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略伝自由の哲学第二章③

 二つ目の段は、こうです。

 

わたしたちがものごとにおいて求める上澄み、ものごとにおいてじかに与えられているところを超えるところが、わたしたちのまるごとのものを、ふたところに分かつ。すなわち、わたしたちは、世と対し合うのを意識するようになる。わたしたちは、わたしたちを、ひとり立ちの者として起こし、世に対し合わせる。まるまるひとつが、わたしたちには、対し合うふたところと見える。〈わたし〉と世だ。

 

 右に述べられていることは、ことに朝の目覚めにおいて際立ちます。すなわち、そこにおいて、わりあい楽に見てとられましょう。

 たとえばですが、朝、ヒョイ・・・チョン・・・ヒョイ・・・チョン・・・というようなひびきがひびいています。雀です。どうやら、あちらとこちらで鳴き交わしています。いつものとおり、朝のはじめの鳴き交わしです。また、どうやら、相手がいないときには、一羽でそれをしているようでもあります。さらにまた、それは夏の朝の鳴きはじめです。秋になると・・・。つまり、そのようなプロセスにおいて、雀というものが、ものとなり、鳴くということが、こととなります。わたしの側からいうと、まずは、床の中で目が覚めます。というよりも、目を閉じたままのところに、意識の明るみが訪れます。その明るみに、ヒョイ・・・ チョン・・・の声が聞こえています。その明るみに与えられているところは、さしあたり、その声だけです。続いて、わたしは、雀との考えをもちます。それとともに、明るみが、確かになります。ただの明るみが、「上澄み」と「下の濁り(もしくは朧(おぼろな)な明るみ)」に別れます。確かな明るみは、上濫みの明るみです。それにつれて、わたしが、ヒョイ・・・チョン・・・の声に、なおさら「対し合う」ようになります。また、あちらに対し合い、こちらに対し合うこともできるようになります。いよいよもって、雀の「世」がむこうに、「〈わたし〉」がこちらにあるようになります。さらにまた、朝な朝な聞きつづけていると、もっと多くが聞き分けられるようにもなります。よって、いま、このとおり、「説き明かして」いる次第です。

 といっても、朝です。そういつまでも、雀に付き合っているわけにはまいりません。出かける時も迫ってきます。目を開き、頃合いをみはからって、えい、と床からからだを起こします。いわば、わたしにとっては、目覚めつつの、雀との付き合いが、こころを起こすことであり、そのままからだを起こすことのそなえでもあります(朝が弱いもので)。そして、そのように起こされたこころが、わたしのこころであり、そのように起こされたからだが、わたしのからだであります。ありがたいことに、からだも、こころも、起こせるように出来ています。もしくは、与えられています。つたない例ですが、そのようなプロセスが、朝の目覚めのプロセスであるのみか、秘めやかながらも、目覚めという目覚めのプロセスです。つまり、なにかににつけて意識の明るみが訪れるプロセスです。そして、その明るみにおいて〈わたし〉という精神としての「ひとり立ちの者」が、〈わたし〉のこころを起こし、〈わたし〉のからだを起こしながら、ものごとをものごととしていきます。いいかえれば、「わたしたちは世と対し合うのを意識するようになり」ます。(「まるまるひとつ」に当たるのはDas Universurnです。「万有」とも訳されますが、Uni〈ひとつ〉を引き立ててみました。それは、「わたしたちのまるごとひとつ」を呼ぶ名です。また、「〈わたし〉」に当たるのは、IchまたはDas Ich であり、ichという代名詞が普通名詞化された形です。その形のちがいを〈  〉を付して表すことにします〈わたし〉は、精神としての「ひとり立ちの者」を呼ぶ名です。逆に、わたしは、〈わたし〉のこころとからだをも含めての呼び名です。すなわち、わたしの身の立ちようは、〈わたし〉という精神の立ちようのおもかげです。もちろん〈わたし〉がいやなら、〈わし〉〈あたい〉〈おら〉〈おいら〉等であってもかまいませんが・・・。)