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略伝自由の哲学第四章b−2

 前の回のはじめに、伝の字が專を負って運び伝えるという意味であることにふれました。それから、主というものとのかかわりで、お終いには、大国主命にふれた文章を引きました。いかがでしょうか。そのあいだには、こんなかかわりも、あるといえばあります。大国主は兄弟八十神から袋を負わされます。「その八十神、各々稲羽の八上比売を婚はむの心ありて、共に稲羽に行きし時」のことです。

 

 同じく前の回に、箒草のたとえを用いました。出どころは北原白秋の「待ちぼうけ」です。そのバラードのお終いの連に見えています。そして、そのバラードと大国主の古事のあいだにも、そこはかとないかかわりが、あるといえばあります。かの、待ちぼうけてしまう人も、まずは野良稼ぎに精をだしながら、兎にまみえますし、かの、袋を負った大国主も、まずは気多の前にやってきて、兎にまみえます。かたや、思いがけなく飛び出してきて、木の根っこを転がした兎、かたや、海の和邇を欺いていたことを、ついつい、おそらくは誇らしげに言い放って、そのために裸にされた素菟です。

 

 いったい、白秋にしても、また古事記として記されることになった語りを、まさに語り伝えた人たちにしても、そうした兎の相を、どこから、どのようにして、つくりなしたのでしょうか。

 

 べつに、そのことを、ああだこうだと推し量りたいのではありません。ただ、ここからのテーマは、相というものであり、つくりなすという、わたしたちのする働きです。そして、そのテーマを、ひととおり考えてみると、そうした兎の相も、また待ちぼうけてしまう人の相も、さらにまた大国主の相も、なおさらに、そこはかと、ゆかしくなってまいります。つまり、そのそこはかさ、ゆかしさは、なんなのか、どこからくるのかを、あらためて問いたいのです。そして、答えも、そこから聞きたいのです。

 

 ところで、この話を編集の佐藤麻有子にすると、まぁ! クイズみたい! という大きな声が、ちょっぴり冷たい笑いといっしょに帰ってきました。それに、わたしなんか、箒草っていったら、すぐにトンブリですけどぉ!  と、トンブリが箒草の実であることも教えてくれました。なんだか、これからは、わたしも、箒草といったら、すぐに麻有子の顔が出てきそうです。そういえば、トンブリは畑のキャビアというふれこみですから、キャビアは海のトンブリということになるんでしょうか。すくなくても、キャビアは海の和邇の卵です。もちろん、わたしはというと、海のものも、畑のものも、大好きです。それに丼物、缶物、袋物だって・・・。これは、その、楽屋落ちでした。

 

 この回は、四の章の、十六、十七、十八の段を取り上げます。

 

 ナイーブな人は、覚えを、その人にじかに現れるという意味において、その人にまったく依らずにあるものごとと見てとる。その人が、ひとつの木を目にして、まずこう信じる。その木は、みずからが目にする姿において、そのそこここがもつ色とともに・・・むこう、まなざしの向けられている先にある。その同じ人が、朝日がひとつの円い盤として地平に現れるのを目にしつつ、こんな念いになる。そのすべてが、そのとおりに(それとして)ありつづけ、そして動きゆく。つまり、みずからがそれを見るとおりにである。その人がそう信じることにこだわるのは、異なる覚えに出くわして、それが、さきのと、かちあうまでのあいだである。子どもが、まだ隔たりについての経験をもたずに、月をつかもうとし、そして、はじめの見かけに従って実と見なすところを、いよいよふさわしく立てるのは、さらなる覚えが、はじめのそれに、かちあってありあわせるときである。わたしの覚えの境が広がるごとに、わたしは、わたしの世の相を立て直すことを要する。それは、日々に生きるにおいても、また人類の精神史においても、きわだつ。地球と太陽ならびに他の天体とのかかわりについて、かつての人たちの作した相が、コペルニクスによって、もうひとつの相へと置き換えられることになったのは、それが、さきには知られていなかった覚えのかずかずと、折り合わなかったからである。ドクター・フランツが生まれてより目の見えなかった人を手術したとき、その人がこう言った。手術の前までは、触の感官での覚えにより、対象の大きさにについて、まったく違った相を作していた、というようにである。その人は、触りつつの覚えを、視つつの覚えによって、立て直すことになった。

 

 わたしたちが、そのように引き続き、わたしたちの見ることを立て直すよう強いられるのは、なにゆえか。

 

 ひとたび重ねて考えることが、その問いに答えをもたらす。わたしが並木道のこちらの端に立つと、むこうの端の、わたしから隔たる木々が小さく見え、また木々の間も狭まって見える。

 

