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略伝自由の哲学第二章②

 はじめの段から引きます。

 

ひともとの木を、ふたたび見やる。ひとたびは枝が憩い、ひとたびは枝が揺らぐのを、目にする。わたしたちは、その見てとるをもっては、満ちたりない。なぜ、ひとたびは憩い、ひとたびは揺らぐかと、わたしたちは問う。自然へのいちいちのまなざしが、わたしたちのうちに、ひとくさりの問いを産みだす。迎える現象のいちいちとともに、ひとつの課題がわたしたちに与えられている。生きることのいちいちが、わたしたちにとって、謎となる。卵から孵る生き物が、卵を生んだ生き物に似る。わたしたちは、それを目にして、そう似ることの基を問う。生き物が、育ち、長じ、それなりのほどになりてなる。わたしたちは、それを見て、そうなる上の条件を探る。およそ自然が感官のまえに繰り広げるところをもっては満たされないのが、わたしたちだ。わたしたちは、いたるところにおいて、ことごとの説き明かしを求める。

 

 「ひとたび」「ひとたび」「いちいち」「なぜ」の繰り返し、目まぐるしく、動きのある、ひとくだりです。「見やる」「目にする」「迎える」から「問う」「探る」「求める」が促されます。その向きは、「自然(現象)」と「感官」との織りなしあいから「説き明かし」への向きであり、意識の上からいえば、暗がりから明るみへの向きです。(「感官」に当たるドイツ語はSinnであり、主としてからだの目や耳などのことです。「感覚」という語には、「金銭感覚」や「時代感覚」といった使い方からも分かるとおり、含みが多すぎますし、「五感」という語では、ものたりませんので、ひとまず、しぶしぶですが「感官」という語を使います。また、「説き明かし」に当たるのはErklarungであり、klar 〈明らか〉から来て、「解明」「明言」の意です。)

 

人の求めるは、つねながら、世のこころおきなく与えるを上回る。要るということは、自然が、わたしたちに与える。が、それを満たすということは、自然が、わたしたちみずからのする働きに任せる。たわわな恵みに、わたしたちは与るも、なおさらたわわなのが、わたしたちの欲りだ。飽くなきは、わたしたちの生まれつきと見える。その飽くなきのことさらなひとつの他ではなかろう、わたしたちの、知ることへのつきあげは。

 

 念念馳求心(ねんねんちぐしん)ということばもあります。念念は刻一刻のことで、馳求心は馳せ求めるこころです。いかがでしょうか。わたしたちのこころには、刻一刻、満ち足りずに、馳せ求める向きがあります。そして、知ることへのつきあげが、どちらかというと「馳せる」といってもいいような趣であり、(ん、なんだ、なんなの、ねえ、といった、こと に、な、に、ぬ、ね、の、の声において表立つ趣 でもあります)、かたや感官において与えられるところに与ることへの欲りが、「求める」といってもいいような趣です。そして、わたしたちが、それを 満たすことは、それに多かれ少なかれ気づくところから始まります。さほどに気づかれないままで出てくるそれは、出物、腫れ物、あくび、おくび、などなど、さほどかわるところがありま せん。(なお 「欲り」に当たるのは Begehren であり、「欲すること」さらには 「むさぽり」の 「ぼり」です。また 「つきあげ」に当たるのはDrangであり、いわば「(からだへの)さしせまり」です。)

 

一重(ひとえ)のなりたちをした者ではないのが、人である。

 

 人がとにもかくにも気づく人みずからは、知、情、意という三重のこころのなりたちにおいて、「馳せる」「求める」という二つの趣ないし向きないし働きに基づいています。(「なりたちをした」に当たるのはorganisiert であり、Organ〈組織〉〈器官〉からきて、いわば 「なりたたされてある」ことの意です。ちなみに 「なる」ということばも、いわば自然を重んずるところから使われましょう。なるほど、いまは濫りに用いられるきらいがありますが、それでもなお、その形は踏まえられています。また「一重 einheitlich」の「重」は、知、情、意がいわば重なりつつであることとの縁で選びました。)

 実をいうと、ここまでは、やや趣向をこらして、はじめの段を後ろから前に辿ってみました。そして、章のはじまりには、モットーとして、ゲーテのファウストのせりふが掲げられています。はじめの段に述べられていることは、

 

深く人の自然に基づく人ならではのこと

 

として、そのせりふと一つに重なりあいます。

 

ふたつのこころが住むなり、わが胸には

ひとつがひとつより別れんとす

ひとつの、しぶとく愛し求め

この世になずみ、鎖(つが)り

ひとつの、たけく塵を去り

高きさきつ親の境に馳せる

(ファウスト Ⅰ, 1112-1117)

 

「愛する」「求める」「なずむ」「鎖る」働きは、迎える(シンパシックな)向きであり、ことに意の趣として、感官としてのからだにおいて、さらには手足の動きようにおいて気づかれます。とにかく、鼻は、いやな臭いをも拒みませんし、耳は、うるさい音をも退けませんし・・・。かたや「去る」「馳せる」働きは、向かう(アンチパシックな)向きであり、ことに知の趣として、頭の佇まいにおいて気づかれます。そして、人のこころは、向かう向きと迎える向きが、まずは「別れる」こころであり、その別れのさまざまなダイナミズムが、ことに情の趣として、胸の脈打ちと息づかいにおいて気づかれます。むむ・・・も−・・・め、といった、ことに、ま、み、む、め、もの声においても、あらわです。そして、人が、二つの向きに気づくところから、する働きをしはじめます。言い換えれば、人が、人におのずからある趣ないし向きないし働きを、人のものとしてもつところから、それを、する働きの基として用いはじめます。さらに言い換えると、人が、念念馳求心を、わずかなりとも歇得しはじめて、道を歩みだします。(「働き」に当たるのはWirkenであり、「する働き」に当たるのはTatigkeitです。いわば自発と作為の対、もしくは「なる」と「する」の対です。なお「さきつ親」に当たるのはAhnenであり、「先祖」ないし 「父」、今風にいえば 「過去」ないし「昔」です。そのことも、大いなる謎ですが、まずは続きをお読みください。その続きのさきにおいて明らかになることがらですので。)