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略伝自由の哲学第五章c−2

 この回は五の章の二十の段からです。

 

 考えるにおいて、わたしたちには、わたしたちのことさらなインディヴィジュアリティをコスモスとともに、ひとつのまるごとへとまとめあわせる元手が与えられてある。わたしたちは、感覚する、感じる(また覚える)において、ひとりひとりのものであり、考えるにおいて、すべてを貫く、すべてでひとつのものである。そのことが、わたしたちの二重の自然の、より深い基である。わたしたちは、わたしたちへと、ひとつの並びなき力がありくるのを視る。ひとつのユニヴァーサルな力であるが、しかし、わたしたちは、その力が世の中心から湧きでるのを知るでなく、はずれの一点において知るようになる。もしもであるが、前者のことがまさにことであるなら、わたしたちは、意識へといたるその矢先に、世の謎のまるごとを弁えていよう。しかし、わたしたちは、はずれの一点に立ち、わたしたちがあることを、定かな境のうちに見いだすので、きっと、わたしたちというものの外にある領域を、あまねく世があることから、わたしたちへと及び来る、考えるの扶けをもって知るようになる。

 

 はじめの文から見ていきます。

 

 考えるにおいて、わたしたちには、わたしたちのことさらなインディヴィジュアリティをコスモスとともに、ひとつのまるごとへとまとめあわせる元手が与えられてある。

 

 わたしたちは、いちいちのものごとを覚えるとともに、考えるの扶けをもって、ものごとのいちいちを、さまざまに分かち、また、さまざまに括ります。その分かち、括るは、わたしたちが、わたしたちみずからとして分かち、括るところを、わたしたちみずからのほか、つまりはコスモスとして、分かち、括るところとともに、ひとつのまるごとへとまとめるにおいて窮まります。そのまとめるは、いわば、わたしたちが考えるを担ってする働きであり、さらには考えるに仕えてする働きであり、かの分かち、括るは、わたしたちが考えるを用いてする働き、または考えるを使ってする働きです。(「元手」に当たるのはElementであり、「基にあるもの」「元になるもの」の意です。ここでは、わたしたちのする働きの元であり、かつ、わたしたちがあることの基です。)

 

 すなわち、二の文です。

 

 わたしたちは、感覚する、感じる(また覚える)において、ひとりひとりのものであり、考えるにおいて、すべてを貫く、すべてでひとつのものである。

 

 わたしたちは、色、音、動きなどのいちいちを感覚し、喜怒哀楽など、情のいちいちを感じます。そして、それら、感覚のいちいち、情のいちいちは、それなりに限りがありますし、つまりは、わたしたちが限りをもって覚えるところです。かたや、わたしたちは、考えるの扶けをもって、いちいちの限りを踏み越え、いちいちを織りなし合わせ、さらに織りなしという織りなしを上回ります。そのように上回るわたしたちのありようは、わたしたちとコスモスがひとつのありようであり、かのように踏み越え、織りなし合わせるわたしたちのありようは、わたしたちがコスモスと対するありようです。すなわち「すべてでひとつのもの」は、考えるを担いつつ、さらには考えるに仕えつつ、コスモスを織りなし、さらにはコスモスをつつむ、わたしたちのありようであり、かつ、ユニヴァースのたたずまいです。そもそも、考えるは、ユニヴァーサルであり(5-c-l)、かつ「わたしが生みだすという意味において(3-d)」リアルにありあわせます。(「もの」に当たるのはWesenであり、sein〈ある〉geschehen〈生じる〉に通じて、いわば、する働き(Tun und Treiben)のことであり、また、ことさらなありさま、いちじるしいありよう(das Besondere, das Kennzeichnende)のことです。)

 

 さらにまた「すべてでひとつのもの」は、そのものならではの情を湛えます。その情は、ほかでもありません、ユニヴァーサルでインディヴィジュアルな情、言い換えれば、まったくもってひとりという情、さらに言い換えれば、ひとりぼっちという情です。その情は、どこかしら喜怒哀楽はもとより、情という情に通じているようでいて、そのいずれとも異なる、まさに「すべてでひとつのもの」の情です。(「すべてでひとつ」に当たるのはall-einです。ハイフン抜きのalleinは、孤独の意ですが、ハイフンは、まさにそのことばのつくりを引き立てます。すなわちall〈すべてで〉ein〈ひとっ〉です。それについては4-b-3の回に引いた『兎の花嫁』も見てください。)

 

 そして、三の文です。

 

 そのことが、わたしたちの二重の自然の、より深い基である。

 

