· 

略伝自由の哲学第四章b-3

 前の回を引き継ぎます。象、像、様、絵などを意味する Bild に、相の字を充てて、すがたと訓むことにします。すなわち、ここに用いる相の字と、すがたということばは、わたしたちが、いま、じかに見つつ覚える定かな色や音や姿や形やを指します。もっとも、その字のそういう充てかたも訓みかたも、これまでにあったためしはないと、その筋からはお叱りをうけそうですが、それでも、言わんとすることは、その字のそういう充てかたと訓みかたをもって、かえって明らかになると、わたしは考えます、まさにいまからむかしへと遡りつつです。それについては、この回のお終いに、あらためてふれます。お待ちください。

 

 この回は四の章の十九の段からです。

 

 わたしたちの覚えの相は、すなわち、まずもって主のである。わたしたちの覚えの主のきわだちを知ることは、一体全体、そのもとに客のものがあるのかという疑いへと、たやすく行き着きもする。ひとつの覚え、たとえば赤い色の覚えも、定かな音の覚えも、わたしたちがわたしたちの器官のなりたちを定かに立てることなくしては、ありえない。そう、わたしたちが知っているにおいて、こう、人が信じるに至りもする。覚えは、わたしたちの主の器官のなりたちをさしおくと、ありつづけをもたない。覚えは、覚えるアクトの客であって、覚えるアクトなしには、いかようなりともありはしない、というようにである。この見解は、ジョージ・バークリーにおいて、ひとりの古典的な代表者を見いだした。かれの念うところ、人は、覚えに対する主の意味を意識したその時から、意識された精神がありあわせない世というものを、信じることができなくなる。かれは言う。「まことのいくつかは、じつに近しく、じつに明らかであり、人が目を開きさえすれば、視るにいたる。わたしは、次の重きをなす文を、そのようなまことと見なす。天におけるもろもろ、地に属するすべて、一言で、ありとあらゆる物体、それらがまとめて構える、世という大いなる建物は、あるということの支えを精神の外にはもたない。それらがあるのは、それらが覚えられ、ないし知られるにおいててである。よって、それらは、じつにわたしが覚えないかぎり、またはわたしの意識のうちか、ほかの生みなされた精神のうちに存在しないかぎり、そもそも存在をもたないか、ひとつのとわの精神の意識のうちに存在するかである。」その見解にとって、覚えは、覚えられるということを人がさしおくと、きれいさっぱり、なにも残らない。色も、視られなければ、なく、音も、聴かれなければ、ない。色と音に同じく、広がりも、姿も、動きも、覚えのアクトの外には存在しない。わたしたちは、どこにおいてであれ、広がりや姿を、それだけで視るのではなく、つねに色や、その他、わたしたちが主であるということとかかわりある、かずがずの質との結び付きにおいて視る。色や、それらの質が、わたしたちの覚えとともに消え失せるとき、それらに結ばれてある、広がりや姿も、きっと、同じく消え失せる。

 

 いつものとおり、順を追って読み返していきます。まず、はじめの文です。

 

 わたしたちの覚えの相は、すなわち、まずもって主のである。

 

 わたしたちの覚えの相は、さしずめ、覚えるわたしたちあっての相であり、いうところの主は、覚えるわたしたちのありよう、ないし立ちようです。わたしたちはとにかくいまに生きています。そして、『自由の哲学』は、わたしたちがとにもかくにもいま立つところをもって、はじまりとします。(「まずもって」に当たるのは zunachst であり、nachst〈最も近く〉zu〈に〉というつくりで、「まぢかに、ちかぢか、さしあたり、ひとまず」といった意であり、場のうえであれ、時のうえのであれ、さきがあるとの含みもあります。)

 

 続けて二つ目の文です。

 

 わたしたちの覚えの主のきわだちを知ることは、一体全体、そのもとに客のものがあるのかという疑いへと、たやすく行き着きもする。

 

