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略伝自由の哲学第五章c−1

 この回は、十五の段からです。

 

 対象が、わたしたちに、さしあたり、相応の〈考え〉なしに与えられるのは、対象のせいでなく、わたしたちの精神のなりたちのせいである。わたしたちというもののまるごとが働くにおいては、現実の、いちいち、どのもの、どのことにおいても、そのもの、そのことに向けて見てとられるところとなる元手が、ふたつの側から及んでくる。すなわち、覚えるの側と考えるの側からである。

 

 前の回において、わたしたちは、覚えがまさに嵩じるところ、もしくは、覚えるにおける考えるの繰りだしを見てとり、〈考え〉がものごとに属することを確かめてみました。まさにそこからするとき、もの、ないし、ことは、ふたつの元手、覚えと〈考え〉をもってなりたちます。言い換えれば、もの、ないし、ことがリアルであるにおいては、覚えるの側からの働きかけと、考えるの側からの働きかけが、ともに見てとられるところとなります。いかがでしょうか。なにか、いま、目の前にあるひとつ、たとえばボールペンというものをありありと迎えてみるにおいても、その覚えがものをいうのと同じほどに、いや、それよりもなおさらのほどに、その〈考え〉がものをいってはこないでしょうか。(「現実」に当たるのはWirklichkeitであり、wirken〈働く、働きかける〉からきて、wirk〈働き、働きかけ〉lich〈つつである〉keit〈こと〉というつくりです。またwirkenについては4-a-2の回を見てください。なお「現実」については、七の章において詳しく述べられることになります。)

 

 そのとおり、覚えと〈考え〉は、もの、ないし、こと、ないし、現実の元手であるとともに、また、わたしたちの精神のなりたちの元手でもあります。そして、そのなりたちが、考えるの側からの働きかけ、覚えるの側からの働きかけを、僅かにしか受けとらないなりたちであるときには、もの、ないし、ことのリアリティも、僅かになります。そもそも、覚えと〈考え〉は、覚えると考えるという、わたしたちに与えられる、または恵まれる、精神の働きから生じてきます。(「なりたち」に当たるのはOrganisationであり、「有機的な織りなし」の意です。なお、それについては2、3-b、4-a-1の回を見てください。)

 

 次の段が、こう続きます。

 

 わたしたちが、いかなるなりたちをして、ものごとをつかむかは、ものごとの自然とかかわらない。覚えると考えるのあいだの切れ目がありあわせるのは、わたし、すなわち、見てとるものが、ものごとと対しあうにいたった時である。しかし、どの元手がものごとに属し、どの元手がものごとに属さないかは、わたしが、その元手を、どのように知るにいたるかには、どこまでも左右されない。

 

 わたしたちは、とあるときから、覚えを覚えとして知り、〈考え〉を〈考え〉として知って、覚えると考えるを分かつことができるようになります。言い換えれば、わたしたちは、覚えに浸かり、あるときから、覚えに隔たりをおくようになりますし、覚えをあらためて迎えることもできるようになります(4-b-4)。さらに言い換えれば、覚えは、あるときから、憶えとなり、想いとなりますし、覚えるのナイーブさ(おぽゆ)は、あるときから、覚えるのアクト(おぼえる)となり、覚えるのファンクション(おもふ)となります(4-b-3)。その時というのは、ほかでもありません、わたしたちが、もの、ないし、ことに対しあうにいたる時です。そのとおり、わたしたちの精神のなりたちは、時につれてなりたつものであり、また、なりたったなりたちを、わたしたちは、さまざまに用いることができるものです。(なお、前の段の「働く」に当たるのはfunktionierenであり、ファンクションとしての働きであり、また、つねづねには「機能」と訳されもします。)

 

 しかし、そのとおり、わたしたちの精神のなりたちが時につれてなりたち、わたしたちがなりたったなりたちをさまざまに用いて、覚えをつかみ、〈考え〉をつかみ、ものごとをつかもうとも、覚えは、やはり、ものごとから来ますし、〈考え〉は、そもそもにおいて、ものごとに属します。言い換えれば、現象が、対象、印象、表象となっても、象が象であることに変わりはありません(4-c-3)。(「つかむ」に当たるのはerfassenであり、er〈まさに〉fassen〈つかむ〉というつくりで、「つかまえる」の意です。それは、すなわち、分別という考えるのアクトないしファンクションを指します。それについては、二の章や4-b-1の回を見てください。)

