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略伝自由の哲学第七章a−3

 前の回には与謝野晶子の『異性』を引いて、男と女もひとつの対だと言いました。はたして、いかなる対でしょうか。

 

 たとえばアダムとエヴァのむかしや、イシスとオシリスのむかしにおいても、子が生まれる、子を生むは、ものごとが知られる、ものごとを知るプロセスの如く語られています。もちろん、イザナギとイザナミのことも、オオクニヌシとスセリヒメ、ヌナカワヒメ、タキリビメ、カグヤタテヒメなどのことも、同じプロセスとして読むことに、しっかりと耐えます。いや、耐えるどころか、そのプロセスを、よりたわわに、より深く、より広く知ることへの促しとなってくれます。(なお、オオクニヌシと、そのヒメたち、その子たちについては、4-b-4の回を見てください。というより、じかに『古事記』や『日本書紀』に当たってください。)

 

 すなわち、まずは知る(ということ)を、ありのままに見てとり、つまり知り、その知るについての想いを、ういういしく生かしつつ、むかしの語りに語られていた男と女のことを読んでみるならば、その女は、受けて、宿して、育む、こころのプロセスに重なりあい、その男は、来たって、宿って、働きかける、精神のプロセスの如くであり、そして人のなりたち、人のする働き、ならびに、ものごとのリアリティ、ものごとの相は、その男と女によって孕まれる子、生まれる子の如くであり、その子と重なりあいます。そもそも、たびかさね言ってきましたが、働きがあって、なりたちがあり、なりたちがあって、働きがありますし、ことに人においては、なりたちが、する働きによって、なおさらになりたちます。(すなわち「働きWirken」と「なりたちOrganisation」と「する働きTatigkeit」については、とりわけ2, 3-b, 4-a-1, 5-d-1, 6-bの回を見てください。また「相」については、ことに4-b-3の回を見てください。)

 

 そのとおり、むかしからいまへと記されて遺されている男と女のことは、精神とこころのことの如くであって、いうならば重なりあう対であり、主と客、内と外などの対しあう対と対をなします。そして、その男と女によって孕まれる子、生まれる子は、人のなりたち、ないしファンクション、ならびに、ものごとの相、もしくはリアリテイの如くであり、さらにそれとの重なりにおいて、人のする働き、もしくはアクトがなされ、さらにまたそれとの重なりにおいて、人のなりたち、ないしファンクションが培われるとともに、ものごとの相、ないしリアリティが育まれます。(なお「ファンクションFunktion」および「アクトAkt」については、ことに5-c-1の回を見てください。)

 

 たとえばまた三位一体ということについても、右のとおりの男と女と子の三つが重って一つであることを踏まえてこそ、ありのままに、ういういしく迫りゆく道が、明らかに、はっきりと開けてきます。さらにまた、みごもり(妊り)ということばと、いみごもり(忌み籠り)ということばが、根を同じくしているようですが、そこには、こういうことから光が当たるでしょう。いみごもりは、いわば降りて来る神を迎えようと、しかるべき(どうやら水による)清めをしながら、それなりのところに籠ることであったようですが、そのことと同じように「この世における新しい生命の誕生は、つつしんで産屋の神の降臨をねがい、その加護のもとにするのが本来のありかたであった」そうです。(高取正男『神道の成立』平凡社ライブラリー)

 

 さて、知るのプロセス、すなわち知ろうとすること、または見てとるのプロセス、すなわち見てとろうとすることは、問うのプロセス、すなわち問おうとすることでもあります。そして、この回はそのことを見ていきます。

 すなわち七の段からです。

 

 わたしたちが定めたとおりの知るという〈考え〉から、知るの境は云々しようがないことが明らかになる。知るは、あまねき世の案件でなく、人がみずからと取り決めてする生業である。ものごとは、説き明かしを求めない。ものごとが、存在するのも、互いに働きあうのも、法則に沿ってでありその法則は、考えるによって見いだされる。ものごとは、その法則と引き裂きがたくひとつで存在する。そこに、わたしたちの〈わたしであること〉が対し、ものごとの、さしあたりは、わたしたちが覚えと名づけたところをつかむ。しかし、その〈わたしであること〉のうちには、また現実のもうひとところを見いだす力が見いだされる。いよいよ〈わたしであること〉が、世において引き裂きがたく結ばれている現実の二つの元手を、〈わたしであること〉に向けても一つにするにおいて、知るの満ち足りが出てくる。すなわち、〈わたし〉がふたたび現実のもとへと行きつく。

