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略伝自由の哲学第五章b−2

 前の回において、わたしたちは、ふたつの問いを迎えてみました。ひとつは、こうです。

 

 考えるは、覚えに、どうかかわるでしょうか。

 

 もうひとつは(ことばどおりではありませんが)、こうです。

 

 世はもとより、ものごとのいちいちは、覚えであるのはもとより、〈考え〉をも含んではいないでしょうか。

 

 この回は、その問いをもって、ふたつのもの、ないし、ふたつのことを例にしながら、考えつつ見てとることを押し進めます。まず、ひとつはこうです。すなわち、十一の段です。

 

 わたしたちが、ひとつのもの、ひとつのことについて、ただの覚えによって経験するところのまとまりを、ひとつの全体、ひとつのまるごとと見なし、考えつつ見てとるによって生じるところを、そのもの、そのことにかかわらない付け足しと見なすのは、まったく気儘なことである。わたしが、きょう、バラの蕾を得るにおいて、わたしの覚えにとって出てくる相が、ひとつの閉じた相であるのは、さしあたってのことにすぎない。わたしは、蕾を水に生けるにおいて、あした、わたしの客の、まったく異なる相を得ることになる。わたしは、バラの蕾から目を逸らさずにいるにおいて、きょうのありようが、あしたのありようへと、数かぎりないあいだのありようを経つつ、ひとつづきに移りゆくのを視るであろう。わたしへと定かな一時に出てくる相は、弛まずなりゆきつつである対象の、たまたまの一切れにすぎない。わたしが蕾を水に生けなければ、蕾が、蕾のうちに可能性としてある、ひとつらなりのありようのまるごとを繰り出しはすまい。同じく、わたしが、あした、花を見ることは阻まれていようし、そのために、ひとつの、まるまるではない相を迎えていよう。

 

 あたりまえと言うなら、いたってあたりまえのことを言いますが、バラの蕾を見つつ覚えているうちは、バラの花を見つつ覚えることがありません。しかし、バラの蕾もバラの花もバラのうちです。すなわち、バラの蕾がバラの花となります。そして、バラの蕾がバラの花になることもバラのうちです。バラの蕾を見つつ覚えながら、バラの蕾がバラの花になるという〈考え〉を欠くとすれば、バラの蕾というものがバラの蕾というものたりえません。同じく、バラの花を見つつ覚えながら、バラの蕾がバラの花になるという考えを欠くとしても、バラの花というものがバラの花というものたりえません。いったい、なるという〈考え〉、または育つという〈考え〉が欠けていれば、バラというもの、ひいては植物というものが、そのものたりえません。つまり、その〈考え〉を欠く人は、そのものを水に生けることはないはずです。(「そのもの、そのこと」に当たるのはSacheであり、もともとは訴訟、審理に付される要件、案件(Rechtsangelegenheit)をいったそうですが、いまは普遍的に「もの」「こと」をいいます。かたや「ひとつのもの、ひとつのこと」に当たるのはDingであり、こちらは個別的に「もの」「こと」をいいます。また「ものごと」とあるのも、それです。なお「もの」はどちらかというと普遍的、「こと」はどちらかというと個別的です。)

 

 そして、十二の段です。

 

 しかじかの一時に出てくる相について、それが、そのもの、そのことだと説き明かすのは、そのもの、そのことに沿わない、たまたまに寄って立つ意見である。

 

 そのもの、そのことの、ひと時ひと時の相は、なるほど、そのもの、そのことに属しはしても、それをもって、そのもの、そのこととするには、無理があります。そうすることは、いわば、ひと時ひと時という限りのある時を、限りのない時というように、とりちがえることでもあります。なお、一時には、束の間の一時もあれば、数時間にわたる一時、さらには一生というように長い一時もあります。それは、すなわち、人のくくりかたによります。(「・・・に寄って立っ」に当たるのはan...sich helfenであり、an...〈・・・について〉sich〈みずからを〉helfen〈助ける〉という言い回しです。それについては、前の回も見てください。「意見」に当たるのはMeinungであり、meinen〈念う、言う〉から来ます。なお、意見がまちがいであることもあるのは、その、たまたまに寄って立つ立ちようからです。また「まちがい」についても、前の回を見てください。)

 

 さて、わたしは、そしてまた、きっと、おおかたの人も、バラの蕾を得たなら、それを水に生けます。それは、わたしにとって、そしてまた、きっと、おおかたの人にとっても、自ずから明らかなことであり、あたりまえといえば、いたってあたりまえなことです。しかし、不思議といえば、いたって不思議なことでもあります。なぜといって、右に述べるような考えるプロセス(もしくは審理ということ)を経てこそ、なるほどと腑に落ちることが、そのプロセスを抜きにして、つまり、バラの蕾を見つつ覚えている、まさにその時において、自ずから明らかであり、いたってあたりまえなのですから。