 わたしたちは、おのずからながらで、覚えるものであり、また、同じくおのずからながらで、あるときから、考えるものとなります。そして、わたしたちが世と対し、ものごとと対するようになるのも、そのあるときからです。その意味において、人は、おのずからながら二重のものです。しかし、なおかつ、わたしたちは、世のうちに属しているというように感じるものでもあります。言い換えれば、わたしたちは、ものごとの説き明かしを求め、世とのかかわりを探ろうと欲するものでもあります。その意味において、わたしたちは、おのずからながら三重のものでもあります。二重にしろ、三重にしろ、とにかく、ー重のなりたちをしていないのが、わたしたち、人です。(二の章)。そして、これまで、わたしたちは、まさに求めつつ、探りつつ、考えるのいかなるかを見てとり(三の章)、覚えのいかなるか、〈考え〉のいかなるかを見てとり(四の章)、さらに、覚えと〈考え〉が、ものごとの元手、世の元手であり、かつ、わたしたちの精神のなりたちの元手であることを見てとりました(5-b-l~5-c-l)。

 

 すなわち、四の文です。

 

 わたしたちは、わたしたちへと、ひとつの並びなき力がありくるのを視る。ひとつのユニヴァーサルな力であるが、しかし、わたしたちは、その力が世の中心から湧きでるのを知るでなく、はずれの一点において知るようになる。

 

 わたしは、考えるがなにからくるかを知りません。わたしは、世と対し、ものごとのいちいちと対し、わたしみずからと対するようになってよりこのかた、言い換えれば、わたしみずからを、ひとつのものと感じ、人のはしくれと感じ、世のかたすみに暮らすものと感じるようになってよりこのかた、いちいちのものごとと、わたしみずからとを、どうにかこうにか、だんだんに知りつつあるところであり、また、とつおいつ、じんわりと、考えるが、まさに世の力として、ものごとのいちいちにおいてものをいい、わたしみずからに働きかけるのを知りつつあるところです。(「力」に当たるのはKraftであり、その発露が「働きかけること、ものをいうこと(Wirkung)」です。「知るようになる」に当たるのはkennen lernenであり、kennen〈知るを〉lernen〈学ぶ〉という言い回しで、いわば「だんだんに親しく知りゆく」の意です。)

 

 五の文が、こうつづきます。

 

 もしもであるが、前者のことがまさにことであるなら、わたしたちは、意識へといたるその矢先に、世の謎のまるごとを弁えていよう。

 

 「もしも」というのは、言うまでもなく、仮りの言い方です。それは、これまでと同じように、かえって仮りの逆のこと、リアルなことを伝えます。すなわち、わたしたちは、考えるを担いつつ、考えるに仕えつつ、わたしたちの意識に明暗のグラデーションがあるのを、それとしてはっきりと知ります。さらに、わたしたちは、その明るいところが、わたしたちにとって親しいところであり、当たり前のところであり、その暗いところが、わたしたちにとってよそよそしいところであり、謎めくところであるのも知ります。さらにまた、わたしたちは、その明るく、親しく、当たり前なところを、わたしたちの内として括り、その暗く、よそよそしく、謎めくところを、わたしたちの外として括っていることも、それとしてはっきりと知ります。そもそも「まさにわたしたちが、考えるを、生みだすゆえに、わたしたちは、考えるのなりゆきのことさらなところ、そこに見てとられるところとなることが、いかになされるかを知り(3-c)」ます。

 

 すなわち、六の文です。

 

 しかし、わたしたちは、はずれの一点に立ち、わたしたちがあることを、定かな境の内に見いだすので、きっと、わたしたちというものの外にある領域を、あまねく世があることから、わたしたちへと及び来る、考えるの扶けをもって知るようになる。

 

 わたしたちは、からだの内にあり、着物の内にあり、部屋の内にあり、家の内にあり、地域や社会の内にあり、民族や国家の内にあり、時代やコスモスの内にあります。いうところの内は、わたしたちが、ものごとの限りをもとに、考えるを用いつつ、または使いつつ定めるところです。「境」は、その定かな限りを指します。たとえば、わたしたちが、わたしたちというものの境を、からだの限りをもとに定めるにおいては、着物からコスモスまでが、わたしたちというものの外になります。しかし、考えるは、内外の境を定める元手であり、内外を超えています(4-a-3)。ちなみに「みごろ」「みぐるみ」「みども」「みうち」「みのほど」といった「み」ということばの使いかたも、さまざまな境を伝えています。詳しくは、市川浩『〈身〉の構造一身体論を超えて一』(講談社学術文庫)を読んでみてください。(「境」に当たるのはGrenzenであり、Grenzeの複数形です。また「限り(Schranke)」については、前の回を見てください。)

 

 そして、次の段です。

 

 考えるが、わたしたちの内に、わたしたちの括れてあることの上へと及んで重なり、かつ、あまねく世があることへと重なるによって、わたしたちの内に、知ろうとするもよおしが生じる。考えるを欠くものは、そのもよおしをもたない。そのものに、ほかのものごとが対し合っても、それによって問いが与えられはしない。ほかのものごとは、そのものにとって、外にあるままである。考えつつのものにおいては、外

