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略伝自由の哲学第七章b−2

 現実原理の歩みをさらに辿ります。すなわち、この回は七の章の十九の段からです。

 

 ナイーブなリアリズムが科学を打ち立てようとするにおいて、その科学は、覚えの内容を詳らかに述べることにおいてこそ視られよう。〈考え〉は、目的のための手段である。〈考え〉は、覚えに向けて理念としての対の相をつくりだすためにある。ものごとにとって、〈考え〉はなんの意味ももたない。ナイーブなリアリストにとって現実であるのは、視られる、ないし視られるであろうチューリップのいちいちのみであり、チューリップという理念は、ナイーブなリアリストにとって、抽象であり、リアルではない考えの相であり、こころがあらゆるチューリップに共通する特徴のかずかずを継ぎ合わせたものである。

 

 ちよっと説教くさくなりますが、仮に、ここまでのことをなかったことにして、つまり、この十九の段をぶっつけで読むとしたら、どうでしょうか。

 

〈考え〉は、ものごとを知るための手段であるまででしょうか。

 

〈考え〉は、覚えに向けて理念としての対の相をつくりだすためにあるのみでしょうか。

 

〈考え〉は、ものごとにとってなんの意味ももたないのでしょうか。

 

そもそも、述べるということは、〈考え〉なしでもできるのでしょうか。

 

それらの問いに対して、「はい」と答えて済ますでしょうか。それとも、「ちょっと待って」といって、「はい」とすんなり言えないのはなぜなのかを、考えてみるでしょうか。言い換えれば、みずからは、すっかりナイーブな学者でしょうか。それとも、ナイーブな学者にはなりきれないみずからを見いだすでしょうか。(「対の相」に当たるのはGegenbildであり、Gegen〈対する〉bild〈相(すがた)〉というつくりで、「想い」を指します。なお、それについては六の章を見てください。「つくりだす」に当たるのはschaffenであり、schopfen〈汲みだす〉からきて、「創出、創造、創作」といった意です。)

 

 現実原理の歩みを先取りしてしまうことになりますが、ここまでに、わたしたちは、ものごとがあるということ、もしくは現実ということについて、覚えつつ、考えつつ、ひとつのプロセスを辿り、こういうことを見てとりました。

 

〈考え〉は、覚えとともに、ものごとがリアルであることの元手であり(五の章)、

 

〈考え〉は、覚えとの重なりにおいて、もの相を相たらしめており(六の章)、

 

〈考え〉は、ものごとを知るということに欠かせないのはもとより、知るということのうちに、そもそもから含まれています(七の章の一の段から十二の段)。

 

 そして、科学が少なくてもものごとを知ることであるからには、覚えの内容を詳らかに述べることも、ひとつの手立てとしてすこぶる役に立ちますが、それとともに〈考え〉をふさわしく用い、考えるとふさわしくつきあうことが、そもそものこととして欠かせません。(「科学」に当たるのはWissenschaftであり、Wissen〈知っている〉schaft〈こと〉というつくりで、「学問、知識、報告」といった意です。「述べる」に当たるのはbeschreibenであり、be〈まさに〉schreiben〈記す〉というつくりで、「記述、叙述、描写」といった意です。なお、それについては二の章を見てください。)

 

 はたまた、現実原理の歩みに立ち戻って、たとえばチューリップというものでも、現実であるのは、いちいちのチューリップだけでしょうか。チューリップという理念は、

 

抽象であり、

 

リアルではない考えの相であり、

 

こころがあらゆるチューリップに共通する特徴のかずかずを継ぎ合わせたものである

 

きりでしょうか。それとも、その理念が、いちいちのチューリップを見るみずからにおいて、さらにはチューリップのいちいちにおいて、ものを言っていることに、多くであろうと少なくであろうと、とにかく気づいていますでしょうか。(「抽象」に当たるのはAbstraktumであり、ラテン語abstrahere〈引き抜く〉から来て、「抽象概念、抽象名詞」といった意です。「考えの相」に当たるのはGedankenbildであり、Gcdanken〈考えの〉bild〈相〉というつくりで、いわば、それとして覚えられた考えや、それとして覚えられた想いを指します。なお「相Bild」については、ことに4-b-3の回を見てください。「継ぎ合わせる」に当たるのはzusammenfugenであり、zusammen〈合わせて〉fugen〈嵌める〉というつくりで、「びたりと合わせる、組み合わせる、組み立てる」といった意です。それについては、ついでに7-a-1の回も見てください。ちなみに、「抽象」も「考えの相」も「継ぎ合わせる」も、わたしたちが考えるの助けをもってする働きによります。)