 覚えはわたしが覚えるところだと覚えることと、覚えは主のもので、そのもとに客などあるのかと疑うこととは、ふたつのことです。そして、それがひとつのことだというのは、まさにそういうその人にとってのことです。一体全体、覚えると、疑うとでは、主のきわだちかたが違います。ただ、覚えるは、疑うとひとつになりがちです。つまり、覚えるは、わたしがわたしの迎えるありようを引き立ててであり、疑うは、わたしがわたしの向かうありようを引き立ててであり、そのふたつのありようは、そのつど、ひとつのごとく、ありあわせていますので・・・。(「行き着きもする」に当たるのは fuhren konnenであり、 fuhren 〈導き〉 konnen 〈うる〉という言い回しです。なお konnen については、ことに一の章の見てください。また「一体全体」に当たるのは uberhauptであり、haupt 〈あたま、身を〉 uber 〈超えて、凌いで〉というつくりで、「およそ、まったく、そもそも」といった意です。)

 

 そして、三つ目の文です。(いろいろやってみましたが、どうしようもなくて、四つの文に切って訳していますが、もとは一つです。)

 

 ひとつの覚え、たとえば赤い色の覚えも、定かな音の覚えも、わたしたちがわたしたちの器官のなりたちを定かに立てることなくしては、ありえない。そう、わたしたちが知っているにおいて、こう、人が信じるに至りもする。覚えは、わたしたちの、つまり、主の器官のなりたちをさしおくと、ありつづけをもたない。覚えは、覚えるアクトの客であって、覚えるアクトなしには、いかようなりともありはしない、というようにである。

 

 はたまた、知っていると、信じるも、ふたつのことです。なるほど、わたしが信じるのは、わたしが知っていることごとでもありますが、しかし、わたしは、わたしの知っていることごとのすべてを信じているわけではありません。

 

 さて、ことの内容のほうに目を向けます。いちいちの覚え、色や音の定かな相があるのは、わたしたちが覚えるにおいてです。そして、そのことも、わたしたちがじかに覚えるところです。

 

 さらに、覚えるは、器官のなりたちを定かに立てつつです。わたしたちが、しかじかの色を視るのは、わたしたちの目を開きつつ、あるいは凝らしつつ・・・であり、それなりの音を聴くのは、耳を立てつつ、あるいは傾けつつ・・・。そして、そのことも、わたしたちが、じかに覚えるところです。(「定かに立てること」に当たるのは bestimmte Einrichtungであり、 bestimmte〈定かに〉Ein 〈さしむけて〉richtung〈立てること〉というつくりです。なお「器官のなりたち Organismus 」については、4-a-1 の回を見てください。)

 

 では、「覚えは、わたしたちの主の器官のなりたちをさしおくと、ありつづけをもたない」ということ、もしくは「覚えは、覚えるアクトの客であって、覚えるアクトなしには、いかようなりともありはしない」ということは、どうでしょうか。わたしたちのじかに覚えるところでしょうか。断じて違います。そもそも、わたしたちは、色から目を離すと、その色を覚えません。つまり、そのときその色があるかないかを論じるのは、覚えるをもってでなく、推し量るをもってです。(「ありつづけ」に当たるのは Bestandであり、bestehen〈ありつづける〉から来て、「存立、在庫、残高」といった意です。また「アクト」に当たるのは Aktであり、「行為、行事、手順、演技」といった意です。それは、これまでにいう「する働き Tun」「アクテイビティ Tatigkeit」のうちでも、ことに身をもってする働きを指します。なお「する働き」ないし「アクテイビティ」については、ことに二の章を見てください。)

 

 そして、四つ目と五つ目の文です。

 

 この見解は、ジョージ・バークリーにおいて、ひとりの古典的な代表者を見いだした。かれが念うところ、人は、覚えに対する主の意味を意識したその時から、意識された精神がありあわせない世というものを、信じることができなくなる。

 

 見解ということば、だれがつくったのか、ここにはうってつけです。まさに見に解を加えて見解が出てきます。そして、解は、見へと、ぴたりと加わることもあれば、おかしな具合に加わることもあります。(「見解」に当たるのは Ansichtであり、an〈ついて〉 sehen〈視る〉から来ています。なお、このことばは、すでに三の章において使われています。3-a の回を見てください。)

 

 さて、ことの内容のほうは、どうでしょうか。「覚えに対する主の意味」をどこまで意識するかは別として、その意味を、人は、生まれた後のある時から意識するようになります。それにつれて、世は、意識された精神とともにあるようになります。もちろん、「意識された精神がありあわせない世というものを、信じることができなくなる」かどうかは、これまた別としてです。

 

 また、その意味、その意識を、人は、ある時代から立てるようになりました。ジョージ・バークリー (1648-1753)は、ことにその一人です。いわゆる経験論者(経験主義者)として、いわば、あるということを、覚えられないものをもってとやこうするな、という立場を貫こうとした人であり、そればかりか、篤く信じる心のすぐれた持ち主として、いわゆる聖職者でもあった人です。

