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略伝自由の哲学第五章e

 この回は、五の章の二十八の段からです。

 

 考えると覚えるによる他には、わたしたちにとって、なにひとつ、じかには与えられていない。さて、こういう問いが生じる。わたしたちの述べてきたことからして、覚えの意義はどうか。なるほど、わたしたちが知ったとおり、クリティカルな想念論がもちだす、覚えが主の自然であることに向けての証しは、それとして潰えるが、しかし、その証しがふさわしくないのを見抜くことをもっては、まだ、そのことがらそのものが過ちに基づくということが、とりきめられてはいない。クリティカルな想念論は、その証しを導くに際して、考えるが絶対的な自然であることから起こすのではなく、ナイーブな実在論が、つきつめてみれば、おのずから綻ぶことを支えにしている。考えるの絶対性が知られているにおいては、そのことがらが、どう立つか。

 

 はじめの文から見ていきます。

 

 考えると覚えるによる他には、わたしたちにとって、なにひとつ、じかには与えられていない。

 

 わたしたちは、覚えるによって、覚えをじかに迎えていますし、考えるによって、考えをじかに迎えています。その、じかに迎えられている考えを、ここでは悟りと呼びます。そして、わたしたちがじかに迎えているのは、覚えと悟りのみです。

 二の文です。

 

 さて、こういう問いが生じる。わたしたちの述べてきたことからして、覚えの意義はどうか。

 

 ここまでに、わたしたちは、ものごとのかかわり、および、ものごとの意義、価値、意味が、覚えるからではなく、考えるから来ていることを見てとりました(5-d-1~5-d-3)。そして、ここからは、覚えというものの意義、価値、意味を問うことがなされます。

 三の文です。

 

 なるほど、わたしたちが知ったとおり、クリティカルな想念論がもちだす、覚えが主の自然であることに向けての証しは、それとして潰えるが、しかし、その証しがふさわしくないのを見抜くことをもっては、まだ、そのことがらそのものが過ちに基づくということが、とりきめられてはいない。

 

 クリティカルな想念論は、ナイーブにも、つまりそれとは気づかずに、わたしたちのからだの覚えをそのままリアルであると思いなすところから、ナイーブな実在論を駁(ばく)していました。すなわち、クリティカルな想念論においては、覚えと「おもい」(もしくは外と内)がごったにされていまいたし、客と主もふさわしくは立てられていませんでした(4-c-1~4-c-3)。さて、ここからは、覚えと「おもい」をふさわしく分かち、主と客をしつかり立てることがなされます。すなわち、覚えはどのかぎりで主により、どのかぎりで客に属するのかを、見すえること、見きわめること、とりきめることがなされます。(「とりきめる」に当たるのはausmachenであり、aus〈外へ〉machen〈為す〉というつくりで、「とりきめる、みきわめる、成す」といった意です。)

 四の文です。

 

 クリティカルな想念論は、その証しを導くに際して、考えるが絶対的な自然であることから起こすのではなく、ナイーブな実在論が、つきつめてみれば、おのずから綻ぶことを支えにする。

 

 覚えがそのままでリアルであるとするナイーブさは、新たな覚えによっても、おのずから潰えますし、バ一クリーのように、みずからの意識をみずからで意識することによっても、また、クリティカルな想念論のように、覚えがからだの器官によることを見てとるによっても、同じくおのずからに綻びます(4-b-1~4-b-4)。そして、リアリティということにかかわる覚えの値いは、バークリーにおいては高く跳ね上がりますし、クリティカルな想念論においては多かれ少なかれ低くなります。さて、ここからは、その覚えの、ふさわしい値を、まさに覚えに沿いつつ、まさに覚えに重ねつつ、ユニヴァーサルな考える(5-c-1~5-c-2)から受け取ることがなされます。(「絶対的な自然」に当たるのはabsolte Naturであり、三の文にある「主の自然(subjective Natur)」と響きかわします。すなわち、わたしたちにとって、覚えるも、考えるも、同じくおのずからありあわせることであり、覚えの主と客のかかわりは、主客を超えてある考えるから明らかにありあわせるようになります。)

 五の文です。

 

 考えるの絶対性が知られているにおいては、そのことがらが、どう立つか。

 

 すなわち、考えるが、おのずから主客を超えてあることを、まさにそれとして知ったところから、おのずからな覚えを見てとり、その覚えの主と客をしつかりと立てることが、これからなされます。

 次の段です。

 

