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略伝自由の哲学第五章a−1

 五の章に入ります。この回ははじめの三つの段を取り上げます。まず一の段です。

 

 さきに見てとったことから、このことが出てくる。わたしたちの見るの内容を探り出すによって、わたしたちの覚えが想いであることの証しはもたらすことができない。その証しは、つまり、人がこのことを示すによってもたらされている。覚えのプロセスの起こりくる趣が、ナイープな現実論者による、わたしたちひとりひとりの生理、心理の機構に重ねての思いなしに、人が沿いつつ想うとおりの趣であるならばこそ、わたしたちは、ものごとそのものとでなく、ただに、ものごとについてのわたしたちの想いとかかわるのみである。さて、そのナイーブな現実論が、筋を通すなら、その先立てることのまさに逆のことを示す果へと導くからには、きっと、その先立てることが世界観の基とするには適さいないとされ、落ち去るままに任される。いずれにしても、先立てることを捨てて、導き出したことを罷り通すのは、まつとうでない。クリティカルな想念論者が、世が想いであるというその言い立ての基に、右のような証しの道行きを据えるごときは、まさにそれである。(エドワルト・フォン ・ハルトマンは、その著「認識論の根本問題」において、その証しの筋を詳しく述べている。)

 

 わたしたちは四の章において、わたしたちの見るの内容である覚えと想いを探り出しつつ、つねづねよりも意識的に見てきました。(「探り出す」に当たるのはuntersuchenであり、unter〈下に〉suchen〈求める〉というつくりで、調査、検査、診察、審理といった意です。なおunter〈下に〉はuber 〈上に、重ねて〉の逆です。そして、「探り出す」ためには、ひとまず 「下に」潜まなければならないこと、「想い起こすerinnem」ためには、ひとまず 「内へinne」深まらなければならないことに同じです。4-a-4)

 

 そのことはまた、クリティカルな想念論を意識的に辿ってみることをも含んでいました。その論は飛び越しや継ぎ接ぎを交えて、なんとも入り組んでいましたが、まさに辿ってみて明らかになるところ、ひとりの人のからだとこころのなりたちの覚えられるがままをナイーブに実と見なすことをもって運ばれつつ、果ては、覚えが想いであるということへと導かれていました。(「果」に当たるのはResultatであり、「結果、成果」を意味します。それは人がする働きをしつつ、働きかけを受けることから出てきます。つまり 「出てくるsich ergeben」「もたらすerbringen」「起こりくるerfolgen」 「導き出すfolgem」といったことばも、それとひとつながりです。)

 

 その論が論じることのいちいちはともかく、その論の運び、証しの道行きは、ナイーブな現実論を窃かに基にしながら、ナイーブな現実論を打ち消すに至るのであって、まつとうではありません。(「証しの道行き」に当たるのはBeweis gangであり、Beweis〈証明の〉gang〈進行〉というつくりです。また 「筋を通すなら」に当たるのはkonsequent veivolgtであり、konsequent〈一貫性ないし節操をもって〉verfolgt〈辿られるなら〉という言い回しです。)

 

 そして、二の段がこう続きます。

 

 クリティカルな想念論の正しさは、それとして別であり、その証しの重ねて認める力も、それとして別である。前者がどうであるかは、のちに、わたしたちの論とのかかわりにおいて出てこよう。その証しの重ねて認める力は、しかし、無きに等しい。人が家を建てるにおいて、二階を立ち上げるとき、一階が崩れれば、二階もともに崩れ落ちる。ナイーブな現実論とクリティカルな想念論のありようは、その一階と二階のごとくである。

 

 すなわち、論じられることのいちいちと、論の運びは、それなりに分けられます。そして、論じられることのひとつ、覚えられるままが実であるということ(ナイーブな現実論)が、こととしてなりたたないからには(4-b-2)、それを窃かに基にして導き出されること、覚えが想いであるということ(クリティカルな想念論)も、同じく、こととしてなりたちません。言い換えれば、そのことは、重ねて認めるには耐えません。すでに見たとおり、重ねて辿ると、潰えて無と化します(4-c-2)。(「重ねて認める」に当たるのは uberzeugen であり、uber〈重ねて〉zeugen 〈証し立てる〉というつくりで、承認、得心、確信、説得といった意です。なお、言うまでもなく、ここのことでは、まずもって人がみずからに証しだて、みずからで認めることです。)

 