 

 はじめの文から見ていきます。

 

 わたしたちが定めたとおりの知るという〈考え〉から、知るの境は云々しようがないことが明らかになる。

 

 ここまでに見てとったとおり、人が知るに越えることのできない境があるという説は、そう説く人の、かりそめの考え、ないし思いもうけ、ないし思いなしによっています。そして、そう説く人は、その境を越えて知ろうとはしなくなります。しかし、わたしたちは、ものごとを見てとる(つまり知る)によってこそ、ものごとの境を確かに定めることができ、ものごとをしつかりと説き明かすことができます。そして、知るもひとつのことであり、わたしたちは知るをも見てとる(つまり知る)ことができます。すなわち、わたしたちのなりたちのゆえに、ものごとが覚えと〈考え〉に分かれ、知るにおいて覚えと〈考え〉が重なりあい、ものごとのリアリティが生まれ、わたしたちのなりたちがなりたちます(五の章、六の章)。そのことを見てとり(つまり知り)、見とめる(つまり知っている)ところからは、人の知るに越えられない境があるなどとは、言い立てようがありません。そもそも、ものごとの境は、ものごとの(感官にとっての)限りをもって、わたしたち人が定めるところです。そして、知るの境は、わたしたち人が、知るの、いうならば、さしあたりの限りをもって、とりあえず定めるところです。すなわち、そこには、その限り、その境を、いつの日にか越えることへの、よしんばかすかであろうとも、望みがきざしています。(なお「限りSchranke」については5-c-1の回を、「境Grenze」については5-c-2の回を見てください。また「定めるbestimmen」については、ことに6-eの回を見てください。さらにまた「見てとるbetrachten」については、ことに3-bの回を見てください。ついでに「見る」と「とる」も男と女の如くであり、そして「見てとる」が子の如くです。)

 二の文です。

 

 知るは、あまねき世の案件でなく、人がみずからと取り決めてする生業である。

 

 知るを場における限りによって阻まれる人が、しかるべき場へと移ることによって知ろうとし、時の上での限りによって阻まれる人が、しかるべき時を待つことによって知ろうとするように、かりそめの考え思いもうけ、思いなしが、まさにかりそめの考え、思いもうけ、思いなしであることを知る人が、きっと、その人のさしあたりのなりたちと語らいつつ、そのなりたちの足りないところを足らせるべく、なにごとかをなすことによって知ろうとするようになります。そして、いまにおいては、はっきりときわだつことですが、人がなにを知ろうとするかも、いつ、どこで、どのように知ろうとするかも、まさに人それぞれです。すなわち、知ろうとするは、人のひとりひとりが、みずからでこころを決めてする働きです。なお、言うまでもありませんが、これまでどおり「知る」は「見てとる」と読みかえることができます。(「案件」に当たるのはAngelegenheitであり、anliegen〈間近に横たわる〉から来て、「懸案、要件、業務」といった意です。「生業」に当たるのはGeschaftであり、schaffen〈生みなす、ことをなす〉から来て、「仕事、商い、取り引き」といった意です。ちなみに、生業の「なり」は、もともとにおいて植物などが成るということの「なる」であり、また、そこから転じて、「農産、生産、事業、営業」といったことを指すそようになったそうです。そして「取り決める」に当たるのはabmachenであり、ab〈けりをつけて〉machen〈作る〉というつくりで、「折り合う、話をつける」といった意です。ちなみに「作るmachen」は「生じるentstehen(4-a-1)」および「なるwerden」の対です。)

 はたして、三の文がこう続きます。

 

 ものごとは、説き明かしを求めない。

 

 説き明かしを求めるのはもとより、そもそも知ろうとするのは、まさしく人であり、つまりは、わたしたちのひとりひとりです。(「求める」に当たるのはsuchenであり、「探す、・・・しようとする」といった意です。なお、すでに二の章においては、suchen〈求める〉ということのさまざまなかたちがあげられていました。)

 四の文です。

 

 ものごとが、存在するのも、互いに働きあうのも、法則に沿ってであり、その法則は、考えるによって見いだされる。

 

 わたしたちは、ものごとに対しあい、まさに対しあってから、そのものごとの法則を探し求めます。それは、ものごとがあるにも、ものごとが働きかわすにも、それなりの法則に沿ってであることを、わたしたちが、あらかじめ知っているからではないでしょうか。または、うすうす感じているからではないでしょうか。そして、法則というのは、考えにほかなりませんし、考えは、ほかでもなく考えるによって見いだされます。(「法則」に当たるのはGesetzであり、setzen〈置く〉から来て「掟、法、決まり」といった意です。ちなみに「置くsetzen」の対は「立てるstellen, errichten(l, 2, 3-b, 4-b-4, 5-c-1, 6-d)」です。)

