうなどとは思わないという人があるかもしれませんが、それでもかまいません。むしろ、そのほうがかえっていいくらいです。なにしろ、その人が、そう言えるのも、そう知っているからであり、そう考えるところからです。まさにその基は、いかがでしょうか。(「基のもよおし」に当たるドイツ語はGrundtrieb です。Grundについては、すでにふれました。Trieb は、treiben〈駆る〉から来て、外に萌えいづる「新芽」や「若枝」、および内に萌す「むらむら」や「じわじわ」の働きを指します。それは、わたしたちが「もって基とする」まえに、わたしたちにとって「おのずからある」もしくは「与えられてある」ところ、すなわち所与であり、その意味において、生命現象であり、自然に属します。)

はじめの段から引きます。

 

ひともとの木を、ふたたび見やる。ひとたびは枝が憩い、ひとたびは枝が揺らぐのを、目にする。わたしたちは、その見てとるをもっては、満ちたりない。なぜ、ひとたびは憩い、ひとたびは揺らぐかと、わたしたちは問う。自然へのいちいちのまなざしが、わたしたちのうちに、ひとくさりの問いを産みだす。迎える現象のいちいちとともに、ひとつの課題がわたしたちに与えられている。生きることのいちいちが、わたしたちにとって、謎となる。卵から孵る生き物が、卵を生んだ生き物に似る。わたしたちは、それを目にして、そう似ることの基を問う。生き物が、育ち、長じ、それなりのほどになりてなる。わたしたちは、それを見て、そうなる上の条件を探る。およそ自然が感官のまえに繰り広げるところをもっては満たされないのが、わたしたちだ。わたしたちは、いたるところにおいて、ことごとの説き明かしを求める。

 

「ひとたび」「ひとたび」「いちいち」「なぜ」の繰り返し、目まぐるしく、動きのある、ひとくだりです。「見やる」「目にする」「迎える」から

「問う」「探る」「求める」が促されます。その向きは、「自然(現象)」と「感官」との織りなしあいから「説き明かし」への向きであり、意識の上

からいえば、暗がりから明るみへの向きです。(「感官」に当たるドイツ語はSinnであり、主としてからだの目や耳などのことです。「感覚」という語には、「金銭感覚」や「時代感覚」といった使い方からも分かるとおり、含みが多すぎますし、「五感」という語では、ものたりませんので、ひとまず、しぶしぶですが「感官」という語を使います。また、「説き明かし」に当たるのはErklärungであり、klar 〈明らか〉から来て、「解明」「明言」の意です。)

 

人の求めるは、つねながら、世のこころおきなく与えるを上回る。要るということは、自然が、わたしたちに与える。が、それを満たすということは、自然が、わたしたちみずからのする働あずかきに任せる。たわわな恵みに、わたしたちは与るも、なおさらたわわなのが、わたしたちの欲りだ。飽くなきは、わたしたちの生まれつきと見える。その飽くなきのことさらなひとつの他ではなかろう、わたしたちの、知ることへのつきあげは。

 

ねんねんちぐしん念念馳求心ということばもあります。念念は刻一刻のことで、馳求心は馳せ求めるこころです。