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略伝自由の哲学第三章a

 玉突きを見るとしよう。玉が突かれ、その動きを他の玉に伝える。見るわたしは、見られる

ことのなりゆきに、まったく影響を及ぼさない。後の玉の動く向きと速さが、先の玉の向きと速さを通して定まる。わたしが、みずからを、ただに見る者としている限り、後の玉の動きについてなにごとかが言えるのは、その動きが生じてからである。

 

 いきなり、玉突きのことから、三の章は起こされます。ことは、突かれて動く玉、それを見るわたし、そして、ただに見る者であろうとするわたしのことです。いきなりのようですが、すでに二の章とのかかわりがあらわです。「見る」は、迎える向きに沿ってすることです。「みずからを、ただに見る者とする」は、迎える向きに沿い、向かう向きを抑えることです。それは、密(ひそ)かながら、人のする働きです。人が、そう、みずからを持ちこたえるには、かなりの力を要します。どうぞ、アクテイプにお付き合い下さい。増して、これを読んでいれば、目の前に玉ではなく、活字があるまでですから、なおさらアクテイプに人がいあわせないと、埒があきません。(「みずからを、ただに見る者としている」に当たるのはmich bloss als ein Beobachter verhaltenです。bloss は「ただに」の意、beobachten〈見る〉については、はじめの回にふれました。そして、mich verhaltenは、いわば「みずからを抑えて保つ」ことです。くどい訳かもしれませんが、ことがらをふさわしく述べることになりますので、「みずから」を、そのまま残します。)

 

 そして、こう続きます。

 

 わたしが見るの内容を追って考えはじめると、ことがらが異なる。追って考えるは、ことについて考えをつくりあげるべくである。わたしは、弾む玉という考えを、他の考え、つまりは力学にいう考えと繋ぎ合わせ、また、ことにその場その時なりのもろもろをも計算のうちに入れる。わたしは、すなわち、わたしの及ぼす働きなしに繰り出すことに、もうひとつ、考えの域において生じることを付け足そうとする。そのもうひとつのことは、わたしに左右される。その証しに、わたしが見ることをもって満ち足りて、考えを求めることを、すっかりしないでいることもできる。つまり、それを求める気が起こらないときである。しかし、その気が起こっていると、わたしが、みずからを安らわせるのは、玉の形、硬さ、動き、ぶつかり、速さなどといった考えを、それなりに繋ぎ合わせてこそである。それにつれ、見られたことのなりゆきが定かなありようにおいで立つ。

 

 右に述べられていることは、ひとたび、向かう向きが起こったときのことです。その向きは、なるほど、抑えておくことができます。しかし、抑えていても、宥(なだ)まりはしません。なおも起こりつつであり、いつかは解き放たれなければなりません。しかし、ただ解き放たれるだけでも、宥まりはしません。その向きを宥めるには、わたしが及ぼす働きを要します。そこにおいて考えのプロセスが繰り出します。そして、そう、わたしがする働きを及ぼして、考えのプロセスが繰り出すことが、「追って考える」と呼ばれます。(「及ぼす働き」にあたるのは Zutunであり、zu 〈向けて〉tun〈する〉ということばの名詞化です。もちろん、それも二の章にいうTatigkeit〈する働き〉です。そして「追って考える」に当たるのは nachdenkenであり、nach〈後から〉denken〈考える〉というつくりです。あれれ、ややや、というように、いわば、いったん立ち止まって、そこから辿りなおす形での「考える」です。わたしたちのつねづねに使うことばでは、たとえばですが「考えてみる」というのが、それに当たると思います。そして、いわゆる科学は、その形での「考える」に基づいています。つまり、生じたことを巡って営まれます。なお、「定かな」にあたるのはbestimmtであり、bestimmen〈定める〉から来て、いわば「なんとなくではなく」「どっちつかずではない」ことです。)

 

 そして、右の二つのことをまとめながら、こう続きます。

 

 確かに、ことのなりゆきは、わたしに左右されずに生じる。同じく確かに、考えのプロセスは、わたしの及ぼす働きなしには繰り出さない。

 

 ここから二の段に入りますが、「確かに」というのは、見てとるから繰り出す情です。わたしが、みずからを見る者にしているにおいて、先のことを外に見てとり、後のことを内に見てとります。見てとられることは内外と違っても、わたしが見てとることに変わりはありません。そのことを、わたしは、まさに確かめることができます。もっとも、みずからを見る者とはしていないところ(ことに従来の哲学者)からは、いろいろと難癖がつくことになります。つまりは、パッシプに見てとるだけで、働きと、する働きとを、しっかり分かつことができないためです。しかし、まさにアクテイプに見てとるなら、もしくは、ここまでをアクテイプに読んでくれば、難癖のかわりに、こういう問いが立ちます。(なお、「生じる」にあたるのはsich vollziehen であり、「繰り出す」に当たるのはsich abspielen であり、ともに、自ずからのこととして、「働きWirken 」の内に入ります。)

