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略伝自由の哲学第七章a−2

 前の回に取り上げた三の段には、「あてのない哲学をする」ということばが出てきました。それに当たるのはins Blaue hinein philosophierenであり、Ins Blaue hinein〈青のなかへと〉philosophleren〈哲学する〉という言い回しです。そして、その青は「定かならざる遥かさの色」だそうです(DUDEN)。

 

 また、前の回に引いた与謝野晶子の『草の葉』には、「青玉の質」「青い仄かな悲哀」ということばが見えます。「青玉」はサファイアのことだそうです。そして、その青は、いわば透きとおって深みのある色であり、また、ほんのりと悲しみ、哀しみを湛える色でもあります。

 

 さて、その二つの青の趣は、重なるようでもあり、ずれるようでもあります。そのことを、こんなふうに説き明かすとしたら、どうでしょうか。先の青は、遥かさ、果てしなさへと消え入る感じの青であり、後の青は、遥かさ、果てしなさを引き寄せる感じの青です。

 

 さらに、そのことを、前の回にいう意識と自己意識のかかわりを踏まえながら、こんなふうに言い換えるとしたら、いかがでしょう。先の青は、意識に向かう自己意識がきわだたせる情であり、後の青は、意識に向かいつつ意識を迎える自己意識がきわだたせる情です。

 

 すなわち、意識(上澄み、明るみ、明らかさとしての精神)は、わたしたちの内(こころ)に明るんで自己意識となるのはもとより、わたしたちの外において、定かならざる遥かさの情を湛えつつ明るみもしますし、わたしたちの内と外の境において、仄かに悲しく、哀しい情を湛えて輝きもします。そして、「わたしたちがまるまるひとつの外ならぬ内なる者であるとの意識」ないし「情」というのは(二の章の三の段)、その仄かな輝きでなくしてなんでしょうか。(「境」については、ことに)

 

 なお、二の章のモットーである『ファウスト』のセリフのなかには、「さきつ親」にということばが見えますが、それに当るのはAhnenであり、もともとにおいてはahnen〈おぼろ気に感じる〉と同じだそうです(DUDEN)。また、「情」の字は、「忄(こころ)」と「青」からつくられています。さらにまた、「みさを(彩、操)」ということばがありますが、それについて「ミは神・霊を示す接頭語。サヲはアヲ(青)に同じ。神秘的な青さ、色合いをいうのが原義。転じて、常緑樹のような不変の美、また、状況に左右されない志操をいう」といった解があります(岩波古語辞典)。さらにまたまた、『自由の哲学』の書き手は、やがて後においてではありますが、青を「こころの輝き」と呼んでいます。

 

 もうひとつ、晶子の『草の葉』には、「秋を感じる」ということばがありますが、その感じも、色でもって言い表わすとしたら、どうでしょうか。

 

 たとえばですが、「青春」や「白秋」といったことばがあります。それらのことばは、もとをたずねると、いわゆる五行説に行きつくそうです。また、ゲーテは、青と黄を「色の原現象」と呼んでいます。さらにまた、『自由の哲学』の書き手は、これまた後においてですが、黄を「精神の輝き」、白を「精神のこころにおける相(または影)」と呼びます。

 

 さて、それらのことばに対する、わたしたちの好き嫌いを、ひとまずさしおいてみると、どうでしょうか。『草の葉』の「秋」は、「白秋」の白であるよりも、「原現象」としての青と対する黄ではないでしょうか。言い換えれば、上澄み、明るみ、明らかさとしての精神ではないでしょうか。

 

 さらにひとつ、カントのいう「ものそのもの、ことそのこと(物自体)」は、まさに「青のなかへと哲学する」ことをもって、「白秋」の白、「精神のこころにおける相」を湛えてはいないでしょうか。言い換えれば、意識の影である自己意識が、影であることに気づかないまま、影を影たらしめているおおもとを、手前勝手に推し量ってはいないでしょうか。ついでに、その白は、「しらけ烏飛んでゆく南の空へ」の「しらけ」にも通じているはずです。

