· 

略伝自由の哲学第三章f−1

 この回は三の章の六回目であり、はじめから数えて三十番目、おわりから数えて四番目の段を取り上げます。こうです。

 

 右をもって、わたしがそこそこに足りる論であると見てとるのは、わたしが世を見てとるに、考えるから起こす時である。アルキメデスは、梃子をあみだして、こう信じた。その道具を支えることのできる一点さえ見いだしたなら、その助けをもって、コスモスのまるごとを持ち上げることができるであろうと。かれが要したのは、他のものによってでなく、それそのものによって担われるものであった。考えるにおいて、わたしたちは、それそのことによって立ちつづける原理をもつ。そこから、そこはかと誘われていてほしいものである、世をとらえることは。考えるを、わたしたちは、それそのことによってつかむことができる。問いは、ただ、わたしたちが、それによって、その他をもとらえることができるかどうかである。

 

 思い起こせば、この章は、玉突きを見ることから起こされました。

 そして、ただに見る、考えをもって見る、ただに考えるという、三つのことが、玉の動くことと同じく、見るを通して見られるところ(現象) となり、考えるを通して考えられるところ(見解)となりました。

 そして、その三つのことが、わたしたちによって起こされつつ、見てとられること、玉の動きが、わたしたちによって生じつつ、見てとられるに同じです。その意味においては、見るも、考えるも、玉が動くと同じく、世のことであり、ひとり見てとるのみが、わたしたちの、見ると考えるを取り合わせつつ、する働きです。

 さらに、その三つ目のことのことさらなところは、こうでした。

 わたしが考えるを見てとることにおいては、ことのまるごとが、わたしにとって、隈なく見とおしがきき、わたしが、ことのまるごとを大らかに見わたします。なぜなら、ことのまるごとが、わたしによってあきらかに生じ、わたしが、ことのまるごとによって安らかに起こされる故です。

 そして、そこからは、わたしが、世のものごとを、安らかに、明らかに見てとることへの望みが萌します。その望みは、いわば、わたしが、世のものごとを見てとりつつ、考えるをなおさらに見てとり、逆にまた、考えるを見てとりつつ、世のものごとをなおさらに見てとるによって叶えられよう望みです。

 そして、つまるところ、わたしが見てとるは、ひとりわたしが見てとるによってのみ生じ、さらにわたしが見てとるによってこそ捗ります。

 さて、このたびのはじめの文です。

 

 右をもって、わたしがそこそこに足りる論であると見てとるのは、わたしが世を見てとるに、考えるから起こす時である。

 

 繰り返しますが、考えるを見てとることは、まさにわたしが起こすことであり、ことがわたしを起こすことです。そして、わたしは、そのことを、そのことの明らかさにおいてつかみつつ証し、そのことの親しさにおいてとらえつつ論じます。よって、そのことの論は、論じつつ証すむきにおいてよりも、証しつつ論じるむきにおいて確かに仕立てられます。( 「・・・から起こす」に当たるのはvon…〈・・・から〉aus〈外へ〉gehen〈行く〉という言い回しであり、「・・・から出発する、・・・を起点とする」の意です。)

 

 また、そのことの証しは、わたしがことを起こしつづける時に稼がれ、望みとして時とともに叶えられようことをも含みます。よって、そのことの論は、時につれて、ありきたりのことばを鋳なおすことをも促します。(「時」に当たるのはwenn であり、「・・・のあいだ」「・・・のたび」とも訳されます。すなわち、「持続、継続、反復」の意の条件節を導く接続詞です。)

 

 わたしは、そこから、そのことの論を、ひとまず、そこそこでよしとします。(「そこそこに足りる論である」に当たるのはgenugend gerechtfertigtで、gentugend 〈そこそこに足りて〉ge-recht〈ふさわしく〉fertigt〈仕上げられた〉という言い回しであり、recht〈ふさわしく〉fertigen〈仕上げる〉には、慣用として「是認、容認、弁明」の意があります。)

 

 なるほど、そのことの論も論であって、ほかのだれかに読まれるものです。しかし、その読みも、読む人がことを起こしつつ読んでこそ捗ります。そして、わたしは、読む人のする証しに免じて、そこそこの論を安んじてさしだします。(「わたし」に当たるのは、いわゆる人称代名詞一人称ichですが、なんとも奥ゆかしく遣われています。それは書き手を指すのはもとより、読み手を容れることのできる広がりをも湛えています。もっとも、訳の文が、その広がりを、わずかでも伝えていればですが・・・。)

 さらに思い起こします。ことは、引き続き、わたしが考えるを見てとることに他なりませんが、異なる面から思い起こします。また、重きは、思いにでなく、起こすに懸かります。

 

 わたしが考えるを見てとる「時」が、まさにわたしによって起こされるとおり、もしくは、まさにわたしによってはじまるとおり、わたしが考えるを見てとる「点」が、まさにわたしによって生みだされます。もしくは、まさにわたしによって灯されます。まずもっては、いわば、わたしの上においてわたしを安らかに支える点としてであり、世に沿って言い換えれば、天からわたしを明らかに照らす点としてです。

 

 すなわち、次のひとくだりが、こうです。

 

 アルキメデスは、梃子をあみだして、こう信じた。その道具を支えることのできる一点さえ見いだしたなら、その助けをもって、コスモスのまるごとを持ち上げることができると。かれが要したのは、他のものによってでなく、それそのものによって担われるものであった。

 

 わたしが考えるを見る「点」が、それそのことによって支えられ、それそのことによって持ちこたえられ、それそのことで担われます。その点は、さながらお天道様のごとくであり、わたしが目覚めるにおいて、天に明るみ、わたしが目覚めているにおいて、天から照らしつつ「どこにでもついてまわり」ます。(「支えるaufstiltzen」「持ち上げるheben」「担うtragen 」は、「立つ(立てる)」プロセスをも伝えています。なにかが生じ(生みだされ) 、起こり(起こされ)、立つ(立てられる)のは、そのなにかが支えられ、持ち上げられて、担われつつです。なお、日本語において、たとえばなにかを担うのは、ふつう、そのなにかの他ですが、ドイツ語においては、そのなにかそのものであることも普通です。いわゆる再帰表現が、それです。)