略伝自由の哲学第五章d−2

 前の回に「欲り」という、いまではめったに使われないことばを使いました。それは「欲する」という動詞とのかかわりを引き立てようという考えからであり、欲するの働き、アクト、ファンクション、または意欲、意向、意志という三つのかたちを、そのつど見分けようとの欲りからです。

 

 まず「欲り」は「欲る」の連用形で、「欲する」は「欲りする」の音便だそうです。

 

 そして「欲る」は「欲しい」「欲しがる」というように、かたちをかえます。さらに、欲りが満ち足りを得るに際しては、「むさぼる」という形をとったりもします。なお「ぼる」は、「暴利」がもとになり、米騒動のときにつくられたそうですが、それがいまでも使われるほどに広く受け入れられてきたのは、ぽる人が絶えないからであるのは言うまでもなく、

やはり「むさぼる」「欲する」「欲る」が後ろ楯になっているからではないでしょうか。

 

 また「欲る」は「惚れる」と対をなします。それは「取る」と「取れる」、「売る」と「売れる」などの対に同じです。「欲る」「取る」「売る」と「惚れる」「取れる」「売れる」では、こころの向きが異なります。前者では、こちらからあちらへの向き(向かう)がきわだちますし、後者では、あちらからこちらへの向き(迎える)がきわだちます(二の章)。

 

 その向きに応じて、目覚め(意識)の度合いも異なります。「欲る」「取る」「売る」では、こちらが、なぜ欲り、なぜ取り、なぜ売るかが、こちらには明らかですが、「惚れる」「取れる」「売れる」では、こちらやあちらが、なぜ惚れ、なぜ取れ、なぜ売れるかが、こちらにもあちらにも、さしあたっては明らかでないことも、しばしばあります(三の章)。

 

 また「惚れる」には、こんな意味があります。

 

1)ぼんやりする(ほうける)

2)年とってぼんやりする(ぼける)

3)心を奪われるまで相手を慕う

4)人物などに感心して心をひかれる

5)(他の動詞に接続して)夢中になる。うっとりする。「聞きほれる」「見ほれる」(広辞苑)。

 

 そのとおり、「惚れる」においても、目覚めの度合いはさまざまであり、こころの向きもまちまちです。わたしたちのこころは、いうならば、迎えるにおいて、考えを欠きつつ、眠り込み、向かうにおいて、考えを得つつ、目覚めます(四の章)。

 

 そうした「ほ」の字のきわどさ、欲りのありようの違いは、欲りに重なる考えのありようの違いでもあります。その違いは、たとえば、想、思、惟、念、憶など、「おもう」と訓じられる字が、それとなく告げてくれます。なお、そのことは、六の章において詳しく取り上げられます。

 

 さらに「おもい」は情とともにあります。そして、前の回に出てきたシヨーペンハウアーは、うつうつと憂き人でもありました。その憂さは、わたしたちのつねづねにいう世が想いであるという思いにとらわれ、そのうえでさらに、リアルな世、まことの世の担い手がイデーを欠く欲り、やみくもの力であるという念いにとらえられることから来ています。そもそも、憂さは、おもいに沈むときの情であり、おもいに沈むのは、おもいにとらえられ、とらわれることからです。

 

 その「憂さ」にちなんで、前の回のお終いには新古今和歌集から前大僧正慈圓の歌を引きましたが、その情の行く先には、こういう情がひかえています。

 

 憂き我(わび)をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

 

 その「さびしさ」は、もちろんのこと、ひとりぼっちのさびしさ、「すぺてでひとつのもの」の情に違いありません(5-c-2)。

 さて、この回は、五の章の二十四の段を取り上げます。

 

 考えるは抽象的であり、具象的な内容という内容を欠いているという意見が、ナイーブな、人であることの意識に深く根を下ろしている。いわく、考えるは、たかだか世というひとまとまりの「イデーとしての」対の相をもたらすことができるのみであり、世というひとまとまりそのものをもたらすことができない。そう判断する者は、〈考え〉を欠く覚えがなんであるかを、明らかにしていない。その覚えの世を視てみよう。その世は、場における、ただの隣り合い、時における、ただの続き合い、かかわりなきいちいちの寄せ集まりとして現れる。覚えの舞台に出て来て去り行くものごとは、覚えられるなにかを、他とじかに共にすることがない。その世は、同じ値いの対象のオンパレードである。その世のいとなみにおいては、なにひとつ、他より大きな役割を演じない。わたしたちにとって、あれこれのことが他より大きな意義をもつということが明らかになってほしいときには、きっと、わたしたちが、わたしたちの考えるに問いかける。ファンクションとしての考えるが欠けると、動物の退化した器官、その動物が生きるうえに意義をもたない器官も、こよなく重要なからだの節々も、値いが同じに見える。いちいちのことが、それそのことにとっての、および、その他にとっての意義においてきわだつのは、まず、考えるが、その糸を、ものからものへと張るときからである。その、する働きとしての考えるは、内容に満ちている。そもそも、ひとつの、まったく定かで具象的な内容によってこそ、わたしは、なぜカタツムリがライオンより低いなりたちの次元にあるのかを、知ることができる。ただ見やること、すなわち覚えは、なりたちがまるまるになりたつということについて教えてくれる内容を、なんら与えてはくれない。