 

 どうぞ、その人のいうことを、いまひとたび、とくと味わいください。

 

 かれは言う。「まことのいくつかは、じつに近しく、じつに明らかであり、人が目を開きさえすれば、視るにいたる。わたしは、次の重きをなす文を、そのようなまことと見なす。天におけるもろもろ、地に属するすべて、一言で、ありとあらゆる物体、それらがまとめて構える、世という大いなる建物は、あるということの支えを精神の外にはもたない。それらがあるのは、それらが覚えられ、ないし知られるにおいてである。よって、それらは、じつにわたしが覚えないかぎり、またはわたしの意識のうちか、ほかの生みなされた意識のうちに存在しないかぎり、そもそも存在をもたないか、ひとつのとわの意識のうちに存在するかである。」

 

 スタイルまでは訳せていませんが、それをさしおいて言います。バークリーその人の文の篤さ、その勢い、若さ、気高さは、いかがでしょうか。そもそも、すべてがわたしの覚えるところだと著しく覚える時は、ことに育ちつつの人へと訪れる時ですし、わたしの主のきわだちを知ることは、よしんば一時のことであろうと、精神の高みと広がりを知ることです。そこにおいては、内が外であり、外が内であり、世も、わたしも、ういういしく、みずみずしく、光り輝いているものです。

 

 そして、内容のほうですが、どこまでが覚えでしょうか。もしくは、どこまでが経験でしょうか。どこまでも覚えること、経験することに踏みとどまろうとするからには、まずはじめのほうの文「ありとあらゆる物体は、あるということの支えを精神の外にはもたない」というのを、「ありとあらゆる物体は、あるということの、ひとつの支えを、精神の内にもつ」というようにしてしかるべきです。つまり、「精神の外にはもたない」かどうかは、覚えられません。なにしろ、覚えられるかぎりは、精神の内ですから。なお、いうところの精神は、覚え、ないし相、ないし想い、ないし考え、ないしは意識です。(ついでに、バークリーが用いたことばとして、「考え」ないし「想い」に当たるのは idea です。「観念」とも訳されます。4-a-1 の回を見てください。)

 

また、「よって」によって導かれる二つ目の文となると、その内容は、ほとんどが推し量りによっています。いったい「ほかの生みなされた意識」や「ひとつのとわの意識」は、覚えられはしません。すなわち、わたしが覚えるかぎりは、ほかでもなく、わたしの意識のうちです。(「生みなされた」に当たるのは geschaffeneであり、被造物の被造ということ、「とわの」に当たるのは ewig であり、造物主としての神を指します。)

 

 しかし、そうはいうものの、まずは勢いを買います。そして、勢いよく、さきを続けます。行き過ぎ、勇み足には、あとから立ち戻ります。

 

 その見解にとって、覚えは、覚えられるということを人がさしおくと、きれいさっぱり、なにも残らない。色も、視られなければ、なく、音も、聴かれなければ、ない。色と音に同じく、広がりも、姿も、動きも、覚えのアクトの外には存在しない。わたしたちは、どこにおいてであれ、広がりや姿を、それだけで視るのではなく、つねに色や、そのほかの、わたしたちが主であることとかかわりのある、かずかずの質との結び付きにおいて視る。色や、それらの質が、わたしたちの覚えとともに消え失せるとき、それらに結ばれてある、広がりや姿も、きっと、同じく消え失せる。

 

 色も、音も、広がりも、姿も、動きも、みな、わたしが覚えるところであり、わたしのうちであり、わたしの主のきわだちであり、なりたちです。なんとも大きな主ではありませんか。そのとおり、あらためてことばにしてみると、こんなわたしにもやはり、あらためて湧き立ちつつときめくところがあります。もちろん、そのしりから、もろもろの信や念や疑いが起ころうともしますし、ややもすれば、ああだこうだとつっこみをいれてしまいがちでもあります。が、それでもなおかつ、まずはそれらを押さえ、まさに黙って、その意識を保ち、あらためて身のまわりを見わたし、さらに表にでて、ビルや信号や電線とともに、そのはざまからのぞく、はるかな空をも見やるとき、それらもまた、あらためてうるわしく、ときめきつつであります。もちろん、ことはただただ秘めやかなだけであり、そのほかはつねづねとなんの変わりもなく、つきなみもつきなみで、ついでに一服つけ、ほっとしたりもしているのですが・・・。

