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略伝自由の哲学第五章 b−1

 想念論(世は想いであるということ)を、わたしたちは巡りに巡り、いわばその巡りの果てにおいて、こういう見通しに行き着きました。夢に目覚めがあるように、覚えに考えるがあります。覚えに考えるがおよびくるのは、夢に目覚めがやってくるごとくです。覚えは考えるとの重なりをもって嵩じるものです。その見通しを受けて、この回は九の段からです。

 

 ナイーブな人にはここに言う見通しが欠ける、などという値踏みはいただけない。その人は、生きることに身をまかせ、ものごとがその人の経験のうちに呈する相のままを、実と見なす。しかし、その立場を越えて企てられる、はじめの一歩が、こういう問いにおいてこそ、なりたちうる。考えるは、覚えに、どうかかわるか、である。覚えの、わたしに与えられたつくりが、わたしの想う前と後とでそのままであるかないかは、まったくかまわないが、わたしが覚えについてなにかを言おうとするとき、ことは考えるの扶けをもってこそ起こりうる。わたしが、世はわたしの想いであると言うとき、わたしは、ひとつの考えるプロセスから生じたことを言い表している。そして、わたしの考えるが世にあてがい得ないのであれば、そこから生じたことが誤りである。覚えと、いずれの趣であれ、覚えに重ねて言い表すことのあいだには、考えるが押し入る。

 

 くりかえし、はじめの文から見ていきます。

 

 ナイーブな人にはここに言う見通しが欠ける、などという値踏みはいただけない。

 

 わたしたちは、ナイーブに立つ(覚えられるままが実であると見なす)において、いつしか足元をすくわれもしますし、手痛い目にあいもありますが、また、さらなる目覚めに見舞われもしますし、しつかり立つことを習わされもします。その意味において、ナイーブさは、あなどれませんし、みくびって欲しくないものです。(「値踏み」に当たるのはanrechnenであり、an〈つけて〉rechnen〈勘定する〉というつくりで、評価、算入、加算といった意です。)

 

 二の文が、こうつづきます。

 

 その人は、生きることに身をまかせ、ものごとがその人の経験のうちに呈する相のままを、実と見なす。

 

 ナイーブに立つことのひとつの面として、生きることに沿うという面があります。想念論者が、生きることから離れたり、生きることを厭いさえするのと、むきが逆です。そして、生きることのひとつの面に、覚えがあります。(「身をまかせる」に当たるのはsich hingebenであり、sich〈みずからを〉hin〈むこうに〉geben〈与える〉というつくりで、没頭、帰依、献身といった意もあります。)

 

 そして、ナイーブに立つことを、あらためてする人なら、覚えに沿いっつも、覚えを実と見なすことは、きっと、控えて、さらなる目覚めの訪れにそなえます。言い換えれば、さらなる目覚めをアクテイブに待ちます。(「相を呈する」に当たるのはsich darbietenであり、sich〈みずからを〉dar〈そこに〉bieten〈さしだす〉という言い回しで、「生じる、起こる、現れる」といった意です。なお「相(Bild)」については4-b-3の回を見てください。)

 

 すなわち、三の文です。

 

 しかし、その立場を越えて企てられる、はじめの一歩が、こういう問いにおいてこそ、なりたちうる。考えるは、覚えに、どうかかわるか、である。

 

 さらなる目覚めをアクテイブに待つことは、まさに問うことにほかなりません。そもそも、問うことは、待っことのアクテイブなかたちです。(「うる」に当たるのはkonnenであり、可能の意です。すなわち、問うことは、誰にもできることですが、そのできることをするかしないかは、まさに人によります。)

 

 そして、問いという問いのなかでも、考えると覚えとのかかわりを問うことは、覚えに沿いつつも、覚えをそのまま実と見なすアクテイビティを凌ぐアクテイビティです。(「企てる」に当たるのはunternehmenであり、unter〈下に〉nehmen〈取る〉というつくりで、「引き受ける、請け負う、手がける」といった意です。なお「くわだてる」の「くわ」は、「つまさき」だそうです。つまり「くわだてる」は、歩みはじめる人の足のようすから来ていることになります。また「企」と「歩」に含まれる「止」は、「くわ」をかたどったものだそうです。)

 

 さらに、そのアクテビティは、さらなる目覚めの訪れにそなえることであるのはもとより、しつかりした立ちかたをまねきよせることの、はじまりでもあります。そもそも、いうところの目覚めは、考えるにほかなりませんし、考えるを見るは、わたしのしっかりとした立ちようにほかなりません(三の章)。

 

 すなわち、四の文です。

 

 覚えの、わたしたちに与えられたつくりが、わたしの想う前と後とでそのままであるかないかは、まったくかまわないが、わたしが覚えについてなにかを言おうとするとき、ことは考えるの扶けをもってこそ起こりうる。

