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略伝自由の哲学第三章bー4

 さらに、なにか見つつ考えるは、わたしたちが、いわばありふれたたちようにおいてしていることです。その考えるは、そのなにかに及んでおり、その考えるには、考えられないところです。そして、そのことが、考えるを見るという、いわばユニークな立ちょうにおいて知られます。はたして、いかなる立ちょうでしょうか。

 次の段が、こう続きます。

 

 こう言い返す人もあろうか。わたしが、ここに、考えるについて認めたところは、また、感じるにも、その他の精神の働きにも当てはまる。わたしたちが、たとえば快い感じをもつとして、それも対象について灯りつつ発する。そして、わたしは、なるほど、その対象を見るものの、その感じを見ないと。しかし、その言い返しは、ひとつの誤りの上に憩っていよう。快さがその対象に向いてあるのは、〈考え〉があるのと、ありようが異なる。つまり、〈考え〉は、考えるがつくりなす。わたしが最も定かに意識するところであるが、ひとつのことの〈考え〉は、わたしのする働きを通してつくりなされる。かたや、わたしの内の快さは、ひとつの対象を通して生みなされる。それは、たとえば落ちる石が当たる対象に引き起こす変化と似ている。見るにとって、快さと、快さをそそるなりゆきは、まったく同じく、与えられてある。わたしは、こうは問いもする。なぜ、ひとつの定かななりゆきが、わたしに快さの感じを生みなすのかと。しかし、わたしは、こうは問うべくもない。なぜ、ひとつのなりゆきが、わたしに、定かなひとくさりの〈考え〉を生みなすのかと。その問いは、ひとえに意味をなさない。ひとつのなりゆきを追って考えるにおいては、わたしへの働きということが、まったくことの他である。わたしは、窓へと投げられた石が窓に引き起こす変化を見て、その変化に向け、ふさわしい〈考え〉を知っても、そのことを通しては、わたしについてなにも経験することができない。しかし、わたしは、ひとつの定かななりゆきがわたしの内に呼び覚ます感じを知るにおいては、わたしの人となりについて、なにがしかを、たっぶりと経験する。わたしは、ひとつの対象を見つつ、それに対して、それはバラであると言うにおいては、わたしみずからについてなにも言いあらわしていない。しかし、わたしは、その同じものについて、それは快い感じをよこすと言うにおいては、バラのことのみでなく、バラに向かうわたしみずからのありようをも述べている。

 

 バラを見て、バラであると認める。同じく、バラを見て、いい感じであると認める。なるほど、それらふたつのことは、同じく認めることですが、しかし、認めようには、違いがあります。その認めようが、認めることを認めるによって、もしくは、かえすがえす認めるによって、著しく認められます。言い換えれば、気づくことになおさら気づくによって、なおさら定かに知られます。(「認める」に当たるのはbemerkenであり、merken〈印す〉からきて、いわば「著しく気づく」「それと気づいて言う」といった意味です。なお、「みとめる」は「見留める」だそうです。)

 すなわち、バラであると認めるにおいては、バラとの〈考え〉が、ともに見てとられています。そして、その〈考え〉は、わたしが、見るところを、とらえつつ、つかみつつ、とりつつで、つくりなすところです。かたや、いい感じだと認めるにおいては、感じが見てとられるとともに、バラからの働きかけと、それを受けるみずからも、見てとられています。(「感じ」に当たるのはGefuhlでありfuhlen〈感じる〉から来て、いわば「感じられるところ」であり、情のことです。なお、情もまた、見られてこそ知られます。見られないでは、暗いままで、明るく発しません。その意味において、情もまた、まずもっては、おのずからに与えられるところです。また「つくりなす」に当たるのはbildenであり、「すがたかたちをなさしめる」「相ないし像を生みだす」の意です。)

 たとえば、わたしたちは、考えがあるといい、感じがするといいます。その「ある」と「する」は、考えると、感じるにおける、こころとからだの起こりようをも、告げていましょう。感じるにおいては、ものごとが、からだを介して、こころを起こします。かたや、考えるにおいては、わたしが、いわば考えのありかから、こころを起こし、からだをも立て、さらには、ものごとをも立てるにおよびます。しかも、そのわたしは、「考えるがある」と言うところから立ち返って知られるところです。言い換えれば、起こったこころとからだから、もしくは人となりから遡って知られるところです。そして、バラを見て、「バラである」と言うわたしも、同じく、「バラである」と言うところから追って考えて知られるところです。(「人となり」に当たるのはPersonlichkeitであり、sonare〈声〉per〈によって〉lichkeit〈いること〉というつくりです。人が、からだとこころを起こされつつ、起こしつつで、だんだんに人となります。そして、その人となりが、ことに声を発するにおいて、ものを言うにおいて、一家言をもつにおいて際立ちます。)

 加えて、わたしたちは、憶いが浮かぶといい、憶い起こすといいます。憶うは、いわば、感じると考えるのあいだにおいてなされます。たとえば、「おもう」に「おもほゆ」という自発のかたちがあるとともに、「おもんみる」「おもんばかる」といったアクティブなかたちがあるとおりです。

 ここで、この段のはじまりに立ち返ります。「言い返し」ということばが見えます。その言い返す立場から立ち返って、先の段の立場がなおさらに知られますし、言い返す立場が誤りの上に憩うことも知られます。ディアローグ(対話)、ディアレクティク(弁証法)は、そのとおり、二つの立場を行き来するにおいてなりたちます。しかも、それがなりたつにおいて、そもそもへと立ち返り、そもそもから立ち返ることがなされています。(「言い返し」に当たるのはEinwandであり、ein〈つっこんで〉wenden〈向ける〉からきて、異議、苦情の意です。また「・・・の上に憩っている」に当たるのはauf...beruhenであり、auf...〈…の上に〉beruhen〈安らう、もしくは安住する〉ことです。つまりは、アクテイビティの不足です。)