 わたしの覚えの相は、わたしが見ることを作す場を変えると、ちがった相になる。すなわち、それは、それがわたしに迫る姿において、客に帰す定めにではなく、わたし、覚える者に加わってくる定めに依っている。並木道にとっては、わたしがどこに立っても、どうということはない。しかし、わたしが並木道についてもっている相は、そもそもからして、わたしがどこに立つかに依っている。同じく、太陽と太陽系にとっては、人がほかでもなく地球から見やることも、どうということはない。しかし、人に生じる覚えの相は、その人の住むところによって定まっている。そのとおり、覚えの相がわたしたちの見ることをする場に依ることは、いたってたやすく見通される。ことがらが、より難しくなるのは、わたしたちの覚えの世が、わたしたちのからだと精神とのなりたちに依ることを、わたしたちが知ろうとするにおいてである。物理学がわたしたちに示すことであるが、わたしたちが響きを耳にする空間のうちには、空気の振動が生じている。また、わたしたちが響きの出どころとして探しあてる物体も、そこここが震える動きを見せる。わたしたちが、それらの動きを、ただ響きとしてのみ覚えるのは、わたしたちが、ノーマルななりたちの耳をもつにおいてである。その耳がなければ、世のまるごとが、ずっと黙ったままであろう。生理学がわたしたちに教えることであるが、わたしたちをとりまく、ふんだんな色の華やぎを、なんら覚えない人たちがいる。その人たちの覚えの相は、ただ明と暗のニュアンスを呈するばかりである。また、人によっては、ただひとつの定かな色、たとえば赤だけを覚えない。その人の世の相には、その色が欠けており、よって、その世の相は、ひとりの月並みな人のそれと異なる。わたしは、わたしの覚えの相が、わたしの見る場に依ることを、数学的、わたしのなりたちに依ることを、質的と呼びたい。先のことをとおして、わたしの覚えのかずかずの大きさのかかわり、および互いの隔たりが、後のことをとおして、それらの質が定まる。わたしがひとつの赤い面を赤いと視ることは −その質の定めは− わたしの目のなりたちに依る。

 

 さて、いつものとおり、述べられていることを、読み返していきます。

 

 木を見るにおいて、じかに現れ、じかに覚えられるのは、なんでしょうか。姿、色はもとより、花が咲いていれば、香り、実を食べてみれば、味、枝に触れてみれば、かたさ、冷たさ、風が吹いてくれば、さざめき、ゆらぎ、風が収まれば、おちつき、やすらぎ・・・。(「やすらぎ」は明らかに情でもありますが、前の回に見たとおり、情も、というより情こそは、じかに現れ、じかに覚えられるところであり、さらには考えるも・・・。)  ただ、そうはいっても、じかに現れ、じかに覚えられている時のそれらは、ことばで言い表そうとすると、かえってそれらを損なうことになりがちです。下手なことばは、なおさらです。百聞は一見にしかずといいますが、一見には実に多くが含まれます。あるいはまた、バラの花を見ながら、バラの歌をうたうのは、どちらかひとつが余計ですともいいますが、なにかを、じかに見ている、じかに覚えている、まさにその時の人は、だいたいは黙っています。そして、ことばは、やがて、そこから、おのずからのごとくに生まれでてきます。ナイーブというのは、ひとつに、じかに現れ、じかに覚えられる、えもいわれない境に遊ぶことのできる人を讃えるにも用いられます。そのような人というのは、たとえば、子どもであり、かつての人たちであり・・・。かたや、いまのわたしたちは、おのずからなる、覚ゆ、見ゆを、わたしからの、アクティブな、覚える、見るとして立てつつあります。(「人類の精神史」に当たるのは Die Geistesentwickelung der Menschheit であり、der Menschheit〈人類の、ないし人であることの〉 Geistes〈精神の〉 Entwickelung 〈展開、変遷、進化、ないし繰りだし、育ち〉という言い回しです。人が世と人みずからを見てとるのに、いかなる精神をもってしてきたかは、時代時代で異なります。そのことは洋の東西を問いません。そして、いうところの精神は、たとえばヘーゲルが『精神現象学』にいい、たとえば和辻哲郎が『日本精神史研究』にいう精神と、発端は同じです。つまり、いまの人がじかに見つつ覚えるところを、はじまりとしています。なお、それについては、ことに一の章、二の章を見てください。)

 

