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略伝自由の哲学第三章bー1

 さて、見るに当たって、わたしたちのなりたちは、わたしたちがそれを要することのうちにある。わたしたちが馬について考えることと、馬という対象とは、ふたつのものごとであり、わたしたちにとって別々に出て来る。そして、対象は、わたしたちに、見るを通してこそ近しくなる。わたしたちが、馬をただに見つめるだけでは、馬という〈考え〉を、ほとんどなしえないように、わたしたちは、ただに考えるだけで相応の対象を生みだす立ちようは、ほとんどしていない。

 

 わたしたちのする精神の働きのうち、なによりも先立つふたつ、ふたつながらの基の柱、見ると考えるを巡って、この回は三の章の六の段からです。まず、はじめの文から見ていきます。

 見るに当たって、わたしたちのなりたちは、わたしたちが要するところであり、さらに―そもそもなら立ち返って気づくところでしょうが、はなからあらわに言ってしまいます―わたしたちがたわわになりたたせることができるところでもあります。ただし、アクテイブに見るという条件の下においてです。そして、そのことを、わたしたちがありありと知ることができるのも、ありていに見るにおいてです。(「・・・においてある」に当たるのはdarinliegenであり、da〈・・・の〉in〈うちに〉liegen〈横たわる〉という言いまわしです。そして、「横たわる」は、「起こる」「立つ」および「起こす」「立てる」へと通じていきます。)

 たとえば、わたしたちは、見るに目を要しますし、まさに要して、なおさらになりたたせます。逆に、よく見ないと、見る目が養われませんし、見る目が養われないと、よく見ることがなされませんし、見る目のなんたるかが知られることもありません。(「なりたちOrganisation」および「Organ組織ないし器官」ということばは、すでに二の章において使われています。迎える、向かうという、二つの向きをもつこころのなりたち、もしくは知、情、意という、こころの三重のなりたちとしてです。ここからは、さらに、こころが生きて起こること、さらにまた、こころをいきいきと起こすことを通して、からだのなりたちと精神のなりたちに、光が当てられていきます。)

 そもそも、生き物にあって、働きとなりたちは、いわば、つかず離れずであり、働きがあって、なりたちがあり、なりたちがあって、働きがあります。そして、ことにわたしたち人にあっては、働きのうちに、する働きが含まれますし、なるのうちに、なすが含まれます。たとえば、わたしたちは、立つ、歩くにおいて、足を要します。しかも、わたしたちは、見つつで立ち、見つつで歩きます。その意味において、足もまた、わたしたちが見るに要するなりたちです。ゆかしくも見の字は目をひとあしが支えるかたちです。さらに光の字も・・・。

 次に、二つ目の文です。馬について考えることが、ひとつのことであり、わたしたちが向かう向きに沿うにおいて、繰り出します。まさに馬の馳せるがごとく、さながら光の速やかであるがごとくです。かたや、馬という対象が、ひとつのものであり、わたしたちが迎える向きに沿うにおいて、やって来ます。また、馬という対象がやって来るのを―クレーンとかによって吊り降ろされてくるのでなければですが―わたしたちは、横か斜めの向きにおいて追います。かたや、馬について考えることが繰り出すのを、わたしたちは、まずもっては、縦の向きにおいて追います。(「ものごと」に当たるのはDingeであり、「もの」ないし「こと」の意であるDingの複数形です。「出て来る」に当たるのはauftretenであり、auf〈上り〉treten〈踏みだす〉というつくりで、「登場」の意です。)

 さらに、三つ目の文です。ものごとが、わたしたちに近しくなるのは、わたしたちが迎える向きに沿うほどにです。すなわち、ものごとが、わたしたちへと現れ、対して立ち、著しく迫り来るのは、わたしたちがありありと見るほどにであり、ものごとが、わたしたちに、定かさ、親しさ、詳らかさを増すのは、わたしたちがアクティブに見るほどにです。そのとおり、ものごとのありようが、わたしたちのする見るの対です。(「近しいものとなる」に当たるのはzuganglichwerdenであり、zu〈及び〉gang〈行き〉lich〈易く〉werden〈なる〉というつくりで、いわば親しくなる、詳らかになるといった意です。また、そのかかわりにおいて、erscheinen〈現れる〉ところがErscheinung〈現象〉と呼ばれ、gegeniiberstehen〈対して立つ〉ところがGegenstand〈対象〉と呼ばれ、著しく迫り来るところがEindruck〈印象〉と呼ばれます。なお、現象については、次の章において詳しく光が当てられます。)

 そして、お終いの文です。ひとつに、馬という〈考え〉は、わたしたちが、考えるにおいて、考えをとらえつつ、また憶(おも)いをもとらえつつ、なすところです。もっとも、見つつ立ちどころにというようには、なかなかまいりません。(「なす」に当たるのはmachenであり、「作る」の意です。また「考え」に当たるのはGedankeであり、denken〈考える〉からきて、「考えられるところ」であり、「〈考え〉」に当たるのはBegriffであり、begreifen〈とらえる、ないし握る〉からきて、「とらえられるところ」です。)

 そして、もうひとつには、あと四つの段を読んだところから立ち返ることができます。(なお、「立ちようをしている」に当たるのはimstandeseinであり、stande〈立つ〉im〈うちに〉sein〈ある〉というつくりで、そこから「しかじかができる」との意もでてきます。もちろん、そのことばは、はじめの文の「横たわる」との兼ね合いにおいて、意識的に用いられていましょう。)