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略伝自由の哲学第六章b

 ひきつづき、想いがなんであるかを見ていきます。すなわち、この回は六の章の二の段からであり、覚えと想いをふさわしく分かつこと、ならびに覚えと想いのかかわりをふさわしく見抜くことがなされます。

 

 この分野から払いのけるのが最も難しいのは、わたしたちの覚えが主によるということに向けた、いわゆる生理学をもっての証しであろう。わたしは、わたしのからだの膚に圧しを加えるにおいて、その圧しを圧しの感覚として覚える。同じ圧しを、わたしは目で光、耳で音と覚えもする。電気ショックを、わたしは目で光、耳で響き、皮膚神経で突き、臭いの器官で硫黄の臭いと覚える。そのことから、どういうことが出てくるだろう。ただにこのことである。わたしは電気ショック(つまり、ひとつの圧し)を覚え、かつ光の質、あるいは音、あるいはなにがしかの臭いを覚える。もし目がないとすれば、周りのメカニックな揺らぎの覚えに、光の覚えは伴わないであろうし、聴く器官がないとすれば、音の覚えは伴わないであろう。覚えの器官がひとつもないとすれば、プロセスのまるごとがありはしないだろうとは、いかなるいわれをもって言うことができるのか。電気プロセスが目において光を呼びだすということのありようから、わたしたちが光として感覚するものは、わたしたちのからだのなりたちの外においてメカニックな動きのプロセスにほかならないと帰結する人は、覚えから覚えへと辿っているだけで、どこまで辿っても覚えの外側にあるものには辿り着いていないことを忘れている。人は、目が周りのメカニックな動きのプロセスを光として覚えると言うことができるのと同じく、ひとつの対象の規則的な変化が動きのプロセスとして覚えられるとも言い立てることができる。円盤のうえに一頭の馬を十二ほど、つまり馬の走るにつれた十二の姿勢を描けば、その円盤を廻すことによって、みかけの動きを呼びすことができる。わたしは覗き口を覗くだけ、つまり、こくこくと続きゆく馬の姿勢を視るだけでいい。わたしは十二の馬の相でなく、一頭の走る馬の相を視る。

 

 どなたにもなじみのあることでしょうが、目をつぶって目ぶたを手で圧すと、目ぶたのうらに光のようなものが覚えられますし、耳の穴を指で塞ぐと、ゴーという音がしますし、同じ歯に触れるのでも、手で触れるのと、舌で触れるのでは、触の覚えが異なります。一口に感官と言っても、ひとつひとつの感官には、まさにひとつひとつなりのところがあります。すなわち、外からなにが働きかけても、目では光が、耳では音が、舌によっては味が覚えられます。そして、わたしたちは、ひとつひとつの感官を、ひとつひとつなりに用いもします。たとえば、よく味わおうとして、舌に乗せて待ち受け、よく聴こうとして耳を澄まし、よく視ようとして目を据えたり移したり、ためたりすがめたり・・・。

 

 また、目ざわりな色があり、耳ざわりな音がありますし、このごろは食べることの楽しみを言うのに、喉ごし、歯ごたえ、コシがある、キレがいい、シコシコ、モチモチ、マッタリ、ヤワラカなど、味よりは、むしろ触を指すことばが好んで使われたりもします。すなわち、味と触、音と触、色と触がともに覚えられもします。舌は味と触のための感官でもありえますし、耳は音と触のための感官でもありえますし、目は光と色と触のための器官でもありえます。さらにまた、いきいきした動きがあり、暖かいことばがあり、冷たい考えがあります。すなわち、それなりの器官によって、寒暖が覚えられますし、同じく盛衰や動静も、さらにはことばや考えも覚えられます。とにかく、わたしが覚えるかぎり、ことばや考えも、動静や盛衰も、寒暖に劣らず、まずもっては、わたしの外からわたしへと与えられるところであり、わたしが生みだすところでは断じてありません。(ついでに、前の回に引いたことばのうちに「六境、六根、六識」というのがありましたが、その六境の六番目は「法」、六根の六番目は「意」でありました。また、六識というのは小乗の分けかたであり、大乗ではさらに二識が加えられて八識とされ、摂論、天台、華厳宗ではさらにもう一識が加えられて九識説が立てられているそうです。)

 

 さて、右のとおり、わたしたちの感官の生きたありよう、いわば感官の生理的な側面をいくつか取り立ててみましたが、そのいちいちはそれとして、そのいちいちのすべてにつき、きっと、こういうことが言えます。色も音も味も動きも、まずもっては覚えであり、光波や空気振動にしても、つまりは動きであり、まずもっては覚えにほかなりません。そこからは、光がそもそもは波動であるとか、音がそもそもは空気振動であるとかは言い立てようがありません。(なお、十二の馬の絵を円盤に描いて廻していたところから、いま百十年を経て、アニメ、映画、テレピなど「みかけの動き」の技術は、比べものにならないほど進みました。また、化学調味料など「ヴァーチャルな味」のテクニックも、いまはふんだんに用いられています。そして、それは、わたしたちの精神とこころとからだのなりたちに、どんな影響を、どれほど及ぼしているでしょうか。)

