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略伝自由の哲学第四章b−1

 前の回に引いた『座禅箴』に正伝、単伝といったことばが用いられていましたが、それについて少し補います。伝は傳の略であり、偏の「イ」は人、旁の「專」はものをつめこんだ袋、そして表わされるその字の意味は、人が袋を負って運び伝えることだそうです。そういえば、いまのスポーツの駅伝にしても、ランナーは、袋ではありませんが、タスキを運んでいますし、報道は「タスキの重さ」といったことばを用いたりします。

 

 さて、略伝のこの回はナンバーを4-aから4-bに改めて、四の章の十四と十五の段を取り上げます。

 

 ことばを用いることの振れ幅ゆえに、ひとつ、これから用いることを要することばについて、読み手のかたがたと共に弁えることをしておかなければならないようである。わたしは、右に言う直接の感覚の客を、意識されている主が見るを通して知っている限りにおいて、覚えと呼ぶことにする。すなわち、見るのプロセスをでなく、見るの客を、わたしは、その名をもって引き立てる。

 

 わたしが感覚という表現を採らないのは、その表現が、生理学において、ひとつの定かな意味をもち、その意味が、わたしの、覚えという〈考え〉よりも狭いからである。わたしみずからの内のひとつの情を、わたしは、こころおきなく覚えとして引き立てることができるが、しかし生理学の意味での感覚としては引き立てることができない。また、わたしのかずかずの情について、わたしが知っているのも、それらが、わたしにとって覚えであることを通してである。そして、ことの趣としては、わたしたちが、わたしたちの考えるについて見るを通して知っていることと、わたしたちが、わたしたちの意識へとまずもって立ち現れてくる考えるを覚えと呼ぶことができることとが、まさに同じである。

 

 わたしたちは、ここまで、考えるから、〈考え〉および思いを経て、見るの客およびただの見るの客へと、いわば下ってきました。ここからは、その見るの客のなんたるかを問いながら、かさねがさね考えることをもって、ふたたび上へと遡っていきます。さきに言ってしまいますが、右の二つの段は、上りはじめに当たり、いわば大きな見通しを得ておくことがねらいです。とにかく、読んでみて、いかがでしょうか。そこに述べられていることを、いつものとおり略伝なりに読み返していきます。

 

 用いることは、持つことをもってなされます。持ちあわせがなければ、用いようにも用いようがありません。ことばの上でも「もちいる」は「もつ」から来るそうです。さらにまた、持ちすぎていると、もてあますことにもなりますし、用いずにいると、もちぐされることにもなります。そもそも、持つから用いるへと至る、そのプロセスは、人がする働きを少なくてもひとしお嵩じさせて辿ります。よって、用いることは、持つことよりも、なおさらに人それぞれです。(「用いる」に当たるのは gebrauchen であり、brauchen〈要する〉から来ます。なお「用」もまた「用がある」「用を足す」というように用いられて、「要する」ことをも意味します。)

 

 そのことは、また、ことばについても当てはまります。人は、ことばを聞いて、ことばを持つようになります。が、そこには用いないことばも多く含まれています。言い換えれば、聞いて分かるものの、みずからは言わないことばがありますし、言うのを控えることばもあります。聞いて分かること、ことばを持つことが、言うこと、言うのを控えることへと通じるのは、そのあいだにおいて人のする働きが嵩じているからです。言い換えれば、分けること、ないし弁えることがなされているからです。そして、ことばの上でも、「わきまえる」は「わかる」「わける」の嵩じたかたちです。つまり「とる」から「とらえる」が、「つかむ」から「つかまえる」が出来るのに同じく、「分かる」「分ける」から「分きまえる」が出来ます。(「弁える」に当たるのは sich verstandigenであり、sich〈みずからを〉 verstandigen 〈分からしめる〉という言い回しです。さらに verstandigen 〈分からしめる〉は verstehen〈分かる〉から来ており、 verstehen〈分かる〉は stehen 〈立つ〉から来ています。さらにまた「立つ」については、3の章を見て下さい。)

 

  そして、人は、ものごとを広くも狭くも弁えますし、また高くも低くも弁えます。さらに、そこから、ことばを広くも狭くも用いますし、また高くも低くも用います。はたして、人がことばを用いることには、人の弁える働きの振れ幅が表れます。(「振れ幅」に当たるのは das Schwankenであり、 schwanken  〈振れる〉の名詞化されたかたちです。なお schwankenは英語の swing  と源を同じくしており、「あちこち、あるいは上下に揺れる」との解があります。そして「表現」に当たるのはAusdruckであり、aus〈外へと〉drucken〈押し印す〉またはdrucken〈押し出す〉から来て、「表へと著しく現されるところ」の意です。もちろん、語られ、記されることばも、そのひとつです。)