 

 ちなみに、なにやら自己批判めきますが、わたしは、時により、ものごとによりけり、ナイーブな学者です。つまり、ものごとにおいてものごとの理念がものをいっていることに、まったく気づいていなかったりします。たとえばチューリップの花束をもらって、花瓶に生け、ふさわしい場所に置く。そのことをどうということなくやってのけ、そのことにチューリップの理念がものをいっていることを、すっかり見落としていたりします。ましてやチューリップをつくづくチューリップだと愛でる折りなどは、ほとんどまれにしかありません。

 さきに進みましょう。二十の段がこう続きます。

 

 ナイーブなリアリズムは、覚えられるすべてが現実であるという、みずからの原則ともども、覚えの内容が移ろうものであることを教える経験によって駁される。わたしが視るチューリップは、今日はリアルであるが、一年の後には消え去って無となる。ものをいっているのは、チューリップという種である。その種は、しかし、ナイーブなリアリズムにとって、「ひとえに」理念であって、現実ではない。はたして、その世界観がみずからの立場としているのは、みずからにとっての現実がやって来ては消え去るのを視る立場であるが、かたや、みずからの意見に従えば現実ではないものが現実であるものに対してものをいっているのである。ナイーブなリアリズムは、すなわち、覚えと並んで、理念であるものをも立てざるをえなくなる。ナイーブなリアリズムは、ものごとのうちに、感官では覚えることのできないものをも受け入れざるをえなくなる。ナイーブなリアリズムは、感官では覚えることのできないもののあるのかたちを、感官の客のあるのかたちに準えて考えるによって、みずからと折り合いをつける。そうした仮に思い設けられたリアリティが、感官に覚えられるものとものが働きかわすさいの、目には見えない力である。そうしたものが、ひとつのものを越えて働きつづける遺伝であり、ひとつのものからそれに似た新たなものが繰り出し、種が保たれることの基である。そうしたものが、生きたからだに通う生命の原理であり、また、こころであり、つまりナイーブな意識の人が、つねに感官のリアリティヘの準えに従って見いだす、こころという〈考え〉であり、つまりは、ナイーブな人にとっての神というものである。その神というものの働き方は、人の慟き方として覚えられるところにまったく即して、すなわち擬人的に考えられている。

 

 さきほどは説教くさくなったり、自己批判めいたりしましたから、こんどは思いきって、はなから大上段に振りかぶってしまいます(ゴメンナサイ)。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。

 

 経験がわたしたちに教えるところ、覚えのいちいちは、やって来ては去り行きます。覚えの世は、まさに諸行無常です。逆に、諸行無常は、祇園精舎から、覚えの世へと、常に響いています。言い換えれば、諸行無常という法則ないし理念は、覚えのいちいちに、いつなりとも当てはまりますし、わたしたちが当てはめるまえに、覚えのいちいちにおいてものをいっています。(「経験」に当たるのはErfahungであり、Er〈まさに〉fahrung〈行くこと〉というつくりで、それなりの道筋を含むことばです。「原則」に当たるのはGrundsatzであり、Grund〈基に〉satz〈据えたこと〉というつくりで、「主義、教義、公理」といった意です。なお、それについては前の回を見てください。)

 

花の色はうつりにけりないたづらに

我が身世にふるながめせしまに

 

年々歳々花相似たり

歳々年々人同じからず

 

 花の色は移っても、花の種は移りません。桜の花は去年も桜の花として咲き、今年も桜の花として咲きました。同じく、わたしの身は変わっても、わたしは変わりません。わたしは、わたしが知るかぎり、これまでもわたしでしたし、これからもわたしでしょう。その意味においては、わたしも、花の種も、等しく理念です。すなわち、色や身が移りゆくのにひきかえ、理念がとどまり、そのつどの色や身においてものをいっています。はたして、その理念とは、どうつきあうのがふさわしいでしょうか。言い換えれば、その理念は、どのように受け入れ、どのように立てるのが、真っ当でしょうか。(「ものをいう」に当たるのはsich behauptenであり、sich〈みずからを〉be〈まさに〉haupten〈主要なものとする〉という言い回しで、「自己を主張する」の意です。「受け入れる」に当たるのはaufnehmenであり、auf〈上げて〉nehmen〈取る〉というつくりで、「収容、応対、採用」といった意です。なお、それについては、ことに7-a-3の回を見てください。「立てる」に当たるのはgelten lassenであり、gelten〈通用〉lassen〈させる〉という言い回しです。)

 

