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略伝自由の哲学第六章c

 まず、お詫びです。前の回に取り上げた二の段に「硫黄の臭い」とあるのは誤りで、正しくは「りん燐の臭い〈Phosphorgeruch〉」です。ごめんなさい。なんだかマッチ燐寸系の臭いが温泉系の臭いに移り変ってしまったかっこうです。なるほど、タバコ、焼肉、ジンギスカン、臭いは移って染みますし、くさい芝居、鼻もちならないやつ、ありがたくなく、遠ざけたい臭いや、かぐわしいかた、かんばしいこと、におやかな、すすんで迎えたい臭いがありますし、さらに薫陶、薫習という、そこはかとない臭いの移りかたもありますが、しかし、いずれであっても、移って染みた臭いが取り違えられてはなりません。あらためて、ごめんなさい。

 

 また、「見かけの動きscheinbare Bewegung」ということが出てきたついでに、「ヴアーチャルな味」ということを言いました。その味も味に変わりありませんし、その動きも動きに変わりありません。ただし、その動きも、その味も、人がつくりだしたものであり、かつ、人に働きかける力を秘めています。そして、その力にたちうちできるのは、ひとり「人の意識、もしくは人間的な意識menschliches Bewusstsein(3-g、4-a-3)」に秘められている力のみです。言い換えれば、ひとり「人のインディビジュアリティ、もしくは人間的な個性menschlicheIndividualitaet―この章の章のタイトルです一」に具わっている力のみです。そもそも「ヴアーチャルvirtual, virtuell」は「virtus 秘められている力技量、徳」から来ます。

 

 さて、ひきつづき、想いがなんであるかを見ていきます。前の回において、覚えと想いと考えとを分かつこと、および、それらのかかわりを見通すことをしてみました。すなわち、次のように述べられることを(四の段の六の文)、とつおいつ確かめてみました。

 

 想いは、ほかでもなく、ひとつの定かな覚えに重なっていた悟りであり、ひとたびひとつの覚えと結ばれ、その覚えとの重なりが残っている〈考え〉である。

 

 そして、この回は五の段からであり、いわば想いの意義、価値、意味のうち(5-d-2)、まずは意義を見てとることがなされます。言い換えれば、人のインディビジュアリティの大きさ、深さ、豊かさのうち(4-b-4)、まずは豊かさを明らかにすることがなされます。

 

 想いは、すなわち、インディビジュアルなものにされた〈考え〉である。そして、ここにおいて説き明かすことができることながら、わたしたちにとって、現実のものごとは想いによって代表されうる。ひとつのもの、ひとつのことの、まるまるのリアリティが出てくるのは、見る時において、〈考え〉と覚えが合わさることからである。〈考え〉が、ひとつの覚えによって、ひとつのインデイビジュアルなつくり、その定かな覚えとの重なりを得る。〈考え〉が、そのインディビジュアルなつくりにおいて、つまり覚えとの重なりを固有さとして担うつくりにおいて、わたしたちのうちに、ひきつづき生きて、当のもの、ないし、当のことの想いをつくりなす。わたしたちは、その同じ〈考え〉と繋がるもうひとつのもの、ないし、もうひとつのことに出会うにおいて、そのもの、ないし、そのことが、さきのもの、ないし、さきのことと同じ趣に属するのを識り、そのもの、ないし、そのことに、ふたたび出会うにおいて、わたしたちの〈考え〉のシステムのうちに、ひとつの相応する〈考え〉を見いだすばかりでなく、その同じ対象との固有の重なりをもつ〈考え〉を見いだして、その同じ対象をふたたび知る。

 

 くりかえし一の文から見ていきます。

 

 想いは、すなわち、インデイビジュアルなものにされた〈考え〉である。

 

 ただの〈考え〉が、想い、すなわち相を湛える〈考え〉、ないし定かな覚えとの重なりが残る〈考え〉となるのは、人のひとりひとり、すなわち人のインデビジュァリティを介してです。そもそものこと、四の章の五の段の三の文(4-a-3)として、こういうことが述べられていました。