 

 しかし、ことばは、また、独り歩きすることもあります。人の用いることばに、その人の弁えがほとんど聞こえてこないことです。そして、そのことは、「共に弁える」ことからも促されます。そもそも、弁えることは、分かること、分けることを経ます。そのプロセスは、まさに人それぞれが、いくたびも見るを通して辿ってこそ、まっとうされます。その、人が、それぞれに、たびかさねてする働きが、しかし、「共に弁える」においては省かれます。それは『自由の哲学』の書き手の望むところではありません。そもそも、書き手は、人それぞれを立てようとするゆえに、まさに述べることをして、強いつつ教えることはしません(なお「述べる」については、二の章のお終いの段を見てください)。が、ここでそれを敢えてするのは、他にそれを強いるものがあるためです。つまりは、世にさまざまなことばが独り歩きしてているためです。たとえば定義や情報というかたちのことばも、おうおうにしてそれです。(「共に弁える」に当たるのは mit... sich verstaudigen であり、mit... sich verstaudigen という言い回しで、「分からせる、合意をとりつける」といった意です。そして「・・・しておかなければならないようだ」に当たるのは es scheint mir geboten であり、es〈それが〉 mir〈わたしにとって〉 geboten〈せざるをえない〉scheint 〈ように見える〉との言い回しであり、 geboten〈せざるをえない〉は bieten 〈不当に要求する〉の過去分詞形です。)

 

 さて、まずはしぶしぶながら、敢えて分からせ、弁えらせる形、教えて、呑ませる形で言うそのことは、こうです。繰り返して引きます。

 

 わたしは、右に言う直接の感覚の客を、意識されている主が見るを通して知っている限りにおいて、覚えと呼ぶことにする。すなわち、見るのプロセスをでなく、見るの客を、わたしは、その名をもって引き立てる。

 

 べつに「感覚」ということばが嫌いなわけではありません。それどころか、「右に言う直接の感覚の客」を呼ぶのに、「感覚」ということばは、それなりふさわしいことばでもあります。なにしろ、いうところの客は「色のとりどり、音のいろいろ、触、熱、味、匂いの感覚のそれぞれ、そして快と不快の情のいちいち」です。しかも、つねづねにおいて、わたしたちの迎える色や音やその他もろもろには、快や不快の情が微かながらも伴っています。(「感覚」に当たるのは Empfindung であり、 empfinden〈感覚する〉から来ます。そして、empfinden 〈感覚する〉は emp〈受けて〉finden〈見いだす〉というつくりです。)

 

  また、わたしたちがつねづねにおいて感覚とつきあうのは、われを忘れて見とれているところからではなく、また教えられて知っているところからでもなく、まさにわたしが感覚するところからであり、まさに意識されている主が見るを通して知っているところからです。(「意識されている主」に当たるのは das bewusste Subjektであり、 das〈その〉 bewusste〈意識された〉 Subjekt〈主〉という言い回しで、いうならば「わたしが意識しているわたしみずから」のことです。)

 

 その感覚の客を、しかし、『自由の哲学』の書き手は、覚えと呼びます。まずもってのモーチベョンは、しぶしぶながらのそれですが、そこにはまたアクティブなモーチベーションも、いわばひそかに孕まれています。すなわち、覚えということばによって、感覚における「意識されている主の見るを通して知っている」という、アクティブなありようが引き立てられます。(「覚え」に当たるのは Wahrnehmungであり、wahrnehmen〈覚える〉から来ます。そして wahrnehmen〈覚える〉は  wahr〈まことに〉 nehmen 〈とる〉というつくりです。また、覚の字は見に学が加わったかたちです。なお Wahrnehmung  は知覚と訳されるのが習いですが、ここではそれを採りません。それが翻訳用語の趣をいまもって引きずっており、どことなくよそよそしく、こなしがたい響きがするためでもありますが、それにもまして、これから見ていく知と覚の違いのゆえに、その二つを一つに括らないでおいたほうがいいと考えるからです。)

 

 次の段に入ります。まずはじめの二つの文を引きます。いうところの、まずもってのモーチベーョンが述べられています。

 

 わたしが感覚という表現を採らないのは、その表現が、生理学において、ひとつの定かな意味をもち、その意味が、わたしの、覚えという〈考え〉よりも狭いからである。わたしみずからの内の情を、わたしは、こころおきなく覚えとして引き立てることができるが、しかし生理学の意味での感覚としては引き立てることができない。