 ひとつの定かな覚え、たとえば赤が、わたしの意識にのぼるとしよう。その覚えは、さらに見てとると、ほかの覚え、たとえば、ひとつの定かなかたち、それなりの暖かさや触の覚えとかかわっていることが分かる。そのかかわりを、わたしは、感官の世の対象のひとつと呼ぶ。わたしは、さて、こうも問うことができる。それらの覚えがわたしへと現れるひとところには、そのかかわりのほかに、なにが見つかるか。わたしは、そのひとところのうちに、メカニックな、ケミカルな、またその他のプロセスを見いだすであろう。わたしは、さらに進んで、対象からわたしの感官への道の上でかずかずのプロセスを見いだし、それを調べる。わたしは、圧(お)しと撓(たわ)みといった、動きがとりなされるプロセスを見いだすことができるが、そのプロセスには、その本質上、もともとの覚えと似通うところが、いささかもない。わたしは、さらに感覚器官から脳にいたるまでの、かずかずのとりなしを調ぺるにおいても、同じような成果を得る。わたしは、そのいちいちの領域において新たな覚えをするが、それら場をも時をも異にする覚えという覚えを結びつつ、とりなしつつ、織りなすもの、それは、考えるである。響をとりなす空気の震えが、わたしには、まさに覚えとして与えられていること、響きそのものと同じである。考えるこそが、それら覚えという覚えを繋ぎあわせ、互いを互いのかさなりにおいて示す。じかに覚えられるところの他に与えられてあるのは、イデーとしての(考えるによって見つけることのできる)、覚えと覚えのかかわりによって知られるところであり、さらになにかが与えられているなどとは、わたしたちには言いようがない。ただに覚えられるところを越えている、覚えの客から覚えの主へのかさなりは、すなわち、ただにイデーとしての、言い換えれば、〈考え〉によってこそ表わされるかさなりである。ただ、覚えの客が覚えの主をいかように刺激するかを、わたしが覚えることができるのならば、逆にまた、覚えの相が主によってつくりあげられるところを、わたしが見ることができるのならば、いまの生理学、ならびにそれに基づくクリティカルな想念論が語るとおりに語ることができよう。その見解は、イデーとしてのかさなり(客から主へのかかわり)を、覚えられるゆえに語られるプロセスというように取り違えている。従って、「色を感覚する目がなければ、色もない」という一文は、目が色を生みだすという意味をもつことはできず、ただ、考えるによって知られるイデーとしてのかかわりが色という覚えと目という覚えのあいだにある、という意味をもつことができるのみである。経験科学がつきとめることになるのは、目の性質と色の性質がどのようにかかわりあうかであり、視覚器官がどんなななりたちによって色の覚えをとりなすかなどである。わたしは、ひとつの覚えにもうひとつの覚えがつづき、ひとつの覚えが場の上でもうひとつの覚えと隣りあうのを、追うことができ、それから、そのことを〈考え〉として表わすことができるが、しかし、わたしは、ひとつの覚えが覚えられないものからいかにして出てくるのかを、覚えることができない。覚えと覚えのあいだに考えのかさなりの他を探し求める努力という努力は、きっと、必ず水の泡に帰す。

 

 赤くて、まるいものを手に取ってみると、ひんやり、ふにゃふにゃしている。口にしてみると、しよっぱく、すっぱい味がする。紫蘇の香りもすれば、干したものならではのかおりも、ほのかにする。そのいちいちのまとまりが、ひとことで、梅干しと呼ばれます。また、それが入っていたパッケージを見ると、着色料や保存料のカタカナ名が並んでいる。赤い色、まるい形、しよっぱい味など、ここまでのいちいちは、たとえば台所で覚えられます。さらに、ものの本には、味蕾が味覚をつかさどっており、味蕾への刺激が神経によって脳に伝えられて、唾液を分泌せよとの指令が脳から唾液線へと伝えられるといったことが書かれています。味蕾、神経、脳など、ここまでのいちいちは、たとえば研究室で覚えられるでしょう。そして、赤い色から脳まで、それらいちいちの覚えのかかわりは、ほかでもなく、考えるによって明らかになります。

 

 たしかに、梅干しは剌激的です。が、酸や塩の味蕾に対する「刺激」というのは、覚えられるところではなくて、考えられるところです。また、すっぱい、しょっぱいという意識が脳によって「生み出される」というのも、覚えられるところではなくて、考えられるところです。そのことを、しつかり考えてみると、「刺激」というのは、あまりふさわしいことばではありませんし(だって、豆腐も同じく舌を「刺激」しているはずですが、その「刺激」は、ひとつも刺激的ではありません)、また、脳がすっぱさ、しょっぱさの意識を「生み出す」という考えは、すっぱさ、しょっぱさの意識に重なりようがありません(だって、すっぱく、しよっぱいのは、主に舌のあたりです)。

 次の段です。

 