 

 さて、次の段です。

 

 人は、ひとつの限られたものである。人は、さしあたり、他のかずかずのものの中のひとつのものである。人があるのは、場と時のうちにおいてである。そのことによって、人に与えられてあるところも、また、いつなりとも、まるごとのユニヴァ一スの限られたひとところである。しかし、その限られたひとところが、時の上でも場の上でも、周りにある他のものとつながる。もし、わたしたちのあるが、ものごとと結びあわさってあり、世に起こることのいちいちが、そのままわたしたちのことであるとしたら、わたしたちとものごとの違いが与えられてありはしないだろう。しかし、その場合には、わたしたちにとって、いちいちのものごとも与えられてありはしないだろう。起こることという起こることが、ひとつづきに入り組み合っていよう。コスモスが、まさにひとつの織りなしであり、ひとつの、それとして閉じたまるごとであろう。起こることの流れが、どこまでも途切れなしであろう。わたしたちの限りのゆえに、わたしたちにとって、いちいちとして現れるのは、まことはいちいちならざるところである。たとえば、赤というひとつの質も、ぽつりとそれだけであることはない。その質は、他のかずかずの質に囲まれてあり、かずかずの質の中のひとつの質であり、他のかずかずの質なくしては、ありつづけることができない。しかし、わたしたちにとっては、しかじかのひときれを世から引き上げ、それをそれとして見てとることが、ひとつの、自ずから明らかなことである。わたしたちの目は、ひとつの、とりどりである色のまるごとから、そのつど、いちいちの色だけを視ることができるし、わたしたちの分別は、ひとつの、かかわりあう〈考え〉のシステムから、いちいちの〈考え〉だけをつかむことができる。その切り離しは、わたしたちのアクトであり、わたしたちが世のプロセスと同ーでなく、かずかずのものの中のひとつのものであることに依っている。

 

 人は、ひとまず、物質における人です。その人には、もろもろの限りがあります。たとえば、足が床に触れるところで尽き、たとえば、まなざしが壁のところで遮られ・・・。また、その人の目に触れるもろもろ、足や手に触れるあれこれにも、さまざまな限りがあります。たとえば、床が足に触れるところで尽き、たとえば、壁が天井のところで終わり・・・。すなわち、その人は、その人の限りをもって、ものごとのいちいちに対します。また、その人は、その人の限りのおかげで、いちいちの覚えを、まさにいちいちと分かつことができますし、いちいちの〈考え〉を、まさにいちいちと分かつことができます。(「限り」に当たるのはSchrankeであり、「柵、仕切り、縁(ふち)」の意でもあります。なお「違い(Unterschied)」や「途切れ(Unterbrechung)」や「切り離し(Absonderung)」、「ひとところ(Teil)」や「ひときれ(Ausschnitt)」、「ひとつ(ein)」や「いちいちeinzeln」というのも、それとのかかわりです。)

 

 しかし、人は、それらいちいちのあいだに、なんらかのかかわりがあるのを、それとなく知っていますし、はっきりと意識するにもいたります。たとえば、足は床に触れるところで尽きていても、床の下には土があり、たとえば、まなざしは天井に遮られても、天井の上には空があります。わざわざ窓を開けて見るまでもありませんが、念のため開けてみると、やはり、あります。さらに、空には光があり、また目には見えていなくても、星があります。そして、そのかかわりを、それとなく知っているのも、また、はっきりと意識するにいたるのも、精神における人にほかなりません。すなちわ、それとなくであれ、はっきりとであれ、かかわりの自ずからな明らかさは、精神からやってきます。そもそも、人が、なんらかの限りを、まさに限りとして意識するのは、その限りを超えたところからです。そして、その限りを超えたところが、コスモスと呼ばれもすれば、ユニヴァ一スと呼ばれもします。すなわち、さきのが、いちいちのいち、ひとつひとつのひとつなら、こちらのは、まさにひとつの織りなし、すべてを含むまるごとひとつです。(「まさにひとつの織りなし」に当たるのはEinheitであり、Ein〈ひとつで〉heit〈あること〉というつくりです。ちなみに、二の章においては、それを「一重」というように訳してあります。「ユニヴァ一ス」はUniversumであり、Uni〈ひとつの〉versum〈方へ〉というつくりです。なお、二の章においては、それを「まるごとひとつ」と訳してあります。「コスモス」はKosmosで、もとは「秩序」「装飾」の意であり、そこから「世のすべて(Weltall)」の意が出てきます。)

