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略伝自由の哲学第四章a−3

 この回は、四の章の三の段からです。

 

 いまにおいて哲学する者であり、多くに読まれるひとり(ハーバート・スペンサー)は、わたしたちが見るところに対して繰り広げる精神のプロセスを、次のように描く。

 

 「九月のある日、野を歩いていると、音が聞こえ、すこし先の、音の出所と覚しき溝の傍らで、草の動くのが見える。わたしたちは、おそらく、そこまでやっていくだろう。なにが音と動きを引き起こしたのかを、経験するためにである。わたしたちが近づくと、鶉(うずら)が飛び立って溝に入った。そして、そのことをもって、わたしたちの好奇心は満たされている。すなわち、わたしたちは、現象の説き明かしと呼ぶものを、もつ。その説き明かしは、よく気づくと、こういう運びである。わたしたちは、生きるにおいて、いくたびとなく、小さな物体の静かなありようの破れが、そのあいだにある他の物体の動きを伴うということを経験しているゆえに、そして、そこから、そうした破れとそうした動きのかかわりを普遍化しているゆえに、そのことさらな破れが、まさにそのかかわりの一例であることを見いだすや、説き明かされたと見なすのである。」

 

 さらによく視ると、ことは、そこに述べられているのと、まったく異なる。音が聞こえるにおいて、わたしは、さしあたり、その見るところに見合う〈考え〉を求める。その〈考え〉が、まず、わたしを、音を超えて導く。さらに追っては考えない者なら、音が聞こえたという、ただそれだけのことで済ませる。しかし、わたしの追って考えるを通しては、音をなにかのせいとしてつかむべきであることが明らかになる。すなわち、まず、わたしが、なにかのせいという〈考え〉を、音の覚えと繋ぐにおいて、そのひとつの見るところを超えつつ、そのもとのなにかを求めるよう促される。なにかのせいという〈考え〉が、もとのなにかという〈考え〉を呼び出し、そして、わたしが、もとのなにかでありつつの対象を求め、それを鶉のつくりにおいて見いだす。しかし、その〈考え〉、もとのなにかと、なにかのせいを、わたしは、ただの見るを通しては、その見るが多くのケースに渡るとしても、得ることができない。見るが、考えるを、誘い出し、そして、いよいよ、考えるが、わたしに、道を示す。ひとつの生きられるところを、もうひとつに結び付けるべく、である。

 

 述べられていることは、「現象の説き明かし」ということ、もしくは「わたしたちが見るところに対して繰り広げる精神のプロセス」ということです。(「現象」に当たるのは Erscheinung  であり、erscheinen〈現れる、見える〉から来て、「現れるところ、見えるところ」といった意です。なお、この語も、「対象」という語のときと同じく、さしあたりは「象」の字にとらわれずに読んで下さい。また「説き明かし」に当たるのは Erklarungであり、erklaren〈明かるめる、明らかにする〉から来て、「解明、説明」といった意です。)

 

 その述べられていることを、例によって、いまひとたび追って考えます。まずは、スペンサーが述べていることからです。たとえば、コーヒーカップが持ち上げられて、カップのなかのコーヒーが揺れ動きます。わたしたちは、その種のことを、いくたびとなく見てとっています。そして、それをもとに、なにかの動きが他のなにかの動きを引き起こすという、いわば多くのことに当てはまる〈考え〉を引き出し、その〈考え〉を、いちいちのことに当てはめて、いくばくかの明らかさを得るということもしています。たとえば、木の葉が揺れているのは、風が吹いているから、風が吹くのは、気温が変動するから、気温が変動するのは・・・・などなど。(「小さな物体の・・・」は、むしろ「小物体の静止状態の破潰が、その間に存在する他の物体の運動を随伴する」といような訳が、いわば定番ですし、その文の内容にまつわる、いわば醒めた冷たい気分をも、それなりふさわしく容れることができます。まさにそう訳したいところですが、そこだけ変えるのも、かえっていやみでしょうから、こうしてカッコのなかで言い訳をしています。なお「物体」に当たるのは Korper であり、「原子」「分子」から「人体」「天体」まで、いわばわたしたちがからだをもって迎えることのできる世のうちの、いちいちといういちいちを指すことのできることばです・・・!)