 

 ということで、どうにかこうにかカントの「ものそのもの、ことそのこと」にまで辿りつきました。

 この回は、すなわち七の章の四の段からです。

 

 覚えと〈考え〉の領域の外に思いもうけられる有るは、いかなる趣の有るであれ、まっとうではない仮説の領分へと追いやられてしかるぺきである。そのカテゴリーに、「ものそのもの、ことそのこと」は属する。まったくもって自然なことでかりあるが、二元で考える人は、仮に引き受けた世の原理と経験に沿って与えられたところとのかかわりを、見いだすことができない。仮の世の原理について内容が得られるのは、人がそれを経験の世から借り受けつつ、そのことをうやむやにしてこそである。そうでないと、その原理は内容が欠けた〈考え〉のまま、つまり〈考え〉のかたちだけを有する〈考えもどき〉のままである。二元で考える人がつねながら言い立てるところであるが、その〈考え〉の内容は、わたしたちの知るの及ばないところであり、わたしたちが弁えることができるのは、そうした内容があるということであって、なにがあるかではない・・・。どちらの場合も、二元論を凌ぐことはできない。人が、経験の世の抽象的な元手のいくつかを、ものそのもの、ことそのことという〈考え〉のうちに持ち込むのであれば、経験の、たわわで、具象的な生を、まさにその覚えから取られている、いくつかの性質に帰することは、できないままであるのが当たり前である。デュ・ボア・レイモンは、物質の覚えられない原子が、その位置と運動によって、感覚と情を生みだす、と考えて、こういう結論に行きつく。わたしたちは、物質と運動が感覚と情をいかに生みだすかについて、満ち足りのゆくように説き明かすことは、けっしてできない。そもそも、「炭素、水素、窒素、酸素などの、あまたの原子が、どのように位置し、運動しているか、どのように位置し、運動していたのか、どのように位置し、運動するようになるのかは、それらの原子にとってどうでもいいことではないなどということは、とにかく、とらえようのないことである。それらの共なる働きから意識がどのように生じうるのかは、どのようにしても見抜くことができない。」その結論の導きかたは、その考えかたのまるごとの特徴を示している。覚えのたわわな世から、位置と運動が切り離される。その位置と運動が、原子の世という考えだされた世へと引き移される。そして、不思議な気持ちが出てくる。つまり、その、みずからがつくりだし、覚えの世から借り受けた原理から、具象的な生を繰り出すことができないということを巡ってである。

 

 これまでさまざまな面から見てとったとおり、わたしたちにとって、じかに与えられてあるのは、覚えであり、欲りも、情も、考えも、まずは覚えられるところです。そして、考え、情、欲りをも含めて、ものごとは、そこにぴたりと重なる〈考え〉によって、リアルであり、わたしたちの想うところ(ないし経験)となり、わたしたちの考えるところとなります。しかし、その、つまり、わたしたちのする働きとしての、想う(ないし思う)、考えるによって、覚えられないものごとが、あみだされもします。そのあみだされたものごと、つまり、仮の考え、仮の思いが、押し立てられもすれば、リアルなものごとよりも有り難いかのごとくに崇められもします。カントのいう「ものそのもの、ことそのこと」は、まさにそのような仮の考え、仮の思いです。

 

 はたして、「ものそのもの、ことそのこと」が内容をもつとすれば、人が、覚え、ないし想い、ないし経験から借り受けつつ、借り受けていることをうやむやにすることによってです。そうでなければ、内容のないままにとどまります。(「・・・をうやむやにする」に当たるのはsich uber…hinwegtauschenであり、uber...〈···について〉sich〈みずからを〉hinwegtauschen〈まぎらかす〉というつくりで、「思いちがえる」の意です。)

 

 はたして、カントは、「ものそのもの、ことそのこと」を、まずは、人が知ることのできないところであると言っています。

 