 

 まず一の文です。

 

 考えるは抽象的であり、具象的な内容という内容を欠いているという意見が、ナイーブな、人であることの意識に深く根を下ろしている。

 

 ナイーブな、人であることの意識というのは、覚えられるものごとが、そのままでリアルなものごとであると念う人の自己意識です。こころの向きを変えていうなら、その人の自己意識においては、〈考え〉がものごとのリアルさになんら与ってはいないという考えが、思い(ないし見解)としても、念い(ないし意見)としても抱かれます。言い換えるなら、その人の自己意識においては、そう考える働きが、こころとの重なりにおいてアクトとしてなされますし、さらに深く、からだとの重なりにおいてファンクションとしてなされます。さらに言い換えるなら、その人は、なんとなく、そう考えることができる人であり、さらには、しんそこから、そう考えることができる人でもあります。(なお「ナイーブnaiv」については4-b-2の回を、「人であることの意識Menschheitsbewusstsein」については4-a-3の回を見てください。)

 次に二の文です。

 

 いわく、考えるは、たかだか世というひとまとまりの「イデーとしての」対の相をもたらすことができるのみであり、世というひとまとまりそのものをもたらすことができない。

 

 この文は、いわゆる接続法一式のかたちで、仮りのものいいです。そして、内容とするところは、わたしたちのつねづねにいう世が、わたしたちの想いでしかなく、リアルな世、まことの世は、わたしたちあずかの与り知らないところであると唱える、クリティカルな想念論者の考えであり、かつ思いであり、かつまた念いす。

 そして三の文です。

 

 そう判断する者は、〈考え〉を欠く覚えがなんであるかを、明らかにしていない。

 

 わたしたちは考えをもって判断します。考えをもたずには、判断することができません。さらに、わたしたちが考えをもって判断するにより、その考えがわたしたちの意見となります。そして、二の文に仮りのかたちでいわれる考えは、〈考え〉を欠く覚えを明らかに迎える人にとり、言い換えれば、紛れのない、ただの覚えを迎えつつはっきりと考える人にとり、もって判断しようのない考えであり、意見になりようのない考えです。(「明らかにする」に当たるのはsich klar machenであり、sich〈みずからを〉klar〈明るく〉machen〈する〉というつくりです。また「判断する」に当たるのはurteilenであり、ur〈おおもとにおいて〉teilen〈分かつ〉というつくりです。なお、そのことばのもとであるUrteil〈判断〉は、判事の申し渡すことばを指していたそうです。)

 さて、四の文です。

 

 その覚えの世を視てみよう。

 

 その「視る」は、すでに四の章においてなされています(4-a-4)。それは、すなわち、考えとのかかわりで言うなら、考えという考えをもたずに視ることであり、おもいとのかかわりで言うなら、おもいというおもいをさしおいて視ることであり、こころの向きとのかかわりで言うなら、覚えを迎えつつ、考えるに向かいつつで視ることであり、意識とのかかわりで言うなら、へんな言いかたかもしれませんが、眠りつつも、その眠りに目覚めつつで視ることです。さらに言うならば、見惚けているのを知りつつ、見惚けて視ることです。(「視てみる」に当たるのはansehenであり、an〈ついて〉sehcn〈視る〉というつくりで、いわば「じっくりと見てとる」の意です。また、その名詞形Ansichtが「見解」と訳されます。4-b-3の回を見てください。)

 

 そして、そのようにして見てとられるところ、すなわち、ただの、紛れのない覚えの世が、つづく四つの文において述べられます。すなわち、

 

 その世は、場における、ただの隣り合い、時における、ただの続き合い、かかわりなきいちいちの寄せ集まりとして現れる。

 

 覚えの舞台に出て来て去り行くものごとは、覚えられるなにかを、他とじかに共にすることがない。

 

 その世は、同じ値いの対象のオンパレードである。

 

 その世のいとなみにおいては、なにひとつ、他より大きな役割を演じない。

 