 

 さらに次の段が、こう続きます。

 

 しかし、形、色、音などが、覚えのアクトの内における存在しかもたなくても、ものごとは、きっと、あるはずであり、それらが、意識を抜きにしてあって、それらに、わたしたちの意識している覚えの相が似かよっていよう、といったものいいに、右のとおりの見解は、こういうことをもって対する。似ることがありうるのは、ほかでもなく、ひとつの色が、ひとつの色にであり、ひとつの形が、ひとつの形にである。わたしたちの覚えが、ほかでもなく、わたしたちの覚えに似ることはありえても、ほかのものごとに似るなどありえない。また、わたしたちがひとつの対象と呼ぶものにしても、覚えのかずかずの集まりであり、それらがそれなり定かに結び合ってあるに他ならない。わたしが、ひとつの机から、姿、広がり、色など、まさにわたしの覚えであるすべてを取り去ると、もはや、なにも残りはしない。その見解は、首尾一貫つきつめると、こういう言い立てへと行き着く。わたしの覚えの客は、ただにわたしを通して、つまり、わたしが覚えるかぎりにおいて、かつ、わたしが覚えているあいだにおいて、あるのみである。覚えは、覚えるとともに消え失せ、覚えるなくして意味をもたない。しかし、わたしのかずがすの覚えの他に、わたしは、いかなる対象も識りはしないし、識ることもできない。

 

 いうところのものいいは、いわゆる観念論(理想主義)からも、また唯物論(物質主義)からも、つけられようところです。それらの論や主義は、ともに同じく、意識を抜きにしてあるものごとを、推し量ることをもって立てようとします。かたや、バークリーは、覚えを立て、主であり、精神であることの意識をもちこたえようとします。あるのは、色のいちいちであり、音のいちいちであり、形のいちいちであり、かつ、わたしたちの覚えるアクトであり、わたしたちの主であり、わたしたちの精神であるということを、どこまでも押し通そうとします。しかし、その勢いのあまり、覚えを欠いたままの推し量りを、識らず識らずに交えています。いかがでしょうか。いちいちあげつらうことはしませんが、かれの推し量りを、そのままつきつめると、こういうことになります。すなわち、段のお終いのほうを、あらためて引きます。

 

 わたしの覚えの客は、ただわたしを通して、つまり、わたしが覚えるかぎりにおいて、かつ、わたしが覚えているあいだにおいて、あるのみである。覚えは、覚えるとともに消え失せ、覚えるなくして意味をもたない。しかし、わたしのかずかずの覚えの他に、わたしは、いかなる対象も識りはしないし、識ることもできない。

 

 その言い立ては、独我論と呼ばれます。というよりも独主論と呼ぶほうがふさわしいはずです。(「言い立てる」にあたるのはbehauptenであり、haupt〈頭、身〉からきて、「みずからをことがらの主として示す(sich als Herr einer Sache erweisen)」という解があり、「主張、保持、固守」といった意です。)

 

 しかし、その言い立ては、『自由の哲学』の書き手がバークリーその人を立てつつ、その人に沿いつつ、すっきりと言い換た言い立てです。そこからは、同じくすっきりと、こういう問いを立てることができます。

 

 そもそも、ひとりの人の覚える「あいだ」も「かぎり」も、まさにそのひとりの人に依ってはいないでしょうか。(「かぎりにおいて」に当たるのは soferneであり、so〈そう〉 ferne〈遠く〉というつくりの接続詞です。すなわち、場の広がりに基づきます。「あいだにおいて」に当たるのは solangeであり、so〈そう〉 lange〈永く〉というつくりの接続詞です。すなわち、時の引き続きに基づきます。)

 

 はたまた、客と客とのかかわりは、ほかでもなく客と客とのかかわりではありませんか。いったい、客と客とのむすびつきは、主に依るのみでしょうか。はたして「わたしが覚えない人は、消え失せる」でしょうか。だいたい「わたしが覚えない人は、意味をもたない」などと言われた日には、その人の立場はどうなるでしょうか。

 

 一体全体、ひとりの人の、かずかずの覚え、すなわち、いちいちのいちの覚えは、あまねきいちの覚え、すなわち、考えるを見るの覚えによって裏打ちされはしないでしょうか。(なお、それが五の章のテーマとなります。)