 そして、覚えと想いもまた、それなりに分けられますし、それなりにかかわりがつけられます(4-b-4)。ならば、覚えおよび想いと、ものごととは、どのようにかかわり、どのように分けられるでしょうか。言い換えれば、ものごとが実であるというのは、まさにわたしたち人とのかかわりにおいて、いかなることでしょうか。さらに言い換えれば、一階(覚え )と二階(想い )そして家(ものごとの実、リアルな人)は、どのように立つのでしょうか。それが、これから見ていくところです。(「一階」に当たるのはErdgeschoss であり、Erd 〈大地の〉geschoss〈階〉というつくりです。加えて、geschoss はschiessen 〈射る、穿つ〉から来ているそうですが、その意味するところはよく分かりません。どなたか教えてください。)

 

 が、その前に、もうすこし、クリティカルな想念論につきあいます。覚えが想いであるという、その論の導いた果は、それで終わりになるのではなく、その果を取り込んだ人に、さらになる働きかけをします。その働きかけのいかなるかが、次に続く段において見てとられます。また、さきの章に「想いと対象とのありようの知りそこないが、近代の哲学における、きわめて大きな間違いのかずかずを引き起こした(4-c-1)」とありましたが、その間違いの大きさのほども、そこから知られます。すなわち、三の段がこう続きます。

 

 覚えられる世のまるごとが想われる世であるのみ、しかも、わたしたちに知られていないものごとがわたしたちのこころに及ぽす働きである、という見解の者にとって、知るについてのそもそもの問いが向かうさきは、おのずからながら、ただこころのうちにあるだけの想いの方でなく、わたしたちの意識の向こう側にあって、わたしたちに依らないものごとの方である。その者はこう問う。わたしたちは後者について、どれだけのことを間接に知ることができるかと。つまり、後者が、わたしたちの見るところへと直接には及び来こない故である。その立場に立つ者が気遣いをするのは、その者の意識する覚えのかずかずの内なるかかわりを巡ってではなく、その者の意識しない因を巡ってであり、その因こそが、わたしたちに依らずにあり、かたや覚えは、その者の見解によると、その者が、ものごとから感官を逸らすや、消え失せる。わたしたちの意識の働きは、その観点からすると、鏡のごとくであり、そこに映る定かなものごとの相も、それを映す面がそれに向けられていないその時には、消え失せる。しかし、ものごとでなく、ものごとの鏡に映った相だけを見る者は、きっと、後者のありようから、前者のありさまにつき、推して決めるによって、間接にみずからを教えて立てる。その立場にこそである、近代の自然科学が立つのは。それは、覚えを、ただにお終いの手立てとしてのみ用いつつ、覚えの後ろにあって、それのみがまことである素材のなりゆきにつき、推して明かすことを得ようとする。哲学者がクリティカルな想念論者として、いやしくも、あるということを罷り通すにおいては、その者の知ろうと勤しむ勤しみが、想いを間接に用いることをもって、ひとえに、そのあるということへと向かう。その者の関心 は、主の世である想いを飛び越え、その想いを生みだすものへと向かいゆく。

 

 いまひとたび順を追って見ていくことにします。まず一の文です。

 

 覚えられる世のまるごとが想われる世であるのみ、しかも、わたしたちに知られていないものごとがわたしたちのこころに及ぼす働きである、という見解の者にとって、知るについてのそもそもの問いが向かうさきは、おのずからながら、ただこころのうちにあるだけの想いの方でなく、わたしたちの意識の向こう側にあって、わたしたちの意識に依らないものごとの方である。

 

 知ることをめぐる問いとしてですが、想念論者が問うのは、想念についてでなく、想念を生みだす働きのおおもと、わたしたちの意識の向こう側にあるものごとについてです。さらに、もうひとつのことを読み取ることも許されるでしょう。すなわち、見解は、なるほど人が生みだすもの、ないし取り込むものですが、 また、生みだした人、取り込んだ人に働きかけて、その人のこころの向きを、それなりの向きに向かせるものでもあります。(「見解の者」に当たるのはder Ansicht seinであり、der Ansicht〈見解の〉sein〈である〉という言い回しです。そのder〈の〉は生成格とか所有格といわれる格で、見解が人であることを生成し、所有するとの含みです。はたして、その生成と所有のプロセスが次に述べられていきます。)

 

 二の文です。

 

 その者はこう問う。わたしたちは後者について、どれだけのことを間接に知ることができるかと。つまり、後者が、わたしたちの見るところへと直接には及び来ない故である。

 

 その者が望むのは、間接に知ることです。つまり、直接には知られないことを望んでいるのですから。ここでも、もうひとつ、こういうことが知ら れます。すなわち、見解は望みを左右するに至ります。

 

 三の文です。

 

 その立場に立つ者が気遣いをするのは、その者の意識する覚えのかずかずの内なるかかわりを巡ってではなく、その者の意識しない因を巡ってであり、その因こそが、わたしたちに依らずにあり、かたや覚えは、その者の見解によると、その者がものごとから感官を逸らすや、消え失せる。

