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シュタイナー学校の芸術教育 あとがき

 

 鈴木さんのシュタイナー関連の最初の翻訳刊行物の「シュタイナー学校の芸術教育」

そのあとがきを、アップします。鈴木さんの翻訳は「自由の哲学」の初訳あたりでインパクトのある手法を用いられるようになりましたが、初回の翻訳本にあたるこの本でもその方向性が大きく現れていることが伺えます。

 一般的なテキストを読むということに加えてアクティブに読み手が読み解いていくことが不可欠なテキストということが、一般的なテキストを読むという流れの中で表現されています。

 始めて鈴木さんのテキストに出会う方にはとても参考になるテキストなのではと思ってアップします。

 

 あとがき

 

 「感覚的・超感覚的」の用例について、簡単に補足します。

 本書の用例で「感覚的」(sinnlich)は、主に五感などの物質的な刺激、物理的な知覚にかかわる事柄をいいます。眼は光を、耳は音をという類の「感覚」です。

 ところで私たちの日常の用例で、「ここは誰々のようにギンギラギンの感覚で」というときの感覚、「雰囲気を感じる」という感じは「感覚」に密着しているという意味で感性的ですが、すでに「感覚」を超えた側面をもちます。

 あるいは金銭感覚!現実的といえばあまりに現実的な感覚ですが、感覚といっても金銭そのもの―—金属か紙です―—の「感覚」であるより、節約のつぼをさぐる、かぎあてる、見出す、という意味では感性的ですが、その半面、節約のつぼ、儲けどころ、使い道という意味で理性的です。いわば理念・精神の側面を色濃くもっています。

 感覚が「感覚的」でないとは、ちぐはぐな感じもしますが、二つの用例には、本書を読むうえで決定的な差異のあることをお断りしておきます。

 ギンギラギンの感覚や金銭感覚は、いうまでもなく、五感に類するひとつの「感覚」として、それと同列に扱うことはできません。しかしその「感覚」を一方の極とする知覚・認識の動的な特徴については、何がしかを語っています。

 たとえば金銭感覚に、もし理念・精神の側面が希薄になってくれば、同時に現実性もうすれてきます。かといって財布の重さの「感覚」を伴わなければ、同じく現実的ではありません。逆にまた札束の感触となれば、理念・精神の側面がなおのこと明晰で確かでないと、超現実的な異次元さえただよいかねません。いわば事柄に即した理念・精神をめぐるプロセス、物質ないし「感党」の側と理念・精神の側の間に、絶えざる均衡の過程が繰り広がります。

 私たちの知覚・認識とは、およそ理念・精神の側面がついてまわります。限りなく物質的な「感覚」に基をおこうとする科学にあっても、その「感覚」をきもとに分析・抽出される法則は、すでに思考を介した理念・精神のひとつの様態でもあります。科学の法則との対で、芸術に息づく法則性を「やわらかな法則」と呼んだ例が本書にあります(132ベージ)。それにならって言えば、科学と芸術に代表される理念・精神の様態をさらに静的と動的、抽象的と具体的というように特徴づけてもいいと思います。体験にそくしていうと、後者はそのたびに新たに生きてみなければ、どこかしらわからないところが残ります。

 ついでに言えば、芸術に代表される理念・精神の様態、つまりファンタジーはいっけんして感性的ですが、その意識性において科学の理性におとらない明晰さ、厳密さをそなえます。少なくともそなえることが可能です。また感覚の対象との間の内的な距離において、自由の余地があります。

 本書の用例で「感覚的・超感覚的」は知覚・認識の対極性です。知覚・認識の対象に視点をおけば「物質的・精神的」の語がそれに相応しています。あるいは「外的・内的」「地上的・宇宙的」の語もみえます。私たちの知覚・認識は、物質と理念・精神の均衡のいかんに応じて、つまり理念・精神の様態に応じて、「感覚的」な極と「超感覚」の極の間に繰り広がります。これもゲーテの認識の流儀から読みとれる全体性の理念です。彼はそこから事物・事象に「現象」(Phanomen, Erscheinung, Offenbarung)の語を用いています。それは事物・事象に事物・事象そのものの理念が知覚しうるという可能性の表現です。また、その時点に立ったところからすれば(たとえば植物のメタモルフォーゼの認識を考えてください)理念・精神の現れが事物・事象であり、事物・事象として現象するのは理念・精神であるといえるようなひとつの現実を、ありのままに呼んだ名称とも考えられます。

 このことをゲーテはまた「現れた秘密」(das offenbare Geheimnis)「公けの秘密」(das Offentlich Geheimnis)とも言っています。そもそもの語の矛盾です。しかし主体的な私の知覚・認識のプロセスにおいて、事物・事象すなわち世界は、現に現れていながらも依然として秘密であり、常に新たな姿を現すという事情を簡単に言ったことばと考えられます。

 なお本書の注139には、ゲーテの認識の理念と、そこから理念・精神の認識論的な基礎づけに向かうシュタイナーのかかわりが読みとれます。合わせて参照してください。

 また「感覚的・倫理的」の語も以上の関連のもとにあります。「倫理的」と訳しましたが、原語の”Sitte”は一般にその土地、その人に特徴的な習い、ならわし、風儀、風俗を指します。やや言いすぎになるかもしれませんが、気風、品格、ものごし、相貌、その人のその人たるところ、個性、あるいは風土、雰囲気、風趣、たたずまい、その物のその物らしさ、本性などの語をあげるとわかり易いかと思います。古い感じのただようことばが並びましたが、まとめて言いかえれば、外的、量的な知覚に還元できない―—還元すれば本質的な意味を失——質的な知覚、人物から事物にいたるまで知覚の対象がかもす独自で内的な特徴とでも言えるでしょうか。「世界の魂的なもの」の語も本書には見えます。

 

 訳すにあたっては、とりわけ第一部、第二部の訳に画家・大越礼子さんの協力をえました。また訳の草稿おもとに、試行錯誤でともに描いた日本シュタイナーハウスの水彩の会のメンバーの皆さんからも、訳文に具体性を期すうえで、大きな刺激を得ました。厚くお礼を申しそえます。

 1988年4月

鈴木一博