 そして、カントが「ものそのもの、ことそのこと」を言い立てたのち、それについて、さまざまな人が論を立ててきました。たとえばデュ・ボア・レイモンの唱える「物質の覚えられない原子が、位置と運動によって、感覚と情を生みだす」という考えも、その流れのなかにあります。

 

 すなわち、デュ・ボア・レイモンは、原子の位置と運動が感覚と情を生みだすと言い、しかも、どのように生みだすかは、わたしたちにとって、とらえようがない、と言い立てています。

 

 そもそも、デュ・ボア・レイモンは、原子の位置と運動という、原子の世の内容を、覚え、ないし想い、ないし経験の世から借り受けながら、そのことに気づいていません(はたして、たわわなのは、どちらの世でしょうか)。しかも、「物質の覚えられない原子が・・・感覚と情を生みだす」というのは、そもそもにおいて、人が考えてあみだした、仮の考えの他ではありません。(「考えだす」に当たるのはerdenkenであり、denken〈考える〉からきて、「案出、捏造」といった意です。)

 

 なお、想い(経験)をもとにしての想う、つまり、わたしたちのする働きとしての想うを、「思う」と書いています。そして、「思う」をもってつくられることばは、「思いあう」から「思いわぶ」まで、ざっと数えても百は下りません。

 五の段がこうつづきます。

 

 二元論者にして、内容がまるまる欠けた「ものそのもの、ことそのこと」という〈考え〉をもって仕事をする者が、世の説き明かしへと行きつくことができないのは、その者の原理の、まさに右にあげた定義から出てくることである。

 

 「ものそのもの、ことそのこと」は知りえないと説く人、ないし、世がなんであるかは説き明かせないと言い立てる人は、ものごとのせいでもなく、世のせいでもなく、まさにその人が仮に定めた世の原理のせいです。それもまた一人相撲や空騒ぎのごとくです(6-aの回を見てください)。

 

 ここで、二の回で端折ってしまった、二の章の四の段の後半を添えることにします。

 

 考える者が、現象の法則を探し求める。その者が、見つつ験すところに、考えつつ通おうとする。わたしたちは、世の内容を、わたしたちの考えの内容に仕立ててこそ、かかわりをふたたび見いだす。さきに、そのかかわりから、みずからを解き放つているからだ。後にみることになるが、その目標が達成されるのは、科学的に探究する者の課題が、つねづねにつかまれているよりも、ずつと深くつかまれてこそである。わたしがここに述べたありようのまるごとが、世の歴史の現象において、わたしたちに対するところとなる。すなわち、一重で世をつかむこと、もしくは一元論と、二つの世の理論、もしくは二元論との対においてである。二元論は、人の意識によって仕上げられた、〈わたし〉と世の分かちにのみ、まなざしを向ける。その勤しみのまるごとは、その対、すなわち精神と物質、あるいは主と客、あるいは考えると現れると呼ばれる対を折り合わせようとする、はかない闘いである。二元論は、二つの世のあいだに、きっと、なにがしかの橋があるはずだという情をもつが、その橋を見いだすことはできない。人は、みずからを〈わたし〉として生きるにおいて、その〈わたし〉を精神の側と考えることの他はできないし、その〈わたし〉に世を対させるにおいて、その世に、きっと、感官へと与えられている覚えの世、すなわち物質の世を加えて考えざるをえない。そのことによって、人は、みずからを、精神と物質の対のうちへと据える。みずからのからだが物質の世に属するからには、きっと、なおさらそうせざるをえない。〈わたし〉は、そのとおり精神のものに属し、そのもののひとところであり、物質のものごとは、感官によって覚えられて、世に属する。精神と物質に重なる謎という謎を、人は、きっと、みずからというもののおおもとの謎として見いだすことになる。一元論は、一重であることにのみ、まなざしを向け、ひとたびありあわせた対を打ち消そう、拭い去ろうとする。二つの世界観のどちらにしても、満ち足りることはありえない。そもそものこと、どちらも事実に適ってはいない。二元論は、精神(〈わたし〉)と物質(世)を、もともと異なる二つのものと見なす。そして、それゆえに、二つがどう働きあうことができるかを、とらえることができない。物質の自然が精神にとってまるまるよそよそしいのであれば、精神は物質において起こるところを、いかにして知るのか。また、精神は、物質へと、いかに働きかければ、みずからの意図が、する働きへと移っていくのか。こよなく鋭い、また、こよなくおかしな、かずかずの仮説が、その問いを解こうとして立てられた。しかしまた、一元論にしても、これまでのところ、それよりましなわけではない。一元論は、これまで、三通りに、みずからを立てようとしてきた。すなわち、精神を打ち消して唯物論となるか、物質を打ち消して唯心論のうちに安らぎを求めるか、はたまた、世のいたって単純なものにおいてさえ物質と精神が分かちがたく結びついている、それゆえに、人において、その二つの決して分かれないありようが出てきても、驚くにはおよばない、と言い立てるかである。