 それゆえに、いまの、ひととおり大人である、わたしたちに、まずもってアクチャルなのは、ナイーブのもうひとつの面です。すなわち、覚えを、みずからにじかに現れるという意味において、みずからにまったく依らずにあると見てとること、ないし見なすことです。言い換えれば、みずから見てとることをしていながら、そのことに気づかないでいることです。そして、その気づきを欠くことが、しばしば、こだわりや、とらわれのもとになり、他の人とのあいだの行きちがいの種となり、さらには信じること、念うことをかけての争いへと行きつくことにもなります。(「念いになる」に当たるのは der Meinung sein であり der Meinung〈念いが生じて〉sein〈いる〉という言い回しです。そして Meinung〈念い〉は meinen 〈念う、言う〉から来ます。なお「念」は「常に思う、いつまでも思いつづける」の意で、「おもう、こころ、となえる」と訓じられてきました。)  しかし、そのみずからにも、いつしか、さらなる覚えが、それまでの覚えにかちあう時がきます。そして、その時から、見ることを立て直すよう強いられ、こだわりや、とらわれをほぐすべく迫られ、他の人とのかかわりをも改めざるをえなくなります。その意味において、こちらのナイーブは、みずからする働きをしていながら、していることの覚えがないみずからを責めるにも用いられます。そもそも、見てとる、見なすは、人のする働きであり、まさにその人に依ります。そして、こちらでは、ことばを用いるということも、すこぶる大きな役割を果たします。(「見なす」に当たるのは halten であり、「保つ」の意です。なお「保つ」は「た・持つ」です。また「見てとる」については、ことに3-fの回を見てください。)

 

 わたしたちが、そのように引き続き、わたしたちの見ることを立て直すよう強いられるのは、なにゆえか。

 

 ひとたび重ねて考えることが、その問いに答えをもたらす。・・・

 

 まさにそう問うのも、わたしたちのする働きです。問う気になるかどうかはともかく、あえて問いたくないなら、とりあえず問わずにもすませます。また、重ねて考えるのも、わたしたちのする働きです。そして、その働きへと、答えは、やってきます。その働きをしていないところには、答えがやってくることもありません。(「引き続き」に当たるのは fortwahrendであり、fort〈先へと〉 wahrend〈続きつつ〉というつくりで、「時から時へ、いついつなりとも」といった意です。)

 

 とにかく、乗り掛かった船です。さきを続けます。木々の姿は、わたしたちが、じかに見つつ覚えるにおいて、遠くのが小さく、近くのが大きく、木々の間も遠くのが狭く、近くのが広くなります。そして、わたしたちが、見つつ覚える場を変えると、木々の姿も、木々の間も、変わります。それは木々のせいでなく、わたしたちが、その場、その場で見ることを作すせいです。(「作す」に当たるのは machen であり、広い意味での作為であり、ここまでにいうアクティビティ、する働きです。また「姿」に当たるのは Gestaltであり、「見ばえ Aussehen 」「具合い、かっこう Beschaffenheit 」「人物 Person 」のことです。そのことばを、4-a-2 の回では「つくり」とも訳しました。「姿」もまた人のする働きに依るためです。はたして Gestaltからは gestalten〈つくる〉という動詞もつくられています。なお「姿」は「女の咨嗟憂傷する姿が、最も姿態に富む」ゆえの字で、「態」との解があり、訓は「すがた、なり、かたち」です。ついでですが、こんな句もあります。象潟や雨に西施が合歓の花 芭蕉。)

 

 そのことは、わたしたちが、じかに見つつ覚える、日や月や星々についても、変わりありません。とにかく、いわゆる見かけとして、じかに現れつつ、じかに覚えられる客の相は、わたしたちが、その場、その場で、じかに見つつ、じかに覚えるによって、定かになります。その定かさ、ないし定めが、ひとことでパースペクティブと呼ばれます。(「見かけ」に当たるのは Augenscheinであり、Augen 〈目への〉Schein〈映え〉というつくりです。そして Schein 〈映え〉は、もともと  beweisende Urkunde〈明らかにものをいう、そもそもの知らせ〉だそうです。もちろん scheinen 〈映える、見える〉という動詞もあります。また「相」に当たるのは Bild であり、「象、像、様、絵」といった意です。もちろん bilden 〈つくりなす〉というい動詞がありますし、そこからまた Bildung〈作成、素養、教養〉という名詞がつくられます。なお、相は「樹木を視るの意の会意であろう」とあり、「象は祥、像は樣 (様) とそれぞれ声義の関係があろう」とあり、祥は「きざす」という働きをも指し、樣は「また橡に作り、像 (写す)とも通用する」とあります。その木偏と示偏と人偏の妙、および Bild の例に木が選ばれ、木々が選ばれることのゆかしさは・・・。)

 