 

 人の意識は、〈考え〉と見られるところとが互いに出会い、互いに結ばれる現場である。

 

 さらにまた、こうも言うことができます。他人の〈考え〉が、わたしの〈考え〉になるのは、わたしが、他人の〈考え〉を、ただ受けとる(nehmen)だけでなく、つかまえ(erfassen)、とらえて(begreifen)、まさしくわたしのものにするからです。それについては3-bの回を見てください。(「インディビジュアルなものにする」に当たるのはindividualisierenであり、individuell〈いちいちの、ひとりひとりの〉からつくられた動詞です。なおindividuellについては5-c-1の回を見てくださいい。また相〈Bild〉、もしくは象、像、様、絵、もしくは現象、対象、印象、具象、抽象については、4-b-2,4-b-3の回を見てください。)

 二の文です。

 

 そして、ここにおいて説き明かすことができることながら、わたしたちにとって、現実のものごとは想いによって代表されうる。

 

 たとえば「打ち上げ」や「同窓会」など、時を共にした人たちが集う席では、ことにありありときわだつとおり、ひとりひとりの人の想いは、それぞれに現実を代表することができます。もちろん、逆に、できないこともあります。たとえば「会議」や「討論」など、人と人が考えや想いをやりとりする席では、ことのほかあらわになるとおり、ひとりひとりの人が、それぞれの想いから、ただの〈考え〉を言い立てたてりします。「だれそれがこう言っている」とか、「その筋ではしかじかが常識だ」といった、いわば、その場がかかえる現実を代表しないものいいや、見下すものいいをして、その場をしらけさせたり、こわばらせたりします。とにかく、ひとりひとりの人の想いは、それぞれなりに現実を表わすことができますが、そのことは、次のように説き明かすことができます。(「代表する」にあたるのはrepraesentierenであり、re〈ふたたび〉praesentieren〈前に据える〉というつくりで、「表現する、意味する、演じる、体面を保つ」といった意です。また「説き明かすことができる」に当たるのはerklaerlichであり、erklaer〈説き明かす〉lich〈ことができる〉というつくりです。なお、erklaeren〈説き明かす〉については二の章を見てください。)

 すなわち、三の文です。

 

 ひとつのもの、ひとつのことの、まるまるのリアリティが出てくるのは、見る時において、〈考え〉と覚えが合わさることからである。

 

 ただの覚えが嵩じた覚えとなり(5-a-2)、言い換えれば、なんとなくの覚えがリアルな覚えとなり(5-c-1)、さらに言い換えれば、やって来ては去って行く覚えが(4-b-4)、定かな覚え、もしくは相(すがた)、もしくは想いとなるのは、ひとりひとりの人が見るにおいて、ただの覚えへと、それに見合う〈考え〉が、ぴたりと重なる時です。それについては6-bの回を見てください。(「リアリティ」に当たるのはWirklichkeitであり、また二の文の「現実」に当たるのも同じことばです。それについては5-c-1の回を見てください。「合わさること」に当たるのはZusammengehenであり、Zusammen〈共に〉gehen〈行く〉というつくりで、「一致する、釣り合う、提携する、(鍋と蓋などが)ぴたりと合う」といった意です。)

 四の文です。

 

 〈考え〉が、ひとつの覚えによって、ひとつのインディビジュアルなつくり、その定かな覚えとの重なりを得る。

 

 抽象的な〈考え〉が、ひとつの現象へと、それぞれの人を介して重なって、具象的な〈考え〉となります。すなわち、具象的な〈考え〉は、ひとりの人がその人なりに抱く、定かな象との重なりをとどめた〈考え〉です。あるいはまた、こうも言うことができるでしょう。表象は、ひとりの人が表わす象として、印象はひとりの人にとって印(しる)き(著しい)象として、対象は、ひとりの人が対する象として、定かな、すでにして〈考え〉が重なっている象です。そして、そもそも、象は、現れるところであり、覚えられるところであり、見られるところであり、象の定かさは、想われるところであり、悟られるところであり、考えられるところです。(「象」ないし「つくり〈Gestalt〉」については4-a-2,4-b-2の回を見てください。また、「重なり〈Bezug〉」については6-aの回を見てください。)