 

 なんだか当たり前の例しか思い浮かびませんが、むしろ例が当たり前であるほどに、精神のプロセスがよく気づかれます。そこには、いわば「見る」「見てとる」「〈考え〉を引き出す」「〈考え〉を当てはめる」、言い換えれば「現象」「経験」「分析・抽象化、普遍・一般化」「帰納、評価」という順のプロセスが繰り広げられています。そして、ことに科学では、「見る」「見てとる」を主に実験室、「〈考え〉を引き出す」「〈考え〉を当てはめる」を主に頭のなか、そして「説き明かす」を主に論文や教室において賄うという手順さえ踏まえられます。(「よく気づくと」に当たるのは wohlgemerktであり、wohl〈しっかり〉 gemerkt〈認められた〉というつくりで、「注意してほしいものだが・・・」「まちがいのないように強く断るが・・・」といった意の挿入句だそうです。)

 

 では、スペンサーがあげる、そもそもの例においては、いかがでしょうか。すなわち、九月のある日、野を歩いていて、ふと、がさがさという音が聞こえる。はてと、すこし先を見ると、草が動いている。なんだろうと、そこまでやっていくと、鶉が飛び去る。それを目にして、なあんだ鶉だったのかと言う。そこまでに、わたしたちが繰り広げる精神のプロセスは、さきに上げるのと同じでしょうか。もし、そうだとしたら、その人は、スペンサーと同じく、かなりの「学者」です・・・。(「繰り広げる」に当たるのは vollziehen であり、voll〈まるまる〉ziehen〈引く〉というつくりで、「実施、施行、遂行、成就」といった意です。)

 

 その精神のプロセスは、ことに

「ふと」

「はて」

「なんだろう」

「なあんだ」

といったことばにおいて、あらわに識られます。わたしたちは、それらのことばをもって、さらには、それらのことばをまさに発しつつで、こういう精神のプロセスを、つぶさに視ることができます。わたしたちは、

 「ふと」において、見ることを促され、

 「はて」において、見るに応じる〈考え〉を求め、

 なにかのせいという〈考え〉を得て、もしくは「なんだろう」と思って、

 探し求めることを促され、鶉を見て、鶉という〈考え〉を得て、「なあんだ」ということばを、思わずもらします。

(「よりつぶさに視ると」に当たるのは genauer besehenであり、genauer 〈よりつまびらかに〉 besehen〈視られた〉というつくりで、さきの「wohlgemerkt よく気づくと」を受けていましょう。すなわち、「気づく」のも「見る」があってであり、「視る」のも、なおさらに嵩じた「見る」があってです。)

 

 いわゆる文の成分として、「ふと」は連用修飾語(独立語・接続語)であり、用言に連なります。また、「はてと」「なんだろうと」「なあんだ鶉だったのかと」は接続語(補足語)であり、述語へと続きます。そして、その用言も、その述語も、動詞を要としています。わたしたちは、たとえばですが、「ふと」立ち止まり、「はてと」佇み、「なんだろうと」やっていき、「なあんだ」と頷いたり、手を打ったりします。とにかく、それらのことばを発するにおいて、わたしたちはアクティブなありようをしていますし、そこからはさらに、からだをもって振る舞うことへも通じていきます。

 

 その、わたしたちのアクティブなありようを、ひとこまひとこま、しっかり取り立てながら見ていきます。

 

 「ふと」立ち止まるのは、音と動きを見るにより、音と動きを迎える働きが強まることをもってです。

 