 

 さきに進みます。十三の段がこうつづきます。

 

 同じく、覚えのいちいちのまとまりを、そのもの、そのことであると説き明かすのも、まっとうではない。大いにありうることながら、ひとつの精神が、時を同じくして、かつ、覚えから分かたれずに、〈考え〉をともに受けとめもしよう。そのような精神は、〈考え〉を、そのもの、そのことに属さないものとして見てとろうなどとは、思いつきもしないだろう。そのような精神は、きっと、〈考え〉が、そのもの、そのことと分かちがたく結びついているのを認めよう。

 

 繰り返します。

 

 同じく、覚えのいちいちのまとまりを、そのもの、そのことであると説き明かすのも、まっとうではない。

 

 そのことが、すぐにそうだと受けとれるでしょうか。なんらかの問い、さらには疑いがきざさないでしょうか。(「まっとうではない」に当たるのはwenig statthaftでありwenig〈僅かに〉statt〈立ちゅき〉haft〈得る〉という言い回しです。5-a-1の回も見てください。)

 

 大いにありうることながら、ひとつの精神が、時を同じくして、かつ、覚えから分かたれずに、〈考え〉をともに受けとめもしよう。

 

 その大いにありうることが、わたしにとっては、あるのか、ないのか。また、ほかの人にとっては、どうなのでしょうか。

 

 そのような精神は、〈考え〉を、そのもの、そのことに属さないものとして見てとろうなどとは、思いつきもしないだろう。

 

 むしろ、その思いつきのほうが、わたしのこころをそそります。いったい、ここに述べられていることを、不思議だと思い、おかしいと訝る気もちになるのは、ほかでもなく、その思いつきがあるからです。(「思いつき」に当たるのはEinfallであり、ein〈入りつつ〉fallen〈落ちる〉から来て、「着想」「気まぐれ」といった意です。なお、前の段の「たまたま」に当たるのはZufallikeitであり、zu〈向かいっつ〉fallen〈落ちる〉から来て、「偶然性」の意です。)

 

 そのような精神は、きっと、〈考え〉が、そのもの、そのことと分かちがたく結びついているのを認めよう。

 

 よく読んでみると、述べられていることは、こころのことでなく、精神のことであり、思いや思いつきのことでなく、〈考え〉のことです。とにかく、思いも、気もちも、ひとたびさしおいて、次の考えるプロセスを辿ってみます。すなわち、もうひとつの例であり、十四の段です。

 

 もうひとつの例によって、さらにはっきりさせたい。わたしは、石を向こうに投げるにおいて、石がつぎつぎとさまざまな場に移りゆくのを視る。わたしが、そのさまざまな場を結びつけると、ひとつの線になる。数学において、わたしは、さまざまな線のかたちを習っている。そのなかには放物線もある。わたしが知っている放物線は、ひとつの点がしかじかの法則に沿って動くにおいて生じる線である。わたしは、投げた石の動く条件を探るにおいて、石の動きの線が、わたしの知っている放物線の線と同じであるのを見いだす。石がまさに放物線を動くこと、それは、与えられた条件に従って出てくることであり、また、その条件から、おのずからさをもって、導きだされる。放物線のかたちが、現れのまるごとに属すること、その他、現れのまるごとにおいて見てとられるところとなるすべてと同じである。右にいう精神、考えるの廻り道を経るまでもない精神には、さまざまな場についての視覚のまとまりが与えられているばかりでなく、現れと分かたれずに、投げた石の描く放物線という、わたしたちが考えるによって現れに付け足すかたちも、与えられていよう。

 

 投げられた石が放物線を動きます。いや、放物線ということばを知らなくても、わたしたちは、その石がそれなりの動きをするのを、それとしてとらえます。わたくしごとですが−小学五年のころだと思いますーはじめて外野を守ったとき、フライが飛んでくると、つい、前へと動いてしまい、ボールが頭の上を越えるあたりから、あわてて追いかけるということをしていました。それが、ある時、にわかに変わりました。その時のうれしかったこと。フライを追うことは、バッターがボールを打ったところからはじまります。ボールが上がってゆくのを見つつ覚えるまさにその時、ボールの落ちゆくさきが自ずから明らかに見とおされます。なるほど、子どものころには、そういうわけしりのことばをもちあわせていませんでしたが、わけがわからないながらも、これだという手ごたえがありました。いわば、フライのなんたるか、フライのフライたるところを見いだしたという、喜びと誇りです。もちろん、その後には、数学の授業で放物線を習いました。どう習ったかは、もう忘れましたが、それがy=ax2という公式によって表され、左右対称のグラフとして描かれることは憶えています。(「従って出てくること」に当たるのはFalgeであり、「導きだされる」に当たるのはfolgenであり、いうならば、前者はフライのフライたるところを指し、後者は、放物線が「考えるの廻り道」によって考えだされることを指します。)