 パースペクティブの定かさ、遠近法という定めは、いまの、ほとんど誰もが、つねづねに、もろもろを見やりながら、ありありと、親しく、つきあうところでもあります。いや、それでこそ、わたしたちは、わたしたちの立ち居振る舞いを、どうにか、こうにか、うまくまかなっています。その定かさ、その定めは、見られるもろもろに帰するのでなく、見つつ覚えるわたしたちに加わってきます。それは、すなわち、わたしたちの見ることをする場に依っています。いかがでしょうか。わたしたちは、遠くのものを小さく見ようとはしていないのに、なおかつ、わたしたちには、遠くのものが小さく見えます。それは、わたしのはからいでもなく、もののほうのはからいでもなく、やはり、わたしたちが、その場、その場で、見ることを作すからにほかなりまん。そのことを、わたしたちは、はっきりと見通しています。もっとも、ことそのことは、じつに大いなる謎ではありますが・・・。(「見やる」に当たるのは ansehenであり、an〈ついて、もしくは、目をつけて、気をつけて〉 sehen〈視る〉というつくりです。また「見通す」に当たるのは durchschauen であり、 durch〈貫き通して〉 schauen〈観る〉というつくりです。そして、どちらも「見ることをする、見ることを作る」のうちです。)

 

 ともかく、さきを続けます。

 

 ことがらが、より難しくなるのは、わたしたちの覚えの世が、わたしたちのからだと精神とのなりたちに依ることを、わたしたちが知ろうとするにおいてである。

 

 音は空気の振動であり、その振動を、わたしたちは、耳によって、音として聞く・・・。それは、いまの人のほとんどが知っていることですが、しかし、もともとは物理学が教えるところです。また、目のなりたちによっては、色が覚えられないことがある・・・。知ってのとおり、色盲ということですが、しかし、そのことの判断は、素人ではこころもとなく、生理学者や医者という人に委ねられます。しかしまた、そこでは人が器具や計器を頼りにします・・・。

 

 またまた、ともかく、世と感官をめぐって、科学が教える定めと、人がじかに覚える定かさとが、さまざまありますし、さまざまにかかわり合わされます。(「感官」に当たるのは Sinn であり、「感覚 Empfindung 」「覚え Wahrnehmung」の働きの面を指し、暗に器官のなりたちをも指します。もとは獣の跡や臭いを追う人のことだそうです。そして、十六の段のはじめに見える「意味」ということばも、それです。すなはち Sinn は、意味と感官というように二重に訳されます。同じく、意味は、意と味を重ねてつくられていますし、さらには味も口と未を合わせて・・・。なんとも、まあ、しみじみと、味わい深いではありませんか。)

 

 パースペクティブの定かさ、遠近法という法則の定めは、人がじかに覚えるとともに、すでに空間の法則として、数学とかかわりあっています。

 

 また、色、香、味、熱といった質も、人がじかに覚えるにおいて定かになます。そこでは、たとえば、同じ大きさでも明るい面は暗い面よりも大きく見え、また、黄色が明るく朗らかに、青が暗く落ち着いて見えるといった定めがなされます。それらは、心理学が「目の錯覚」として扱うぐらいでしょうが、しかし、まさにそう見えるのであり、いうならば「見え」の法則です。

 

 さて、それらの定かさ、それらの定め、それらの法則は、覚えるという、わたしたちがからだにおいてする精神の働きによっていますが、まさにそのからだと精神とのなりたちは、いかなるなりたちをしているでしょうか。

 

 また、そのなりたちにしても、じかに見るにしろ、器具や計器を用いて見るにしろ、まさに人が覚えるところではありませんか。

 

 むしろ、そのなりたちを、いまは、ひとりひとり、確かに覚えようとしていませんか。

 

 そして、それらの法則、それらの定め、それらの定かさについて、わたしたちが、まさに重ねて考えることができるのは、なにゆえでしょうか。

 

 それらの問いが、次の回へと引き続きもちこされます。お楽しみに。

 

 数学、物理、生理、心理と来ましたので、この回のお終いには、こころおきなく文学です。シラーが著したものに『素朴文学と情感文学について (er naive und sentimentalische Dichtung)』というのがあります。そして、『自由の哲学』の書き手は、初版の序でこう言っています。

 

 わたしたちの時代が、まことを汲もうと欲しうるのは、人というものの深みからこそである。シラーのよく知られた二つの道、

 

 われら二人、まことを求む、

  なれは外に、生きるに、われは内に、

 心に。しかして、きっと、

  われらおのおの、まことを見いださん。

 

 眼すこやかなれば、                 

  外にて造り主にまみえん。

 心すこやかなれば、

  きっと内にて世を映さん。

 

 のうち、いまは二つ目のが勝ってものをいおう。

 

 わたしたちに外から来るまことは、かならずや不確かさの印を帯びている。わたしたちひとりひとりの内にまこととして現れるところをこそである、わたしたちが信じたいのは。