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略伝自由の哲学第六章a

 この回から六の章に入ります。五の章において、わたしたちは、考えるの絶対性、すなわち考えるが内外や主客を超えていること、および、ものごとがリアルにあるのは、主客の対しあいにおいてであり、内外の境においてであり、覚えと考えの重なりにおいてであることを見てとりましたし、さらに、ものごとのかかわりも、ものごとの意義、価値、意味も、考えるから来ていることを確かめましたし、そこからまた、覚えの意義、価値、意味、すなわち覚えがなんであるかを問いました。なお、ついつい言い忘れてしまいましたが、五の章のタイトルは「世を知るDasErkennenderWelt」でした。

 

 さて、六の章においては、想いの意義、価値、意味、すなわち想いがなんであるかを問うことがなされます。なお、先取りして言いますが、覚えがなんであるかを、ふさわしく問うにおいては、ものごとのひとつひとつが引き立ちますが、想いがなんであるかを、ふさわしく問うにおいては、人のひとりひとりが引き立ちます。そして、六の章のタイトルは「人ひとり、ひとりの人がひとりの人であることDiemenschlicheIndividualitaet」です。

 まず、一の段です。

 

 想いを説き明かすについての難しさの最たるものを、哲学者たちは、次のようなことのありよう、すなわち、わたしたちは外のものごとそのものではないが、なおかつ、わたしたちの想いは外のものごとに相応するつくりを有しているということのありようのうちに見いだす。しかし、もっとつぶさに見やると、はっきりすることだが、その難しさは、まったくありはしない。外のものごとは、なるほど、わたしたちではないが、しかし、わたしたちは、外のものごととともに、ひとつにして同じ世に属している。わたしが、わたしの主として覚える世の一切れは、あまねき世のことの流れに貫かれている。わたしの覚えるにとって、わたしは、さしあたり、わたしのからだの膚(はだ)の内側に閉ざされている。しかし、その膚の内側に納まっているところは、ひとつのまるごととしてのコスモスに属している。すなわち、わたしのからだのなりたちとわたしの外の対象のあいだに、ひとつの重なりがあるためには、対象のなにがしかが、わたしへと入り込んでくるとか、または、わたしの精神に、さながら封印が封蝋へのごとくに、印を刻みつけるなどということを、まったく要しない。わたしは、わたしから十歩ほど離れたところにある木の知らせを、どのように得ているのかという問いは、まったくとんちんかんに立てられている。その問いが出てくるのは、わたしのからだの境が絶対的な仕切りであり、その仕切りを通して、ものごとの便りがわたしへと届いてくるという観方からである。わたしの膚の内側に働く力は、外側にある力と同じ力である。すなわち、わたしは、覚えの主であるかぎり、実にものごとであり、あくまでも〈わたし〉ではないが、しかし、あまねき世のことのうちのひとところであるかぎり、〈わたし〉である。木の覚えは、わたしの〈わたし〉とともに、同じまるごとのうちにある。その、あまねき世のことが、あちらに木の覚えを呼びだし、それと同じほどに、こちらにわたしの〈わたし〉の覚えを呼びだす。もし、わたしが世を知る者でなく、世を創りだす者であるとしたら、客と主(覚えと〈わたし〉)が、ひとつのアクトにおいて生じよう。そもそも、客と主は互いに互いを決めあう。世を知る者として、わたしが客と主という対に相通じるものを見いだすのは、考えるによってこそであり、考えるが、〈考え〉によって、客と主を重ねあわせる。

 

 一の文から見ていきます。

 

 想いを説き明かすことの難しさの最たるものを、哲学者たちは、次のようなことのありよう、すなわち、わたしたちは外のものごとそのものではないが、なおかつ、わたしたちの想いは外のものごとに相応するつくりを有しているということのありようのうちに見いだす。

 

 外に机を見て、それから目を閉じると、その机の相が内に残ります。そして目を開けると、その内に残る机の相のままに、外の机が覚えられます。なぜでしょうか。とにかくそうなっているのだし、当たり前のことをわざわざ取り立てて言うなというのもひとつの答えですが、しかし、そのように答えて済まそうとする人は、ナイーブな人というように哲学者たちから呼ばれることになります。なにしろ、内は内であり、外は外であり、しかも内が外に相応するからには、そのあいだになんらかのとりなしがなければならない、そのとりなしは、いかなるとりなしか、そのように問いを立て、その問いに答えようと、いわば頭を捻ってきたのは、哲学者たちでありました。(「ことのありよう」に当たるのはUmstandであり、Um〈周りに〉stand〈立つ〉というつくりで、「事態、境遇、委細」といった意です。なお、そのことばは、「立ちようZustand」と響きかいます。3-bの回を見てください。)

 二の文が、こうつづきます。

 

