お終いの段は、いわば念のための段です。いや、念のためのような形をとっていますが、これまた、いまなお熱く、これからも、きっと、熱かろうことの、一側面です。また、そのまま引きます。
覚悟のことだが、ここまで読んできて、わたしの論が「知識の現在的水準」にかなっていないと見るむきもあろう。それに対しては、こう応じるまでだ。わたしは、ここまでにおいて、科学の成果とはかかわろうとしていない。わたしは、だれもがみずからの意識において生きるところを、ただに述べるということにかかわろうとしている。意識を世に折り合わせる試みにつき、いちいちの説を交えているのも、ただただそもそものことをはっきりさせようとしてである。また「〈わたし〉」「精神」「世」「自然」といった、いちいちのことばも、心理学、哲学の習わしどおりきちんと使うことには、些かの重きも置いていない。日頃つねづねの意識は、科学がもつきっばりした違いを知らない。そして、ただ日頃つねづねのことのありようを受けて取るということが、ここまでのことである。要は、科学が、これまで、いかに意識を解釈してきたかでなく、意識が、そのつど、いかに生きてあるかである。
いまなお、世の哲学書や科学の本の多くは、「日頃つねづねの意識」を受け取りませんし、「だれもがみずからの意識において生きるところ」を取り合いません。つまりは人を生かしません。
(なお「覚悟」に当たるのはaufgefasst seinであり、auffassen〈上げて掴む〉の受け身の形です。そして、上げるは、わたしが迎える向きないし意欲の働きをもってする働きであり、掴むは、わたしが向かう向きないし「考える」働きをもってする働きであり、上げられて掴まれるのは、わたしの身〈こころとからだ〉です。また、「受け取る」に当たるのはAufnahmeであり、auf〈上げて〉nehmen〈取る〉から来ます。そして、「考える」働きについては、いよいよ次の章において詳しく述べられます。加えて、「ただに述べる」に当たるのはbloBe Beschreibungであり、いわば、ことがらをありのままに述べること、仮説や思弁や感想などをまじえないことです。述而不作〈述ベテ作ラズ〉ということばもあります。)
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さて、この回のお終いには、モットーのファウストのせりふをはじめ、そこここに見え隠れするちなゲーテに因んで、李白の「月下独酌」と題する詩を掲げます。引き合わせてみるのも一興でしょうから。
花間一壺酒 花間(かかん)一壺(いっこ)の酒
獨酌無相親 独り酌(く)んで相親しむもの無し
畢杯逸明月 杯(さかづき)を挙げて明月を邀(むか)え
對影成三人影 影に対して三人と成る
月既不解飲 月 既(すで)に飲を解せず
影徒隨我身 影 徒(いたずら)にわが身に随う
暫伴月將影 暫く月と影とを伴い
行楽須及春 行楽 須(すべか)らく春に及ぶべし