 いかがでしょうか。まるで「不条理劇」を観るかのようです。いわゆる三一致(場もひとつの場、時もひとつの時、筋もひとつの筋であること)のドラマトゥルギーは、その世とあいいれません。そこには、かかわりというかかわりが欠けています。そこでは、人物のいちいちも、装置のいちいちも、値うちが同じです。そこでのことは、よどみに浮かぶうたかたの、かつ消えかつ結ぶごとくで、アクトでもなければ、ファンクションでもありません。そもそも、ファンクションがファンクションたりえるのも、アクトがアクトたりえるのも、考えからであり、値うちというものが感じられ、かかわりというものが覚えられるのも、考えの世においてです。(「なにかを・・・と共にする」に当たるのはmit···etwas zu tun habenであり、mit···〈・・・と〉etwas〈なにかを〉zutun〈するべく〉haben〈もつ〉ことで、「・・・とかかわりがある」の意です。なんとも賢い言い回しではありませんか。「値い」に当たるのはWertであり、wendcn〈向ける、あてがう〉から来ているそうです。訳としては「価値」「価格」「評価」「尊重」などがあたります。)

 すなわち、八の文です(なお、四と五の文はコロンで結ばれています。そのコロンは、ふたつの向きをひとつにくくるはずですから、四と五の文をひとつと見ることにします)。

 

 わたしたちにとって、あれこれのことが他より大きな意義をもつということが明らかになってほしいときには、きっと、わたしたちが、わたしたちの考えるに問いかける。

 

 わたしたちは、ここで大きく向きを変えます。すなわち、迎えるから向かうへ、もしくは、覚えるから考えるへ、です。それにつれて、謎めきは、問いへ、明らかになるは、明らかにするへ、ほしいは、欲るヘ、値いは、意義へ、というようにありようが変わります。(「明らかになる」に当たるのはklarwerdenであり、klar〈明らかに〉werden〈なる〉という言い回しで、さきほどの「明らかにするsichklarmachen」と対をなします。「ほしい」に当たるのはsollenであり、wollen〈欲る〉と対をなします。それについては一の章を見てください。「意義」に当たるのはBedeutungであり、Be〈まさに〉deutung〈指し示すこと〉というつくりです。すなわち、「意義」は、考えを指し示すことによって、つまり向かう向きをもって明らかになるのに対し、「値い」は、考えをあてがうことによって、つまり迎える向きをもって明らかになります。言い換えると、「値い」は、どちらかというと感じられるものであり、「意義」は、どちらかというと考えられるものです。ついでに「意味Sinn」は、どちらかというと覚えられるものです。4-b-2の回を見てください。)

 九の文です。

 

 ファンクションとしての考えるが欠けると、動物の退化した器官、その動物が生きるうえに意義をもたない器官も、こよなく重要なからだの節々も、値いが同じに見える。

 

 考えるのファンクションは、前の回に言うとおり、欲するのファンクションであり、わたしたちのからだに重なります。さらに、そのファンクションに応じて、ほかのからだの値いもきわだちます。そもそも、考えるは、内外を凌いでいますし(四の章)、主客をも超えています(三の章)。

 十の文です。

 

 いちいちのことが、それそのことにとっての、および、その他にとっての意義においてきわだつのは、まず、考えるが、その糸を、ものからものヘと張るときからである。

 

 考えるの働き(Wirken)が、わたしたちへと及び、わたしたちに重なって、わたしたちのうちに、考えるのファンクション、考えるのアクトを生みだし、わたしたちが、考える働きをする(tun)ようになってこそ、ものからものへと考えの筋道(論理)を生みだし、ことがら(ことのがら)を織りなし、さらには、ことの値い(ことの重さ軽さや高さ低さ)をきわだたせます。(「こと」に当たるのはTatsacheであり、Tat〈する働きの〉sache〈ことがら〉というつくりで、「事実」の意です。英語のmatter of factに倣ってつくられたそうですが、これまた賢いことばです。)十一の文です。

 

 その、する働きとしての考えるは、内容に満ちている。

 

 その内容は、ほかでもありません、ものともののかかわり、すなわち、考えの筋道、ことのがら、ことの値いです。

 そして、お終いの二つの文です。

 

 そもそも、ひとつの、まったく具象的な内容によってこそ、わたしは、なぜカタツムリがライオンより低いなりたちの次元にあるのかを、知ることができる。

 

 ただ見やること、すなわち覚えは、なりたちがまるまるになりたつということについて教えてくれる内容を、なんら与えてはくれない。

 

 なりたちも、かかわりのうちです。すなわち、する働き(Tun, Tat, Tatigkeit)としての考えるの内容であり、働き(Wirken)としての考えるから生みだされます。なお、かかわりが、むしろ場をもってきわだち、なりたちが、むしろ時をもってあらわになります。そして、なりたちがまるまるになりたつということ(成長および進化ということ)は、十二の章において詳しく取り上げられます。