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略伝自由の哲学第三章bー2

 時の上で、見るは考えるに先立ちさえする。そもそも、考えるをも、わたしたちは、きっと、見るを通して知るようになる。この章のはじめともに、考えるが、とあるなりゆきについて灯りつつ発し、その及ぼす働きなしに与えられたところを踏み越えることを言ったが、それもそもそもは見るところを述べている。なんであれ、わたしたちの生きる境へとやって来るところに、わたしたちは、まず、見るを通して気づくようになる。感覚、覚え、観、情、意欲からすること、夢やファンタジーの相、おもい、〈考え〉、理念、幻想、妄想など、いずれの内容も、わたしたちには、見るを通して与えられる。

 

 いうところの時は、たとえば、なにかが遠くからやって来るのを見る時です。わたしたちは、まずなにかを見て、あるところから、そのなにかがなんであるかを知ります。そして、知るを顧みて、考えるを知ります。すなわち、わたしたちは、見つつで知るにいたり、知るにいたって、考えるヘと遡るようになります。(「先立つ」に当たるのはvorausgehenであり、voraus〈先に〉gehen〈行く〉というつくりです。)

 いうところの時は、また、なにかを見初める時です。わたしたちは、見て、見初め、見初めた後に、憶います。見ても、見初めていなければ、見過ごしているまでで、後に憶いはしません。そして、繰り返し見るにつき、繰り返し憶うにつき、なおさら考えるを知るようになります。(「知るようになる」に当たるのはkennenlernenであり、kennen知ることをIemen習うというつくりです。ついでに、習うとなるも、つかず離れずです。わたしたちは、なって、習い、習って、なり、なろうとして習います。そして、なるにも、習うにも、見るが先立ちます。見よう見まねというのが、そのプロセスのはじまりを言いましょう。)

 そもそも、光ないし明るみにおいて見るがあり、見初める、見直すにおいて、ひらめきの光があり、知る、憶いを新たにするにおいて、考えるからの光があります。見初められるなにかの輝きも、その光があっての輝きであり、知られるなにかの著しさも、その光に映えての著しさです。さらにまた、発見、発明、発想ということばも、その光のありようを伝えましょう。そして、わたしたちが、その光を見ること、日の光を見るに同じです。そもそも、見るは、わたしたちが光と明るみを得ようとしてする働きです。(「灯りつつ発する」に当たるのはsichentzilndenであり、「あかりが灯る」ないし「光が発する」ことです。)

 そして、わたしたちは、見初めたあの時を、いまこの時に憶い、さらにまた新たないまこの時に憶って、時の流れを知ります。そもそも、時から時が引き続くというのは、わたしたちが憶いに重ねて考え、憶いを引き続き考えるからです。つまり、時の引き続きというのは、まずもって考えられるところです。考えるは、その意味においても、与えられたところを踏み越えます。ちなみに、「ある」ということばも、時もしくは考えるとのかかわりにおいて、三通りのありようを呈します。たとえば、「ことあるごとに」や「あった、こんなところに」の「ある」であり、「・・・である」の「ある」であり、「きのうからある」の「ある」です。(「踏み越える」に当たるのはUber…hinausgehenであり、Uber...〈…を超えて〉hinaus〈出て〉gehen〈行く〉というつくりです。)

そもそも、馬であれ、目であれ、憶いであれ、憶うであれ、考えであれ、考えるであれ、それらが、わたしたちにとって、ありはじめるのは、わたしたちが、からだにおいて生きつつ、それらに気づくようになりつつであり、わたしたちが、それらに気づくようになるのは、光を見つつです。すなわち、わたしたちは、わたしたちのからだにおいて生きつつ、光を見つつで、ものとことを立て、わたしたちのこころとからだを起こします。また、発意、発し、発起、起心といったことばも、そのことを指しましょう。(「気づくようになる」に当たるのはgewaluwerdenであり、gewahr〈まことであるように〉werden〈なる〉というつくりです。なお、いうところの「まこと」には、真の字とともに誠の字も当たります。)

 そして、わたしたちは、アクテイブに見るほどに、生きることを得ます。みずみずしく起こるこころのみずみずしさも、鮮やかに蘇る憶いの鮮やさかさも、光に映える生きる働きの盛んさに他なりません。

 かたや、わたしたちは、考えるにおいて、考えをとらえ、さらに憶いに重ねて考えるにおいて、憶いをもとらえます。そして、そうアクテイブに考えつつ、〈考え〉をなすほどに、生きる働きを失います。

 そのとおり、考えると見るは、まさにふたつながらの基の柱であり、それぞれでありつつも、ともどもに立ちます。そもそも、わたしたちのなりたちは、考えると見るという、二重の精神の働きからなりたちます。というよりも、ありのままに気づいてみれば、そのようななりたちをしているのが、わたしたち人です。

 加えて、これも考えるから知られるところでが、見初める、気づくにおいて起こるこころが後に憶うにおいて起こされるこころに通じます。なお、「憶う」「憶い」のなんたるかは、六の章から取り上げられるところですが、そのアクテイビティの面を先取りすることにしました。