 五の文がこう続きます。

 

 ものごとは、その法則と引き裂きがたくひとつである。

 

 そもそも、ものごとの法則が、ものごとに属し、ものごとのうちであることにしても、わたしたちは、あらかじめ知ってはいないでしょうか。または情として、おぼろげに感じてはいないでしょうか。(なお「情Gefuhl」と「感じるfuhlen」については、ことに前回および前々回を見てください。)

 さて、六の文です。

 

 そこに、わたしたちの〈わたしであること〉が対し、ものごとの、さしあたりは、わたしたちが覚えと名づけたところをつかむ。

 

 わたしたちがものごとと対するにおいて、ものごとの覚えと法則(考え)が分かれます。それは、すなわち、わたしたちのなりたちのせいです。そして、わたしたちは、まずもって、ものごとの覚えをつかみます。言い換えれば、客と対する主としてのわたし、ないし外と接する内としてのわたし、ないし公と対をなす人となりとしての(パーソナルな)わたし、ないし他者と出くわす自己意識としてのわたしは、さしあたり、客の覚え、あるいは外の覚え、あるいは公の覚え、あるいは他者の覚えをとらえます。(「〈わたしであること〉」に当たるのはIchheitであり、Ich〈わたしで〉heit〈あること〉というつくりで、いわば主としての(四の章)、または内としての(五の章)、または人となりとしての(六の章)、または自己意識としての(七の章)わたしのことです。また「つかむ」に当たるのはerfassenであり、「見てとる」の「とる」と同じく、わたしたちのする働きです。それについては、ことに2, 3-b, 4-b-1の回を見てください。)

 七の文がこう続きます。

 

 しかし、その〈わたしであること〉のうちには、また現実のもうひとところを見いだす力が見いだされる。

 

 現実のもうひとところは、〈考え〉であり、〈考え〉を見いだす力は、わたしたちの考える力、すなわち、わたしたちのする働きとしての考えるです。それは、まさしく主としての、または内としての、または人となりとしての、または自己意識としてのわたしが、わたしのうちに見いだします。(「うち」に当たるのはdas lnnernであり、たとえばですが「腹も身のうち」の「うち」です。)

 そして、八の文です。

 

 いよいよ〈わたしであること〉が、世において引き裂きがたく結ばれている現実の二つの元手を、〈わたしであること〉に向けても一つにするにおいて、知るの満ち足りが出てくる。すなわち、〈わたし〉が、ふたたび現実のもとへと行きつく。

 

 わたしたちは、客としての、または外としての、または公としての、または他者としてのものごとに対するのみでなく、主としての、または内としての、または人となりとしての、または自己意識としてのわたし、すなわち〈わたしであること〉にも対することができます。そして、その〈わたしであること〉のうちには、する働きとしての考えるがあり、〈考え〉があり、さらに〈考え〉が及び来たります。それは、すなわち働きとしての考えるからです。言い換えれば、自己意識を凌ぐ意識(七の章)、またはパーソナルな(人となりの)意識を凌ぐインディビジュアルな意識(六の章)、または人の(人間的な)意識(五の章)からです。そして、まさに〈考え〉が及び来くるにおいて、ものごとが知られ、ものごとがリアルになり、〈わたしであること〉が満ち足ります。言い換えれば、〈わたしであること〉が、なおさら〈わたしであること〉となります。それは、すなわち〈わたしであること〉を凌ぐ〈わたし〉からにほかなりません。そのとおり、わたしたち人のなりたちは、たわわで、深く、広いなりたちであり、わたしたち人の〈わたし〉から、なおさらたわわに、深く、広くなりうるなりたちです。(「いよいよ」に当たるのはerstであり、英語のfirstに通じ、いわば「いまはじめて」ないし「やがてはじめて」の意です。すなわち、それは「いま」ないし「やがて」を起点にとることばでもあります。そして、それにちなんで、ここに、こういうことばを引いておきたいと思います。「『わたしのあとから一人の人が来られる。このかたは、わたしよりも先ににおられたから、わたしより優れておられる』とわたしが言ったのは、このかたのことである。わたしはこのかたを知らなかった。」『新約聖書』ヨハンネスによる福音1:30, 31講談社学術文庫)

