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略伝自由の哲学第三章bー3

 さて、いよいよ、わたしたちは、考えることそのことを、まっこうから見ます。明るみは、すでに考えるから及んで来ています。わたしたちが要するのは、その明るみのみなもとの考えるを、生きる働きを得つつ、こころを起こしつつ、アクテイブに見ることです。逆にまた、わたしたちが、考えるを、アクテイブに見るにおいて、考えるがわたしたちに近しく、定かに、親しく、詳らかになります。その見るを欠くと、考えるが、遠く定かならず、よそよそしく、あいまいなままであるまでです。そして、わたしたちは、人として、ことにいまの人、ひとり立ちを求める人としてその見るを要するということを、その見るのプロセスをもって、なおさらはっきりと気づくようになります。まずは、こうです。

 

 ただし、考えるは、見るの対象として、他のものごととそもそもから異なる。机にしろ、木にしろ、その見られるところは、わたしへと入りくる。すなわち、それらが対象として、わたしの生きるの地平に浮かぶやいなやである。しかし、それらの対象についての考えるを、わたしは、時を同じくしては見ない。机を、わたしは見る。机についての考えるを、わたしは繰り広げる。しかし、わたしは、それを、その時には見ない。わたしは、きっと、まずもって、わたしのする働きの外へと立場を移す。すなわち、わたしが、机についてのわたしの考えるを見ようとするにおいてはである。対象やなりゆきを見るも、それらについて考えるも、まったく常日頃の、おりおりのわたしの生きるにありふれた立ちようであるが、考えるを見るは、いわば例外の立ちようである。そのことが、きっと、ふさわしく顧みられる。すなわち、他のあらゆる見るの内容へと及ぶ考えるのありようを定かにするにおいてはである。人が、きっと、このことについて明らかでいる。人が考えるを見るにおいて考えるに向けてすることは、残りの世の内容のまるごとを見てとるにとってはノーマルな立ちょうであるが、そのノーマルな立ちようにおいての考えるにとっては、入りこないものである。

 

 言い方からして、なんだか例外的にひびきますが、いたしかたないところです。それでも、アブノーマルなひびきは、できるだけかなでたくないものですが・・・。こころみに、述べられていることを、ことのほか際立たせるような例をあげてみます。

 たとえば、こころにもないことを言ってしまうことがあります。それを言ってしまってから、それがこころにもなかったことに気づきます。

 また、考えを整理するのに、書いてみるということをします。書きながら、ああでもない、こうでもないと知ります。とにかく、わたしたちは、考えていることを、目の前に出してみて、それと知ります。考えていることと、考えていることをそれと知ることは、時を同じくしていません。

 さらにまた、同じことを、あの人は、いいと言い、この人は、いけないと言います。そのうちに、どうやら、その同じことで、あの人は、いい憶いをしており、この人は、いやな憶いをしていることが、分かってきます。なるほど、あの人がこの人の憶いをすることも、この人があの人の憶いをすることもできませんが、しかし、あの人も、この人も、互いの憶いに重ねて考え、そこから立ち返って、分かりあうことはでます。ただし、言うまでもなく、まさに人が、それをしようとすればこそですが・・・。(「立場」に当たるのはStandpunktであり、Stand〈立つ〉punkt〈点〉というつくりです。それは、机や木をどこに立って見るかの「どこ」を指しますし、どの憶いに立って見るかの「どの憶い」をも指しましょう。)

たとえば、「あ」の口をしながら、「い」を憶うことが、なかなかできません「い」を憶うと、つい「い」の口になってしまい、「あ」の憶いが、ふっとんでいます。

 また、冬に風鈴の音を耳にして、なんだかそぐわしくなく感じたりします。もっとも、そうは感じないという人もあるでしょうが、それはそれとして、ともかく、そう感じる人なら、その感じを介して、冬のたたずまいをいまさらながらに知りますし、さらにそこから立ち返って、なぜ〈夏〉に〈風鈴〉が〈そぐわしい〉のかと問うこともできます。

 あるいはまた、赤い布 −人がすっぽり隠れるぐらいの大きさです− もしばらく見せられて、ぱっと、緑の布に変えられると、ほとんどずっこけます。わたしたちが色をどう見ているかということで、試しになされたことですが、わたしは赤を見るあいだ、なーに、赤を見たって、これこのとおり、どうということもないし・・・とか思いながらいました。それが緑でみごとに引っ繰り返されます。緑を前にしてみると、赤に対しては、張り合うような立ちょうをしていましたし、そのうえに、赤とは別のことを考える立ちょうをしていました。そして、そこから赤へと立ち返って、いよいよ赤を見てとるにいたります。すなわち、わたしたちの立ちようが、見ると、憶うと、考えるに懸かります。(「立ちょう」に当たるのはZustandであり、Zu〈及んで〉stand〈立つ〉というつくりで、「ありよう」の意です。)

 考えるも、見るも、見てとるも、思うも、憶うも、わたしたちがつねづねにしていることであり、思うは、考えつつ見るから、憶うは、見てとるから、見てとるは、見つつ考えるからです。そして、そのことが、見つつ考えるの立場を違えて知られます。まず、その意味において、考えるを見るは、いわば、日を背にして立ち、先に立つ人の背を見て、日があることを知るがごとくです。(「見てとる」に当たるのはbetrachtenであり、「見つつ考える」のかたちのひとつです。わたしたちは、考えるにおいて、とらえつつ、つかみつつ、とりつつで、ものごとが確かに分かりますし、みずからをしっかり立たせます。逆に、分からないと、みずからが揺らぎます。)