 

 すなわち、その、難じる情からでなく、確かさの情から立つ問いは、こうです。

 

 わたしたちは、ひとつのことのなりゆきに向け、ひとつの考えの対を付け加えることとによって、なにを儲(もう)けるだろうか。

 

 そして、三の段です。いうところの儲けは、じつにすてきな儲けです。

 

 わたしにとって、ことのなりゆきの節々が互いにどのようであるかは、それなりの考えを見いだす前と後とで深くから異なる。ただに見るにおいては、ことのなりゆきの節々を、なりゆきのままに追うことができる。しかし、その節々のかかわりが、考えの助けを受ける前には、暗いままである。わたしは、玉がしかじかの向きと定かな速さをもって、もうひとつの玉へと転がりゆくのを目にする。そして、当たって生じることを、きっと、待ちうける。そしてまた、それをも目で追うことがきる。もしもだが、当たるその時、ことのなりゆく場を、誰かが覆い隠すとすると、わたしは —ただに見る者としてその後に生じることを知らないままである。しかし、わたしが、いちいちのありように向けて、覆い隠しの前から、それなりの考えを見いだしていると、違ってくる。その場合には、見ることができなくなっても、生じたことをそれと言うことができる。ひとつの、ただに見られたこと、もしくは対象は、ただそれだけでは、他のこと、もしくは対象とのかかわりについて、なにも告げ知らせない。そのかかわりは、見るに考えるが繋がり合えばこそ、見えるようになる。

 

 まずは、おしまいのことから、取り上げていきます。ものごとのかかわりが見えるようになるのは、わたしが、見ると考えるを繋ぎ合わせればこそです。そのことを見やすくするような例を、いくつかあげてみます。

 週刊誌を開くと、お楽しみ浮き出し絵とか題してあって、頁いっぱいに太めの線やら点やらで、わけのわからない模様が刷られています。それを六メートル離して見てくださいとあります。なんじゃらほい、この部屋で六メートルもとれるかいとかなんとか言いながらも、それを窓のところに立てかけて、後ずさりしてみると、あるところから、それがモナリザのほほえむ顔になっています。そこで、こんどは近づいていくと、あるところから、またわけのわからない模様に戻ります。モナリザのほほえむ顔が、いわば宙に浮いたままになります。しかしまた、それが週刊誌であるということは、遠ざかってみようと、近づいてみようと、宙には浮きません。宙に浮くどころか、いよいよ動かないこと、ほぐし難いことになります。

 地下鉄の駅の見取り図が、その駅の通路をちょくちょく通っていながらも、見た目に重なり合わないことがあります。この向きで歩いたら、あちらに出るはずなのに、こちらに出てしまう。ちょくちょくしくじってからは、あちらに出るように歩きはするものの、歩きながら、どうも向きが逆のような気がしてならない。見取り図は、ふさわしく描かれているはずだし、わたしも出るところには出られるものの、そのあいだのことが、定かでありません。言ってみれば、そのあいだの道すがらに、わたしにとって、目ぼしいものが欠けているせいです。いや、地下通路のせいにしてもはじまりません。わたしが、その道すがら見るものについては、考えないで歩いているせいです。

 大人たちが話に夢中になっていて、ふと、気づいてみると、子どもたちが隣の部屋に居いるはずなのに、静まり返っている。まぁ、お絵描きでもしているんだろうと思って、話が一段落してから隣を覗いてみると、子どもたちが壁や襖や障子やにお絵描きの真っ最中、「あらららら」「・・・」「あんたたち、なにやってんの」「・・・お絵描き」「だれ、これ、描いたのは」「・・・ぽく」「じゃ、これは」「わたし」「なんでなの」「・・・」「だれが描こうっていったの」・・・考えてみると、おかしなやりとりです。お絵描きでもしているんだろうと思っていたのですから、あれこれ問いたださなくてもよさそうなものですが、大人としては、ひとしきり、そういうやりとりをしてからでないと、手の打ちょうがなかったりします。また、それで、ついつい、子どもたちを叱りすぎてしまったりもします。