のものごとに対して、〈考え〉が出てくる。〈考え〉は、わたしちが、ものごとにつき、外からでなく、内から受けとるところである。その二つの元手、内外の元手の、釣り合い、合わさりをこそ、知るは、もたらしてほしいものである。

 

 そもそものこと、わたしたちが世と対しあい、ものごとと対しあうのを意識するのも、考えるの扶けがあってです(二の章)。さらに、わたしたちが、内において外を知ろうとする気になるのも、考えるの扶けがあってです。すなわち、内外に重なる考えるから、内には、外についての〈考え〉がきざし、そして気をそそります。つまり、その〈考え〉が、問いとして抱かれます。逆に、わたしたちが、ものごとに対することなく、ものごとのまえを素通りするのは、考えるを欠きつつです。そのものごとは、わたしたちにとって、外も外であり、暗いどころか、闇のなかの、無きに等しいものごとです。(「知る」に当たるのはerkennenであり、er〈まさに〉kennen〈知る〉というつくりです。ついでに「知る」は「いちじるしさ」「明らかさ」に通じますが、ことば(語源学)の上ではどうなのでしょうか。)

 

 そして、わたしたちは、問いつつ、知るにいたります。そのプロセスは、わたしたちが、内を支えに、外に向かいつつ、内を抑えて、外を迎えつつで、内と外とのバランスをとりーそれにつれ、境ないし相がいきいきと息づき一ついには内外がひとつになることをもって、ひととおり終わります。すなわち、外が、明るみ、親しくなり、当たり前になり、内が、富み、深まり、確かになることをもってです。ここに、考えるは、ものごとのありようをーないし境、ないし相をーなりかわらせる元手であり、かつ、わたしたちの精神のなりたちを、豊かに、深く、確かになりたたせる元手です。(「もたらしてほしい」に当たるのはliefern sollenであり、liefern〈産出して〉sollen〈欲しい〉という言い回しです。というのも、いまは、ただの知識を得ることも、「知る」として大いに罷り通るからです。)

 

 そして、次の段、すなわち二十二の段です。

 

 覚えは、すなわち、仕上がり済みのものでなく、閉じきったものでなく、トータルな現実のひとつの面である。もうひとつの面が、〈考え〉である。知るのアクトは、覚えと〈考え〉をひとつに合わせることである。ひとつのもの、ひとつのことの覚えと〈考え〉が、いよいよ、そのもの、そのことを全くする。

 

 覚えは、わたしたちへと、外からきて、ものをいいます(働きかけます)。そのものいいは、わたしたちのからだのなりたちに懸かるとともに、わたしたちの精神のなりたちにも懸かります。〈考え〉は、わたしたちへと、内から来て、ものをいいます。そのものいいは、考えるが、わたしたちみずからの上に重なること、わたしたちが、考えるを担うこと、さらには、わたしたちが、考えるに仕えることによります。そして、ものごとは、覚えのものいいと、〈考え〉のものいいが合わさるによって、なおさらにものをいうようになります。考えるにおいて、わたしたちが、すべてでひとつのものであるように、ひとつのもの、ひとつのことも、そもそもにおいては、ユニヴァーサルななりたちをしています。

 この回は、内と外、およぴ、すべてでひとつのものに因んで、グリムのメールヒェンから『星の銀貨』を引きます。

 

 むかし、小さな女の子があった。父親も母親もなく、とても貧しかった。住む家もなく、寝るべッドもなく、とうとう持ち物といったら、着ている着物と、憐れに思った方から頂いた一切れのパンだけになった。でも、その子はいい子で、すなおだった。さて、そんなふうに、この世には寄る辺がないので、神さまと親しいこころのままに野原へと出ていった。すると、むこうから貧しい男がやって来て、「なにか食べる物を下され。ひもじくて、ひもじくて。」女の子は、もっていたパンを、まるごと渡して、こういった。「どうぞ、あなたの足しになるように。」さらに行くと、子どもがやって来て、しくしく泣いて、「寒くて寒くて、頭が凍えそう。なにか被る物を下さい。」女の子は、頭巾を脱いで、あげた。さらに行くと、また子どもが来て、胴着なしで震えている。女の子は、胴着をあげた。さらに行くと、ひとりがスカートをというので、スカートもあげた。そして、とうとう森に着いた。もう暗くなっていた。すると、またひとりが来て、肌着をという。すなおな女の子は、こう考えた。「暗い夜だから、だれも見ない。肌着だってあげられる。」そして、肌着を脱ぎ、それもあげてしまった。そうして立ち、もうなにももたずにいると、急に星が天から降って、その星という星が、硬く輝く銀貨だった。それに、女の子は肌着をあげてしまったけれど、新しい肌着をつけていた。それはそれは細やかな、リンネルの肌着だった。女の子は銀貨を集めて、それから一生、豊かであった。