 八の段がこう続きます。

 

 

 知るが生じるに先立つ条件は、すなわち〈わたし〉によって、かつ〈わたし〉に向けてである。後者は、みずからへと、知るについての問いを与える。そして、後者がその問いを引き取るのは、それとしてすっかり明らかな、見通しのきく元手、すなわち考えるからである。わたしたちが、みずからに、答えることのできない問いを立てるとしたら、その問いの内容は、すみずみまでは明らかでなく、はっきりしていないケースがありうる。問いを立てるのは、世でなくて、わたしたちみずからである。

 

 くりかえし一の文から見ていきます。

 

 知るが生じるに先立つ条件は、すなわち〈わたし〉によって、かつ〈わたし〉に向けてである。

 

 わたしが、とあるものか、とあることを知る、まさにその時は、先立って、〈わたし〉により、そのものか、そのことの覚えが迎えられており、さらに〈わたし〉に向け、そのものか、そのことの〈考え〉が尋ねられていればこそ、訪れてきます。もちろん、その迎える、ないし覚えるも、その向かう、ないし考えるも、わたしのする働きである前に、もしくは〈わたし〉の資産である前に、〈わたし〉において与えられてある働き、もしくは〈わたし〉の負債です。(「〈わたし〉によって」に当たるのはdurch das Ichであり、「〈わたし〉に向けて」に当たるのはfur das Ichであり、durchは英語のthroughに通じ、furは英語のforと通じあいます。すなわち、行く先を示すforです(5-d-3)。そして、行く先というのは、まさにいまここを起点にしてのことばです。また「むかし」は「ムカ(向)とシ(方向)の複合か」もしれません(岩波古語辞典)。いずれも小さなことばですが、なんと大きなこと、ないし、ものを指していることでしょうか。なお、それは、カントのDing an sich〈ものそのもの、ことそのこと〉のan sich〈そのもの、そのこと〉とのかねあいもあるようです。そして「負債」と「資産」もひとつの対ですが、それについては6-eの回を見てください。)

 二の文です。

 

 後者は、みずからへと、知るについての問いを与える。

 

 働きとしての向かう、ないし考えるは、する働きとしての向かう、ないし考える、ないし尋ねるへと、知るがいかなることかという問いをさしだします。その問いは、すなわち、考えるから、考える人へと、与えられます。(「与える」に当たるのはaufgebenであり、auf〈上へと〉geben〈与える〉というつくりで、「さしだす、引き渡す」といった意です。そして、そのことばから「課題Aufgabe」ということばもつくられます。なお、それについては、右にいう「負債」とのかかわりにおいて考えてみてください。)

 三の文がこう続きます。

 

 そして、後者がその問いを引き取るのは、それとしてすっかり明らかな、見通しのきく元手、すなわち考えるからである。

 

 知るがいかなることかという問いは、そもそもにおいて、考えるから考える人へとさしだされます。そして、考えるは、くまなく明らかに見通しがききます(三の章)。すなわち、その問いは、考える人へと与えられるにおいても、考える人が引き受けるにおいても、考える人に、なにごとかを強いることは、いささかもありません。(「引き取る」に当たるのはentnehmenであり、ent〈対して〉nehmen〈取る〉というつくりで、「引き出す、借りる」といった意です。そして、そのことばから「買い上げEntnahme」ということばもつくられます。なお、それについては、この章の七の段にいう「取り決めるabmachen」、さらにまた一の段にいう「引き受けるannehmen」とのかかわりにおいて考えてみてください。ちなみに「取るnehmen」は「与えるgeben」の対です。)

 四の文です。

 

 わたしたちが、みずからに、答えることのできない問いを立てるとしたら、その問いの内容は、すみずみまでは明らかでなく、はっきりしていないケースがありうる。

 