 

 さらにまた、これも感官の生理的な側面ですが、鼻がバカになるということもありますし、手が冷えきって寒暖が感じられなくなることもありますし、なにを食べてもおいしくない時もありますし、ぐるぐる廻ったり、酒に酔ったりして、目が回ることもあります。なお、目が回るとはいうものの、回っているのは眼球よりも、眼球によって見られている周りのほうです。

 

 加えて、覚えと想いのかかわりを見抜き、想いがなんであるかを見てとるうえには、次のようなことばも大いに助けとなります。「手術を受けた盲人も、きっと、それまで触の感官によって知った世において、新たに舵をとることを習う。例えば、その人が対象を視るのは、まず目の内においてである。それから、その人が、対象を外に見やる。なおかつ、対象が、その人に現れるのは、さしあたり平面に描かれてあるが如くである。それから、その人が、ゆるやかに、ものごとの奥行き、空間的な隔たりなどを掴む。」(『テオゾフィ一』から引きましたが、そのことはすでに四の章の二十二の段において「対象に浸かる」「対象に対する」といったことばで語られています。4-b-4の回を見てください。)

 三の段です。

 

 右にふれた生理学のことは、すなわち、覚えと想いのかかわりに光を投ずることができない。わたしたちは、きっと、みずからを、異なる手立てによって、ふさわしく見いだす。

 

 ここまでに見てきたとおり、覚えと想いのかかわりは、物理の(メカニックな)面と生理の面だけを見ても見いだせません。そのかかわりに光を当てるうえには、心理の面、精神の面をもともに見ることが欠かせません。そもそも、いうところの光は、こころへと、考えるからやって来ます。(「みずからを、異なる手立てによって、ふさわしく見いだす」に当たるのはuns auf andere Weise zurechtfindenであり、uns〈みずからを〉auf andere Weise〈別途で、別様に〉zurecht〈しかるべく〉finden〈見いだす〉という言い回しで、いわば「ことのありようが、異なる手立てで、違った風に明らかになる」の意です。)

 四の段です。

 

 ひとつの覚えがわたしの見るの地平に昇るその時、わたしを通して、考えるも働く。わたしの考えのシステムの一節、ひとつの定かな悟り、ひとつの〈考え〉が、その覚えと繋がる。その覚えが、やがて、わたしの見るの境から消え去ると、なにが残るか。まさに覚える時につくりなされた定かな覚えとの重なりをもつ、わたしの悟りである。わたしが、その重なりを、後にふたたび、いかほどいきいきと迎えることができるかは、わたしの、精神のであり、かつ、からだのでもある、器官のなりたちがファンクションを繰り出す、その繰り出しように懸かる。想いは、ほかでもなく、ひとつの定かな覚えに重なっていた悟りであり、ひとたびひとつの覚えと結ばれ、その覚えとの重なりが残っている〈考え〉である。ライオンなる、わたしの〈考え〉は、ライオンについての、わたしの覚えからつくりなされているのではない。しかし、ライオンについての想いは、たしかに覚えをもとにつくりなされている。わたしは、ライオンなる〈考え〉を、ライオンを視たことのない人にも伝えることができる。いきいきした想いを人に伝えることは、その人がみずからで覚えることを欠いていると、うまくいきそうにない。

 

 いまひとたび一の文から見ていきます。

 

 ひとつの覚えがわたしの見るの地平に昇るその時わたしを通して、考えるも働く。

 

 ひとつのものが目にとまると、ほかは背景に沈みますし、テレピの音をききながら、ふと冷蔵庫のゴーという音が耳につきだすと、テレビの音が退きますし、味には隠し味というのがあって、主役の味を密かに引き立てます。「目にとまる」「耳につく」において、ひとつひとつの覚えがきわだちます。まさに「目にとまる」「耳につく」その時には、すでに耳の主、目の主であるわたしを通して、考えるの働きもかかわっています。逆にして、こうも言うことができます。考えるの働きが、わたしを通して、目による覚え、耳による覚えにかかわればこそ、「目につく」「耳につく」その時があります。そして、その時から、わたしは、「目にとめる、目をむける、目をかける」「耳を立てる、耳を傾ける、耳を貸す」といったことをしはじめます。(「昇る」に当たるのはauftauchenであり、auf〈上へ〉tauchen〈浮く〉というつくりで、「地平Horizont」との縁でいえば「伏していたものが起きる」、「背景」との縁でいえば「退いていたものが出てくる」の意です。)

 二の文です。

 

 わたしの考えのシステムの一節、ひとつの定かな悟り、ひとつの〈考え〉が、その覚えと繋がる。

 

 ひとつの覚えがまさにひとつの覚えとしてきわだつその時には、そのひとつの覚えに、考えるの働き(4-a-3)によって、ひとつに織りなす考え(4-a-1)のひとところが、悟り(5-d-3)というかたちにおいて、または〈考え〉というかたちにおいて(3-b)、繋がります。

 そして、三の文です。

 

 その覚えが、やがて、わたしの見るの境から消え去ると、なにが残るか。

 

