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略伝自由の哲学第四章a−4

 前の回に誤りがありました。七頁、右側、下から八つ目の行に「『考える』と『見る』」とあるのがそれで、正しくは「『考える』と『思う』」です。他のことに気をとられていて、うっかり書き違えていました。すみません。なお「考える」と「思う」の違いについては、これから四、五、六の章にかけて詳しく見ていくことになります。

 

 もうひとつ、これは六頁、右側の中ほどで文法上の分類と用語とにひっかかった人のために付け加えます。「はてと、すこし先を見ると・・・」の「はてと」「なんだろうと、そこまでやっていくと・・・」の「なんだろうと」「なあんだ鶉だったのかと言う(もしくは、思わずことばをもらす)」の「なあんだ鶉だったのかと」は、接続語だと言いましたが、補足語というのが「正しく」「穏やか」です。そして、そのプロセスのはじまりの「ふと、がさがさという音が聞こえる」の「ふと」は、連用修飾語であると言いましたが、まさに言う人によっては独立語でもありえますし、さらに「ラジカルな」人には接続語でもありえます。

 

 といっても、文法上の分類と用語とが無意味だというのではありません。要は、「ふと・・・」「はてと・・・」「なんだろうと・・・」「なあんだ鶉だったのかと・・・」における「と」を、どう説き明かすかということであり、まずは分類や用語をさしおいて、「と」ということばにおける考えるの働きかけを、ありのままに顧みるところから、どんなことが言えるかということです。なお、そのことは、すでに前の回でお断りしたとおり、八の章から詳しく取り上げられます。

 

 ちなみに『自由の哲学』の書き手は、書いてからちょうど三十年の後(1924年)にオイリュトミーについて語りながら、〔t〕という声の響きを奏でる人のアクティブな立ちようを lodernde Begeisterung(あえて訳してみるなら、精神を通わせつつのあついたぎり)と言い、〔o〕という声の響きを湛える人のアクティブなありようを weisheitwirkende Tatigkeit (賢こさの織りなしつつのする働き)と言っています。とにかく、ことはまさに考えるを見るにかかります。そして、そこからは尽きない意味が汲みとれます。分類や用語の適不適も、そこからこそ明らかになります。

 

 さてと、この回は四の章の五の段からです。

 

 さて、そこはかと、場は、考えるから考えつつの者へと移る。そもそも、その者を通して、考えるが見ると繋がれる。人の意識は、〈考え〉と見られるところとが互いに出会い、互いに結ばれる現場である。それによって、はたまた、その(人の)意識のことも述べられている。その意識は、考えると見るのとりなし手である。人が、ひとつの対象を見るかぎりにおいて、その人にとり、その対象が、与えられて現れ、人が、考えるかぎりにおいて、その人が、その人にとり、する働きをしつつで現れる。人が、その対象を客と見てとり、その人を考えつつの主と見てとる。人が、その人の考えるを、見るところへと向けるから、客についての意識をもち、人が、その人の考えるを、その人へと向けるから、その人の意識、もしくは自己意識をもつ。人の意識は、きっと必ず、自己意識でもある。なぜなら、考えつつの意識であるからである。そもそも、こと考えるが、まなざしを、まさにそのことのする働きに向けるにおいて、まさにそれそのことのものたることを、すなわち、その主を、客として対象とする。

 

  これまでのことを振り返ります。まず、考えるを見るにおいて、考えるとともに〈考え〉が見られるところとなります。こういう趣においてです。

 

 そのように、いちいちの〈考え〉が繋がって、ひとつの、まとまりある、〈考え〉のシステムをなし、そのうちにおいて、それぞれが、それぞれのことさらな場をもつ。(一の段)

 

 そして、考えつつの者という〈考え〉も、まさにその〈考え〉のシステムのうちに、それなりのことさらな場をもちます。考えるを見るの道すじは、まさにそのとおり、考えるから、〈考え〉へ、そして考えつつの者という〈考え〉へと続きます。

 はたまた、その道すじを導くのは、考えるです。こういう趣においてです。

 

 見るが、考えるを、誘い出し、そして、いよいよ、考えるが、わたしに、道を示す。ひとつの生きられるところを、もうひとつに結び付けるべく、である。(四の段)

 

 そして、まさに考えるの導きにより、考えつつの者という〈考え〉との重なりのもとに、考えつつの者が、いま、ここ、この場において、あらためて見られるところとなり、あらためて生きられるところとなります。ほかでもなく見られつつ、生きられつつの考えるとの結び付きにおいてです。そのそこはかさ(明らかさ、みずみずしさ)は、じつに、いかがでしょうか。はじめの文を、あらためて引きます。

 

 さて、そこはかと、場は、考えるから考えつつの者へと移る。

 Nun ist es am Platz, von dem Denken auf dasdenkende Wesen uberzugehen.   

