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略伝自由の哲学第七章a−1

 補いから始めます。前の回に引いた道元のことば「いはゆる一切衆生の言、すみやかに参究すべし」の「すみやか」は「速やか」よりも「澄みやか」ではないでしょうか。つまり、二の章にいう「上澄み」「意識」に通じないでしょうか。

 さて、この回から七の章に入ります。ーの段がこうあります。

 

 わたしたちが確かめたとおり、現実を説き明かすための元手は二つの領分、覚えると考えるから取られる。わたしたちが視たとおり、わたしたちのなりたちのゆえに、主であるわたしたちみずからをも含めて、まるまるのトータルな現実が、まずは二重(ふたえ)で現れる。知るが、その二重を凌ぐ。それは、知るが、現実のふたつの元手、覚えと、考えるによって稼がれる〈考え〉とを、ぴたりと合わせ、まるまるのものごととするにおいてである。世が、知るにより、ふさわしい内容を得るに先立って、わたしたちへと出てくるさまを、覚えと〈考え〉から一重に重ねあわされたものであることとの対で、現れの世と呼ぼう。ならば、こうも言うことができる。世は、わたしたちに、二重で(二元で)与えられており、知るは、それを一重に(一元に)仕立てる。このおおもとの原理からはじまる哲学を、一元の哲学、一元論と名づけることもできよう。それに対するのが、二つの世の理論、二元論である。こちらは、たとえば、ただにわたしたちのなりたちによって分けられている一重の現実の二つの面をでなく、二つの絶対的に異なる世を引き受ける。そして、ひとつの世を説き明かす原理を、もうひとつの世に求める。

 

 想い起こせば二の章を取り上げた時(2000年10月)から四年あまりですが、その章は『ファウスト』の一節(I 1112-1117)

 

ふたつのこころが住むなり、わが胸には

ひとつがひとつより別れんとす

ひとつの、しぶとく愛し求め

この世になずみ、鎖がり

ひとつの、たけく塵を去り

高きさきつ親の境に馳せる

 

を受けて、こう起こされています。

 

 このことばをもって、ゲーテは、ひとつ、深く人の自然に基づく人ならではのことを、あらわに語っている。一重のなりたちをしたものではないのが、人である。人の求めるは、つねながら、世のこころおきなく与えるを上回る。要るということは、自然がわたしたちに与える。が、それを満たすということは、自然がわたしたちみずからのする働きに任せる。たわわな恵みに、わたしたちは与るも、なおたわわなのが、わたしたちの欲りだ。飽くなきは、わたしたちの生まれつきと見える。その飽くなきのことさらなひとつの他ではなかろう、わたしたちの、知ることへのつきあげは。ひともとの木を、ふたたび見やる。ひとたびは枝が憩い、ひとたびは枝が揺らぐのを、目にする。わたしたちは、その見てとるをもっては満ち足りない。なぜ、ひとたびは憩い、ひとたびは揺らぐかと、わたしたちは問う。自然へのいちいちのまなざしが、わたしたちのうちに、ひとくさりの問いを産みだす。迎える現象のいちいちとともに、ひとつの課題がわたしたちに与えられている。生きることのいちいちが、わたしたちにとって謎となる。卵から孵る生き物が、卵を生んだ生き物に似る。わたしたちは、それを目にして、そう似ることの基を問う。生き物が、育ち、長じ、それなりのほどになりてなる。わたしたちは、それを見て、そうなる上の条件を探る。およそ自然が感官の前に繰り広げるところをもっては満たされないのが、わたしたちだ。わたしたちは、いたるところにおいて、ものごとの説き明かしを求める。

 

 かたや現象、かたや現実、かたや自然かたや人為、かたやなりたち、かたや説き明かしというように、二の章と七の章は応じあいます。すなわち、わたしたちのこころには、二つの、おのずからなむき、迎える(シンパシー)と向かう(アンチパシー)があります(二の章)。そして、その二つの、おのずからなむきが、知るによって釣り合い、わたしたちそれぞれの求め、こころざし、くせ、こだわりとなり、さらに、これから見ていくとおり、わたしたちがものごとを一元か二元で説き明かすためのよりどころとなります。(「一重で」「二重で」に当たるのはeinheitlich, zweiheitlichであり、ein〈ひとつの〉heit〈ごとく〉lich〈に〉, zwei〈ふたつの〉heit〈ごとく〉lich〈に〉というつくりです。「一元で」「二元で」に当たるのはmonistisch, dualistichであり、monist〈一元論者が〉isch〈論じるように〉, dualist〈二元論者が〉isch〈論じるように〉というつくりです。なお、ここでの「元」は元手の「元」にほかなりません。)さらに、三の章と六の章が応じあいます。すなわち、わたしたちは二通りの生きる、考えると想うを授かっているものです(三の章)。そして、その二通りの生きるが、知るによって響かい、それとともに、わたしたちひとりひとりがきわだち、さらに、わたしたちひとりひとりが、それをもって、ひとりひとりなりにものごとを代表するようになります(六の章)。

