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略伝自由の哲学第三章g−2

 さらに、次の段がこう続きます。

 

 わたしたちは、きっと、はじめに、考えるを、まったくニュートラルに、考える主や考えられる客との重なりなしに、見てとる。そもそも、主と客において、わたしたちは、すでに、考えるからなりたたされている〈考え〉をもっている。このことは、否むべくもない。他のことがとらえられる前に、きっと、考えるがとらえられる。それを否む者は、このことを見落としている。その者も、人として、生みなしのはじめのひとところでなく、しんがりのひとところである。それゆえに、人は、〈考え〉によって世を説き明かすのに、あるの、時の上におけるはじめの元手から起こすことはできない。できるのは、わたしたちに、最も近いもの、最も親しいものとしてあるところからである。わたしたちは、わたしたちを、一飛びに世のはじまりへと移して、そこから見てとりはじめることは、できない。わたしたちは、きっと、いまの一時から起こして、後のものから先のものへと遡れるかどうかを、視る。地質学は、思い描きによる回転運動を云々して、地球のいまのありようを説き明かしていたあいだは、闇の中を手探りしていた。いよいよ、いかなるプロセスがいまなお地球において繰り広がるかを調べることをもって取りかかり、そこからかつてのことを見積もって、はじめて、ひとつの確かな地盤を得た。哲学は、原子、運動、物質、意志、無意識など、ありとあらゆる原理を思い設けるあいだは、宙を漂うであろう。いよいよ、哲学する者が、しんがりもしんがりを、その者のはじまりと見つけるようになってこそ、目標へと至ることができよう。そのしんがりもしんがり、世の繰り出しがもらたしたそれが、考えるである。

 

 はじめの文は、まさにいまのことを語っています。それを、いまひとたび引くことにします。

 

 わたしたちは、きっと、はじめに、考えるを、まったくニュートラルに、考える主や考えられる客との重なりなしに、見てとる。 

 

 わたしたちは、まさにいまと言うにおいて、きっと、そのとおりのありようにおいてあります。そして、みずからのことを振り返れば、まさにいまと言う時が、「ものごころ」がつきだしてより、たびかさねてありました。その時という時においても、わたしたちは同じくそのとおりのありようにおいてありました。わけても「しかじかに目覚めた」という時を振り返るにおいては、そのとおりのありようがありありときわだちます。なるほど、その「しかじか」は、かつてのこととして蘇りますが、しかし、その「目覚め」は、いまに引き続き、いまに重なって、まさにいまのことです。そもそも、考えるを見るは、つねに、いまと言う時においてなされることであり、晴れやかなありようであることです。(「はじめに」に当たるのはerstであり、いわば時の上の起点を示す副詞で、まず(はじめに)」「つい(いましがた)」「ようやく(やっと)」「いよいよ(これから)」などさまざまな情のニュアンスをもって使われます。)

 

 次に、この一文は、まさにいまと言う時のたびかさなり、まさにいまという時の引き続きとともに、晴れやかさが嵩じるにおいてのことを語っています。

 

 他のことがとらえられる前に、きっと、考えるがとらえられる。

 

 他でもなく考えるという〈考え〉がとらえられるのは、しかじかの〈考え〉に先立ってであり、しかじかがとらえられるに先立ってです。そして、考えという〈考え〉は、考えられ、とらえられるものです。(「〈考え〉」に当たるBegriff については、3-b の回を見てください。)

 

 さて、続くひとくだりにおいて、ふたたび藪から棒のように「生みなし」ということばが使われます。わたしたちは、世のものごとに目覚めるものです。その時、そのものごとは、そこにありあわせます。わたしたちは、そのものごとが、いつから、どのようにありあわせるに至ったかを、さしあたりは説き明かせません。

 

 加えて、わたしたちのこころと、こころのなりたちも、わたしたちのからだと、からだのなりたちも、同じく世のものごとの内です。わたしたちは、まずもって、それに目覚めるものです。なおかつ、わたしたちは、世のものごとに目覚めてより、だんだんにそれを見てとり、つかみ、とらえつつ、説き明かすようになります。それは、わたしたちがその目覚めを引き継ぐかぎり、きっと、こういう道筋をもってです。

 

 わたしたちは、きっと、いまの一時から起こして、後のものから先のものへと遡れるかを、視る。

 

 それは、思い描きでなく、思い設けでなく、まさに考えつつ見てとらえながら、その明らかさを引き継ぎつつ、だんだんに世のはじまりへと遡るプロセスです。なんと、考えるは、わたしたちの目覚めの時の先にまで遡ります。ここに、考えるは、いよいよもって世のことであり、世のまるごとに及んであることです。(「思い描りに当たるのはerdichtenであり、dicht 〈濃い、凝ごった〉から来て、「創作」「仮構」の意です。また「思い設け」に当たるのはannehmen であり、an〈ついて〉nehmen〈取る〉というつくりで、「仮定」「仮想」の意です。」

 

 加えて、そのプロセスは、見つつ、とる、つかむ、とらえるようになる、いわばおのずからなる、明らかさへのプロセスを、その明らかさを保ちつつ、とらえる、つかむ、とる、そして見るへと、とってかえすプロセスでもあり、さらには精神のなりたちから、こころのなりたちへ、さらにはからだのなりたちへと、降りる道筋でもあり、そのなりたちを立てる道筋でもあります。そもそも、わたしたちのなりたちは、見るにおいて、横たわってあります(3-bの回を見てください)。なお、その道筋は、ー、二、三、四の章立てにおいて、みごとに踏まえられています。

 

 そして、いよいよ、おしまいのひとくだりです。

 

 いよいよ、哲学する者が、しんがりもしんがりを、その者のはじまりと見つけるようになって、目標へと至ることができよう。そのしんがりもしんがり、世の繰り出しがもたらしたそれが、考えるである。

