略伝自由の哲学第二章⑥

 ともかく、右にいう人の三重の勤しみのうち、考える者の勤しみが、広く見渡されます。すなわち、世と人について問い、学び、知るということが、「世の歴史」の上において、顧みられます。

 

 そして、そのことにも、人の三重のなりたちが映し出されています。すなわち、「一重に世を掴むこと、もしくは一元論と、二つの世の論、もしくは二元論との対し合いとして」です。( それとともに、また、信仰と知識〈ないし宗教と科学〉が対し合い、知識と実践〈ないし科学と芸術〉が対し合います。)

 そして、一重に世を掴むことも、二つの世を論じることも、対し合うかぎりは、人を満ちたらせることがありません。( それとともに、また、信仰も、知識も、さらに知識も、実践も、対し合うかぎりは、人を満ちたらせません。)

 

 「二つの世を論じる」というのは、まさに言いえて妙ですが、「精神と物質」「観と観」「思考と現象」など、そういうことばでいうところの二つを、おおもとから二つであるというようにとらえて、そのあいだを「仮説」によってとりもつことです。といっても、いわゆる哲学書や哲学辞典にあたるまでもありません。当のことは、そういうものに縁のない人のことでもあります。おそらくは、世のほとんどの人が、みずからを顧みるにおいても分かることです。ありきたりに言ってみるなら、わたしと世はもともと違うのだと考えて、そのあいだをかりそめに折り合わせることです。つまりは、とりつくろいですから、いわば太鼓持かかちのような虚しさを抱えることにもなります。(「二つの世を論じる」に当たるのはZweiweltentheorieであり、Zwei〈ふたつの〉Welten〈世の〉Theorie〈理論〉という三語から造られています。そして「論じる」も、人が考えをもってすることです。)

 

 「一重に世を掴む」というのは、いわゆる「唯物論」や「唯心論」のことです。が、仕切りは広く立てられています。これもありきたりに、日頃つねづねに引き寄せて言ってみるなら、右にいう対し合う二つのうち、どちらか一つを引き立てて、どちらか一つを見下すか、または二つがもともとひとつだとはなから決め込んでか、対し合っていることを取り合わないことであり、さらにはまた、あるときはこちら、あるときはあちら、のらりくらりと鶉(ぬえ)のように紛らわすことです。その「引き立て」にも、また「決め込み」にも、やはり無理があります。そして、無理が無理を招くことにもなります。また、無理があるぶん、鼻息も荒くなります。(「一重に世を掴む」に当たるのはeinheitliche Weltauffassungであり、einheitlich 〈単一の〉Welt〈世の〉Auffassung〈把握〉というなりたちです。そして「把握する(掴む )」も、人が考えをもってすることです。)

 

 わざと冷たく突き放したように言いましたが、実は、熱いこころゆえの突き放しです。いうところの二元論と一元論の対し合いは、今も引き続く、熱くて激しい争いでもあります。それを、またまたありきたりにいえば、知と情の対し合いです。そして、これまたゲー テの言うところですが、人は勤しむにおいて過(あやま)つものです。逆に、過つことのありうるところにこそ、まさに人が人として生きることもありえます。よって、勤しみの道は、葛藤の道でもあります。そして、葛藤を意識するかどうかに、人がいよいよ人であるかどうかが懸かります。葛藤を一概に避けていることは、人であることを避けていることでもあります。といっても、暴力の勧めではありません。なおさらに人であることの勧めです。念のため。