 

 さらにまた、四の章と五の章が応じあいます。すなわち、わたしたちは二重の有る、覚えと〈考え〉に与るものです(四の章)。そして、その二重の有るが、知るによってぴたりと合わせられ、重ねあわされ、一重に仕立てられて、あまねき世のひとところとなり、それとともに、わたしたちが、一元のもの、こと、またはリアルなものであることにまみえます(五の章)。(「ぴたりと合わせる」「重ねあわせる」「仕立てる」に当たるのはzusammenfugen, zusammemsetzen, verarbeitenでありzusammen〈合わせて〉fugen〈嵌める〉, zusammen〈合わせて〉setzen〈置く〉, ver〈なりかわらせつつ〉arbeiten〈仕事する〉というつくりで、いずれも知るにおける考えるの働きを指します。「ものであること」に当たるのはWesenheitであり、Wesen〈もの〉heit〈であること〉というつくりです。4-a-3の回を見てください。)

 

 その三つの応じあいは、たとえば陰と陽のごとく(ことに四の章と五の章)、負債と資産のごとく(ことに三の章と六の章)、凹と凸のごとく(ことに二の章と七の章)です。

 

 そのとおり、わたしたちのなりたちは、有る、生きる、むきの三つの次元にわたって二重であり、それゆえに、わたしたちには、ものごとが三つの次元にわたって二重で与えられ、もしくは二元で現れます。すなわち、覚えとしてか〈考え〉として、みずみずしくか干あがつて、親しくかよそよそしくです。そして、その三つの次元にわたる二元での現れが、知るにより一元に合わされて、ものごとがリアルになり、わたしたちの想うところとなり、わたしたちの説き明かすところとなり、それにつれて、わたしたちのなりたちが、あまねく広がり、そこはかとなく深まり、たわわに富みます。(「与える」に当たるのはgebenであり、所与の「与」で「おのずからある」の意です。「現れる」に当たるのはerscheinenであり、現象の「現」で「見ゆ、見える」の意です。ことに3-aの回を見てください。)

 

 そして、想う、説き明かすは、わたしたちのする働きであり、考える、知る、および、わたしたちのなりたちの広さ、深さ、たわわさは、わたしたちに与えられるところであるとともに、わたしたちが稼ぐところでもあります。そもそも、考える、知るは、想う、説き明かすという、わたしたちのする働きをもって捗るものです。(「稼ぐ」に当たるのはerarbeitenであり、er〈まさに〉arbeiten〈仕事する〉というつくりで、「働いて得る、儲ける」の意です。ちなみに、さきの「仕立てるverarbeiten」が考えるの働き(自然)であるのに対し、こちらはわたしたち人のする働きい為)です。)

 

 ともかく、わたしたちには、わたしたちのなりたちのゆえに、現実のものごとが二元で現れ、それが知るによって一元となり、現実の、つまりリアルなものごととなります。そのことを引き受ける論が、ここに一元論と呼ばれます。かたや、二元の現れを、二つの異なる世として引き受け、ひとつの世をもうひとつの世によって説き明かそうとする論が、ここに二元論と呼ばれます。(「引き受ける」に当たるのはannehmenであり、an〈ついて〉nehmen〈取る〉というつくりで、「受け入れる、身につける、仮に想う、思いなす」といった意です。すなわち、そのことばは、ここに一元論と呼ばれる論については「受け入れる、身につける」と訳すのがふさわしく、ここに二元論と呼ばれる論については「仮に想う、思いなす」と訳すのがふさわしいでしょう。)

 二の段がこう続きます。

 

 二元論は、わたしたちが知ると呼ぶことについての誤ったとらえかたに基づく。その論は、有るのまるごとを、二つの、それぞれにそれぞれなりの法則をもつ領域に分かち、その二つの領域を外において対させる。

 

 ここでも二の章を振り返ります。二の段として、こうありました。

 

 わたしたちがものごとにおいて求める上澄み、ものごとにおいてじかに与えられているところを凌ぐところが、わたしたちのまるごとのものを、ふたところに分かつ。すなわち、わたしたちは、世と対し合うのを意識するようになる。わたしたちは、わたしたちを、ひとり立ちの者として起こし、世に対し合わせる。まるまるひとつが、わたしたちには、対し合うふたところと見える。〈わたし〉と世だ。

 