 

 そして、次の段です。

 

 その言い立てに、なんら、ものいいがつけられないのは、覚えが、わたしの主のなりたちとともに定まるという、ことの立ちようを、わたしが、見てとることのうちへと、そのあまねさのままに引き入れているあいだである。しかし、「覚えが立ってくるときの、わたしたちの覚えるファンクションが、どんなであるか、それをつきとめる立ちようの内に、わたしたちがあるときには、ことがらが、そもそもから違って立つ。わたしたちは、そのとき、覚えにおいて、覚えるさなかに、なにが生じるかを知っているし、また、覚えにおいて、すでに覚えるまえから、なにがなければならないかを、定めることもできる。」

 

 いちいちの覚えには、その場、そのつど、かぎりがあり、あいだがあります。そして、その場、そのつど、いちいちの覚えのかぎりとあいだは、主の立ちように応じています。そして、人が覚えを重ねて、もしくは場数を踏み、時を重ねて、主の立ちようが培われます。バークリーは、いちいちの覚えを、あまねきいちの覚えから立てつつも、そのことに気づいていません。また、こうも言い換えることができます。バークリーは、あまねきいちの覚えの主がただに精神のなりたちとして立つのを見てとっていますが、いちいちの覚えのかかわりをないがせにし、いちいちの覚えの主が精神とからだ(身)とのなりたちとして立つのを見落としています。すなわち、一言で、バークリーは、主の立てかたが足りません。(「そのあまねさのままに」に当たるのは im allgemeineであり、 all〈すべてに〉 gemeine〈共通の〉im〈うちに〉というつくりで、「一般的、普遍的」といった意です。)

 

 そして、ここからは、いちいちのいちである、人みずから、人の身のなりたちと働きが、取り立てられることになります。ついでに、DNA をはじめ、ミネラル、ビタミン、アドレナリン、善玉菌、悪玉菌といった、はやりのもろもろも、人の身の内に属しています。とにかく、いうところのファンクションは、わたしたちの身の働きです。いや、きちんというなら、わたしたちが身につけた働きです。そもそも、その働きは、さきにいうアクト、すなわち、わたしたちが身をもってする働きから、身の働きとなってきます。もちろん、わたしたちの身は、わたしたちのする働きに応じるだけの、いわば、みごとな下地でもあるからですが・・・。(「ファンクション」は Funktion であり、ドイツ語にとっても外来語として、「職務、役職、機能」といった解があり、そこにはまた「集団や全体の中で果たす役割ないし課題」といったニュアンスがこもります。)

 

 しかしです、「しかし」に続くことがらは、かぎかっこつきです。すなわち、伝聞、引用であることを示す接続法二式というかたちで言われています。それは、つまり、次の回から見ていくことになる観念論からの言い立てであり、同じくまた唯物論からの言い立てもあります。しかも、その言い立ての主の、いわば片よった立ちようが、すてきな言い回しによって、ほのめかされています。「覚えるファンクションをつきとめる立ちようの内に、わたしたちがあるときには」、すなわち、わたしたちが身の内にあるときには、まさに身の内の覚えがあっても、身の外の覚えはありません。そもそも、覚えのいちいち、色や形や音やは、まさに身の外にあります。それについては、さらに重ねて考えてみることを要します。次の回をお楽しみに。(「・・・立ちようの内にある」に当たるのはzu・・・imstande sein であり、 zu ・・・〈・・・へと〉 stande 〈立つ〉 im 〈内に〉 sein 〈ある〉という言い回しで、「・・・することができる、・・・する力がある」といった意です。)

 

 この回にちなんでは、グリムから「兎の花嫁」を引きます。(グリム『キンダー・ウント・ハウス・メールヒェン』の初版は 1812 年です。)

 

