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略伝自由の哲学第三章f−2

 そして、こう続きます。

 

 考えるにおいて、わたしたちは、それそのことによって立ちつづける原理をもつ。そこから、そこはかと誘われていてほしいものである、世をとらえることは。

 

 まず、先の文です。まさに右のとおり、わたしが考えを見てとりつつとらえて、考えるという〈考え〉が儲けられます。考えるという〈考え〉は、それそのことでとらえられる〈考え〉です。その〈考え〉を、公理といい、原理といいましょう。まさに考えるという考えは、公理中の公理であり、原理中の原理です。(「立ちつづける」に当たるのはbestehenであり、比〈まさに〉stehen 〈立つ〉というつくりで、「存立、現存、存続」の意です。「原理」に当たるのはPrinzip であり、言うならば「そもそもの拠り所となる〈考え〉、人がそもそもの支えとする〈考え〉」です。なお「〈考え〉Begriff」および「とらえるbegreifen」については、3-bの) 回を見てください。)

 

 そして、後の文です。まさに考えるという〈考え〉の立ちつづけから、そこはかと誘いが及んで来ます。その誘いは、いわば、ものごとをありありと見てとることへの誘いです。そのそこはかさは、いわば、ものごとをういういしく見てとることのそこはかさです。(「そこはかと誘われていてほしいものである、世をとらえることは」に当たるのは es〈それが〉versucht 〈誘われて〉sei 〈あれかし〉,die Welt〈世を〉zu begreifen〈とらえることへと〉という言い回しであり、いわゆる接続法一式として、希(こいねが)いを湛えた形です。なお、そのes 、非人称代名詞 −英語のitに当たります− を訳すにこと欠いて「そこはかと」なることばをもちだしましたが、それについてはすぐ後でふれます。)

 

 すなわち、わたしがものごとを見てとるに、考えるから起こす時、わたしが考えるを見てとる点が、わたしによって、ものごとの上へと安らかに設けられます。ものごとが、わたしに、明らかに(ありありと)展け、わたしが、ものごとを、親しく( ういういしく)望むのは、まさにそのことの徴です。その点は、わたしを支えつつ照らすとともに、ものごどを照らしつつ支えるにおいても、太陽のごとくです。わたしがみずからで確かに立ち、ものごとがものごととして確かにきわだつのも、まさにその点からです。

 

 言うまでもありませんが、誘いは、他のもろもろからも、とりわけ他のもろもろの〈考え〉からも及んできます。そして、わたしが、他のもろもろからの誘いのままになるにおいて、いうところの明らかさも、親しさも、安らかさも、確かさも、立ち去ります。もちろん、立ち去っても、また、わたしが、いうところの時をもちかえすにおいて、繰り返し立ち返ります。すなわち、そこはかとなく、それらの情が湛えられてあるのは、わたしが、いうところの時を持ちこたえ、考えるという〈考え〉からの誘いに任せるあいだであり、わたしが、いうところの時を持ちこたえ、考えるという〈考え〉からの誘いに任せるのは、そこはかとなく、それらの情が湛えられてあるの程に応じてです。とにかく、わたしがものごとをとらえるには、そうしたわたしの立ちようが、まさに望ましく、まさにありあわせて欲しいものです。(さきの非人称代名詞 es は、その「湛え」のみずみずしさを言いましょう。なお、初版の序には、それを指して「エーテルAether」とのことばも使われています。)

 

 読みにくさの言い訳ではありませんが、ここまでのことは、主として、ただに精神のことであり、紛れのない精神のなりたちであり、ここまでの述べようは、からだはもとより、いわゆるこころをも置き去りにした、とらえどころがないといえば甚だとらえどころのない述べようです。しかし、ことの要は、まさにとらえることにあります。そして、まさにとらえる手だてとなるように、すこし先取りすることになりますが、こういう補いをしておきたいと思います。

 

 いうところのわたしの立ちようが、たとえば弓道においてきわだちます。

 

 我々弓の師範は申します。射手は弓の上端で天を突き刺し、下端には絹糸で縛った大地を吊るしていると。もし強い衝撃で射放すなら、この糸がちぎれる虞(おそれ)があります。意図をもつもの、無理をするものには、その時天地の間隙が決定的となり、その人は天と地の間の救われない中間に取り残されるのです。あなたは正しく待つことを習得せねばなりません。(オイゲン• ヘリゲル「弓と禅」稲富栄次郎・上田武訳、福村出版)

