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略伝自由の哲学第三章bー6

 加えて、「こころ」については、「禽獣などの臓腑のすがたを見て、コル(凝)またはココルといったのが語源か。転じて、人間の内臓の通称となり、更に精神の意味に進んだ」という説にもお目にかかります。はたして、そうでしょうか。「コル」は「凝る」だとしても、それが「臓腑のすがた」だというのは、「こころ」に心の字が宛てられていることからの、気まぐれな推し量りではないでしょうか。

 いや、語源のことはさしおきましょう。こころを見るにおいて定かに見てとられるとおり、ひとたび起こったこころは、そのかたちを、それなりのあいだ、おもうのかたちとして留めます。そのかたちは、考えると見るという、わたしたちのする精神の働きの、いわば凝ごりのごとくです。

 そもそも、起こらないこころは、見てとろうにも見てとりようがありません。すなわち、ものごとを見てとり、ことにこころを見てとるには、見て起こすが先立ちます。しかも、わたしたちは、ものごとをも、こころをも、新たに、またあらためて見て、起こすことができます。

 また、「こころ」と訳してあるSeeleが、もとはdie zum See Gehorende〈湖水に属するもの〉とのつくりだろうという説もあります。つまり、かつての人たちが「まだ生まれない者のこころと、死んだ者のこころが、湖水に住まう」との想いをもっていたことから、その名ができたのだろうとのことです。

 そして、おもうの基にからだがあります。そのかかわりにおいて、からだにも、少しばかり目を向けてみます。さきに、足もまた、見るに要するなりたちであることを言いました。つづけて、腰もまた、見るに要するなりたちです。わたしたちは、憶うにおいて、いくばくかの落ち着きを要します。逆にまた、わたしたちは、落ち着きを得るにおいて、よく憶うようになりますそして、憶うから落ち着きが生まれ、落ち着きから腰が座ります。逆にまた、腰は座るの要であり、座るは落ち着くの要であり、落ち着くは憶うの要です。わたしたちは、憶い初めて後、つまり三才あたりからは、尻餅でもつかないかぎり、なにかを憶いつつで座るようになります。少なくとも座ろうとおもって座ります。そして、学校へ行きだすころには、はや、そのなりたちが、ひととおりなりたっています。その意味で、腰もまた、見るの要です。憶う、すなわち憶いの明るみを見ることが、ことに腰を要にしてなされるようになります。さきの回にいう「昇り降り」、息を吸うと吐くにおける上と下への行き来が、ことに足と腰のなりたちをもってなされるようになります。吸うと吐くのあいだの「と」、人であることの意識が、いわば足腰をよりどころとするようになります。

つづけて、胸もまた、念いの明るみを見る要となります。すなわち、吸うと吐くにおける、みずからと周りのあいだの行き来が、ことに胸のなりたちを要してなされるようになります。人であることの意識が、胸をよりどころとするようになります。そのことが、恋を知る年頃において、ひとしお際立ちます。

 さらにつづけて、頭と手のなりたち、そして足の新たななりたちが、惟いの明るみを見る要です。惟うの、いわば羽ばたきは、自在になりきた手足の動きそのままです。人であることの意識が、いわば、いたるところでもてるようになります。わたしたちは、それでこそ一人前となります。

 そもそも、わたしたちは、見ると考えるを通し、育ちつつのからだをもって、こころを起こして、憶い、念い、惟うようになり、育ちつつのからだをわたしたちのからだとしてなりたたせますし、からだは、わたしたちがよくなりたたせればこそ、よく育ちますし、よく保たれます。

 しかしまた、なりたたせようによっては、人であることのよりどころが、ややもすると頭に偏ったり、胸になずんだり、腰にわだかまったりという傾きも出てきます。

 さて、わたしたちのこころとからだのなりたち、もしくは、人となりは、からだの育ちがひととおり終わっても、なりたちつづけます。たとえば、わたしたちは、老いの境にさしかかりつつ、もしくは、からだが衰えだすとともに、つらつら惟い、つくづく思い、しみじみ想うようにもなります。が、ここでひとまずとどめて、残りは後のお楽しみということにします。