 五の文です。

 

 〈考え〉が、そのインディビジュアルなつくりにおいて、つまり覚えとの重なりを固有さとして担うつくりにおいて、わたしたちのうちに、ひきつづき生きて、当のもの、ないし、当のことの想いをつくりなす。

 

 覚えがやって来ては去り行くように(4-b-4)、想い、もしくは想われる相も、また、そのつどそのつど想い浮かべられては消え去ります。しかし、想うファンクションはとどまります。すなわち、のちのちにも、ひとりひとりの人が、それぞれなりの想うファンクションによって、それぞれなりの相を、いきいきと浮かべ、かたどることができます。そして、その浮かべられ、かたどられる相、もしくは想いが、いきいきしているかどうかは、想うファンクションの繰り出しよう、つまりは〈考え〉のインディビジュアルなつくりの生きようにかかります。(「ひきつづき生きる」に当たるのはfortlebenであり、fort〈ひきつづき〉leben〈生きる〉というつくりです。いわば、一時から一時への引き続きです。それについては4-b-2の回を見てください。「固有さ」に当たるのはEigentuemlichkeitであり、Eigentuemlich〈固有の、独自な〉keit〈こと〉というつくりで、「特性、珍奇さ」といった意です。が、ここではさらに「かけがえのなさ」という意を加えたいところです。「つくりなす」に当たるのはbildenです。いわば「相(Bild)を相たらしめる」ことです。4-b-2の回を見てください。)

 六の文です。

 

 わたしたちは、その同じ〈考え〉と繋がるもうひとつのもの、ないし、もうひとつのことに出会うにおいて、そのもの、ないし、そのことが、さきのもの、おもむきないし、さきのことと同じ趣に属するのを識り、そのもの、ないし、そのことに、ふたたび出会うにおいて、わたしたちの〈考え〉のシステムのうちに、ひとつの相応する〈考え〉を見いだすばかりでなく、その同じ対象との固有の重なりをもつ〈考え〉を見いだして、その同じ対象をふたたび知る。

 

 定かな覚え、もしくは相、ないしは想い、ないしは定かな〈考え〉に、人それぞれなりのつくりがあり、いきいきしたところ(みずみずしさ)があり、さらに趣があります(4-b-1)。つまり、「ありかた」「ありさま」「ありよう」「様子」「表情」「かっこう」「らしさ」といったことばが指すところ、もしくはモードです(4-c-1)。そして、わたしたちが、同種、同類というとらえかたをするのは、ひとつの定かな〈考え〉と、もうひとつの定かな〈考え〉もしくは覚えが、同じ趣であることを見てとればこそです。また、わたしたちが「再認」というとらえかたをするのは、ひとつの定かな〈考え〉が、ひとつの覚えにぴたりと重なりあうからです。なお、ひとつの覚えへと、それに見合ったひとつの〈考え〉が重なりあうにおいて、わたしたちは、ひとつのもの、ひとつのことを、はじめて知ります。加えて、わたしたちが「再認識」というとらえかたをするのは、ひとつの覚えへと、それに見合ったひとつの定かな〈考え〉が重なりあうのはもとより、新たに、もうひとつの見合った考えが重なるにおいてです。(「識る」に当たるのはkennenであり、「認知、識別」の意です。「知る」に当たるのはerkennenであり、「まさに知る」の意です。五の章を見てください。)

 

 そのとおり、現実のものごと、もしくは定かなものごと、もしくは、つくり、みずみずしさ、趣をもったものごとが、同じつくり、みずみずしさ、趣をもった想いによって代表されます。それは、想いが、インディビジュアルなものにされた〈考え〉であり、そもそも、ものごとの相、もしくは、ものごとのリアリティが、人のひとりひとりを介しての、もしくは人のインディビジュアリティを介しての、覚えとく考え〉の重なりから出てくるからです。ちなみに、想いの「おも」は、覚えの「おぼ」とも通じ合いますし、また「おもて」「おもだち」「おもむき」「おもかげ」の「おも」でもあります(4-b-4)。