 さて、ここからは、できるかぎりチューリップのように、大上段に振りかぶることなく、自己批判めくことなく、説教くさくもなく、ものごとを、明るく、親しく、ありのままに述べていきたいと思います。種や法則の受け入れかた、もしくは理念とのつきあいかたとして、まずは、それを覚えられるところに準えて考えつつ、おそらくこうだろうと思い描くということがありました。いわば理念のうちへと覚えの内容をもちこむこと、言い換えれば仮説を立てることです。(「準えてanalog」については、前の回を見てください。「仮に思い設ける」に当たるのはhypothetisch annehmenであり、hypothetisch〈仮想、仮定として〉annehmen〈引き受ける、取り入れる〉という言い回しです。なお、それについては、ことに7-a-3の回を見てください。)

 

 たとえば、前の回に挙げられていた、かつての物理学の説で、物質が目に見えるのは、物質から、目をとおして、こころへと、かすかな、目には見えない物質が及ぶからであるというのも、それです。たとえば、また遺伝というのも、それです。そもそも「遺伝」というのは、親が子に家宝や財産や負債などを遺し、伝えることに準えて考えるところから、つくられたことばです。

 

 たとえば、また生命というのも、こころというのも、さらには神というのも、いうところの準えによって受け入れられ、立てられている例は、いくらでも見つかります。

 さらに進みましょう。二十一の段です。

 

 いまの物理学は、感官による感覚を、つまるところ、物体の最も小さな部位のプロセスと、エーテルといった果てしなく細やかな物質などの所為にする。わたしたちがたとえば熱として感覚するところは、熱を引き起こす物体が占める空間のうちにおける、その物体の部位のかずかずの動きである。ここでもまた、まことならざるものが、覚えられるものに準えて考えられている。感官をもっての準えによる「物体」という〈考え〉は、その意味において、たとえば、すっかり閉ざされた空間の内部であり、そこでは、弾む球のかずかずがあちこちに動きまわって、互いにぶつかりあったり、壁に当たって跳ね返ったりしている。

 

 いまの物理学においては、分子や原子や核など、いたって小さなものについて、あるいはまた宇宙という、いたって大きなものについて、さまざまな説が立てられています。そこにおいても、いうところの準えが、おびただしくなされています。それどころか、いまはデジタルなテクニックによって、いわば準えの準えがなされて、準えがますます無機的になりつつあります。たとえば、身近なところで、テレピの科学番組をみると、宇宙の仕組みや、からだの仕組みについて、パチンコの球みたいなのや、くねった紐のようなものや、凹や凸のかたちに似たものなどが、ピコピコ、クネクネ、コソコソ、動きまわっている画像が映し出されたりしますし、コマーシャルに移ると、頭痛薬や水虫薬や洗剤などの効き目が、同じような画像によって説き明かされたりします。そのように説き明かす学者はともかくとして、その頭痛薬を用いる人は、はたして、そんな光景が、いま、頭のなかで演じられていると、しんそこから思ったりしているのでしょうか。

 さて、二十二の段です。

 

 そうした思い設けを欠くと、ナイーブなリアリズムにとって、世はばらばらに崩れて、かかわりあいなく、重なりあいを欠いた、覚えのかずかずの寄せ集まりとなって、まとまりがつかないであろう。しかし、明らかなとおり、ナイーブなリアリズムがその思い設けに行き着くことができるのは、筋違いによってこそである。ナイーブなリアリズムが、覚えられるところこそが現実であるという、みずからの原理に、どこのまでも忠実であろうとするならば、なにも覚えられないところにおいて、なんらかの現実のものを思い設けることは許されない。覚えられない力が、覚えられるものごとから発して働くというのは、そもそものこと、ナイーブなリアリズムの立場からすると、真っ当ではない、仮の思いである。そして、ナイーブなリアリズムは、ほかのリアリティを知らないゆえ、その仮に思われた力に、覚えの内容を備えさせる。すなわち、ナイーブなリアリズムは、ひとつのあるのかたち(覚えがある)を、ひとえにそのあるのかたちについて云々するための手立てでは、つまり感官によって覚えるということでは埒があかない領分へと宛てがう。

 

 

 覚えられるものごとが現実であるとするかぎり、覚えられない現実を仮に思い設けることは、そもそもならできかねます。が、その仮に思い設けられた現実のほかには、世をなりたたせている現実のものが知られないゆえに、その仮に思い設けられた現実が、現実として立てられてきました。すなわち、覚えられないところが、覚えられるところに準えて思い設けられることによってです。(「筋違い」に当たるのはInkosequenzであり、In〈不〉 konsequenz〈首尾一貫〉というつくりで、「非論理、矛盾、不調和」といった意です。なお、それについては5-a-1の回も見てください。)