 覚えは、すなわち、なんであるか。この問いは、普遍的に立てると、意味をなさない。覚えは、つねに、ひとつのまったく定かな、具象的な内容として出てくる。その内容は、じかに与えられてあり、また、与えられているところにおいて尽きる。人が、その与えられているところとのかさなりにおいて問うことができるのは、その与えられているところが、覚えの他において、つまり考えるに向けてなにか、ということである。覚えが「なんであるか」という問いは、すなわち、その覚えに相応する〈考え〉の悟りに基づいてこそ意味をなす。その観点のもとでは、クリティカルな想念論の意味におけるような、覚えが主のものであることについての問いは、まったく立ちようがない。主のものと呼ぶことが許されるのは、主に属するものとして覚えられるところのみである。主のものと客のもののあいだに絆をつけることは、ナイーブな意味におけるリアルなプロセスに帰するのでなく、言い換えれば、覚えられることに帰するのでなく、考えるにこそ帰する。すなわち、わたしたちにとって客のものであるのは、覚えにとって覚えの主の他にあるものとして出てくるところである。いま、わたしの前にある机が、やがて、わたしの見るの域から消え去っても、わたしの覚えの主は、わたしにとって、ひきつづき覚えられる。机を見ることが、ひとつの、同じくひきつづく変化を、わたしのうちに呼び出している。わたしは、机の相を、後にふたたび生みだす力をとどめている。その、相を呼びだす力が、わたしに結ばれてとどまる。心理学は、その相を、想い起こされた想いと呼ぶ。それは、しかし、ただに机という想いと呼ばれるのが

ふさわしいものである。それは、つまり、わたしの視野のうちに机があることによる、わたしみずからのありようの、覚えられる変化に相応する。しかも、その変化は、覚えの主の後ろにある「〈わたし〉そのもの」といったものの変化を意味するのではなく、覚えられる主そのものの変化を意味する。想いは、すなわち、主の覚えであり、覚えの地平に対象があることにおける、客の覚えと対する。その、主の覚えを、その、客の覚えと混ぜこぜにすることが、世はわたしの想いである、という想念論の過ちにつながる。

 

 覚えとはなにか。この問いは、いわば、この赤さはなにか、このすっぱさはなにか、というかたちで立ててこそ、ふさわしい問いです。そして、答え、この赤さの意味、このすっぱさの意味は、この赤さの覚え、このすっぱさの覚えからではなく、考えるからやってきます。すなわち、覚えとはなにかという問いは、そもそもにおいて、考えるに向けての問いです。そして、世には、この赤さの意味、このすっぱさの意味をよく知っている人もいます。梅干しづくりの達人や・・・。

 

 この赤さ、このすっぱさは、まさにこの梅干しの色、まさにこの梅干しの味であり、覚えの主が迎える客です。そして、覚えの客と覚えの主とのかかわりは、覚えの意味と同じく、考えるによって出てくるところであり、また、その後には、想われるところもあります。

 

 わたしは、梅干しを想うだけで、口をすぼめ、顔をしかめ、唾液まで出てくることがあります。そのときのこころとからだのありようは、わたしがまさに梅干しを覚えるときのこころとからだのありようと応じあっています。わたしは、覚えるにおいて、想う力を授かり、その力によって、覚えるときのこころとからだのありようを、その後、梅干しを迎えることなしにも、覚えることができます。すなわち、覚えは、客として迎えられ、想いは、呼び出され、消し去られる、主の覚えであり、想う力は、わたしのものとして留まり、客からも主からも自由に用いられもします。(「想い」に当たるのはVorstellungであり、vor〈前に〉stellung〈据えること〉というつくりで、「紹介、想像、表象、上演」といった意です。すなわち、想いは、起こされるばかりでなく、覚えが迎えられているそのとき、その覚えに重なっていたりもします。たとえば、梅干しを見るだけで唾液をもよおしたり、「しんどい想いをする」といった言い方がなされるのも、そこからです。)

 次の段であり、お終いの段です。

 

 さて、次に手がけることは、想いという〈考え〉をつぶさに定めることである。わたしたちがここまで想いについて明らかにしてきたところは、想いという〈考え〉ではなく、想いが覚えの域のどこに見いだされるにいたるか、その道筋を示すまでである。想いという、きちんとした〈考え〉は、また、わたしたちをして、想いと対象とのかかわりにつき、満ち足りのゆく解き明かしができるものに仕立てよう。それは、また、わたしたちを、境を越えて導こう。すなわち、人である主と世に属する客のかかわりが、知るという、ただの〈考え〉の域から、具象的な、ひとりの人の生きることへと引き降ろされよう。わたしたちが、まずは、世からなにを受け取るのかを知っていればこそ、世に向けてわたしたちを立てることも、楽にできるようになる。わたしたちが、いよいよ、あらんかぎりの力をもってアクテイブでありうるのは、世に属する客、わたしたちがわたしたちのする働きを捧げる、その客を知っているときこそである。

 

 次の章では、想いはなんであるか、つまり想いの意味を巡りながら、想いというかたちをとった考えを、それとして、あらわに引き立てることがなされます。すなわち、わたしたちは、覚えと想いのかかわりを、なおさら明らかに見てとることになりますし、逆にまた、主と客ということを、たんに考えとしてばかりか、ひとりの人の生きることとしても迎えることになります。そのことは、さらにまた、主と客をアクテイブに立てること、ハーモニックに育むことにも通じていきます。

 さて、この回のお終いには、覚えと想いに因んで、山上憶良の歌を引きます。どうぞ、お口直しに。

 

 瓜食(うりは)めば 子等(こども)おもほゆ 栗食(くりは)めば ましてしのはゆ いづくより 來(き)たりしものぞ まなかひに もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(ね)さぬ