 

 生理学は感覚から感情を締め出します。こころみに生物学辞典で感覚の項を引くと、

 

 動物が体の一部で受け取った刺激が求心神経により(高等動物の意識に関しては大脳皮質)に伝えられるとき、そこに生じた刺激の対応物を感覚という。

 

 というようにはじまり、その機能、器官、特質、分類について述べられていますが、感情については一言もふれられてはいません。つまり、生理学にいう感覚は、わたしたちがつねづねに言う感覚よりも狭い感覚です。生理学は、感覚を狭く見てとり、狭くつかみ、狭くとらえています。いわば、感覚を感と覚とに分かち、感もしくは感情を心理学に委ね、覚をからだをもっての覚に限って客と弁えており、そのもとには、色や音は、からだにかかわり、客であり、外に属し、情は、こころにかかわり、主ないし内に属するという考えがあります。そして、それもつまりは、狭く分かつことを通しての、狭い弁えです。次のことを、ひとたびかさねて考えてみれば、はっきり分かります。

 

 すなわち、三つ目の文です。

 

 また、わたしのかずかずの情について、わたしが知っているのも、それらが、わたしにとって覚えであることを通してである。

 

 わたしは、とにかく色や音を覚えますし、情のかずかずをもまずは覚えます。そして、その上でこそ、内と外を分かち、主と客を弁えます。たとえばですが、不快な色に出くわすとします。その色は、外にあるとしても、その不快さは、どこにあるでしょうか。色とともにあるはずです。ならば、その不快さは外に属するでしょうか、それとも内でしょうか。はたして、どちらだと見てとりますか。その不快さは客でしょうか、主でしょうか。これまた、どちらだと弁えますか。生理学が教えるところからではなく、また心理学が教えるところからでもなく、さらに哲学が教えるところからでもなくて、まさにわたしがつねづねに見て覚えて覚るところから、どのように分かち、どのように弁えることができるでしょうか。(それについては、次の回から詳しく見ていくことになります。)

 

 すなわち、四つ目の文です。

 

 そして、ことの趣としては、わたしたちが、わたしたちの考えるについて見るを通して知っていることと、わたしたちが、わたしたちの意識へとまずもって立ち現れてくる考えるを覚えと呼ぶことができることとが、まさに同じである。

 

 わしたちは、ことに三の章においてに述べられていることを手がかりにしながら、考えるのいかなるかを、まさに見つつで知ってきました。いかがでしょうか。そのことは、わたしたちのする働きを嵩じさせながら、新たに現れてくる考えるを、それとして覚えることから捗ってきました。また、そのことは、いままさに新たに現れてくる考えるを、それとして覚えることによっても、しっかりと確かめられます。(なお、その「覚」はことに「さとる」とも訓じられます。そして、それについて詳しくは、次の五の章において述べられます。)

 

 わたしたちは、そのことをもって、こう分かち、こう弁えることができます。見るにおいて、現れがあり、現れにおいて、趣があります。また、見るにおいて、覚えるがあり、覚えるにおいて、知っている、もしくは憶えているがあります。それは、色や音についても、情についても、考えるについても同じです。(「趣」に当たるのは  Art であり、「性質、様相、種類」といった意です。それは、現れのプロセスでなく、現れのさまを指します。また、「おもむき」の「おも」は「おもて」の「おも」であり、「むき」は「迎える、向かう」と通じます。なお、「むき」については二の章を見て下さい。)

 

  さらに、見、現れ、趣の順において、外および客がきわだちます。見る、覚える、知っているの順において、内および主がきわだちます。すなわち、内と外も、主と客も、まさに相対することにおいて、いよいよ内と外となり、主と客となります。そして、そう相対することは、人のする働きに懸かります。

 

 そのとおり、わたしたちは、わたしたちのする働きにおいて、

 

 見る   覚える  覚る(さとる)

 分かる  分かつ  弁える

 もらう  持つ    用いる

 

 という、横にも縦にもの嵩じるプロセスを辿ることができます。言い換えると、人のする働きは、三重に嵩じつつ、いよいよもって人のする働きとなります。さらに言い換えると、主という客は、する働きをまさにしている人へと、三重に現れます。そして、これから辿る道筋は、その三重の現れを、わたしたちひとりひとりが、リアルに迎える道でもありますし、またリアルに育む道でもあります。

 

 ここで、ふたたび生理学ですが、それは、人のする働きを狭く限ることによって、かずかずの実りをもたらします。が、狭く限ることにかまけて、他とのつながりを見失うことにもなります。すでに生理学のうちにおいてさえ、さまざまな説が互いのかかわりをつけられないでいます。