 

 いうところの場は、広がりのひとところであり、かつプロセスのひとこまです。そして、そのプロセスは、見るのプロセスであり、かつ考えるに導かれつつ、永い目でみても短い目でみても、人が育つプロセスです。すなわち、人が周りを見つつ考えつつ、周りについての〈考え〉を抱き、周りについての〈考え〉を抱くみずからを見つつ考えつつ、みずからという〈考え〉を抱き、さらに考えるを見るところから、周りを見なおしつつ考えなおしつつ・・・。(件の文は Nun〈さて〉es〈それ〉am PLatz〈場・について〉ist 〈あるのは〉、・・・uberzugehen 〈・・・移ることである〉というように読めます。まず Platz〈場〉は英語の placeと同じく、ラテン語の platea 〈道〉から来ており、am Platz〈場・について〉は慣用句として「ふさわしい」の意です。ちなみに、遡って一の段における「場」は Stelle であり、stellen 〈据える〉に通じて空間的であるのに対し、そこから下って、ここでは時間的な含みをもつ Platzが用いられていることになります。次に nun〈さて〉は、副詞にも、不変化詞 Partikelー「まあ」とか「ふん」といった感動詞に当たるでしょうかーにも、接続詞にも分類されています(DUDEN) 。ここでは、わけても副詞的で、「いま」や「ときに」といったことばに当たるでしょうか。ついでに「さて」は、感動詞とされていて、「はて、そなたが待たば愚僧も待たうはさて」というように文のお終いに用いられる例も挙げられています (広辞苑) 。そしてes〈それ〉および「そこはかと」については、3-f の回を見てください。)

 

 また先走ってしまいました。地道に順を追うことにします。考えつつの者を見て、いかがでしょうか。次に続く二つの文を引きます。

 

 そもそも、その者を通して、考えるが見ると繋がれる。人の意識は、〈考え〉と見られるところとが互いに出会い、互いに結ばれる現場である。

 

 まずは、ことばのかかりうけから見ます。「その者」は言うまでもなく「考えつつの者」をうけ、「考えつつの者」は「人の意識」と言い換えられます。もちろん、人の意識は、つねづねにおいて、人のこころとからだに重なってあり、またもろもろの対象とも重なってありますが・・・(「者」に当たるのは Wesenであり、sein〈ある〉から来て、[als lebende Kraft]vorhanden sein〈 [生きた力として] 手の前にある〉との解があり、「生物」「存在」「状態」「組織」「実在」などとも訳されます。また「もの」については「形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表す。また恐怖の対象や、口に直接のぼせることを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト (人) 以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている (岩波古語辞典) 。」)

 

 つづけては、右の二つの文によって述べられていることを見ていきます。気づくといい、識っているといいますが、まさにそういうのは、変な言い方ですが、気づくことに気づくからであり、識っていることを識っているからです。ただ気づくだけ、ただ識っているだけでは、そうは言わないものです。わざわざそういうのは、それに意識的であるからです。つまり、わたしたちは意識に意識的であればこそ、意識ということをいいます。「人の意識は、〈考え〉と見られるところとが互いに出会い、互いに結ばれる現場である」というのは、まさに意識的なことがらであり、人が、考えると見るをもちあわせるのみでなく、いわば、考えるを引きおろしつつ、見るを嵩じさせることをもって見てとるところです。言い換えれば、人は、ものごころがついてくるにつれて、考えると見るをもちあわせるようになりますが、そのものごころ、もしくは考えると見るがあわさるところは、人がさらに考えると見るをとりあわせるにつれて、より定かに、より確かに見てとられるところとなっていきます。「現場」という、なまなましいことばは、そのことを述べるとともに、そのことを勧め、促す意図から選ばれているはずです。これもまた先走りになりましたが・・・。(「現場」に当たるのは Schauplatz で、 Schau〈観の、すなわち嵩じた見の〉 platz〈場〉というつくりで、「ことの起こる場」という解があり、出来事や事件の現場を言います。加えて、わたしたちは建築の場をも現場といいます。また、現の字も、見てのとおり、見の字をもってつくられ、「見を露顕の意に用いるときの俗体の字」であり、「仏典に多く用いられる」そうです (字通) 。また「人の」に当たるのは menschlich であり、3-g の回にも言うように、形容詞として比較級もありえます。が、それについては、もっと先に進んでから、詳しく見る場が出てきます。)