 おそまつな例はこのくらいにして、次には、少し立ち返ってみることにします。表立っては書かれていませんが、問いは、こうも立ちます。まさに密かな問いですが、ものごとのありようは、みずからを、待ちうける者にすることによっても、異なりはしないでしょうか。はじめて見るにおいて、ものごとが、風変わりで、ものめずらしいように、みずからを、待ちうける者とすることによって、ものごとが、ありありと、まあたらしくなりはしないでしょうか。そして、みずからを、待ちうける者にするには、いわば「先立って考える vorausdenken 」ことを要します。

 たとえば、どこそこのラーメン屋さんがうまいと聞き知って、その店先に長く並んで待つことのできる人には、そのラーメンが一はや口にする前からーなんぼかおいしいことでしょう。たとえば、子どもが育ち、人が育つことを待つことをしているときには、子どもの姿、人の姿が、まさにありありと、まあたらしいものです。いかがでしょうか。だれしも、なんらかの憶えがあるはずです。そして、憶えがあればあるほどに、もしくは育つということを知れば知るほどに・・・。(「ありよう」に当たるのはVerhaltnisseであり、「ことのなりゆきの節々が互いにどのようであるか」の「ある」に当たるのはsich verhaltenです。そして、それは、さらに先の「みずからを、ただに見る者としている」の「みずからを・・・している」に当たるmich verhalten と応じ合います。すなわち、見る者のありようと、見られるものごとのありように、同じ形のことばが使われています。右の問いは、その同じ形からも促されます。また「待ちうける」に当たるのはabwarten であり、ab〈離れて〉warten〈待つ〉というつくりで、「生じるのを待つ」「期して待つ」といった意です。もちろん、「期す」もしくは「先立って考える」ことがふさわしくないと、待ちぼうけをくったり、しっぺがえしをくらったり・・・。なお、そのことについては、十一章を待って詳しく述べられます。まずは「追って考える」ことが、どの限りでふさわしいか、それを問うのが、これまでのことからして本筋です。)

 

 先に進みましょう。四の段です。

 

 考えると見るは、人が精神において勤しむことのすべてにとって、ふたつながらの出発点である。もちろん、人がその勤しみをそれとして意識する限りにおいてである。ありきたりの人の分別が仕立てることごとも、いたって込み入った科学が探り究めることごとも、その、わたしたちの精神の、ふたつながらの基の柱を支えとする。哲学者たちが、さまざまなおおもとの対し合いから説を起こしている。理念と現実、主観と客観、現象と物自体、わたしとわたしならざるもの、表象と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などなど。しかし、このことは楽に見てとれよう。それらの対し合いのすべてに、きっと、見ると考えるが、人にとってなにより重きをなす対し合いとして先立つ。

 

 いうところの精神が、人のする働きとして、ぐんとリアルにひびけばなによりです。考えるは、人が、向かう向きをもってする働きであり、見るは、人が迎える向きをもってする働きです。考えるを、まさに考えるとし、見るを、まさに見るとするのは、精神としての人の他ではありません。そして、人が、見ると考えるのあいだの「と」において立つところから、勤しみはじめます。その勤しみが、さらに引き続き見ると考えるの、ふたつながらの柱によって支えられます。なお、いうところの「考える Denken」は、想、思、惟、念、憶など、さまざまな形ないし定かさでありますし、いうところの「見る Beobachtung」もまた、目にする(視る sehen)をはじめ、味をみる、湯加減をみる、かえり触ってみる、顧みる、考えてみる、惟るなどなど、さまざまな形ないし定かさであります。「目」は、いわば感官の代表、「見る」は、みるの代表をつとめるまでです。(「ありきたりの人の分別が仕立てることごと」に当たるのは Die Venichtungen des gemeinen Menschenverstandes 決心です。Verstand 分別〉はverstehen 〈分かる〉から、verstehen 〈分かる〉はstehen 〈立つ〉から来ます。そして、 Verrichtungen〈仕立てることこと 〉 は、先の回にふれたerrichten〈立てる〉と同じく、richten〈向ける〉から来て、設える」の意です。すなわち、分かるがあり、立つがあって、仕立てるがあります。さらに、「いたって込み入った科学が探り究めることごと」に当たるのは die verwickeltesten wissenschaftlichen Forschungen です。 Wissenschaft〈科学〉は、先の回でふれたとおり、wissen 〈知っている〉から来ます。そして、Forschungen〈探り究めることごと〉は、forschen〈 研究する〉から来ます。すなわち、知っているがあって、研ぎ究めるがあります。もちろん、それは、いわゆる科学に限ったことではありません。さらに、その一続きに、この三の章において、もうひとつのことが引き続きます。)

 

 そして、五の段です。

 

