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訳者まえがき①

 英語版の「自由の哲学」、”Intuitive Thinking As A Spiritual Path"の訳者であるマイケル・リプソンさんから訳者まえがきを翻訳してWebに出してもいいですよと許可を頂きましたので早速ひとまず公開します!

 

 

 「ひらめきつつ考えることは精神の通い道となる:自由の哲学」

訳者まえがき:マイケル・リプソン

 訳:澤口安城

 

 翻訳において心の折れることは、ドイツ語と英語の違いからではなく、精神ということを言葉にすることの制約からきます。精神を言葉をもって表す。この仕事に携わることはシュタイナーの人生の長きにわたっての捧げもの(供儀)でした。彼が哲学的、神智学的、その他の言葉を取り扱わなければならない時も、彼は課せられた仕事を実現することの難しさを痛いほど意識していました。

 

 1900年以降、シュタイナーは毎年「自由の哲学」を、彼の他の認識論的な仕事と同じく、彼の学び手たちにずっと薦めていました。彼ののちの「目に見えない」世界を扱う仕事の前提として、その理解の第一歩として、“考える”の意識の根本的な変容の練習方法の一つとして、彼は強く薦めていました。現代に適切な意識の変容は、通常のこころの生活の中での “考える”を強めることから始まります。

 

 それにもかかわらずシュタイナーはこの「自由の哲学」を“口ごもったもの”とも呼べました。控えめではなく、目に見えない世界を言葉で表すことは、不完全で、部分的で、また簡単に歪んで理解されることが避けられないこと認めるところからでした。「Intuitive Thinking as a Spiritual Path(まぎれなく考えることは精神の通い道となる)」のような本は、仕上がり済みのものを得られるようにするのでなく、私たちを内面を培うことを促し駆り立てます。さらにあるレクチャーでは「私は“自由の哲学”は19世紀の経過の中で繰り出された考え方に患った全ての小児病のあばたを持っていることをは承知の上です。」とも強調していました。したがってそれは、本来的な、文化的・歴史的なあの不完全さの基盤を持っています(カントなどに起因する世界は不確かであるという考え方)。

 

 この不完全性を私たち読み手は治め、あらためることを余儀なくされます。シュタイナーは、精神を語ることが持つ課題に対して、極めて周到にアプローチしました。彼は、彼の意味するところを、もっともらしく型に嵌める仕上がり済みな用語を定める前に、全く違った方針を取りました。“考える”、“感じる”、“欲する”など、派手さはない、ごく普通の言葉を彼は使いました。世(目の前の日常も、全宇宙も含めたニュアンス)の姿の変遷を示そうと、そのようなことを表現するのに、今では謙虚すぎたり、高貴だったりすることばを使うようになった(神智学やアントロボゾフィーに関わるようになる)彼の転換を示すさずにです。彼はまた、同じような意味を表す際に、別な機会には違ったことばを用いたりしました。繰り返し働きかけるこのようなやり方は、読者をとりわけアクティブな読み手として育むことを促します。「彼はなにを意味しているのか?」みたいに、私たちはしばしば自身が問いかけるようになることを見出すはずです。この本の第7章の最後に、シュタイナーは言葉の用法に関して明確に述べています。彼は言葉を、あまり見ない型破りな感覚で使っていることを私たちに知らせています。彼はそれによって現在の構築主義者や解釈学者を予期して、本のもたらす影響に応じることに備えました。

 

 既存の翻訳はテキストを現代的な響きを持つよう、正確さを保つようにスタイルを努めています。この働きかけはクリストファー・バンフォードとアンドリュー・クーパーの編集の助けに多くを負っています。とりわけマイケル・ウィルソンの以前すべての翻訳にもまた多くを負っています。彼らの翻訳への働きかけは「自由の哲学」によってさらに引き上げられ、これらの尽力がなければ私は十分にいまの翻訳をなすことを出来ませんでした。興味のある読み手はウィルソンの翻訳や解釈の困難さを表すいくつかのことばへの記述を読んだらいいかと思います。その中のGeistガイスト(精神)、ここでは大方Spiritスピリットと訳される。Vorstellung/Vorstellen(想い、心像、表象、観念)、ここでは"mental picture/mental picturing"。Erkennen(知る、認識)は、 "cognition" or "cognizing"。Wollen(欲する)は、"wishing," "wanting," "willing"。