 

 またまた現実原理の歩みを先取りしてしまいますが、覚えがあるといい、考えがあるといいます。いまのわたしたちにとって、考えがあるのあるも、それなりにものをいってはいないでしょうか。いまのわたしたちにおいては、たとえば、わたしにも考えがありますということばが、ぎりぎりのところで吐かれたりもします。その「わたしにも考えがある」ことのリアリティにとっては、覚えられないところを覚えられるところに準えて思い設けることも、また、それをかつぎあげつつ、みずからを落としめたり、他を見下したりすることも、緑遠く、疎ましいことでないでしょうか。それよりも、いまのわたしたちは、自分で考えてみるということに重きを置いてはいないでしょうか。

 

 加えて、わたしたちは「自由の哲学」のここまでの道のりにおいて、

 

〈考え〉も、覚えられて知られる(三の章)

 

ことを見てとり、考えるの働きかけを、ありありと迎えてきました。〈考え〉は、感官によらずとも覚えられますし、考えるの明らかさは、感官による覚えの明らかさを、はるかに凌ぎます。

 

 現実原理の歩みを、さらに進みます。すなわち二十三の段です。

 

 その、矛盾を抱えた世界観が、メタフィジカルなリアリズムヘと行き着く。そのリアリズムは、覚えられるリアリティに並べて、覚えられないリアリティを組み立てる。つまり、その覚えられないリアリティを、覚えられるリアリティに準えて考える。よって、メタフィジカルなリアリズムは、必ずや二元論である。

 

 覚えられるものが現実であるとしながらも、覚えられない現実を、覚えられる現実に準えて考えつつ思い設ける。そうした矛盾を抱えた世界観が、その思い設けを富まし、研ぎすましてきました。しかし、その世界観は、その思い設けを、いかに富まし、いかに研ぎすまそうとも、矛盾を抱えていることには変わりありません。そして、その矛盾は、たとえば物質と精神の対立、からだとこころの対立、客と主の対立、現象と思考の対立といったかたちで表れました。すなわち、その精神は、思い設けであるゆえ、つまり物質に働きかけることがないゆえに、物質とどこまでも対立しますし、そのこころは、思い設けであるゆえ、つまりからだに重なることがないゆえに、からだとどこまでも対立しますし・・・。(「メタフィジカルな」に当たるのはmetaphysischであり、ギリシャ語 ta meta ta physika〈物理学ないし自然科学の背後にあるもの〉から来ているそうです。ちなみに、それは、アリストテレスが第一哲学と呼んだ著作が一世紀に編まれたとき、それに付されたタイトルだそうです。「形而上的」とも訳されます。「組み立てる」に当たるのはkonstruierenであり、ラテン語 construere〈積み重ねる、建てる、仕立てる〉から来て、「建造、構成、作図」といった意です。なお「働きかけWirkung」については、ことに5-c-lの回を、そして「重なりBeziehung」については、ことに6-aの回を見てください。)

 そして、二十四の段です。

 

 メタフィジカルなリアリズムは、覚えられるものごとのあいだに、ひとつの重なり(動きによって迫る、客が意識されるなど)を認めるにおいて、ひとつのリアリティを据える。しかし、その認めた重なりは、考えるによってこそ言い表わされるが、覚えられはしない。その、理念としての重なりが、覚えられるものと似たものへと、気ままに仕立てられる。その考える向きにとっては、現実の世が、とわになりつつあり、やって来ては消え去る覚えの客と、覚えの客を生みだしつつであり、留まるものである覚えられない力とから織り合わされている。

 

 わたしたちは、ここまでにおいて、さらにまた

 

ものとものとのかかわりというかかわり、ものとものとの重なりという重なりが、覚えられるところではなくて、まさに考えられるところである(四の章)

 

ことも見てとりました。しかし、現実原理の歩みにおける一歩としてのメタフイジカルなリアリズムは、まさにその覚えられるのではなくて、考えられるかかわり、重なりを、まさにそれが考えられ、覚えられないゆえに、覚えられるところをもとにして、手前勝手に考えてきましたし、その、覚えをもとにして覚えられないところを手前勝手に考える向きという向きが、覚えを生みだす覚えられない力をさまざまに思い設け、さまざまに立てつつ、互いに争ってきました。ときには命までかけてです。(「仕立てる」にあたるのはmachenであり、「為す、成す、作る」といった意です。「織り合わせる」に当たるのはzusammensetzenであり、zusammen〈合わせて〉setzen〈据える〉というつくりで、「構成、複合、混合」といった意です。なお「気ままにwilkurlich」については5-b-2の回を見てください。)