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略伝自由の哲学第七章c−1

 現実原理の歩みをさらに先へと辿ります。すなわち、人は、育つにつれ、ないし時が移るにつれ、なにをもって現実とするかということであり、現実は、育つ人にとって、ないし時代の歩みにおいて、なんであったか、なんであるか、なんであるようになるかということですが、ここまで、わたしたちは、まず、覚えられるということをもってあかし現実の証とするむき、すなわちナイーブなリアリズムに目を向けました。そのリアリズムは、考えを、現実にとってなんの意味もないものと見なします(7-b-1)。そして次には、覚えられるものに準えつつ、覚えられない現実を思いもうけるむき、すなわちメタフイジカルなリアリズムに目をむけました。そのリアリズムは、思いもうけるということにおいて考えを立てはしても、その考えを、思いもうけるための手立てとして操っています(7-b-2)。そして、この回においては、その思いもうけられるだけの仮の思いによるリアリズム、その考えだされるだけの仮の〈考え〉による現実論から、さらに先へと、現実原理の歩みを辿ることになります。すなわち、この回は七の章の二十五の段からです。

 

 メタフイジカルな現実論は、ナイーブな現実論と想念論との、矛盾を含んだ混ぜ合わせである。その論が仮に説く力は、覚えの質をもつ覚えられないものである。その論は、あるのかたちが覚えをひとつの手立てとして知られる世の領分のほかに、もうひとつ、その手立てが役に立たず、考えるによってこそ取りなされる領分を立てるというように、こころを決めている。しかし、その論は、それと同時に、考えるによって取りなされる有るのかたち、すなわち〈考え〉(理念)を、覚えとならぶ真っ当なファクターとして認めるというようには、こころを決めることができない。覚えられない覚えという矛盾を避けようとすれば、きっと、考えるによって取りなされる覚えと覚えの重なりにとっては、あるのかたちが〈考え〉というかたちの他にないということを、諾うことになる。メタフイジカルな現実論から真っ当ではないところを捨て去るなら、世が覚えのかずかずと〈考え〉としての(理念としての)重なりのかずかずの和として立つ。そのとおり、メタフイジカルな現実論は、覚えに向けては覚えることができるという原理、覚えと覚えのあいだの重なりに向けては考えることができるという原理を求める世界観へと行き着く。その世界観は、覚えの世と〈考え〉の世にならべて、三つ目の世の領分、すなわち、いわゆる現実原理と理想原理の二つの原理が同時に立つ領分を立てることはできない。

 

 メタフイジカルな現実論(リアリズム)は、矛盾を含みます。すなわち、その論は、覚えられないものを、覚えに準えて思いもうけるによって、覚えられるものであるかのように立てています。すなわち、その論は、覚えるによる覚えとともに、考えるによる〈考え〉をも立てますが、その〈考え〉を立てるのに、覚えをよりどころとしています。つまり、その論は、〈考え〉があるということを、覚えがあるということよりも、いわば取るにたらないことと見なしています。(思うところあって、この訳では「ひとつの原語にひとつの訳語を」というモットーをできるだけ貫こうとしていますが、ゴメンナサイ、そのモットーに背くことになりますが、これまで使ってきた「リアリズム」ということばを、ここで「現実論」ということばに言い換えます。そもそも、それに当たるのはRealismusであり、それについて独和辞典や哲学事典を引いてみると、「現実主義」「実利主義」「写実主義」「実在論」「実念論」といった語があげられています。)

 

 しかし、覚えるによって覚えがあることと、考えるによって〈考え〉があることでは、あるのかたちは違うもののも、あるということにおいては同じです。そもそも〈考え〉も覚えられるところです(3-b)。ただ、覚えを現実のフアクターとして認めることは、おのずからできますが、〈考え〉を現実のファクターとして認めるには、きっと、意識的にこころを決めることを要します。(「こころを決める」に当たるのはsich entschliessenであり、sich〈みずからを〉entschliessen〈開く〉というつくりで、「決心する」の意です。)

 

 とにかく、覚えられないのに覚えられるがごときものというのは、真っ当ではない思いであり、ちぐはぐな(筋の通っていない)考えに基づいています。その考えに気づき、その思いをさしおくならば、かならずや、覚えと覚えの重なりが、まさに〈考え〉であることを見抜くにいたりますし、そのことを諾うべく、こころを決めることができます。(「諾う」に当たるのはzugestehenであり、stehen〈(証言台に)立つ〉からきて、「・・・が真っ当であると証し立てる、・・・に譲る」といった意です。)

 