 「はてと」佇むのは、音と動きを見るにより、考えるを迎える働きが強まることをもってです。(なお、段のお終いには「見るが、考えるを、誘い出す」ともあります。その「誘い出す」に当たるのは herausfordernであり、 fordern〈求め促して〉 heraus 〈こちらへと出す〉というつくりです。)

 

 さらに、動いている草のところまでやっていくのは、まず「なにかのせい」と考えるにより、そのなにかに向かう働きが強まり、いよいよ「なんだろう」と思うにより、そのなにかに向かいつつ迎える働きが強まることをもってです。(「まず」に当たるのも「いよいよ」に当たるのも erst であり、eh〈はや、先立って〉から来て、形容詞ないし序数として「はじめの、第一」の意であり、副詞として、引き続く動詞の「動」の、いわば「すみやかな起こり」を意味します。なお、それについては、ことに3-f、3-gの回を見てください。)

 

 言い換えれば、見るところに重ねて「なにかのせい」という〈考え〉をとらえ、ないしつかむにより、その、つかまれた、ないしとらえられた、「なにかのせい」という〈考え〉が、「もとのなにか」という〈考え〉を呼び出し、その〈考え〉の繋がりが、さらなる見るを促し、導くことをもってです。その促し、導きは、とりもなおさず考えるの促し、導きです。(「呼び出す」に当たるのは hervorrufen  であり、hervor〈前へと〉 rufen〈呼ぶ〉というつくりで、「生じさせる」の意もあります。なお、それは、三の章にみえる hervorbringen  が「前へと・もたらす」というつくりであり、「生みだす」の意を兼ねそなえることにも通じています。3-cの回をも合わせて見てください。)

 

 くどいようですが、さらに言い換えます。人が結果という概念をもって現象に応じ、原因としてのなにかを探し求めます。それは、人が結果から原因へと概念を辿り、その繋がりが人に働きかけるにおいてです。(「なにかのせい」に当たるのは Wirkungであり、wirken〈働く〉から来て、「働き」ないし「働きによって成されるところ」の意です。訳としては「活動、作用、効果、結果」といった語も当たります。なお、辞書(DUDEN) には、Wirkung と wirken が、Werkという「織物」と「織りなす」をともに指すことばから来ているらしい、ともあります。ついでに、Werkは、もともとにおいて英語の work と同じです。また「もとのなにか」に当たるのは Ursacheであり、Ur〈もとの〉sache 〈ことがら〉というつくりで、「原因、根拠、理由、動機」といった訳語が当たります。すなわち、「Wirkung なにかのせい」という語も「Ursache もとのなにか」という語も、語のつくりにおいて、「織りなし(がら)」と「働きかけ(もと)」という精神のプロセスを伝えていましょう。)

 

 そして、いよいよプロセスの一区切りです。すなわち「なあんだ」とことばをもらすのは、もとのなにかでありつつの対象が、鶉という〈考え〉とともに、新たに見られるにより、考えるの促し、働きかけが収まることをもってです。(「もとのなにかでありつつの」に当たるのは verursachend であり、Ursache〈もとのなにか〉からつくられる動詞 verursachen〈・・・のもととなる〉〈・・・を引き起こす〉の現在分詞形です。)

 

 加えて、その、見ると考えるの重なりにおいて、はじめて「象」があります。もしくは、すがた、かたち、つくりがあります。それにつていは、これからさき、じっくりと見ていくことになります。(「つくり」に当たるのは Gestaltであり、gestalten という動詞の形をもとることばです。すなわち、「つくる」との繋がりを引き立てたくて、あえて「つくり」と訳しました。なお、「鶉」という字にしても、「鳥」という形と、「享」という声からつくられています。)

 