 むかし、女が娘とおって、みごとな畑にキャベツができて、兎がすっと来て、食うは食うは、冬もたけなわ、キャベツをみんな。そこで女が娘に言った。「畑に行って。兎を追って。」そこで娘が兎に言った。「しゅ、しゅ、兎さん、しゅ。あんた、キャベツ、みんな食べちゃう。」兎は言った。「こっち、こっち、娘さん、こっち。乗って、乗って、兎のしっぽ。おいで、おいで、兎のお宿。」でも、いやよ、と娘はいった。次の日も、兎がすっと来て、食うは食うは、キャベツをみんな。そこで女が娘に言った。「畑に行って。兎を追って。」そこで娘が兎に言った。「しゅ、しゅ、兎さん、しゅ。あんた、キャベツ、みんな食べちゃう。」兎が言った。「こっち、こっち、娘さん、こっち。乗って、乗って、兎のしっぽ。おいで、おいで、兎のお宿。」でも、いやよ、と娘は言った。三日目も、兎はすっと来て、またまた食う食う、キャベツをみんな。そこで女が娘に言った。「畑に行って。兎を追って。」娘が言った。「しゅ、しゅ、兎さん、しゅ。あんた、キャベツ、みんな食べちゃう。」兎は言った。「こっち、こっち、娘さん、こっち。乗って、乗って、兎のしっぽ。おいで、おいで、兎のお宿。」娘は乗った、兎のしっぽ。すると兎は娘をつれて、はるか遠く兎の宿へ。兎が言った。「そんじゃ煮てけろ、青いキャベツ、黍の粥。おいらは嫁入りの祝いの客をお迎えに。そして、お客がみんな来た。(どなたじゃろ、祝いの客は。言ってみようか、もうひとかたの語ったとおり。それはすべての兎たち。して、烏が牧師で仲とりもって、狐がつきそい見守って、祭壇は虹の下。)

 

 でも、娘は悲しがる。なんだか、わたし、独りだもの。兎はすっと来て、こう言った。「元気に、元気に。お客さんが、うきうき、いきいき。」花嫁は黙って泣いて、兎はすっと去って、兎はすっと来て、こう言った。「元気に、元気に。お客さんが腹ぺこ、腹ぺこ。」嫁はやっぱり黙って泣いて、兎はすっと去って、兎はすっと来て、こう言った。「元気に、元気に。お客さんがお待ちかね、お待ちかね。」それでも嫁は黙っておって、兎はすっと去って、そのあいだ、嫁は藁でもって、お人形さんをつくって、わが服きせて、葦の匙もたせて、黍の鍋の側に置いて、母さんのもとに帰っていった。もういちど、兎はすっと来て、こう言った。「元気に、元気に。」そして元気に、お人形の頭ぶって、その頭から被りが落ちた。

 

 兎は見た、見た、嫁御がおらん。兎はすっと去って、悲しくて・・・。

 

 どう読むのも、読む人しだいです。ならば、兎を、覚ゆという働き(Wirken)、娘を、覚えるアクトとして読む人がいてもいいはずです。そして、その人には、その語りが、一言半句、そのままリアルな想像となってきます。というよりも、その語りが、くだらない気ままな空想としてでなく、なつかしく心にしみて感じられているなら、すでに頭の被りが落ちているはずです。つまり、考えが凌がれているはずです。

 

 なお、この語りを訳すにおいても、ひとつのことばに、できるだけひとつの同じことばを充て、ことばのつづきも、できるだけ変えないように努めました。というのも、もとの語りでは、いちいちのことばのつくりが、みずみずしく、うるわしく、きわだつように用いられているためです。もちろん、そういうふうに訳すのも、ひとつの試みにすぎません。それなりにかぎりがありますので、もとのことばへの、いわば橋渡しになればと、いくつかの註を付け足します。

 

 そして、その語りを語ろうという人がありましたらどうぞ、訳のことばにかかわりなく、もとのことそのことから、そのことに適うみずからのことばで語ってください。そもそも、語りは、それでこそ生きてきます。さきの回のシラーのことばに倣って言うなら、その語りの聞き手は、だれよりも「眼すこやかな」子どもたちであり、その子どもたちが真に迎えることができる語り手は、「心すこやかな」大人です。

 

註(もとは方言で語られていますので、カッコのなかに標準語を補います。)

 

キャベツ Koal(Kohl) : そのひとつひとつを Kohlkopf とも言います。そして Kopf は頭のことです。なお、かつては玉菜という呼び名もありましたし、『座禅箴』には「兀々地を挙頭する」ともありました (4-a-4 の回) 。

 

乗って sett dich(setze dich) :  dich〈おまえを〉 setze〈セットしなさい〉ということで、「座りなさい」の意です。そして「セットする(setzen)」は「所有する(besitzen)」に通じます。

 

