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略伝自由の哲学第二章⑦

さて、十、十一、十二の三段を、そのまま引きましょう。さきの、一、二、三の三段と、みごとに応じ合います。

 

 右の立場という立場に対して、きっと、このことがこととして立てられよう。わたしたちにとって、基の、かつ、おおもとの対し合いは、まずもって、わたしたちみずからの意識において出てくる。ほかならぬわたしたちが、わたしたちを、母の地、自然から解き放ち、わたしたちを、「〈わたし〉」として立てつつ「世」に対し合わせる。そのことを、古典的には、ゲーテが「自然」という文章において、あらわに語っている。たとえ、その趣が、さしあたりは、まったく非科学的だといわれようともだ。「わたしたちは、自然のさなかに生きるも、自然にとってよそ者だ。自然は、たゆまず、わたしたちと語らうも、みずからの秘め事を明かさない。」 はたまた、その逆の面も、ゲーテは知っている。「人は、みな、自然のうちにあり、自然は、人みなのうちにある。」

 まこと、わたしたちは、わたしたちを、自然によそよそしく仕立てた。同じくまこと、わたしたちは、このことを感じている。わたしたちは、自然のうちにあり、自然に属する。それは、まさに自然の働きでこそありうる。それが、わたしたちのうちにも生きる。

 わたしたちは、きっと、自然へと立ち返る道を、ふたたび見いだそう。ひとたび、こう重ねて考えても、その道が分かるだろう。わたしたちは、なるほど、わたしたちを、自然から引き離した。しかし、わたしたちは、きっと、なにがしかを、わたしたちみずからのものにおいて、ともに引き取っている。その、わたしたちにおける自然は、きっと、わたしたちが見つけよう。ならば、そのかかわりをも、ふたたび見いだそう。それをするのを、二元論は怠っている。その論は、人の内なるものを、ひとつの、自然によそよそしい精神のものと見なして、それを自然につなぎ合わせようとする。つなぎ目が見いだせないのも、あたりまえではないか。わたしたちが、外の自然を見いだしうるのも、まず内の自然を見いだしてからだ。わたしたちの内の、自然と同じものが、わたしたちの導き手となろう。そのことをもって、わたしたちの道が描かれている。わたしたちは、自然と精神の働き合いについて、いかなる思弁も押し立てまい。しかし、わたしたちみずからのものの深みへと降りよう。わたしたちが自然から離れるにおいて保ちきたった元手を、見いだすべくである。

 

 さきに、わたしたちは、知、情、意という人のこころの三重のなりたちから、〈わたし〉と世という二つの対し合い、そして、一つの 〈わたし〉 の意識、および、まるまるひとつの一つ、というように辿ってきました。そして、〈わたし〉の意識も、まるまるひとつのひとところです。そもそも、自然というのは、まるまるひとつのことです。わたしたちのものである精神もこころもからだも、まずはわたしたちにありあわせる(与えられてある )ところであり、まずは自然のひとところです。

 わたしたちは、自然のうちの、まず、わたしたちにありあわせる向きないし働きに気づき、それをもつことによって、わたしたちのする働きに仕立てます。そのことによって、わたしたちは自然から隔たります。わたしたちは、さらにまた、そう仕立てることをも、もつことをも、気づくことをも、なおさらな意識をもって賄うことができます。そのことによって、わたしたちは、ふたたび自然に近づきます。まさにここまで、読むプロセスにおいて、してきたとおりです。(なお「それは、自然の働きでこそありうる 」の「それ 」は、いわゆる非人称のesです。)

 その明るく確かな意識から、まさしく自然へと立ち返る道が、きっと、見つかります。ほかでもありません、さきに考えつつ見てとった、三、二、たわわになります。たとえば、「うち」が、わが社、わが家、わが身(「うちかて、あほや」とか)などを指すごとくです。

 さらに、〈わたし〉は、生きる道を、まこと道と知ることをとおして、まるまるひとつの大いさを取り込みつつ、広がるようになります。そのとおり、いわば、わたしの形も、する働きも、大きさも、〈わたし〉とまるまるひとつとの織りなしあいから決まります。(なお「ここでは、わたしたちが〈わたし〉である…」は、ファウストのせりふ「ここでは人が人であることを許される…」を受けていましょう。そして、そのせりふも、春の祝い、復活祭の折りにはかれています。)