 

 そして、六の段です。

 

 いずれにしても、二元論者は、わたしたちの知る力に、越えることのできない限りを据えるべく強いられるみずからを視る。一元の世界観を奉じる者は、与えられている世の現象を説き明かすために要するすべてが、きっと、その世の領域のうちにあることを弁える。その者が説き明かすにいたるのを阻むのは、ただ、たまたまの、時の上での、もしくは場の上での限りであるか、または、その者のなりたちの足りなさかである。ちなみに、その足りなさは、あまねく、人のなりたちのではなく、ただに、その者の、ことさらな、インデビジュアルななりたちの、である。

 

 二元で考える人、たとえば精神と物質、〈わたし〉と世、主と客、内と外、考えると覚えるといった対を、もともと異なる二つの対しあいと見なす人は、まさにその人のする働きとしての、思う、考えるのゆえに、どうしても、わたしたちの知る力には越えることのできない仕切りがある、わたしたちはものごとのなんたるかを満ち足りのゆくようには説き明かすことができない、と説かざるをえません。さらには、その仕切りを越えるものいいを、あっさりと拒みさえします。(「強いられるみずからを視る」に当たるのはsich gezwungen sehenであり、sich〈みずからが〉gezwungen〈強いられるのを〉sehen〈視る〉という言い回しです。)

 

 かたや、ここにいう一元論は、物質を打ち消す唯心論でもなく、精神を打ち消す唯物論でもなく、精神と物質をものごとの二重の現れとして迎え、その二重が一重に重なりあうによって、つまり知るによって、ものごとがリアルになることを見てとります。すなわち、この世界観は、ものごとを仮説によってではなく、じかに見てとるによって説き明かします。そもそも、見てとるは、ものごとにそれなりのリアリティをもたらすとともに、見てとる人をそれなりに満ち足らせるものでもあります。

 

 さらに、この世界観は、見てとるを阻むのが時と場における限りであるのはもとより、「見る」と「とる」という、まさに人ひとりのする働きの足りなさ、ないし、人ひとりのなりたちの足りなさであることをも、知っています。そもそも、なりたちと働きも、ひとつの対であり、なりたちがあって、働きがあり、働きがあって、なりたちがなりたちます(ことに5-c-1の回を見てください)。

 

 さて、この回のお終いには、これまた与謝野晶子の詩から『異性』を引きます。ちなみに、男と女もひとつの対です。

 

すべて異性の手より受取るは、

温かく、やさしく、匂はしく、派手に、

胸の血の奇しくもときめくよ。

女のみありて、

女の手より女の手へ渡る物のうら寂しく

冷たく、力なく、

かの茶人の間に受渡す言葉の如く

寒くいぢけて、質素(ぢみ)なるかな

このゆゑに我は女の味方ならず、

このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。

かの袴のみけばけばしくて

寂しげなる女のむれよ、

かの傷もたぬ紳士よ。