 どういう原理を立てるにも、わたしたちは、それを見られることとして指し示すか、だれにも追って考えることのできる明らかな考えの形に表すかである。どの哲学者も、みずからのおおもとの原理について説きだせば、きっと、考えの形と、もってまた考えることとを、用いている。哲学者は、そのことをもって、間接にこのことを認める。哲学者は、みずからの営みに向けて、すでに考えることを先立てている。考えることが世の変遷の主要因であるかどうか、それについては、ここではまだ云々するに及ぶまい。しかし、哲学者が、考えることなくして、それについての知識を得ることはできないということは、はなから明らである。世の現象がそれとして立つにおいては、考えることが脇役を演じても、世の現象につき、ひとつの見解がそれとして立つにおいては、考えることに、きっと、主役が割り振られる。

 

 見解は、人が、見るをワキ、考えるをシテとして儲けるものです。人が知ろうとすること、人が精神において勤しむことは、その人の見解という形において報われます。そして、人が、ひつとひとつの見解をそれとして立てるにおいて、まさにその人となりゆきます。すなわち、人となりも、また、人が、見るをワキ、考えるをシテとして儲けるものです。なお、また立ち返って、「みずからを見る者とする」は、考えるをワキ、見るをシテとしてのことです。そして、そのする働きも報われます。他者の定かさ、親しさ、新しさという形においてです。(「見解」に当たるのは Ansichtであり、an〈ついて〉sehen〈視る〉から来ます。また「現象」に当たるのはErscheinung であり、erscheinen〈現れる〉から来ます。人の側から言えば、〈見える〉〈見ゆ〉です。すなわち「現象」は、人がただに見るところです。そして「対象」に当たるのは Gegenstand であり、gegen〈対して〉stehen 〈立つ〉から来ます。すなわち「対象」は、人が、見つつ考えるところです。なお、人となりについては、六章を待って、詳しく述べられます。)

 そのとおり、一から五の段までは、一と二の章を受け、それを押し広げながら、この章でのことを告げています。すなわち、この三の章でのことは、「求める(こころの向き)」「欲する(こころの起こり)」「質(こころの素地)」と段々に続く基の側を「欲する(こころの起こり)」の段へと降りて、そこから「考える」のみなもとへと遡ってみることです。「見る」は、感官をもってすること、まさにおおもと、わたしたちが降りることのできるぎりぎりですることです。そして、そこは、憶える、ないし憶うという形での「考える」が基づくところでもあります。その、憶える、憶うのみなもとへと遡るにおいて、「考える」をぎりぎりまでつきつめてみます。昇り降りの幅が大きくなるぶん、そのあいだにおいて立つこと、すなわち人の立場に立つことには、なおさらなアクテイビティを要します。そのアクテイビティを欠くと、他に寄り掛かることにもなります。言うまでもなく、それは、〈わたし〉の欲するところではありません。〈わたし〉は、なおさらなひとり立ちを欲します。そして、「自由の哲学」は、他に寄り掛かることも、他から寄り掛かられることも、きっぱりと拒み、人がまさにその人のする働きによって立つことを、さかんに促します。まさに、その意味において、「見ると考えるは、人にとってなにより重きをなす対し合いとして先立ち」ます。

 見憶えがあるといい、身に憶えがあるといいます。憶える、憶うは、わけても、生きたからだと切り離せません。そして、息づかいともいいますが、生きたからだのこととして、ことに息の吸い吐きは、わりあいにですが、意のままになることでもあります。さて、吸うことを意識するのと、吐くことを意識するのでは、その意識にやや違いがあります。いかがでしょうか。吐くことは、むしろ降りることに適い、吸うことは、むしろ昇ることに適います。そして、降りることは、むしろ迎えることに適い、昇ることは、むしろ向かうことに適います。つまり、吐くことは、みずからを見る者とすることに沿いやすく、吸うことは、追って考えることに沿いやすい。といっても、要は、吐くと吸うのあいだの「と」です。言うならば、吐くと吸うのあいだが、人であることの意識のありあわせる間合いです。からだは、その意識にとって、まさしく基です。そして、わたしたちは、からだを生かし整えることで、こころをアクティプに使うことができますし、逆にまた、こころをアクテイプに使うことで、からだを生かし整えることもできます。もちろん、労せずにはできないことですが、すればしただけのことはあります。そして、この三の章において、これからしはじめることは、「考える」を「見る」ことです。言い換えれば、「見る」がそのまま「考える」であり、「考える」がそのまま「見る」であることを、してのけることです。生きたからだへと降りながらも、それに押し流されることなく、いきいきとからだを超え・・・ 。