 そのとおり、メタフィジカルな現実論は、みずからが招いたみずからの矛盾に気づくところから、きっと、意識的に新たな一歩を踏み出すことになります。その意識は、覚えが覚えるによること、ならびに、覚えと覚えの重なりが〈考え〉であり、考えるによることを見抜いている意識です。その意識は、覚えと〈考え〉を、なんらかの思いもうけによって折り合わせるにはおよびません。言い換えれば、その意識は、〈考え〉の世と覚えの世に添えて三つ目の領分、いうならばナイーブな現実と理想的な現実がないまぜになるような領分を、立てるにはおよびません。そもそも、その意識にとっては、現実原理がそのまま理想原理です。(「現実原理Realprinzip」と「理想原理Idealprinzip」については、7-a-4の回を見てください。ちなみに「リアリズムRealismus」にさまざまな訳語があるように、また「イデアリズムIdealismus」にも「唯心論」「観念論」「理想主義」といった訳語がありますし、この訳ではそれに「想念論」という語を宛ててきました。それについては、ことに4-a-1と4-c-3の回を見てください。そして、そのようにひとつのことばに訳語がかずかずあるのは、ほかでもありません、ひとつのことばが、さまざまな時代のさまざまな人によって、さまざまに使われてきたからです。すなわち、それは、現実ということを、さまざまな時代のさまざまな人がさまざまに説いてきたことのしるしであり、つまりは、考えというものを、さまざまな時代のさまざまな人がさまざまに扱ってきたことのしるしです。)

 二十六の段です。

 

 メタフィジカルな現実論が、覚えの客と覚えの主とのあいだの理念としての重なりのほかに、もうひとつ、覚えの「ものそのもの」と覚えられる主の(いわゆるインディビジュアルな精神の)「ものそのもの」とのあいだのリアルな重なりが立っというように言い立てるにおいて、その言い立ては、覚えられないあるのプロセスを感官の世のプロセスに準えて思いもうけるという過ちに基づいている。さらに、メタフィジカルな現実論が、わたしの覚えの世をもっては、わたしが意識される理念としてのかかわりに到り、現実の世をもっては、わたしがダイナミックな(力の)かかわりにこそ到ることができると言うにおいても、さきの過ちに劣らない過ちをおかしている。力のかかわりを云々することができるのは、覚えの世(触覚の領分)の内においてのみであり、その外においてではない。

 

 たとえば、カントのいう「ものそのもの、ことそのこと」にしても(7-a-2)、覚えに準えて思いもうけられた、覚えられない現実です。

 

 さらにシヨーペンハウアーのいう「ダイナミックな(力の)」かかわりにしても(5-d-1)、考えだされただけで、覚えられないのに覚えられるがごとくに立てられた現実であり、いわば現実もどきです。

 

 そもそも、かかわりというかかわり、重なりという重なりは、覚えられるところではなくて、考えられるところです(4-a-4)。

 そして、二十七の段です。

 

 わたしたちは、右に述べた世界観、つまりメタフイジカルな現実論がその矛盾した元手を払い去って辿り着く世界観を、一元論と呼ぼう。なぜなら、それは、一面的な現実論を理想論とひとつに合わせて、より高い一重とするからである。

 

 覚えとともに〈考え〉を立てはするものの、覚えをもとにして、覚えられない、メタフィジカルな現実を思いもうける現実論から、その、筋が通っていない、真っ当ではない、メタフイジカルな現実の思いもうけをさしひきます。そこには、覚えと〈考え〉が残ります。そして、覚えと〈考え〉は、ともに等しく現実の元手です(5-c-1)。すなわち、覚えと〈考え〉が一重に合わさるにおいて、リアルなものごとがあります。そして、そのことの意識は、ただに覚えを立てる論(いわゆる現実論)と、ただに〈考え〉を立てる論(ここにいう理想論)をひとつに合わせて、まさにものごとを、ひとしお気高く立てる論(ここにいう一元論)を生みだします。(なお「理想論」というのも「唯心論」「観念論」「想念論」に同じく、「イデアリスムIdealismus」というひとつのことばの読み替えです。ドウゾヨロシク。また「一重Einheit」については、ことに二の章、および5-c-1の回を見てください。)

 さて、二十八の段です。

 

 ナイーブな現実論にとっては、現実の世が覚えの客の和であり、メタフィジカルな現実論にとっては、覚えのほかに、覚えられない力にもリアリティが認められ、一元論は、その力の代わりに、考えるによって得る、理念としてのかかわりを据える。しかし、そうしたかかわりは、自然法則である。自然法則は、ほかでもなく、〈考え〉として、覚えと覚えのかかわりを表わすものである。