 わたしたちは問いをさまざまに有します。たとえば、行くべきところに行ってみなければ答えることのできない問いがあり、しかるべき時を待たなければ答えることのできない問いがあり、わたしたちのなりたちをさらになりたたせなければ答えることのできない問いがあり、さらには、どうしたって答えられっこないと、答えを諦めてしまっている問いがあります。その、答えを諦めてしまっている問いというのは、ほかでもなく、わたしたちによる想いをもとにしての、かりそめの考え、思いもうけ、思いなしによっています。そもそも、わたしたちは、これまでに知るという〈考え〉を、ありのままに定めつつ、知るの境は云々しようがないことを、ありありと見てとりました。そして、答えるのプロセスを止めるべく強いる、かりそめの考え、思いもうけ、思いなし(前回および前々回)は、さながら問いを曇らせる雲のごとくです。そして、その雲が消え去るにおいて、答えが見いだされます。その意味において、答えるのプロセスは、問いを、明らかに、はっきりと立ててゆくプロセスでもあります。逢うは別れのはじめとか言いますが、その伝で、答えるは、すでに問いはじめるところから始まっています。そして、なかでもひとつ、〈わたし〉がいかなるものであるかという問いこそは、問いという問いの要の問いです。そもそも、わたしたちにとって、覚えられるもののなぞのいちいち、生きられることのいちいちが謎となりますが(二の章)、なおかつ、わたしたちが、なにを、どのように生き、なにを、いかように謎とするかは、わたしたちのひとりひとりで異なっています。すなわち、そこには、わたしたちひとりひとりなりのなりたちがかかわっています。(なお「諦める」は「明らめる」から来ているそうですが、いうところの「諦める」は、わたしたちが、いわば闇雲にする「諦める」です。そして「謎」は「何ぞ」だそうですが、ともかく「謎」は「何ぞ」という人の対です。)

 そして、五の文です。

 

 問いを立てるのは、世でなくて、わたしたちみずからである。

 

 問いを立てるは、なにについてであっても、また、ものごとや、他人や、みずからによって強いられてであっても、なおかつ、わたしたち人のする働きです。そもそも、説き明かしを求めるのは、わたしたちです(二の章)。そして、なかでもひとつ、知るがいかなることかという問いこそは、わたしたちが、ものごとや、他人や、みずからによって強いられずに、みずからと語らい、みずからと取り決めて立てます。そうでないかぎりは、与えられたまま、ないし置かれた(七の段の四の文)ままであり、立ちはしません。すなわち、その問いは、人のひとりひとりが自由に立てますし、立てるも立てないも、わたしたちひとりひとりの自由です。そして、つまるところ、〈わたし〉がいかなるものであるかという問いは、知るがいかなることであるかという問いが、ひとりひとりによって立てられてこそ、ありありと問われ、明らかに答えが見いだされていきます。なお、この『自由の哲学Die Philosophie der Freiheit』という本は、一の章から七の章までがひとつのまとまりとして、「自由の知識Die Wissenschaft der Freiheit」というタイトルが付されています。こころみに、いまひとたび、一の章を振り返ってみてください。その章は、まさに自由について、まさに問いから起こされ、まさに問いに問いが重ねられつつ、そもそもなにを問うたらいいかが、だんだん明らかに、はっきりしてきます。そして、その答えは、その問いのプロセスを、まさにひとりひとりの読み手が、みずからと語らいつつ、みずからと取り決めつつ、親しく(愛をもって)辿るにおいてこそ、たわわに、深く、広く見いだしていきます。(なお、言うまでもありませんが、問いと答えもひとつの対です。さて、それにちなんで、ここに、こういう句を引いておきたいと思います。

 

 秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉 )

 

 そして、九の段です。

 

 わたしは、問いに答えようがない場合を考えることができる。どこかに記されている問いを見いだしたが、その問いの内容が取ってこられた領分を知らない場合である。

 

 いかがでしょう、その領分というのは、覚えと〈考え〉の重なり、すなわち想い、ないし思いの領分ではないでしょうか。はたして、ひとりひとりの他人(ひと)が、なにを、どう想っているか、ないし思っているかを、知ることの、または見てとることの、なんと難しいことでしょうか。まして、その想い、ないし思いを、記されていることから、さらには書かれている本から読みとることの・・・。ただし、そのことは難しくはあっても、見てとられないことでは断じてありません。つまり、知られないことでは決してありません。(なお「取ってくる」に当たるのはnehmenです。)

 

 さて、この回のお終いにも与謝野晶子の詩から、『恋』を引きます。

 

わが恋を人問ひ給ふ。

わが恋を如何に答へん、

譬ふれば小き塔なり、

礎に二人の命、

真柱に愛を立てつつ、

層ごとに学と芸術、

汗と血を塗りて固めぬ。

塔は是れ無極の塔、

更に積み、更に重ねて、

世の風と雨に当らん。

猶卑(なおひく)し、今立つ所、

猶狭(なおせま)し、今見る所、

天つ日も多くは射さず、

寒きこと二月の如し。

頼めるは、微なれども

唯だ一つ内なる光。