 さて、そのとおり、いわば、わたしたちが引き続き見るにおいて、考えるが、見るへと、三たび、ないし四たびに渡って、降りきたります。なお、「四たび」というのは、「考える」と「思う」(もしくは「〈考え〉をとらえる」と「〈考え〉をつかむ」)を分けて数えるならばです。そもそも、わたしたちが引き続き見るのは、考えるが、見るを超えつつ(もしくは、見るの上において)見る促し、見るを超えつつ(もしくは、ひとつの見るから、もうひとつの見るへと)見るを導くことをもってです。すなわち、スペンサーがあげる、そもそもの例において、わたしたちが繰り広げる精神のプロセスは、引き続き見るのプロセスであり、かつ、三たび、ないし四たびに渡って重なりあい、働きおよぶ、考えるのサイクルです。しかも、その見るのプロセスと、その考えるのサイクルは、むきが逆でもあります。

 

 加えて、からだをもってすることとしては、「佇む」にも、「やっていく」にも、なおさらな考えるのサイクルを要します。いやそれどころか、見るのプロセスのはじまりにおける「立ち止まる」にも、お終いの「ことば思わずをもらす」にも、なおさらな考えるのサイクルを要してはいないでしょうか。それについては、八の章から見ていくことになります。

 

 それにしても、『自由の哲学』の書き手は、なんとも手短に言ってのけます。それにひきかえ、いつものことながら、わが説き明かしの文章の、なんと長たらしいことでしょうか。要は、だれしもに、あっさり、ぴんとくるところです。その解説がましいところは、どうぞ、ひとたび用が足りたら、すっかりお忘れください。

 

 長たらしさのついでといってはなんですが、いまひとたび、鶉にまみえていただきます。たとえばですが、こういうプロセスにおいてです。九月のある日、野を歩いていると、がさと音がする。おやと、そのほうを見ると、草むらが動いている。さてはと、近づくと、やっぱり、鶉が飛び立った・・・! !  いかがでしょうか。鶉のつくりと、野を歩く楽しみが、さきほどよりは、ひとつ増えているはずです。すくなくても、その「やっぱり」は、「好奇心の満足」には尽きていないはずです。

 

 さて、次の段です。

 

 人が、「厳密に客観的な科学」ということで、その内容を見るからのみ取れと求めるなら、きっと同じく、考えるという考えるを止めよと求めなければなるまい。そもそも、考えるは、その自然として、見られるところを超えゆく。

 

 見るところ、ないし見てとるところから、〈考え〉を引き出す人は、考えるによりながら、考えるを軽んじがちです。

 

 これまたたとえばですが、ふと立ち止まり、はてと佇んだところから、もう〈考え〉を引き出そうとして、あれこれ頭をひねりかねません。さらに、引き出された〈考え〉が、どれも当てはまりそうになくて、立ち尽くし、かといって引き出すべき〈考え〉も尽き果てて、書斎や実験室に引きこもり、はては、仮説として突拍子もない〈考え〉を捻りだし、その捻りだされた〈考え〉が、その突拍子もなさにおいて、好奇心を誘い・・・。

 

 そもそも、引き出された〈考え〉は、人に働きかけはしません。なるほど、それによって、人がいくばくかは目覚めもしますが、しかしまた、それによって、人が縛られることにもなりますし、人の見るところが色あせることにもなります。言い換えれば、抽象された概念は、人を生かしはしません。なるほど、それによって、人が啓蒙されて知識を増やしはしますが、しかしまた、それによって、人が型にはまることにもなりますし、人の迎える現象が、解釈されて陳腐に堕すことにもなります。

 

 いったい、〈考え〉を引き出すには、すでに貯めておいた〈考え〉がなければなりません。そのためには、たしかに、見ることをしなければなりませんが、しかしまたたしかに、考えることもしなければなりません。

 

 そもそも、人が見るを引き続き押し進めるのは、考えるの扶けをもってです。そして、人は、そのことに気づくことも、そのことを視ることもできます。しようとするほどに、さらによく・・・。

 

 さて、こういう鶉のつくりもあります。

 

  うづら鳴く古りにし郷の秋萩を

    思ふ人どち相見つるかも(万葉集)