兎のしっぽ Haosenschwanzeken(Hasenschwanzchen):一語扱いです。なお「しっぽ」はいうまでもなく「末尾、はずれのひとところ」です。

 

はるか遠く weit raus : weit 〈はるかに〉 raus 〈外へ〉という言い回しです。

 

黍 Hersche(Hirse) : キャベツと同じく、畑のものですが、キャベツは青く、黍は黄色、キャベツは地に近く、黍は、かの麻有子のトンブリと同じく、伸びた茎の先の穂に実ります。

 

嫁入り Hochtid(Hochzeit): Hoch〈高い〉  zeit〈時〉というつくりで、結婚式の意です。ついでに「冬もたけなわ(Wenterszit)」は Wenters〈冬の〉 zit〈時〉というつくりです。

 

独り alleene(alleine) : all 〈すべて、まるまる〉  eine〈ひとつ、ひとり〉というつくりです。いわば、あまねきいちと、いちいちのいちとの、ひとかさなり、まさに一体全体です。そして、だれにもある幼いみぎりの憶え、あざやかに、ものさびて蘇ってくるそれは、まさにひとりであることの覚えのはじまりでもあります。さらに、娘が三日目に兎のしっぽに乗ったとおり、その覚えはだいだい三才あたりから生じています。

 

元気に Tu uf (Tue auf) : auf〈上へ〉 tun〈する〉というつくりであり、「上へと開く、蓋などを開ける」ことです。

 

被り Hube(Haube) :  もとは「弓なりのもの(Die Gebogene)」をいうそうですが、ことに「既婚の女性がその尊厳の印として頭に被っていたもの」を指します。そして、もうひとつの弓なりのもの、虹(Regenbogen)に通じます。

 

  さて、この回のはじめに言ったことが残っています。まず、相の字につて、白川静『字統』 (初版は 1994 年です) から引きます。音は、ソウ(サウ)、ショウ(シャウ)、訓は、みる、たすける、かたち、そして、こうあります。

 

 木と目に従う。〔説文〕四上に「省視するなり」とあって、視ることを字の本義とする。また字を会意と解するが、どうして省視となるかを説くことがない。〔詩、大雅、棫樸(よくぼく)〕に「その相を金玉にす」、また〔桑柔〕に「その相を考へ愼む」とあって、それは本質の意とみられる。みるとは、その本質にせまる行為を意味するが、字は樹木を視るの意の会意であろう。〔詩〕の祝頌詩(しゅくしょうし)に樹木を歌うことが多く、〔衛風、淇奥(きいく)〕「彼の淇奥を瞻る(みる)に  竹猗々(いい)たり(うるわしい)」、また〔小雅、南山有台〕「南山に臺あり  北山に莢(らい)あり」の臺、莢はともに木の名。樹木の茂るさまを歌い、これを瞻るという行為が、そのまま魂振り的にその生命の本質にせまり、祝頌の意を示すものとされた。わが国の〔万葉〕に「みる」「みれど飽かぬ」という表現がしばしばみられるのも、同様の発想によるものである。〔説文〕にいう「省視」とはその意に解してもよいが、省は目の上に呪飾を加え、その呪力によって巡察省視を加えるものであるから、相とは会意の意味が異なる字である。相が相互の意となるのは、視ることによって両者の交霊が可能となるからであろう。また助け導く意も、そこから引伸しうるものである。人相・墓相などのときはソウと音でよむが、それは内在する本質の外にあらわれたものという意である。〔書、召誥(しょうこく)〕「これ太保(召公)、周公に先んじて宅(居るべきところ)を相る」、〔礼記、月令〕「善く丘陵を相る」のように、相地相宅の意に用いるのは、呪儀としての相るという行為を、なお残しているものであろう。

 

 かつて、覚えの、えもいわれぬ境に遊ぶこと(人のナイーブさ)が、いまよりも当たり前にであったころに、なおかつ、人がまさに見て(本質にせまる行為をもって)、覚えつつこころを起こし振るわせ(魂振り的に)、覚えの客の精神と交わり(交霊し)、客の精神のために道を開きつつ(助け導きつつ)、相の字をつくり、用いました。

 

 相は、すなわち、見つつ覚えるアクトをいいます(目は、そのための器官の、いわば代表です。)

 

 そして、そのことを、いまは、人がしっかりと見つつ覚えることができます。

 

 次に『字訓』(初版は 1995 年です)から引きます。「すがた」と訓まれるのは、形・儀・姿(姿)・容です。そして、こうあります。

 