 なお、ここまでに説を四つほど引き合いに出しましたが、まず、「かむがふ」の説は、本居宜長(1730〜1801)が『古事記伝』に説いているそうです。説として説かれたということは、説かれていることが、その頃の人たちにとって、定かではなくなっていたことを意味しましょう。そして、説かれていることが当たっているとすると、当のことが、かつての人たちには、いわば自ずからのごとくに定かであったということを意味しましょうし、また、説いた人が、まさにその人のする働きによって、当のことの定かさを得たということをも意味しましょう。その説が国語史の上でどうかは、ひとまず、その筋の人たちの論証に任せるとして、説かれていることそのこと、すなわち考えるが「か」に「向かう」をもってする働きであることは、ことにいまの人として、すなわちひとり立ちを求めつつ、まさに考えるを見るにおいて、定かに知ることができます。

 また、「かむがふ」には、仮名書きの例がなく古訓の例があるのみだそうです(白川静「字訓」)しかも、それら古訓の例は、かなりのほどに厳かな響きを奏でます。

 

 次に「き」の説は、柳田國男が「方言覚書」に説いています。詳しくは、こうです。

 

 キという簡単な日本語の意味は、むしろあまりに簡単なために、元のままを保存しがたかったらしいが、それでも「口中にキ水がたまる」などという句になって残っている。最初は必ずはいせつしも体内から排泄される漿液のみを意味しなかったことは、酒をミキという例からも推測され一方にはまたチ(血)という語とも縁がなかったとは言われぬようだが、そんな古代のことを論究するのは私の仕事でない。ただここに一言してみたいのは、漢学採用の初期の不注意と、その意外なる結果であって、本来瓦斯(ガス)体を意味した「気」という文字が、単に音のやや近いというだけから、無造作に適用せられなかったら、今少しく確実に、我々はキの液体であることを記憶していたであろうと思うのである。人体の要素または生活の精と名づくべきものを、呼吸に重きを置いて気体と想像し始めた民族と、体温に重きを置いて火と考えていたものと、さらに液体の循環ということに、特別の奇異を感じていたものと、同じ原始風の生活者の中にも、夙(はや)くからこの三通りの差別があり、それが各種族の巫術祭式、延いては後代の宗教観の発達にも、著しき特質を附与していることは確かで、原因はいずれも主として居住地の天然状態にあった。・・・今日の学者が風土の差異をよくも考えず、生活改良の範を外国の外形から採ろうとするのと、同じような軽慮は千年前の支那学にもあった。気の毒・気まぐれ·気ちがいなどというキの語に、空気の気の字を宛てて澄ましているようになってから、我々のキに関する意識も空漠たるものになってしまったが、いっさいの精神的の名詞はいずれの国語においても、決して哲学者たちの協議撰定になったものではない。在来土民の用語の適切なものを採って使っているうちに、次第にそれが形而上の、貴という内容までを含むようになったので、それを名づけて国語の発達とはいうのである。ところが日本では昔も今も、植木などはよく育てているが、国の言語は雑草あつかいで、少しく珍しものと思えば舶来品を移植し、中には珍重の余りにわざと人の解し得ぬものを真似ようとする。これが普通教育の効乏しき根本の弱点だと、私などは信じている。

 

 そして、「ココル」の説は「広辞苑」に、「湖水に属するもの」の説は、「DUDEN Deutsches Universal Wörterbuch」に出ています。

 

 また、「見れど飽かぬ」は「万葉集」にみえる言い回し、「離見の見」は世阿弥(1363?〜1443?)のことば、「冬の日」の句は芭蕉(1644〜1694)のです。ついでに、「バラ」と「人となり」にちなんでは、こんな句もあります。蕪村(1716〜1783)のです。

 

花いばら故郷の路に似たる哉

路たえて香にせまり咲いばらかな

愁ひつ、岡にのぽれば花いばら