 

 はたして、次には、こういう二つの文が続いています。

 

 それによって、はたまた、その(人の)意識のことも述べられている。その意識は、考えると見るのとりなし手である。

 

 そのとりなしは、人が嵩じた意識をもってする働きであり、たとえばですが「見てとる」の「見る」と「とる」を繋ぐ「て」ということばに重なってあります。(「とりなし手」に当たるのは Vermittler であり、Mitte〈あいだ、なか〉から来て、「あいだやなかをとりもつもの」の意です。)

 

 そして、右に文を五つ重ねて述べられてきたこと、すなわち、ものごころのついてくるプロセスであり、人の意識の起こりゆくプロセスであり、考えつつの者の考えるを重ねつつ嵩じさせる見るのプロセスが、次に繰り返して辿られます。その繰り返しを重んじて、いまひとたび、順をおって引くことにします。

 

 人が、ひとつの対象を見るかぎりにおいて、その人にとり、その対象が、与えられて現れ、人が考えるかぎりにおいて、その人が、その人にとり、する働きをしつつで現れる。

 

 そのする働きというのは、「見てとる」の「とる」であり、そして「つかむ」「とらえる」であり、さらにはもろもろの「おもう」であり、「操る」「捻り出す」などです。ちなみに、わたしちは、つねづねに、それらの「する働き」を指して、「考える」と言っているものです。(なお「与えられて」に当たるのは als gegebenであり、「所与として」の意です。)

 

 人が、その対象を客と見てとり、その人を主と見てとる。

 

 そのとおり、人に与えられたところへと、人のする働きが加わります。(「客」に当たるのはObjektであり、「主」に当たるのはSubjektです。どちらも、まさに人のする働きから使われることばです。)

 

 人が、その人の考えるを、見るところへと向けるから、客についての意識をもち、人が、その人の考えるを、その人へと向けるから、その人の意識、もしくは自己意識をもつ。

 

 そのとおり、人のする働きがさらに加わって、人の意識が、嵩じつつ、まさにその人の確かにもつところとなり、手堅く用いるところとなります。ちなみに、わたしたちは、つねづね、右にいう「考えるを向ける」を指して、「自分で考える」とか「よく考える」とかと言っているものです。(なお、「用いる」は「持ち居る」だそうで、「持つ」の嵩じた形です。そして「かんがえる」が「か・むがふ」であるという説 (3-b の回) をとるなら、「か」は「見るところ」「与えられたところ」もしくは「対象」を指し、「むがふ」は「考えるを向ける」を指すことになります。)

 

 人の意識は、きっと必ず、自己意識である。なぜなら、考えつつの意識であるからである。

 

 人の意識は、まさにその人の意識であり、まさにその人が考えるの働き(Wirken) ないし働きかけ(Wirkung) をもってする働き(Tatigkeit) によります。

 

 そして、右の、「もの」に重きをおいた文を、「働き」と「する働き」に重きをおいて言い換えると、こうです。

 

 そもそも、こと考えるが、まなざしを、まさにそのことのする働きに向けるにおいて、まさにそれそのことのものたることを、すなわち、そのことの主を、客として対象とする。

 

 およそ、ことは、嵩じるにおいて、ものものしくなります。こと考えるは、ことにです。

 

 そして、こと考えるが嵩じるのは、まさにわたしが、考えるの働きをもって、考えるのする働きに向かえばこそです。

 

 そして、まことわたしであることは、そのことのきわだちであり、まさにわたしというものは、そのもののものがたりです。右の文は、まさにわたしという人がわたしという人のことを語る文でありながら、というよりも、まさにわたしという人がわたしという人のことを語るからこそ、わたしということばも、人ということばも要しません。

 

  そして、わたしという人は、そのつどのことにおいて、そのつどのものにおいて、たとえわずかなりとも、まさにわたしという人でありうるものですし、ありたいものです。(「まさにそのことのする働き」に当たるのは seine eigene Tatigkeitで、seine〈それの = 考えるの〉eigene〈固有の〉Tatigkeit 〈する働き〉といういいまわしであり、「まさにそれそのことのものたること」に当たるのは seine ureigene Wesenheitで、seine〈それの = 考えるの〉ur-eigene〈根っから・固有の〉Wesen-heit〈もの・であること〉といういいまわしです。ついでですが、「事代主」「一言主」「大国主」の「主」も、そもそもは精神のものとして、いうところの主なるもののことではないでしょうか。また「命」「尊」「御言」の字をもつ「みこと」も、同じくそもそもは精神のこととして、いうところのことの、気高く、生きたきわだちに当たりはしないでしょうか。)