 

 そして、右に述べられたことが、次のようにまとめられます。すなわち六の段です。

 

 想いは、すなわち、覚えと〈考え〉のあいだに立つ。想いは、定かな、覚えを指す〈考え〉である。

 

 想いは、覚えと〈考え〉のあいだに、いきいきと立ちます(おもだち)。想いには、つくり(おもて)があり、モード(おもむき)があります。想いは、そもそも、〈考え〉のインディビジュアルなかたちです(おもかげ)。逆に人を立てて、こうもいうことができます。人のインディビジュアリティは、精神、心理、生理、物理の四つの次元にわたる四重のなりたち(おもかげ、おもむき、おもだち、おもて)を有します。

 そして、七の段です。

 

 わたしは、わたしが想いをつくりなすことのできるものごとの和を、わたしの経験と呼ぶことが許されよう。豊かな経験をもつ人というのは、インディビジュアルなものにした〈考え〉の数が多い人である。いちいちにつき悟る力が欠ける人は、経験を積むということに適っていない。その人は、対象に重ねるべき〈考え〉を欠くゆえに、対象を視るの境からふたたび失う。よく育んだ考える力をもつ人であっても、感官の粗さのゆえに、覚えるファンクションが拙いと、同じく、経験を積むことが僅かにしかできないであろう。その人は、なるほど、それなりに〈考え〉を得ることはできるだろうが、しかし、その人の悟りには、定かなものごととの生きた重なりが欠ける。考えなしの旅人と、抽象的な〈考え〉のシステムのうちに生きる学者は、どちらも同じく、豊かな経験を和むことができない。

 

 経験の豊かさは、インディビジュアルなものにされた〈考え〉の多さ、つまりリアルなものごとを代表する想いのたわわさです。そして、想いのたわわさは、人ひとりを介しての、〈考え〉と覚えの合わさりから生じます。(「積む」に当たるのはerwerbenであり、「(働いて稼ぐ」の意です。なお、「積む」を宛てたのは、「経験を積む」というイデオムとして通りがいいからだけでなく、想いの、かつ、インディビジュアリテイの「四重のなりたち」をも、それとなく指すことができるからです。)

 

 さて、かつての人に比べて、いまの人の考えると見るとのあいだは緩くなっています。それは人の自由の余地の広がりであるとともに、人が人であることの妨げでもあります。すなわち、わたしたちは、こころとからだを精神からアクティブにもちいつつ、想いを稼ぎ、想いの意義を知るほどに、ひとりの人として立つことが確かになり、知らないほどに、考えることが見ることを阻み、見ることが考えることを遠ざけがちです。(「学者」に当たるのはGelehrteであり、lehren〈教える〉から来て、「教えられた人」の意です。つまり、取り込んだだけの、または取り込んだままの知識で、ものごとをとやこうする人です。)

 

 言い換えれば、いまの人の感官は、粗くなっています。たとえば臭いの感官にしても、人がアクティブに用いることをしないと、「タバコ」「焼肉」「ジンギスカン」のほうに傾き、「薫陶」「薫習」のほうにはリアルに迫ることができなくなります。または「目ざわり」「耳ざわり」「暖かいことば」「冷たい考え」が(6-b)、たんに譬えか、ことばの綾としか見なされなくなります。そのかわりに、情報という、ただの考え、他人の考えがとびかって、人となりが豊かになるのを妨げますし、ヴーチャルなものごとが幅をきかせて、人となりがしっかり人となりとなるのを阻みます。(「粗い」に当たるのはgrabであり、いわば物質の質を指します。なお「細やかfein」は精神の質を指します。ちなみに、そのむかしには「細粗」「細鹿」ということばもつくられましたし、「細やかなリンネル」についても語られていました。5-c-2の回を見てください。)