 しかし、もっとつぶさに見やると、はっきりすることだが、その難しさは、まったくありはしない。

 

 内と外のとりなしということで頭を捻るまえに、内と外ということをありのままに見てみるならばおのずから明らかになることですが、内と外というように分けることができるのは、覚えをもとにしながら、考えるをもってこそです。(「見やる」に当たるのはzusehenであり、zu〈目をつけて〉sehen〈視る〉というつくりで、「手を出さず、口も出さずに見ている、なりゆきを見る、気をつけて見る」といった意です。また「はっきりする」に当たるのはsich herausstellenであり、sich〈それそのことを〉heraus〈表に〉stellenく据える>というつくりで、いわば「それそのことが明らかになる、それそのことがこととして立つ」といった意です。)

 三の文です。

 

 外のものごとは、なるほど、わたしたちではないが、しかし、わたしたちは、外のものごととともに、ひとつにして同じ世に属している。

 

 そもそも、世ということを言うことができるのは、覚えからではなくて、考えるからです。そして、外のものごとのひとつひとつも、わたしたちのひとりひとりも、ひとつにして同じ世に属しています。

 四の文です。

 

 わたしが、わたしの主として覚える世の一切れは、あまねき世のことの流れに貫かれている。

 

 光は、あれこれを問わずに照らし、暑さは、氷を融かし、わたしのからだもこころもげんなりさせ、風は、木々を揺らし、わたしの髪をなびかせ、水は、土を潤し、わたしの渇きを癒し、灰皿に、重さがあり、落ちることもあり、わたしのからだに重さがあり、転ぶこともあります。(「わたしの主」に当たるのはmein Subjektであり、「わたしみずから」ないし「わたしの〈わたし〉」のことであり、「わたしの客mein Objekt」と対します。「世のこと」に当たるのはWeltgeschehenであり、いわばWelt〈世において〉とgeschehen〈ものごとが生じる、ものごとが起こる〉ことです。それについては3-eの回を見てください。なお「流れStrom」は、「覚えの舞台に出てきて去りゆくものごと」の様をいい、「ゆく河の流れは絶えずして・・・」の「流れ」にも通じます。それについては4-a-4、5-d-2の回を見てください。)

 すなわち、五の文です。

 

 わたしの覚えるにとって、わたしは、さしあたり、わたしのからだの膚の内側に閉ざされている。

 

 わたしは、頭を覚えるとともに、頭に浮かぶ考えをも覚え、胸を覚えるとともに、胸に抱く想いをも覚え、手足を覚えるとともに、手足にみなぎる意欲をも覚えます。

 六の文です。

 

わたしの覚えるにとって、わたしは、さしあたり、わたしのからだの膚の内側に閉ざされている。

 

わたしは、頭を覚えるとともに、頭に浮かぶ考えをも覚え、胸を覚えるとともに、胸に抱く想いをも覚え、手足を覚えるとともに、手足にみなぎる意欲をも覚えます。

 六の文です。

 

 しかし、その膚の内側に納まっているところは、ひとつのまるごととしてのコスモスに属している。

 

 頭も、頭に浮かぶ考えも、胸も、胸に抱く想いも、手足も、手足にみなぎる意欲も、いずれおとらず、ひとつにして同じ世に属しています。

 そして、七の文です。

 

 すなわち、わたしのからだのなりたちとわたしの外の対象とのあいだに、ひとつの重なりがあるためには、対象のなにがしかが、わたしへと入り込んでくるとか、または、わたしの精神に、さながら封印が封蝋にのごとく、印を刻みつけるなどということを、まったく要しない。

 

 わたしのからだのなりたちも、わたしの覚えるところであり、同じく、わたしの外の対象も、わたしの覚えるところです。すなわち、その二つのあいだには、なによりも「ともにわたしが覚えるところ」「ともに世に属するところ」という考えが重なり、さらに「こちらとあちら」「外と内」「主と客」といった考えも重なります。そして、そもそも、考えという考えは、考えるから来ますし、かかわりというかかわりは、考えにほかなりません。(「重なり」に当たるのはBeziehungであり、beziehen〈敷く、張る〉からきて、「かかわり」の意です。なお「重ねる」ということばは、これまでにたびかさねて用いてきました。たとえばueberlegenを「かさねがさね考える」と訳しましたし(2,4-a-4)、denken ueber・・・を「・・・に重ねて考える」と(3-c)、in bezug auf・・・を「・・・に重ねて」と(4-a-1)、sich beziehenを「重なる」と(5-c-2)、またeinheitlich、einfachを「一重」と訳し(2,4-a-1)、アクトとファンクションのかかわりを、「重なり(縦のかかわり)」と呼んだりしています(5-d-1)。)

 八の文です。

 