 

 考えるも、世のこととして、繰り出しつつ、いまのとおりに繰り出すようになりました。たとえば、世という〈考え〉が、ギリシャの、ソクラテスに先立つ哲学者たちがとらえるようになったものであることも知られますし、また、追って考えると、八の章から取り上げられることになる、いわば先立って考えるは、エピメシウスとプロメシウスの神話の形において発していることも、まさにいまにして、まさにいまから追って確かめられます。(ここではerstに「いよいよ」のニュアンスを当ててみました。まさに「これから」のことであることを強めようとしてです。「世の繰り出し」に当たるのはWeltentwickelung であり、Welt 〈世の〉Entwickelung〈繰り出し〉というつくりです。ついでにEntwickelung〈繰り出し〉は「発達」「発展」「進化」などとも訳されます。)

 

 さて、この段にちなんでは、こんな句を掲げることにします。

 

 埋火や壁には客の影法師 芭蕉

 

 そして、こういう解もあります。あわせて見てください。

 

 「芭蕉句集」の前書などを参考にすると、「曲翠を旅館に訪うて、埋火を中にして静かに相対していると、壁にはくろぐろと客である自分の影法師がうつっている」という意のように考えられる。埋火のかすかな火の色、黙しがちな主と客、しずかにゆらぐ灯火、そして壁に凍てついたように動かぬくろぐろとした影法師、寒夜の身に泌みるような寂寥とともに、温い心の触れあいが感じられ、そこに挨拶の心を読みとることができる。しかし、芭蕉の校閲を経たはずの「続猿蓑」に前書を付さずに収められているところから察すると、あるいは、この句に独立性を与え、草庵独座の句として位置づけようとしたものかとも考えられる。その場合は己が影を「客」といったことになろう。私は句としてはその方に惹かれている。・・・

(加藤楸 邨「芭蕉全句」のちくま学芸文庫)

 

 

 そして、ついに、おしまいの段です。

 

 こんなことを言う人もある。わたしたちの考えるが、それとして正しいかどうか、わたしたちは確かさをもって決め置くことができない。すなわち、そのかぎり、その起点も同じく疑わしいままであると。そのように言うことが理性的であること、ひとつの木がそれとして正しいか否かを疑うのと、まさに同じほどである。考えるは、ひとつの事実である。そして、それが正しいか誤りであるかについて云々するのは、意味がない。わたしが疑いを抱きうるのは、せいぜい、考えるが正しく使われるかどうかである。それは、これこれの木が、しかじかの器具をつくるのに、ふさわしい材料となるかどうかを、疑いうるのと同じである。世について考えるを用いることの、どのかぎりで正しいか、どのかぎりで誤りか、それを示すことが、まさにこの書の課題となってくる。もし、世について考えてなんになるとの疑いを、誰かが抱くのなら、わたしにはわかる。しかし、考えるがそれとして正しいかどうかを、誰かが疑いうるというのは、わたしにとっては、とらえようがない。

 

 わたしたちは、目覚めるにおいて、とにかく世にまみえます。そして、すでに見てきたとおり、わたしたちは、とにかく考えるにもまみえます。すなわち、考えるも世のことのうちです。その晴れやかな時におては、世を疑ういわれが、どこにもありあわせません。わたしたちは、まさにあるがままを迎え、まさにあるがままに向かうばかりです。

 

 そのありようは、「旧約」の「視よ、そは、すこぶるよきかな」という世の生みなし手のありように通じます( 3-c の回)。

 

 あるいは、こうもありました。

 

 考えるを、わたしたちは、それそのことによってつかむことができる。問いは、ただ、わたしたちが、それによって、その他をもとらえることができるかどうかである。(3-fの回)

 

 その「ただ」も、また、晴れのありようを伝えています。その他の問い、さらには疑いが出てくるのは、考えるを、褻のありようから用いるにおいてです。

 

 すなわち要は、考えるを、いかに用いるかです。

 

 考えてなんになる

 

との問いは、わたしがふさわしく考えることができるかどうかという意味において、わたしにも十分す、ぎるほどわかります。しかし、

 

 考えることそのことがふさわしくないのでは

 

という疑いは、わたしにも、晴れのありようをどうにかこうにか立てつつ引き寄せられるかぎりにおいては、とらえようがありません。

 

 さて、この段につけては、こういう詩句を引きます。

 

一人称にてのみ物書かばや、

我は寂しき片隅の女ぞ。

一人称にてのみ物書かばや、

我は、我は。

 

 与謝野晶子の「そぞろごと」と題する詩の一節ですが、その詩は雑誌「青踏」の創刊(1911) に寄せられて、その巻頭をかざる、まさに晴れやかなおりの、晴れやかな詩でもあります。

 

 

 なお、三の章の構えとタイトルについても、すこしふれておきたいと思います。わたしたちが、考えるを見るにおいて、こころは、みずみずしく起こります(3-fの回) 。そのみずみずしさ、そぞろさ、そこはかとなさを、まさに見てとるところから、こう言うことができます。

 

 これまでの七回において取り上げたことが、それとなく、こういう七つの面を引き立ててもいます。

 

g 「いま(担う)」ということで「維持」

f 「誘う」ということで「熱交換」

e 「抜け出す」ということで「排泄」

d 「こなす」ということで「消化」

c 「生みだす」ということで「生殖」

b 「なりたち」ということで「成長」

a 「昇り降り」ということで「呼吸」

 

 その七つの面は、すなはち、わたしたちが生命の働きとして考えるところでもあります。

 

 そして、章のタイトルは

「考える‐世をつかむに仕えつつの‐」

(Das Denken im Dienste zu Welterfassung)

です。