 

 そして、次の段です。

 

 さて、すべては、わたしたちであるものが他のものに向けてとる構えを定めることに懸かってくる。その定めは、わたしたちみずからがただに意識されるということから、きっと、さしおかれる。後者が覚えるに基づくこと、他のものごとのいちいちが意識されるに同じである。みずからの覚えが、わたしに、ひとくさりの性質を示し、それを、わたしがまとめてつかみ、わたしの人となりのまるごととすること、わたしが、黄色い、輝やきがある、固い、といった性質をまとめてつかみ、「金」というひとつのものとするに同じである。みずからの覚えは、わたしを、わたしに属するものの領域から外へは導かない。その、みずからを覚えるは、考えつつみずからを定めるから、さしおくことである。わたしは、外の世の覚えのひとつを、考えるによって、世のかかわりに組み入れるのと同じく、わたしについての覚えを、世のプロセスへと、考えるによって組み入れる。わたしのみずからを覚えるは、わたしを、定かな限りのうちに閉じ込めるが、わたしの考えるは、その限りにかかわらない。その意味において、わたしは二重のものである。わたしは、わたしの人となりの領域として覚えるところのうちに閉じ込められているものの、より高いところから、わたしの限られたありようを定める働きの担い手である。わたしたちの考えるは、わたしたちの感覚するや感じるのようにインディヴィジュアルではない。それは、ユニヴァーサルである。それが、いちいちの人においてインディヴィジュアルな徴を帯びるのは、インディヴィジュアルな感じるや感覚するに重ね合わされているからこそである。その、ユニヴァーサルな考えるの、べつべつの色づけによって、ひとりひとりの人が互いに相違する。ひとつの三角形は、ひとつきりの〈考え〉をもつのみである。その〈考え〉の内容にとっては、その〈考え〉を人の意識の担い手・AがつかもうとBがつかもうと、どちらでもかまわない。しかし、その〈考え〉が、そのふたつの、意識の担い手の、どちらによっても、インディヴィジュアルにつかまれる。

 

 はじめの文をいまひとたぴ引きます。

 

 さて、すべては、わたしたちであるものが他のものに向けてとる構えを定めることに懸かってくる。

 

 わたしたちは、さしあたり、ひとまず、ものごとに対します。すなわち、ものごととともに、みずからをも意識します。さらに、わたしたちは、ものごとの限りと、みずからの限りを意識します。すなわち、それらのかかわりを、まさに考えます。そのとおり、わたしたちは、ものごとに向けて、対する構えをとることができますし、さらに、考える構えをもとることができます。言い換えれば、わたしたちは、みずからを、ものごとに対させることができますし、みずからを、考えるの担い手にすることもできます。そして、そのとおり、ものごととわたしたちみずからの限りとかかわり、すなわち、まさにすべては、わたしたちが、ものごとに向けて、考える構えをとること、もしくは、みずからを考えるの担い手にすることに懸かってきます。(「構え」に当たるのはStellungであり、stellen〈置く、据える〉からきて、「姿勢、加減、職分」といった意です。「定める」に当たるのはbestimmenであり、be〈まさに〉stimmen〈調べる〉というつくりで、「定かにする、それとして律する」の意です。)

 

 そして、二つ目の文です。

 

 その定めは、わたしたちみずからがただに意識されるということから、きっと、さしおかれる。

 

