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略伝自由の哲学第三章bー5

 さらに次の段です。

 

 見るにとって、考えるを、感じると等しく立てるということは、すなわち論としてなりたたない。また他の、人の精神のする働きについても、同じことが、たやすく引き出されよう。それらのする働きは、考えるに対して、他の見られる対象ならびになりゆきと同じ列に属する。考えるの、まさに独自な自然として、考えるは、ひとつのする働きであり、かつ、ただに、見られる対象へと向けられてあり、考えつつの人となりには向けられていない。そのことは、わたしたちが、ひとつのことがらについての考えを、情や意欲からすることとの対において表す、その表しようにおいて、あらわになる。わたしは、ひとつの対象を視て、それを机として知るにおいて、いつもなら、机について考えているとは言わずに、これは机であると言う。しかし、こうは、快く言おう。机があって、わたしは喜んでいると。先の場合においては、わたしが机に向かってそれなりのありようをしていることには、まったく重きがかからない。しかし、後の場合においては、ことの要が、まさにそのありようである。机について考えていると、あらわに言うことをもっては、わたしが、すでにして、さきに述べた例外の立ちようをしている。すなわち、わたしたちの精神のする働きのうちに、いついつにもともに含まれていながら、見られる客とはならないところが、見るの対象になされている。

 

 自然というのは、これまで見てきたとおり、わたしたちがまずもって気づくところ、もしくは、ありのままにあるところ、さらには、なるところを指すことばです。そして、考えるも、憶うも、感じるも、欲するも、わたしたちがまずもって気づく、わたしたちのする働きです。

 そして、考えるは、憶う、感じる、欲するなどのいずれとも異なり、ただに見られる対象へと向けられてあり、考えつつの人となりには向けられていません。そのことを、わたしたちは、アクティブに考えつつ、アクティブに見つつ、考えるを見るによって、見てとります。

 すなわち、考えるを見る立ちようは、ほんの少しもおのずからでなく、いたってアクティブな立ちようであり、かつ、対象に沿い、人となりによらない、いわば、気高い立ちようです。

 そして、はや、「考える」ということを言うところから、その見てとるははじまっています。そもそも、「考える」ということを言うのは、かすかすながらも、考えるを見つつ、考えるとの〈考え〉をつくりなしていればこそです。

 ここで、はじまりの段に立ち返ります。「馬」ないし「馳せる」働き、ならびに「ただに考えるだけで相応の対象を生みだす」という「わたしたちがほとんどしていない立ちよう」、すなわち例外の、気高い立ちようにちなんで、句を引きます。

 

冬の日や馬上に氷る影法師

 

 さて、ついでに、わたしたちのことばにも目を向けてみます。いや、耳を傾けてみます。まずは、わたしたちがなにをするよりも先にしている精神の働き、「見る」と「考える」からです。

 卓見、愚見、意見、偏見といいますし、人間観、世界観ともいいます。また「あなたはどうご覧になりますか」と尋ねられたりもします。そのとおり、字や音が違っていても、「見る」には「考える」の意があります。紛らわしいようですが、それがおのずからそうなるということが、「考えるをも、わたしたちは、きっと、見るを通して知るようになる」ということから、はっきりと分かります。

 かたや、「考える」には、吟味、糺明との意があり、思量、思案、判断との意があり、学び、習うといった意がありますし、また字としては、稽、験、勘、校、攷、劾、罰などが処てられてきました。いわば、考えるの明るみの面、アクティビティの面、引きつづきの面のいずれかが、意味において、また宛てられる字において、引き立てられています。

 また、「かんがえる」が、古くは「かむがふ」であり、「か」が「ありか」「すみか」の「か」、「むがふ」が「向かう」「對う」であるとする説もあります。

 さらにまた、「〈考え〉」と訳してあるBegriffは、「概念」と訳されるのが、このかた百年そこそこの慣らわしです。なるほど、それで用が足りることもありますが、しかし、ここでは用が足りません。そもそも、それを「とらえ」と訳して通じるなら、願ったり叶ったりですが、そうもいきませんので、考えるとのかかわりをとりながら、「〈考え〉」としています。そして「見てとるbetrachten」も、「考察」と訳されるのが習いでしょうが、「見つつ考える」とのかかわりにおいて、「見る」を先立てて、「とる」を後に立てました。なるほど、ことばは、時と場を超えています。しかし、ことば使いは、時によりけり、場によりけり、そして人によりけりです。まさにことば使いにおいては、おおいに人がものを言ってほしいものです。

 かたや、「見る」は、いってみれば「意識する」ことであり、さらには「はっきりと目覚めて、意識的にする」ことです。たとえば「憶うを見る」とあるのは、「憶ってみる」、さらには「より意識的に憶う」というように読みかえても、さしつかえありません。しかし、それをまさしく「見る」だと見やぶり、からだの目をもって見るのと同じ列において、かつ同じ確かさにおいて論じているところが、「自由の哲学のユニークさのひとつです。

 すなわち、「見る」は、わたしたちが光とともどもですることであり、さらには光を得ようとしてすることです。「見れば見るほど」といい、「見れど飽かぬ」といった雅びやかな言い回しもありますが、光に強弱濃淡のほどがあるとおり、見るにも、アクテイビティのほどがあります。そして、アクテイビティのほどは、わたしたちに懸かります。しかも、「なんであれ、わたしたちの生きる境へとやって来るところに、わたしたちは、まず、見るを通して、気づくようになり」ます。すなわち、わたしたちは、気づくまえから、見ることをしているものです。

 そして、いかがでしょうか。まさに気づいてみれば、わたしたちは、つねづねに、「見る」ということばを、右の通りの意味においても使っています。さらに、わたしたちは「離見の見」といった、かぐわしいことばをも耳にすることがあります。逆に、そうだからこそ、ここで、わざわざ引き立てて使おうとしています。

 また、「気」の字が宛てられている「き」が、もとは「おみき」「つばき」などの「き」と同じく、生きることを湛えた、もしくは命の働きを湛えた水を指していたという説もあります。