Begriff(考え、概念)は、"concept"。そしてWahrnehmung(覚え、知覚)は、”percept”など。とりわけこれらの厄介なことばや、そのような他の言葉は、個々の文章においてとる意味合いによって様々に英語に訳されます。このうち Erkennenを”Cognizing”と訳すことのみが今までの翻訳との実質的なちがいです。私は”cognition"や "cognizingをラテン語系にも関わらず使いました。クオリティーをおろそかにしても。それらは"knowledge'" や"knowing”がそうでない、アクティブに掴むということをはっきりと意味しているからです。"cognizing"の内の動きは相対的に受け身な"knowing"よりもシュタイナーがそもそも望んだ英語版のタイトル「The Philosophy of Spritual Activity」によくフィットします。

 

 別な英語版タイトルの提案することで、彼は改めて彼のことばの用法の柔軟さを示しました。私たちはこれらのことを踏まえて、新しい訳を「Intuitive Thinking as a Spiritual Path: A Philosophy of Freedom(ひらめきつつ考えることは精神の通い道となる〜自由の哲学)」というタイトルにしても良いと思いました。この新しいタイトルは、“考える”を意識するという、ふつうイメージしているのとは随分異なることを育む上で、この時代のすべての精神的な動き・活動の中で、ユニークな視点をもつ彼の仕事を際立たせます。覚えの世(覚えの器官、この場合いわゆる12感覚を含む)の適切な理解をふさわしく考えるには、私たちがどのように覚えるかを育むかが欠かせません。なので、やぼったかったり、分かりづらかったりしなければ、“lntuitive Thinking and Perceiving as a Spiritual Path”のようなタイトルもあり得ました。そのことはシュタイナーが強く言う、考えると覚えるという二つの道筋から、終わりなく、習い培うことのできるこの二つの道からして明らかです。

 

 変化の多いことばの用法にも関わらず、シュタイナーはwahr(true・まこと、真)とwirklich(real・ある、実在、実質)を使うにおいては定かでした。“まこと”という思いは 私たちの考えの世に用いられ、“ある”という思いは覚えの世に用いられます。シュタイナーがこの本で丁寧に指し示す認識は、“まさにあること”という、確かで裏打のある考え(まこと)と覚え(ある)を盛んに促す、新しい世界へ連れて行きます。私はそうだからこそ、英語の用法を崩しても、シュタイナーが指摘し、克服する、まさに二つのことを強調しようと一貫してこれらの訳を試みました。

 

 また、シュタイナーのふくみも保つようにしました。彼には断言するのでなく、気づきをあたえる手立を多く用いました。すでに知られた世界の中での、見出しにくいことであれば、分かるようそれとなしに注意を促しました。彼がしばしば使う、時代外れの“that which”を使う用法、そのような文の構成、それらがもつ余韻、それらを干上がらせる言語学的なプレッシャーを、私は退けました。それらは系統的かつ具体的な関係をヨハネの手紙1:1の偉大な“that which” を孕(はら)んでいます(“That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked upon, and our hands have handled, of the word of life……”、初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―)。

 

 私たちは、言葉だけでなく、脳や身体からもひとり立ちした考えるの練習を促そうとするシュタイナーの目指したところを想い起こすことになります。その目指すところを踏まえて、私たちは新たな訳をそのつどそのつどよりよくまっとうなものに出来ます。このようにして、私たちは最終版と思いやすいドイツ語版の読み手より強みをえています。不完全でかつ移り変わる英語での表現を通してシュタイナーに迫ることで、私たちはよりふさわしくすべての不十分な言葉と相対し、そして彼の意味するところに跳躍します。