 全体の形やようすをいう。「す」は「直」の「す」で接頭語。ありのままの意。「かた」は「形」。「すがたかたち」のようにいうこともあり、「かたち」に対してその容姿や人柄をも含めた語である。それで光儀、容儀のなどの字を充てることもある。体に対して相というような関係である。

 

立ちしなふ君が須我多(姿)を忘れずは世の限りにや戀ひ渡りなむ〔万四四四一〕

 

暮さればもの念ひ益る(もひまする)見し人の言問ふ爲形(姿)面影にして〔万六〇二〕

 

秋の夜の霧立ち渡りおぼろかに夢にぞ見つる妹が形を〔万二二四一〕

 

朝戸出の君が儀をよく見ずて長き春日を戀ひや暮らさむ〔万一九二五〕

 

是に日本武尊、髪を解きて童女の姿と作りて、密に川上梟帥が宴の時を伺ふ。仍りて・・・女人の中に居ります。〔景行紀二十七年〕

 

倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく・・・願はくは暫留りたまへ。明旦に仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふといふ。〔崇神紀十年〕

 

〔名義抄〕に「儀・體・姿・身體スカタ。體・態スガタ」とみえる。

 

 形は鋳型を示す井と、文彩を示す彡とに従う。鋳型によって作りあげられたものに、しあげを施して完成したものをいう。〔説文〕九上に「象るなり」と「像る」意とするが、形とはすでに文彩のあるものをいう。〔孟子、尽心、上〕に「形色は天性なり。惟聖人にして然る後以て形を踐むべし」とあり、形相の内容は修為によって与えられるとするが、形は本来は人についていう字ではない。型によって作られるものをいう。

 

 人の容儀を儀という。儀は義声。古くは義を儀の意に用い、西周の金文には威儀を威義・畏義という。義は神に供する犠牲で、羊に我(鋸)を加える形。その犠牲の毛色形体など、すべて完全であることをいう。ゆえに義に「義し(ただし)」の意がある。人が神につかえるとき、その儀容を完全にすることを儀という。義より分化した字で、義を人に及ぼしていう字である。

 

 姿は次声。次は咨嗟(しさ)して嘆く人の形で、人の息づかいする姿をいう。姿とは女のたち嘆く形である。〔説文〕一二下に「態なり」とその姿態ある意とするが、立ち嘆く婦人の姿は、最も姿態に富む。哀怨の趣のあるときに用いるのが、その字の本来の用法であった。

 

 容は容儀・容貌・容姿のように用いる。もと故人の立ちあらわれるさまをいう。字は宀と谷とに従う。宀は廟屋。谷は欲の従うところで、その容を見ようと欲することを欲という。その姿の彷彿としてあらわれるものを容という。容とは遺容、今は亡き人の姿である。それで「面影にして」というときには、この容がその語義に合う。

 

 かたちは、形であり(外からかたどられてあり)、すがた(すがたかたち)は、姿、犠、容です(内からかたどられます)。つまり、かたちは、ファンクションをもった器であり、すがた(すがたかたち)は、さらにアクトのための器です。そして、姿は、嘆くアクト、犠は、精神につかえるアクト、容は、見ようと欲するアクトからつくられます。

 

 ことに、人の体は、相でもあり、人のかたちは、すがた(すがたかたち)でもあります。つまり、人のすがたかたちは、器官のたりたち、からだと精神とのなりたちとして、人のなりたたせるところでもあります。そして、象は、人の見るアクト、像は、人の覚える、ないし見てとるアクト、様は、人の念う、ないし信じる、ないし疑うアクトがあってであり、絵があるのは、人が描くからです。うるわしく、うつくしく・・・。

 

 さらに、見るアクトは、見る主(大きな主、あまねき主)、覚えるアクトは、覚える主(見てとる主、つくる主、言い語る主)、念う、信じる、疑うのアクトは、それらの主(識る主、知っている主)を、人が立てるにおいてです。はたまた、どう解するのも、解する人しだいです。ならば、古事記に記されている大国主命、一言主命、事代主命を、右にいう三つの主、もしくは三重のなりたちの主と解する人も、ぼちぼち出てきていいはずです。

 

 わたしたちの覚えの相と主と客、そのかかわりは、さらにまた回を重ねて、かさねがさね考えていくところでもあります。お楽しみに。