 

 一元論にとって、現実は覚えと〈考え〉の重なりです。そのことを、またこうも言い換えることができます。一元論を奉じる者にとって、もののものものしさは、覚えと〈考え〉がともにものをいうことによって感じられるところであり、ことのことさらさも、また覚えと〈考え〉がともに与ることから感覚されるところであり、さらにまた、ものとものとのかかわりも、ことのがらも、理念として、考えるから得られるところです。そして、自然法則というのは、その理念のことでなくしてなんでしょうか。はたして、自然法則というのは、考えるによって明らかに得られる、まさに自然の理念でなくしてなんでしょうか。(「法則」に当たるのはGesetzであり、setzen〈置く〉から来て、いわば「置かれたもの」であり、「掟、戒律、法律、法則」といった意です。そして、そこにおいても、考えというものを、さまざまな人がさまざまな時代にさまざまに扱ってきたことが窺えます。)

 二十九の段です。

 

 一元論は、現実を説き明かす原理を、覚えと〈考え〉の外において問う境地には、決して到らない。一元論は、現実のどの領域にも、そうすることへのきっかけが見当たらないことを知っている。一元論は、覚えるによってじかに迎えられる覚えの世に、半分の現実を視て、その世と〈考え〉の世との合わさりにおいて、まるまるの現実を見いだす。メタフイジカルな現実論者は、一元論を奉じる者に対して、こういうものいいをつけもしよう。なるほど、あなたのなりたちにとってならば、あなたの知るがまったきことであり、一節たりとも欠けてはいないだろうが、しかし、あなたは、あなたのとは異なるなりたちをした知性のうちに世がどのように映っているかを、知ってはいない。一元論の答えは、こうである。人の知性とは異なる知性があり、その知性の有する覚えが、わたしたちの有する覚えと異なるつくりをもつとしても、わたしにとって意義を有するのは、その知性から、わたしへと、覚えると〈考え〉を通してやって来るところこそである。わたしは、わたしの覚えるにより、つまり固有な、人としての覚えるにより、主として客と対し合っている。ものごとのかかわりは、そのことをもって、途切れている。主は、考えるにより、そのかかわりを立て直す。そのことをもって、主は、みずからを世のまるごとへと、ふたたび組み込んでいる。わたしたちの主によってこそ、そのまるごとが、わたしたちの覚えとわたしたちの〈考え〉のあいだの場に断ち切れて現れるゆえに、また、その二つが一つに合わさるにおいて、まことの知るが与えられてある。異なる覚えの世をもつ者にとってならば(たとえば二倍の数の感官をもつ者にとってならば)、かかわりが異なる場において途切れて現れようし、よって、かかわりの立て直しも、その者に固有なつくりをもつであろう。ナイーブな現実論とメタフィジカルな現実論、こころの内容のうちに世を理念として代表するもののみを視る、その二つの論にとってこそ、知るの境についての問いが立つ。すなわち、その二つの論にとっては、主の外にあるところが、絶対のもの、それそのものに基づくものであり、主の内容が、その絶対のものの、どこまでも外にあるものの相である。知るのまったきは、相が絶対の客に多く似ているか少なく似ているかに基づく。感官の数が人より少ない者なら、世を少なく覚えようし、感官の数が人より多い者は、世を多く覚えよう。それゆえ、前者は、後者よりも、まるまるではない知るを有するであろう。

 

 繰り返し、はじめの文から見ていきます。

 

 一元論は、現実を説き明かす原理を、覚えと〈考え〉の外において問う境地には、決して到らない。

 

 一元論は、覚えが覚えるによること、覚えと覚えのかかわりが〈考え〉であり、考えるによること、そして、ものごと、もしくは現実が覚えと〈考え〉の重なり合いであることを知っています。言い換えるならば、現実、もしくはものごとを説き明かすにつき、覚えと〈考え〉のほかに(つまりは思いのうちに)なにかを探し求める(つまりは思いもうけにかまける)というのは、一元論の境地とはどこまでも異なる境地です。(「境地」に当たるのはLageであり、liegen〈横たわる〉からきて、もともとは「待ち伏せる」ことだそうであり、「位置、地勢、状態、姿勢、境遇、立場」といった意です。)

 二の文です。

 

 一元論は、現実のどの領域にも、そうすることへのきっかけが見当たらないことを知っている。

 