 わたしたちに、みずからが覚えられることと、わたしたちが、考える構えをとることには、きっと、違いがあります。いかなる違いでしょうか。みずからの覚えは、いちいちの覚えのうちのひとつの覚えです。その覚えは、みずからの限りのうちにとどまります。わたしたちの人となりをはみだしません。かたや、わたしたちが、考える構えをとるにおいては、きっと、考えるの扶けを借ります。そして、考えるは、みずからの限りにかかわりません。わたしたちの人となりをはみだします。そのとおり、わたしたちというものは、人となりとして覚えられるとろでもありますし、人となりの限りを超える働き、すなわち、考えるの担い手でもあります。言い換えれば、わたしたちというものは、からだとこころと精神からなりたつものです。さらにまた、その、わたしたちのふたつのありようは、互いに互いをさしおきます。すなわち、わたしたちが、人となりの覚えにかまけるにおいては、考えるの担い手であることができませんし、わたしたちが、考えるの担い手であるにおいては、人となりの覚えにかまけることを控えます。もしくは、人となりの覚えを、いささかなりとも凌ぎます。そして人の意識は、いささかなりとも、人となりの覚えを凌ぐ意識です。みずからの覚え、ないし、人となりの覚えにかまける意識を自己意識というなら、人の意識は、いささかなりとも嵩じた自己意識です。(「さしおく」に当たるのはunterscheidenでありunter〈下に〉scheiden〈断つ〉というつくりで、「区別する」の意です。が、ここでは、まさにそのつくりも、ものをいっています。「人となり」に当たるのはPersonlichkeitであり、Person〈ひとりの人〉lich〈なりである〉keit〈こと〉というつくりです。そのことばに「人となり」ということばを宛てたのは、もちろん「なりたち」とのかかわりにおいてです。4-b-4の回も見てください。)

 

 さらに、こうつづきます。すなわち、この段のお終いのほうの件りです。

 

 わたしたちの考えるは、わたしたちの感覚するや感じるのようにインディヴィジュアルではない。それは、ユニヴァーサルである。

 

 まさに見てとってきたとおり、考えるはユニヴァーサルです。かたや、感覚するも、感じるも、人それぞれです。いかがでしょうか。(「感覚する(empfinden)」ついては、4-6-1の回を見てください。「感じる」に当たるのはfuhlenであり、情の繰りだし、ないし、その繰りだしを覚える働きのことです。「インディヴィジュアル」はindividuellで、dividuell〈分かち〉in〈得ない〉というつくりであり、いうならば「いちいちのいちいちたるところ」をいいます。)

 

 そして、分かたれたふたところが、ふたたぴ重ね合わされます。すなわち、次の文です。

 

 それが、いちいちの人においてインディヴィジュアルな徴を帯ぴるのは、インディヴィジュアルな感じるや感覚するに重ね合わされているからである。

 

 

 考えに、暖かな考え、冷たい考えがあり、かたくなな考え、やわらかな考えがあり、もつれた考え、すっきりした考えがあり・・・、また、人には、冷たい考えをしがちな人があり、かたくなな考えをいだきがちな人があり・・・。(「徴」に当たるのはGeprageでありpragen〈印す、鋳るから〉きて、印されたところ、鋳られたところを指します。)

 

 そして、次の文です。

 

 その、ユニヴァーサルな考えるの、べつべつの色づけによって、いちいちの人が互いの違いをきわだたせる。

 

 すなわち、分かたれたふたつの重なり合いにおいて、ひとりひとりの人が、ひとりひとりの人たりえます。そして、その重なり合いを、まさにその人が意識してアクティブにまかなうにつれ、その人がいよいよその人となります。なお、そのことについては、六の章において詳しく述べられることになります。(「互いの違いをきわだたせる」に当たるのはsich unterscheidenであり、sich〈みずからを〉unterscheiden〈違わせる〉という言い回しで、いわば「互いに差異する」の意です。)

 

 そして、さらなる件りです。

 

 ひとつの三角形は、ひとつきりの〈考え〉をもつのみである。その〈考え〉の内容にとっては、その〈考え〉を人の意識の担い手・Aがつかもうと、Bがつかもうと、どちらでもかまわない。しかし、その〈考え〉が、そのふたつの、意識の担い手の、どちらによっても、インディヴジュアルにつかまれる。

 

 わたしは、わたしの〈考え〉を覚えるのみか、他の人の〈考え〉をも覚えます。もしくは、他の人の〈考え〉をも、それとして受けとり、それとして考えてみることができます。もし、そのときに〈考え〉の内容までが変わってしまうのだとすると、他の人の〈考え〉を受けとることも、他の人に〈考え〉を伝えることも、すこぶる虚しいことになってしまいます。しかし、わたしの経験するかぎり、そうではありません。もっとも、とりちがえることはありますが・・・。ひとつの〈考え〉は、まさにその〈考え〉です。考えるがユニヴァーサルであるとおり、考えにもユニヴァーサルなところがあります。ただし、そのことを見抜くにも、インディヴィジュアルな色づけをさしひかえてみることが欠かせません。もしくは、みずからを人の意識の担い手にしてみることが欠かせません。(「ひとつきり」にあたるのはeinzigであり、ein〈ひとっ〉zig〈きり〉というつくりです。なお「人の意識(das menschliche Bewusstsein)」については3-g、4-a-3の回を見てください。)