 

 そして、わたしは、ここに考えるプロセス(もしくは審理ということ、もしくは考えるの廻り道)をとおして、その憶えに含まれる〈考え〉と、フライのフライたるところに含まれる〈考え〉が、同じであると見いだし、喜びを新たにしているところです。放物線という〈考え〉は、放物線ということばを知らなくても、かのフライがとれるようになったとき、かのフライの覚えと分かちがたくありあわせてよりこのかた、フライの覚えのたびごとに、ありあわせていますし、これからもありあわせることでしょう。(「同じ」に当たるのはidentischであり、「アイデンティファイすることができる」ことです。)

 

 なお、そのとおり覚えと〈考え〉が分かちがたくありあわせることが、つねづねには目測といわれ、勘ともいわれます。そして、勘の字は「かむがふ」とも訓じられます。ただし、目測も気をいれてしないと誤りますし、勘も気儘にすると山勘になります。ことは、紛れなく精神のことです。ただ、それには、それ相応のこころのありようが欠かせません。ちなみに、こういうすてきな文章もあります。どうぞ、お口直しに。

 

 形態の知覚に伴う美意識とか、またはある動作をなしつつある時のおもしろみとかは、従来単に感情の働きに帰着させられた傾きがあるけれど、私の考えるところでは、それは大部分覚の自証(じしょう)に還元されるべきものである。形態美の成立は、それが完結された全体としてわれわれの意識に与えられるときにおいて、ないしは多様の中に統一を看取(かんしゅ)する瞬間においてではなくして、その全体なるものがだんだんとでき上がるその途中においてである。絵画の美、旋律の美、すべてその点に変わりはない。すなわち、時間的に与えられた個々の内容が、覚の世界においてある方向にまとめられていくところに美しさがある。

(黒田亮『勘の研究』講談社学術文庫)

 

 ここで十一の段のはじめに立ち返ってみます。

 

 わたしたちが、ひとつのもの、ひとつのことについて、ただの覚えによって経験するところのまとまりを、ひとつの全体、ひとつのまるごとと見なし、考えつつ見てとるによって生じるところを、そのもの、そのことにかかわらない付け足しと見なすのは、まったく気儘なことである。

 

 覚えは嵩(こう)じもします。覚えが嵩じるのは、考えるが及び来るにおいてです。もって、ひとつのもの、ひとつのことが、いよいよ、そのもの、そのこととなります。さらに、そのもの、そのことを考えつつ見てとるにおいて、〈考え〉ないし憶えが生じます。すなわち、もの、ことは、覚えると考えるのうちに、覚えと〈考え〉をもってなりたちます。さらにまた、〈考え〉ないし憶えが、そのもの、そのことに重なり合うにおいて、そのもの、そのことが、ふたたび、そのもの、そのこととしして認められます。その、一時にして一時を凌ぐ、覚えるの繰りだしにして考えるの及び来たりは、自ずから明らかであり、紛れなく精神の働きであり、いうところの覚の自証です。そして、それは、人の気儘さと同じく、大いにありうることではありませんか。どうか、はじめのふたつの問いが、折りにふれて抱かれることを!(「考えつつ見てとる」に当たるのはdenkende Betrachtungです。それについては、ことに三の章を見てください。「生じる」に当たるのはentstehenであり、ent〈分かれて〉stehen〈立つ〉というつくりで、生起、出来、成立といった意です。4-a-1の回も見てください。「気儘」に当たるのはwillkurlichであり、will〈意に任せて〉kur〈選ぶ〉lich〈さま〉というつくりで、任意、恣意、横暴といった意です。)

 さて、この回のお終いには、バラと、考えるの自ずからな明らかさとにちなんで、北原白秋の詩から『薔薇二曲』を引きます。

 

薔薇ノ木二

薔薇ノ花咲ク。

 

ナニゴトノ不思議ナケレド。

 

薔薇ノ花。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

 

照リ極マレバ木ヨリコボルル。

光リコボルル。