 なにが残るか、いま身近にあるもので試してみます。たとえばボールペンを手に取ります。ペン先、グリップ、透けて見える本体、黒、青、赤、緑、四つの芯、芯に巻かれているバネ・・・それらのありさまをとくと見ながら定かに覚えて、さて、目を閉じます。いかがでしょうか。消え去ったのは、覚えのみではないでしょうか。すなわち、なにが残るかは、二の文に言うところから、覚えのみを引いて、こうではないでしょうか。

 すなわち、四の文です。

 

 まさに覚える時につくりなされた定かな覚えとの重なりをもつ、わたしの悟りである。

 

 すなわち、残るのは、まさしく覚えた定かな相にまつわる明るい意識です。逆にして、こうも言うことができます。定かな相にまつわる明るい意識が、まさしく覚えるにおいて得られます。そもそも、まさしく覚えるの「まさしく」は、きっと、悟りがあってこその趣ですし、定かな覚え、定かな相の「定かさ」は、きっと、考えるの働きがあってこその趣です。(「つくりなされる」に当たるのはsich bildenであり、sich〈みずからを〉bilden〈つくりなす〉というつくりで、「すがたかたちをなす」の意であり、ここではまた「定かになる」の意でもあります。そして、そのつくりなされたところ、定かになったところが、Bild〈相〉であり、象、像、姿、絵などを意味します。4-b-2および4-b-3の回を見てください。)

 五の文です。

 

 わたしが、その重なりを、後にふたたび、いかほどいきいきと迎えることができるかは、わたしの、精神のであり、かつ、からだのでもある、器官のなりたちがファンクションを繰り出す、そのくりだしように懸かる。

 

 ひきつづきボールペンをもとに試してみます。閉じた目を開いて、ふたたびボールペンを見ます。ペン先、グリップ、透けて見える本体・・・それらのありさまが、かつてなにげなく目に入っていたときよりも、いきいきはっきりと迎えられていないでしようか。そして、その「いきいき」は、目(からだ)のなりたち、ないし働きように懸かり、「はっきり」は、目(からだ)にかよう意識(精神)のなりたち、ないし働きように懸かっていないでしょうか。そもそも、その二つにして一つのなりたち、ないし働きようは、きっと、考えるの働きによって生みだされているはずです。そして、わたしたちは、そのなりたち、ないし働き(ファンクション)を用いるものです。(「ファンクションを繰り出す」に当たるのはfunktionierenであり、Funktion〈ファンクション〉からつくられた動詞です。なお「ファンクション〈Funktion〉」および「働き〈Wirken, Taetigkeit〉」については、ことに5-c-l, 5-d-lの回を、「なりたち〈Organisation〉」については、ことに4-a-lの回を見てください。)

 六の文です。

 

 想いは、ほかでもなく、ひとつの定かな覚えに重なっていた悟りであり、ひとたびひとつの覚えと結ばれ、その覚えとの重なりが残っている〈考え〉である。

 

 すなわち、ただの覚えに、悟り、ないし〈考え〉が重なって、その覚えが嵩じ(5-a-2)、想いが生じ、想うファンクションが生じます。そして、覚えが消え去り、想いが消え去っても、想うファンクションが残ります。つまり、わたしたちは、後々に度重ねて想うことができます。

 七と八の文です。

 

 ライオンなる、わたしの〈考え〉は、ライオンについての、わたしの覚えからつくりなされているのではない。

 

 しかし、ライオンについての想いは、たしかに覚えをもとにつくりなされている。

 

 ただの〈考え〉、ないし悟りが、覚えに重なって、覚えがつくりなされ、覚えの相が定かに定まり、想いが生じます。そのことによって、ただの〈考え〉が、生きた〈考え〉となります。なお、ただの考え(紛れのない考え)が、ときに気ままに繰り出されて、当て推量と呼ばれ、ただの悟りが、ときになんとなく掴まれて、山勘と呼ばれます(5-b-2)。

 九と十の文です。

 

 わたしは、ライオンなる〈考え〉を、ライオンを視たことのない人にも伝えることができる。

 

 いきいきした想いを人に伝えることは、その人がみずからで覚えることを欠いていると、うまくいきそうにない。

 

 時をともに過ごした人たちのあいだで、華やかに想いの花が咲きます。その華やかさが、よその人にはよそよそしいままです。逆に、頭で受けとった考えが、いつかなにかにまみえて、胸をときめかせる生きた考えとなります。その生きた考えが、人と人のあいだに自由な時をもたらします。とにかく、考えるからこそ、考えと想い、覚えと想いが分かれますし、覚えと想い、考えと想いのかかわりが明らかになります。(「伝える」に当たるのはbeibringenであり、bei〈側に〉bringen〈もたらす〉というつくりで、「教示、呈示、伝達、調達」といった意です。)

 この回は『万葉集』巻十一「正(ただ)に心緒(おもひ)を述(の)ぶ」か

ら、どの歌も引きたいところですが・・・。

 

 思はぬに到らば妹がうれしみと

  咲(え)まむ眉(まよ)びきおもほゆるかも

 ねもころに片思すれか

  このころのわが心神(こころど)の生けるともなき