 

 すなわち、次の段がこうつづきます。

 

 その考えには、ひとつ、かずかずの人の抱く、凌ぎがたい先入観が立ちはだかる。その囚われは、このことを見抜くに至らない。すなわち、わたしの頭がつかむ三角形という〈考え〉は、わたしの隣りの人によってとらえられるそれと同じである。ナイープな人は、みずからを〈考え〉の作り手と見なす。その人は、そこから、どの人もその人だけの考えをもつ、と信じる。哲学としての考えるが、おおもとにおいて求めることのひとつは、その先入観を凌ぐことである。三角形という、まさにひとつの〈考え〉は、多くによって考えられても多くはならない。そもそも、多くの人の考えるからして、まさにひとつである。

 

 まさに見てとってきたとおり、〈考え〉の作り手は、考えるです。人は、考えるの扶けをもって、いちいちの〈考え〉を分かち、また、結びつけるまでです。同じ考えをもつ、同じ考えをするといいますが、そのことばは、まさにことばどおりのリアルな意味をもちます。考えを伝えるというのは、その実、考えをともどもにもつことです。そして、明らかに、あたたかく、やわらかくもたれている考えが、それをもつ人へと、すこやかに働きかけます。

 

 逆に、どの人も、その人だけの〈考え〉をもつ、というのは、人が、〈考え〉を、それとなく、気儘に分かち、結びつけるから出てくる考えです。そして、その、それとなくの、気儘な分かち、結びつけから出てくる考えも、まさしく精神のなりたちのうちですが、それは、考えるの働きかけ、考えるからの自ずからな明らかさを、受けいれるでなく、遠ざけます。(「先入観」に当たるのはVorurteilであり、Vor〈前もって〉urteil〈分かつ〉というつくりです。)

 この回は、働きということ(Wirken)、リアリティということ(Wirkichkeit)、なりたちということ(Organisation)、構えということ(Stellung)にちなんで、道元の『座禅箴』から引きます(テキストは岩波文庫です)。まえに引いたのは(4-a-4)、そのはじまりの件りですが、この回に引くのは、そのお終いの件りです。道元は、宏智による箴を引いてから、かれによる箴を記しています。ことばは難しそうにみえようとも、記されていることへと踏み込む糸口が、まさにここまでの考えるプロセスをもって見いだされます。そもそも、多くの人の考えるからして、まさにひとつですから。まず、宏智のはこうです。

 

仏々の要機、祖々の機要

事を触(そく)せずして知り、縁に対せずして照らす

事を触せずして知る、其の知自(おのずか)ら微(み)なり

縁に対せずして照らす、その照自ら妙なり

其の知自ら微なり、曾(かつ)て分別(ふんべつ)の思(し)無し

その照自ら妙なり、曾て毫忽(がうこつ)の兆無し

曾て分別の思無き、其の知無偶(むぐう)にして奇なり

曾て毫忽の兆無き、其の照取ること無くして了なり

水清んで底に徹(とほ)って、魚の行くこと遅々(おそし)

空闊(ひろ)くなり、涯(かぎ)りなし、鳥の飛ぶこと沓々(えうえう)なり

 

 そして、道元のはこうです。

 

仏々の要機、祖々の機要

不思量にして現ず、不回互(ふういご)にして成(じょう)ず

不思量にして現ず、其の現(げん)自ら親(しん)なり

不回互にして成ず、其の成自ら証(しょう)なり

其の現自ら親なり、曾て染汚(ぜんわ)無し

其の成自ら証なり、曾て正偏(しゃうへん)無し

曾て染汚無きの親、其の親無委(むい)にして脱落なり

曾て正偏無きの証、其の証無図(むと)にして功夫なり

水清んで徹地なり、魚行(ゆ)いて魚に似たり

空闊透天(くうかつてうてん)なり、鳥飛んで鳥の如し

 

 なお、数ある脚注のなかから、ここでは「正偏」についてのそれを引くだけで足りるでしょう。こうあります。

 

 洞山の五位。正位と偏位を立てて正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到の五により修行の次第を説くが、正伝の座禅の中ではそれもいらない。