 

 その者は、想いはもとよりも、覚えをも意に介しません。なにしろ、その者が望むものは、その者に意識されないところにあるのですから。そして、もうひとつ、望みは、こころ配りを左右するに至ります。(「気遣いをする」に当たるのはsich kummemであり、sich〈みずからを〉kummem 〈悲しませる、痛ませる、 煩わす〉といった言い 回しで、「悲しむ、 こころにかける、 気を配る」といった意です。)

 

 四の文です。

 

 わたしたちの意識の働きは、その観点からすると、鏡のごとくであり、そこに映る定かなものごとの相も、それを映す面がそれに向けられていないその時には、消え失せる。

 

 その者は、人の意識を鏡のごとくだと見なします。言い換えれば、人の定かに意識するものごとを、実のものごとではないと見なします。なにせ、その者の見解と、望みと、気遣いと、見方、つまりはその者みずからの意識が、鏡のごとくですから。すなわち、それが、その者の自己認識です。(なお「消え失せる」に当たるのはverschwindenであり、ここではいわば「あるのを止める」の意です。4-b-3)

 

 五の文です。

 

 しかし、ものごとでなく、ものごとの鏡に映った相だけを見る者は、きっと、後者のありようから、前者のありさまにつき、推して決めるによって、間接にみずからを教えて立てる。

 

 その者は、推して決めるによって、いわば仮りそめの実を知り、それによってみずからを支え、みずからを育みます。すなわち、それが、その者の自己教育です。(「推して決める」に当たるのはSchlusse であり、Schluss 〈推理、結論、決定〉の複数形です。また 「教えて立てる」に当たるのはunterrichten であり、unter 〈下に〉richten 〈正す〉というつくりで、「通告、教示、授業」の意です。)

 

 さて、六の文です。

 

 その立場にこそである、近代の自然科学が立つのは。それは、覚えを、ただにお終いの手立てとしてのみ用いつつ、覚えの後ろにあって、それのみがまことである素材のなりゆきにつき、推して明かすことを得ようとする。

 

 近代の自然科学は、クリティカルな想念論の立場に立ちます。また、それはいまも引き継がれています。はたして、そこでは、想いはもとより、覚えもそのままでは「科学的でない」として退けられます。そこでは、覚えが、いわば真相を探る手立て、いわゆるデータやサンプルとしてのみ受け入れられます。しかも、人がじかに覚える覚えよりも、それなりの器具を介して覚える覚えが重んじられます。そして、そこで推され明かされるべき真相は、いわゆる物質のそれのみです。(「素材」に当たるのはStoff"であり、「生地、質料、物質」といった意です。「推して明かす」に当たるのはAufschuss であり、Auf 〈開けて〉schluss 〈推し、結び、決める〉というつくりで、「開示、解明」 の意です。)

 

 七の文です。

 

 哲学者がクリティカルな想念論者として、いやしくも、あるということを罷り通すにおいては、その者の知ろうと勤しむ勤しみが、想いを間接に用いることをもって、ひとえに、そのあるということへと向かいゆく。

 

 クリティカルな想念論者、いまひとたび繰り返しますが、覚えられる世のまるごとが想われる世であるのみ、しかも、わたしたちに知られていないものごとがわたしたちのこころに及ぼす働きである、という見解の者として、そのものごとのあるなしを問い、あると推して立てて通すに至る者であれば、その問うから通すまでの勤しみのすべてが、そのものごとに向かっての勤しみとなりますし、その者の想いのすべてが、そのための間接的な手立てでしかなくなります。こうして、いわば、クリティカルな想念論者からクリティカルな想念主義者ができあがります。( 「いやしくも」に当たるのはuberhauptで、ここでは 「万が一、かりそめにも」の意です。なお、さきには 「一体全体」と訳してあります(4-b-3)。「勤しみ」に当たるのはStrebenであり、いわばアクテイブな「求めsuchen 」です。二の章を見てください。)

 

 そして、八の文です。

 

その者の関心は、主の世である想いを飛び越え、その想いを生みだすものへと向かう。

 

 その者のこころは、想いの主であるみずからをさしおいて、みずからによらない客にかかわろうとしています。そもそも客は主あっての客であり、主は客あっての主であることを想わずに・・・。つまり、その者のこころはここにありません。(「関心」に当たるのはInteresse であり、「関与、関心、利害」の意です。)

 

 その者には、ある意味で、こういうー首が似合わないでしょうか。

 

 世間(よのなか)を何に譬へむ朝びらき

  漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと  

沙弥満誓(さみまんぜい)