 ここまでに、わたしたちは、さまざまな対を取り上げてきました。たとえば、考えると見る、働きとする働き(三の章)、〈考え〉と覚え、主と客(四の章)、まるごとひとつといちいちのいち、内と外(五の章)、あまねさとインディビジュアリティ、表と裏、前と後ろ、上と下(六の章)などです。そして、それらの対のおおもとに、〈わたし〉と世の対があり、かつ上澄みがあり、または自己意識の上に意識があり(二の章)、考えるからくる〈考え〉の明るみがあり、または自己意識のさきに意識があり(三の章)、考えるの明らかさがあり、または自己意識を凌ぐ意識があります(四の章)。そして、わたしたちは、その明らかさとともに、〈わたし〉と世のかかわりを見いだし(五の章)、その明るみをもって〈わたし〉と世をともに引き立て(六の章)、その上澄みの扶けによって、みずからを起こしつつ、ものごとと対しあわせ(二の章)、さらに、これから見ていくとおり、その上澄みから、〈わたし〉と世を、いかなる仮説も立てずに説き明かします。

 

 かたや、二元論は、どんな二元論であれ、その上澄み、明るみ、明らかさを、それとして見てとるかわりに、二元がもともと対し合っていると思いなすところから起こされる論です。しかし、二元はどんな二元であれ、さらに、対はどの対でも、人の思いなしや思いもうけでなければ、その上澄み、明るみ、明らかさによって分かれます。

 

 そして、その上澄み、明るみ、明らかさ、つまり意識(精神)が、わたしたちの内(こころ)を照らし、内に宿って自己意識となります。が、意識も自己意識も外目には見えません。ただ、自己意識が面に表れるまでです(6-d)。(「外において」に当たるのはaußerlichであり、außer〈外の〉lich〈ことみたいに〉というつくりです。)

 三の段です。

 

 そのような二元論から出てくるのが、カントによって科学のうちへ持ち込まれ、いまにいたるまで追い出されることのなかった、覚えの客と「ものそのもの、ことそのこと」という分かちである。わたしたちが述べてきたことに沿うと、わたしたちの精神のなりたちの自然として、ひとつのことさらなもの、ないしことが与えられてありうるのは、覚えとしてのみである。そして、考えるが、そのことさらさを凌ぐ。それは、考えるが、覚えのいちいちに、そのいちいちの、法則に沿った、世のまるごとのうちの場を指し示すにおいてである。世のまるごとの分かたれたところどころが、覚えとして定められるかぎり、わたしたちが、その分かちにおいて従うのは、ただ、わたしたちが主であることの法則である。しかし、わたしたちは、覚えという覚えの和をひとところと見てとり、そのひとところに、「ものそのもの、ことそのこと」という、もうひとところを対させると、あてのない哲学をすることになる。わたしたちは、その時、ただの〈考え〉の遊びにかかわる。わたしたちは、ひとつの人為による対を設けるが、しかし、その対のかたわれについては、内容を得ることができない。そもそも、ひとつのことさらなもの、ないし、ことについて内容が汲まれるのは、覚えからこそである。

 

 ここでもまた二の章を振り返ります。三の段がこうあります。

 

 その、わたしたちと世のあいだの仕切りは、わたしたちが立てる。すなわち、意識がわたしたちの内に明るむやいなやである。なおかつ、わたしたちは、こういう情を失ってはいまい。すなわち、わたしたちが世のかたわれであり、わたしたちと世に絆があり、わたしたちがまるまるひとつの外ならぬ内なる者であるとの意識である。

 

 わたしは、たとえば、からだの内にあり、服の内、家の内、社会の内、つまりは世の内、「まるまるひとつUniversum」の内、「すべてでひとつのものdas all-eine Wesen」の内にあります(5-c-2)。そもそも、内と外の境は、わたしたちが、ものごとの限りをもって定めます(5-d-3)。それどころか、対をなす二元という二元のあいだの仕切りは、わたしたちが仕切ります。そして、それは、意識がわたしたちの内へと及びくるにおいて、言い換えれば、わたしたちが自己意識をもってであり、また、わたしたちが主であることの法則に従って、言い換えれば、わたしたちがわたしたちのなりたちに応じてです。なおかつ、覚えと〈考え〉の二元が、わたしたちに与えられるところであり、客であるものごとに属することには変わりありません(5-c-1)。しかし、その二元を一括りにしつつ主に属すると思いなし、その外に「ものそのもの、ことそのこと(物自体)」という客を思いもうけると、とりつくしまがなくなります。そもそも、それは思いなしと思いもうけによっています。わたしたちは、それになんとか向かうことはできても、それを迎えることはできません。つまり、それは、かりそめに考えられはしても、覚えられはしません。なお、いわゆる哲学がよそよそしいのは、そのためでもあります。(「設ける」に当たるのはkonstruierenであり、「組み立てる、描き上げる、導き出す」といった意です。)

 

 この回は七の章のはじめであり、それにちなんで与謝野晶子『草の葉』を引きます。

 

草の上に

更に高く、

唯だ一もと、

二尺ばかり伸びて出た草。

 

かよわい、薄い、

細長い四五片の葉が

朝涼の中に垂れて描く

女らしい曲線。

 

優しい草よ、

はかなげな草よ、

全身に

青玉の質を持ちながら、

七月の初めに

もう秋を感じてゐる。

 

青い仄かな悲哀、

おお、草よ、

これがそなたのすべてか。