 

 さらに、生理学に限らず、いまの科学の流通スタイルとして、定義にはじまり、論証・教化・学習を経て、学力テストへという流れは、知識を増やすことは促しても、その知識は、ただの知識として、人のする働きを阻むことになりがちです。そもそも、見ることを欠き、よって問うことも欠いて、いっきに呑み込み、そそくさと弁えることからは、こなすことも、耕すことも続きはしません。すなわち、主という客が、いわばあるがまま、荒れるがままにまかされ、いつしか、かの箒草の、ちからなく秋の風にうちなびくところとなります。そして、またそのことも、これから上へと遡る道筋においては、ことにリアルに、いまのわたしたちのこととして、確かめることができます。(なお、二つの段を通じて「知っている」ということばが三たび用いられていますが、それに当たるのは Kenntnis nehmen  または erhalten であり、Kenntnis〈知識を〉 nehmen 〈とる〉または erhalten 〈もらう、もつ、たもつ〉という言い回しです。)

 

 さて、持つことと持ち主について、二人のことばを引きます。人それぞれで大きな振れ幅をもって見ることへの、力強い助けとなるはずですから。まずひとつは教育のこととして、こうです。

 

 ツバメを春来る小鳥の一つといい、スミレを紫色の馬の顔のような花と註する類は、春とか紫とかをことごとく皆会得した者に、なるほどうそではないと思わせるまでのもので、実は解説ですらもない場合が多いのであるが、過ぐる六年の間に何を覚え、何を漠然と覚えかかっているかを、突き留める手段の具わらぬ限り、毎々これに似た頓珍漢を、教えられそうな懸念があるのである。そうすると子供は正直に、言葉も注釈もいっしょくたに鵜呑にしてしまうから、暗記はできてもおぼえたことにはならない。マナブとオボエルとはこの点において二つのものであるように私たちには感じられる。マナブという動詞は上代の口語にはあったようだが、語源は明らかに真似・マネブと同じく、そうして今日はもう文章語にしか用いられていない。「学」という漢語をマナブと訓ませたことは、誤りでもあればまた今日の不幸でもあった。これを日常の生活から物遠いものと考えさせ、もしくは外形の模倣をもって足るかのごとく、想像せしめた陥し穴もここにあったとすれば、我々は今からでもなお警戒しなければならぬ。「学」は「覚」だからむしろオボエル・サトルの方が当たっている。また、そうでなければ国語の主人となることもできないのである。(柳田國男『国語の将来』所収「昔の国語教育」ちくま文庫)

 

 もうひとつは歴史のこととして、こうです。

 

 名とは、空閑地または荒廃地を開墾して私有したものの名、または田地を売買した者の名を、その所有の田地に冠せて呼んだもので私田の一種である。最初の私有者の名を冠せたものが後にその領有者が代わったばあいでも新領有者の名前に変わらず、そのまま旧名が残った。だから武悪が開墾して私有したら武悪名として後まで伝わる可能性があったわけで、こういう名を多く持っている者が大名、少ないものを小名といったのである。

 

 狂言の大名・小名に名前がなくて武悪にだけ名前があるのは、彼の不奉公が特に新開の名によったからであろうと、私はいいたいのである。武悪が固有名詞でなかったとしても、土地の名との一体化の観念が強くはたらいていたから、そうなったのであろう。そして名の発生についてまだ定説をみないが、古代に御名代というのがあることを思いあわせると、たんなる所有の便宜から名づけたのではなく、名づけることによって、今のわれわれにはわからなくなっているなんらかの効果を期待していたのであろう。

 

 たとえば、大国主命の主という観念のようなものを想定することができる。今でも某池の主は大きな蛇だなどというあの主である。人間が物を所有する観念が移行して、主が池を所有しているというに近い考えかたになっているが、しかし人間が物を所有するというほど対象化してはいない。むしろ池という現象形態の背後にかくれている本尊というほどの気持ちである。これと近い観念で、所有の観念が成立したのちに、だんだん対象化が進んだものと思われる。つまり名を田地につけることで主が明確化し、名の本人と主(土地の神)との一体化が促進されたのだと私は推定している。

 

 田の祭りは、田の神をそそのかして生産力を増大させるためのものであった。だから田主という人物が出てくるが、これはもと田の主であった。それが田の所有者と混同して、所有者自身が神の資格で演戯することにもなったのである。(戸井田道三『狂言』平凡社ライブラリー)