 わたしは、わたしから十歩ほど離れたところにある木の知らせを、どのように得ているのかという問いは、まったくとんちんかんに立てられている。

 

 遠くの人から、手紙、電話、ファックス、メールなどで知らせを受けます。そのことと、十歩先にある木を覚えることとは、同じでしょうか。もし、同じであるとすると、送り主は、だれで、送る手立ては、なんでしょうか。(「とんちんかんに」に当たるのはschiefであり、「かしいで、ゆがんで、誤って」の意です。)

 九の文です。

 

 その問いが出てくるのは、わたしのからだの境が絶対的な仕切りであり、その仕切りを通して、ものごとの便りがわたしに届くという観方からである。

 

 知らせ、便りは、隔たり、仕切りがあってのことです。しかし、内と外の隔たり、仕切りは、ものごとの限りをもとに、わたしたちが定めるところです。わたしは、すなわち、からだのうちにもいあわせますし、着物のうちにも、家のうちにも、社会のうちにも、国のうちにも、そして世のうちにもいあわせます(5-c-2)。

 

 わたしは、木の知らせ、ないし便り、ないし情報を、どう受けとるのかという問いは、おかしな問いです。その問いが、答えることの難しさを招きます。その問いを立て、その問いに頭を捻るのは、一人相撲や空騒ぎの類いです。

 十の文です。

 

 わたしの膚の内側に働く力は、外側にある力と同じ力である。

 

 とにかく、からだの限りにかぎってみても、その限りは絶対的な仕切りではありません。なにしろ、その限りのあちらにもこちらにも、同じく物理の力があずか働き、同じく物理の法則が与ります。

 十一の文です。

 

 すなわち、わたしは、覚えの主であるかぎり、実にものごとであり、あくまでも〈わたし〉ではないが、しかし、あまねき世のうちのひとところであるかぎり、〈わたし〉である。

 

 わたしは、からだとこころであるかぎり、ひとつのものかことであり、考えるを宿す、もしくは考えるのお蔭を被るかぎり、〈わたし〉という、ひとりの人です。そもそも、わたしたちは、考えるにおいて、すべてでひとつのものです(5-c-2)。

 さて、十二から十六の文を続けて引きます。

 

 木の覚えは、わたしの〈わたし〉とともに、同じまるごとのうちにある。

 

 その、あまねき世のことが、あちらに木の覚えを呼びだし、それと同じほどに、こちらにわたしの〈わたし〉の覚えを呼びだす。

 

 もし、わたしが世を知る者でなく、世を創りだす者であるとしたら、客と主(覚えと〈わたし〉)が、ひとつのアクトにおいて生じよう。

 

 そもそも、客と主は互いに互いを決めあおう。

 

 世を知る者として、わたしが客と主という対に相通じるものを見いだすのは、考えるによってこそであり、考えるが〈考え〉によって、客と主を重ねあわせる。

 

 いかがでしょうか。まずは、すべてでひとつのうちの、あちらに木の覚えがあり、こちらにわたしみずからの覚えがあります。その覚えを生みだすのは、わたしの覚えるかぎり、わたしでなく、世です。もし、わたしがなにごとかをなせば、ことが客として生じ、わたしがことの主となります。わたしがものごとを知るにおいては、ものごとの覚えと、みずからの覚えの重なり、ないし客と主のかかわりを考えとして見いだします。そもそも、客と主は対であり、客と主のかかわりは考えであり、考えるから来ています。

 この回には、こんなことばを引きます。

 

 身心を挙(こ)して色(しき)を見取し、身心を挙して声(しゃう)を聴取するに、したしく会取(ういしゅ)すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

 

 ここで「色」とか「声」と呼ばれているのは、いわゆる認識対象のことである。たとえば、『般若心経』にも登場する仏教の基本原理としての六根、すなわち眼(げん)・耳(じ)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)に対応する六境、すなわち色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の代表として持ち出されているわけである。六根、六境との係わりにおける認識活動、すなわち六識を、どのように捉えるかが問題なのだ。

 それを主体と客体なり、主観と客観なりといった、二元論的な図式を実体化して受け止めようとするような姿勢が、ここで、きびしく斥けられているのである。主体を実体化して、それによって対象物の客観的な認識を獲得することができるとするような立場の根拠が、疑問にふされているわけである。

 そのような二元分別的な対応では、一方が明らかにされるときに、もう一方は暗い状態にあるという批判が下されているのである。真の認識は、そのようなものではなくて、鏡に姿が映ったり、水に月影がやどったりするようなものとして把握されることが必要なのだ。げんに、この「現成公案」の巻の後の部分にも、「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし」と述べられ、「さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし」と明記されているし・・・

(森本和夫『「正法眼蔵」読解1』ちくま学芸文庫)