 

 たとえばまた能に言うところの構えにおいてきわだちます。

 

 両足を揃えて立ち、右手に扇または中啓をもち、左手で軽く袖口をつかみ、両肱を少し張った形である。この構えを見れば、一瞬にしてこの人はどのくらい舞ができるかが即座にわかる。舞ばかりでなく、この構えは、能全体の中の身体の基本形であり、この基本形から舞も能のドラマの部分の変身もふくめた、全ての身体の動きが行われる。この構えさえしっかりしていれば、どんな人物、精霊にも変身できる。いわば、この構えこそ動きの基本形であると同時に、さまざまな役に変化する可能態としての身体のかたちなのである。(渡辺保「日本の舞踊」岩波新書)

 

 たとえばまた子どもにおいてきわだちます。ことに考えはじめる頃の子どもです。

 

 A は、なにかがわからなくて、追って考える時、身を安らかに立て、両手を後ろに据えて置く。目は大きく開き、遠くに向けられ、口はいくぶん引き締まり、まさに黙っている。だいたいは、そのように努めているうちに、軽い疲れにみまわれる。その表情が立ち消える。すなわち、自然が、張り詰めの緩みを工面する。

(E.Kohler: <Die Personlichkeit des dreijahrigen Kindes> Leibzig I926 なお「A」とあるのは、二歳六ヵ月になる女の子のことです。)

 

 そもそも、いうところのわたしの立ちようがみずみずしくきわだちつつ、下の基に立つからだの立ちようを安らかに、明らかに、親しく、確かに仕立てます。

 

 そして、上と下、ふたつの基に立つ立ちようが、わたしたちの立ちようです。ただ、上の基に立つ立ちようが引き立てられるかどうかが、わたしたちの、考えるを見てとるにかかります。言い換えれば、考えるを見る技量は、ノーマルななりたちをした、どの人にもあります。いわば横たわってあります。要は、それが縦になるかどうかであり、つまるところ人が考えるを見ようとするかどうかです。

 

 そもそも、考えつつの者は、考えるあいだ、考えるを忘れます。その意味において、考えるは、わたしたちにとって、陽の光のごとくです。わたしたちは、つねづね、陽の光の下で陽の光を忘れてこそ、ものごとを安らかに見てとり、明らかにつかみ、親しくとらえつつ、確かに引き立てます。その安らかさ、明らかさ、親しさ、確かさのほどが、陽の光のほどであり、また考えるを見てとるのほどです。考えるは、そのとおり、じつに大いなる、精神のする働きです。

 

 そして、考えるを見てとるところから立つ問いは、ただにこうです。すなわち、お終いのくだりが、こう続きます。

 

 考えるを、わたしたちは、それそのことによってつかむことができる。問いは、ただ、わたしたちが、それによって、その他もとらえることができるかどうかである。

 

 考えるを見てとるところからすれば、わたしたちが、ものごとを、見つつ、とり、つかみ、とらえること、たとえば射手が、的に応じつつ、弓を引き、頃合いをはかり、矢を放つごとくです。なるほど、師範ならば、矢は的を射抜くでしょうが、師範ならぬ射手は、しばしば的をはずします。その、応じる、引く、はかる、放つのあたいのかかわり、もしくは、見る、とる、つかむ、とらえるのあいだのかかわりが、次の四と五の章を待って見てとられるところとなります。(なお、見てとり〈betrachten〉つつで、つかむ〈erfassen〉があり、つかみつつで、とらえる〈begreifen〉があること、支え〈aufstutzen〉つつで、持ち上げる〈heben〉があり、持ち上げつつで、担う〈tragen〉があるごとくです。そして、支える、持ち上げる、担うが、主として足にまつわる働きであり、(見て)とる、つかむ、とらえるが、主として手にまつわる働きです。そのことについては、すでに3-bの回において少しふれてあります。)

 

 さて、この回のお終いには、「万葉集」から一首、いわば手痛いとらえそこねの歌を引きます。

 

あづさ弓引きみゆるしみ思ひみて

すでにこころはよりにしものを