 

 覚えに、おのずからながら、つくりが出てきます。そのつくりが、想うによってかわるか、かわらないかは、ひとまず、この場においては、どちらでもかまいません。(「与えられた」に当たるのはgegebenであり、geben〈与える〉からきて、所与の意です。)

 

 ただ、たとえばですが、だれかがやってくるのを、わたしが見つつ、覚えつつ、おやおやとなって「サトウさん!」と言うのも、「こんなところで会うなんて!」と言うのも、「どうしたんです?」と言うのも、考えるの訪れを受ければこそです。そのとき、受ける、言うは、わたしのアクテビティであり、考えるは、わたしのアクテイビティにとっての扶けです。(「扶け」に当たるのはHilfeでありhelfen〈たすける〉からきて、支援、救助、扶養といった意です。なお「扶」の字を宛てたのは、字のつくりとしての「夫」の扶けを借りようとしてです。すなわち、考えるを、夫に、覚えを、妻に、わたしのアクテイビティを、子に見立てようとしてです。また、いうところの扶けは、いわゆる自助(sich helfen)、人がみずからを助けるにおける、天からの扶けです。)

 

 五の文が、こうつづきます。

 

 わたしが、世はわたしの想いであると言うとき、わたしは、ひとつの考えるプロセスから生じたことを言い表している。そして、わたしの考えるが世にあてがい得ないのであれば、そこから生じたことが誤りである。

 

 また、たとえばですが、わたしが「サトウさん!」と呼びかけて、振り向いたその人がサトウさんではなかったら、そこまでの、考えるがわたしを見舞い、わたしが考えるを受けるプロセスは、その人にあてがいようがありませんし、そのプロセスから生じた考えは、まぎれもなく間違っています。すなわち、間違いは、考えるにおいてではなく、考えるプロセスにおいて、つまり、わたしが考えるを取り込むにおいて出てきます。そして、「ごめんなさい、人違いでした」と言うのも、つまり、誤りをただし、誤りを謝るのも、わたしが考えるを受け入れるところからです。(「生じたこと」に当たるのはErgebnisであり、ergeben〈まさに与える〉からきて、いわば「なにかの働きよって生みだされたこと」を意味します。)

 

 そして、六の文です。

 

 覚えと、いずれの趣であれ、覚えに重ねて言い表すことのあいだには、考えるが押し入る。

 

 そのとおり、言うことの前には、考えるのおよびきたりがあり、覚えのあらわれがあります。そして、そのおよびきたりは、すんなりなめらかでありもしますし、おしあいへしあいしながらでもあります。(「押し入る」に当たるのはsich einschiebenであり、sich〈みずからを〉ein〈なかへと〉schiben〈押す〉という言い回しで、「押し込む、滑り込む」といった意です。)

 

 またまた、たとえばですが、かのサトウさんが、いつもとすっかり違っていたりすると、「・・・サトウさん?ですか?」と尋ねるか、「・・・まさか・・・サトウさんが・・・」と、うちにつぶやくか・・・。とにかく、そのとおり、わたしがなにごとかを言うにおいては、考えるとわたしのあいだ、および、覚えとわたしのあいだに、やりとりがあります。言い換えれば、わたしにおける、上へのむきと下へのむきの交わしあい、およぴ、そちらへのむきとこちらへのむきの交わしあいが、わたしの言うことに表れでます。そして、そのやりとり、そのむきのかわしあい、およびその表れは、なんともさまざまです。(「趣」に当たるのはArtであり、様相、種類、作法といった意です。いわばgeben〈与える〉とnehmen〈受ける〉の応じあいから、あらわに湛えられるところです。)

 

 次の段に進みます。

 

 なぜ、ものごとが見てとられるときに、考えるがおおかたは見すごされるのか、そのわけを、わたしたちはすでに挙げている(三の章)。それは、わたしたちが、わたしたちの考える対象にこそ意を向けるが、しかし、時を同じくして考えるに意を向けはしない、というありようにある。ナイーブな意識は、それゆえ、考えるを、ものごととかかわりをもたずに、ものごとからまったく離れて立ちながら、世のあれこれをとりざたすることとして扱う。考える者が世の現れについて仕立てる相は、ものごとに属するものとしてでなく、人の頭のなかだけに存在するものとして罷り通る。つまり、世は、その相なしで出来てもいる。世は、その素材と力において出来上がってあり、その出来上がった世について、人が相を仕立てる。そのように考えるかたがたに、人は、きっと、このことをこそ問おう。あなたがたは、どういういわれがあればこそ、世が考えるなしで出来ているというように説き明かすのか。世が、考えるを人の頭に呼び出すのも、花を植物に呼び出すのと同じく、自ずからさをもちあわせてはいないか。種を土に蒔いてみられたい。種が根と茎を出す。茎が葉と花をつける。植物に対してみられたい。植物が、あなたがたのこころにおいて、ひとつの定かな〈考え〉とつながる。なぜ、その〈考え〉が、葉や花のようには植物のまるごとに属さないのか。あなたがたの言うところ、葉や花があるのは、覚える主なしにであり、その〈考え〉が現れるのは、人が植物に対して立っところからである。まったくそのとおり。だが、花や葉が出てくるのも、土があって、芽が根づき、光と空気があって、葉が茂り、花がひらくことができるにおいてである。まさにそのとおり、植物という〈考え〉が出てくるのも、考える意識が植物に迫るにおいてである。

 

 さきの言いかたに倣って言いますが、ナイーブな立場を越えて企てられる、次なる一歩は、こういう問いにおいてこそ、なりたちえます。

 

 あなたがたは、どういういわれがあればこそ、世が考えるなしで出来ているというように説き明かすのか。

 

 わたしたちは、ナイーブに立っにおいて、考えるを見過ごしています。そこから、考えるをものごから離れてすることとして取り扱うことにもなります。さらにまた、想いにおける相は頭のなかだけにある、ものごとの面影にすぎないと、思いなすことにもなります。さらにまた、世は考えるを交えずに仕上がり済みであるというように、考えもうけることにもなります。(「いわれ」に当たるのはRechtであり、recht〈右の、正しい〉からきて、正義、権利、正当性、当然性といった意です。また「出来ている」に当たるのはfertigであり、終了、完成、既成といった趣をいうことばです。)

 

 しかし、考えるを見てとることは、わたしたちが意識してすることです。そして、その意識は、そこかしこに及びますし、ものごとというものごとに及ぼされもします。さらにまた、想いにおける相は、そもそも覚えに沿って生じ、はたまた覚えに重なって、まさに覚えとひとつでありもします。さらにまた、世ということが言われるのは、覚えという覚えを、まさに考えるの扶けをもってひとくくりにすることからです。(「相を仕立てる」に当たるのはBild entwerfenであり、Bild〈相〉をent〈放ち〉werfen〈投げる〉という言い回しで、「想い描く」の意です。なおentwerfen〈放ち投げる〉は、もともと織物におけるテク二カル・タームで、模様や絵柄を織り出すことを指します。)

 

 そのとおり、世は考えるをもって出来つつである、というように説き明かすべきいわれは、かずかず挙げることができます。では、世は考えるなしで出来ている、というように説き明かすべきいわれは、どうでしょうか。(「挙げる」に当たるのはangebenであり、an〈つけて〉geben〈与える〉というつくりで、申告、指定、表示などの意です。)

 

 その問いは、またこうも言い換えられます。

 

 世が、考えるを人の頭に呼び出すのも、花を植物に呼び出すのと同じく、自ずからさをもちあわせてはいないか。

 

 世と言うことが考えるをもってなされるともに、また世において、考えるがあり、花があります。世において花が咲くのも、おのずからであるのと同じく、世においてわたしたちが考えるようになるのも、おのずからではありませんか。(「自ずからさ」に当たるのはNotwendigkeitであり、Not〈さしせまつて扶けを要するありようを〉wendig〈転じつつである〉keit〈こと〉というつくりで、不可避性、必然性、必要性といった意です。)さらにまた、こういう問いが立てられます。

 

 植物が、あなたのこころにおいて、ひとつの定かな〈考え〉とつながる。なぜ、その〈考え〉が、葉や花のようには植物のまるごとに属さないのか。

 

 また、わたしたちは、葉や花をつけた植物を見てとり、植物という〈考え〉を見いだし、植物の法則を見つけます。その〈考え〉が、その植物に重なり、その法則が、その植物においてものをいっています。葉や花が植物のものであるのと、植物という〈考え〉や植物の法則が、植物のものであるのとは、どこが違うでしょうか。そもそも、それらのいずれも、考える意識のうちにあることでは、違いがありません。

 この回のお終いには、大いなるナイーブさ、すなわち、あらためての、意識されたナイーブさにちなんで、こういうことばを引きます。

 

 その時童子はふと水の流れる音を聞かれました。そしてしばらく考へてから

(お父さん、水は夜でも流れるのですか)

とお尋ねです。須利耶さまは沙漠の向ふから昇って来た大きな青い星を眺めながらお答へなされます。

(水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所でさへなかったら、いつ迄も流れるのだ。)

童子の脳は急にすっかり静まって、そして今度は早く母さまの処にお帰りになりとうなります。

宮澤賢治『雁の童子』