 わたしたちにとって、じかに与えられているのは、覚えと〈考え〉であり(5-e)、その覚えと〈考え〉は、わたしたちに、そのほかのなにかを探し求めるきっかけを与えません。それを探し求めるとしたら、ほかでもなく探し求めるその人の都合(つまりはその人の思い)からです。(「きっかけ」に当たるのはAnlassであり、anlassen〈そのままにまかせる、始動させる〉から来て、「原因、動機、機会」といった意です。)

 三の文です。

 

 一元論は、覚えるによってじかに迎えられる覚えの世に、半分の現実を視て、その世と〈考え〉の世との合わさりにおいて、まるまるの現実を見いだす。

 

 覚えと〈考え〉は、わたしたちにとって(もしくは思いをさしおく境地において)、覚えることと考えることへのきっかけとなるまでです。言い換えると、わたしたちにとって、ものごと、ないし現実は、たんに覚えのみでも、たんに〈考え〉のみでも、まるまるではなく、覚えと〈考え〉が重なり合うことをもって、いよいよまるまるになります。(「まるまるの」に当たるのはvollであり、英語のfullに通じて、「ふくよかに満ちた、豊かにつまった、まったき」といった意です。)

 四の文です。

 

 メタフィジカルな現実論者は、一元論を奉じる者に対して、こういうものいいをつけもしよう。なるほど、あなたのなりたちにとってならば、あなたの知るがまったきことであり、一節たりとも欠けてはいないだろうが、しかし、あなたは、あなたのとは異なるなりたちをした知性のうちに世がどのように映っているかを、知ってはいない。

 

 メタフィジカルな現実論(もしくは思いもうけにかまける境地)からは、わたしたちのなりたちとは異なるなりたちにおける、わたしたちの知るのつくりとは異なるつくりを、あれこれと思い描くことも、好んでなされるでしょう。(「まったき」に当たるのはvollkommenであり、voll〈まるまるに〉kommen〈到った〉というつくりで、「円満、豊満、完全」といった意です。)

 五の文です。

 

 一元論の答えは、こうである。人の知性とは異なる知性があり、その知性の有する覚えが、わたしたちの有する覚えと異なるつくりをもつとしても、わたしにとって意義を有するのは、その知性から、わたしへと、覚えると〈考え〉を通してやって来るところこそである。

 

 わたしたちとはなりたちが異なる者を思い描いてみても、わたしたちがわたしたちならではのなりたちを有していることには変わりありません。その者の知るのつくりを、わたしたちが知るとしても、やはり、わたしたちならではの知るによってです。つまり、わたしたちにじかに与えられる覚えと〈考え〉によってです。

 六の文です。

 

 わたしは、わたしの覚えるにより、つまり固有な、人としての覚えるにより、主として客と対し合っている。

 

 わたしが有する人のなりたちのゆえに、ひとつのまるごとが、覚えと〈考え〉のふたところに分かれます(二の章)。言い換えれば、わたしが覚えの主として覚えの客と対し合います。

 七の文です。

 

 ものごとのかかわりは、そのことをもって、途切れている。

 

 わたしが有する人のなりたちのゆえに、覚えは、さしあたり、〈考え〉なしで現れます(5-c-1)。言い換えれば、覚えの主であるわたしにとって、覚えの主と覚えの客のかかわり、覚えの客と覚えの客のかかわりが、さしあたり途絶えます。

 八の文です。

 

 主は、考えるにより、そのかかわりを立て直す。

 

 ひとたび途絶えた主と客のかかわり、客と客のかかわりが、主の考えるにより、主と客、客と客に、ふたたび重ね合わされるにおいて、主と客のかかわり、客と客のかかわりが、立て直されます。九の文です。

 

 そのことをもって、主は、みずからを世のまるごとへと、ふたたび組み込んでいる。

 

 主と客のかかわり、客と客のかかわりが立て直されることをもって、主と客がひとつのまるごとのうちに新たに納まつています。

 十の文です。

 

 わたしたちの主によってこそ、そのまるごとが、わたしたちの覚えとわたしたちの〈考え〉のあいだの場に断ち切れて現れるゆえに、また、その二つが一つに合わさるにおいて、まことの知るが与えられてある。

 

 すなわち、わたしたちのなりたちは、一つのまるごとを覚えと〈考え〉の二つに分かち、わたしたちの知ると、わたしたちにとってのまことは、覚えと〈考え〉が合わさるにおいて生じ、わたしたちの知るのつくりと、わたしたちにとってのものごとの相は、覚えと〈考え〉の合わさりが覚えの主のする働きによって生じるゆえに、出て来ます。

 十一の文です。

 

 異なる覚えの世をもつ者にとってならば(たとえば二倍の数の感官をもつ者にとってならば)、かかわりが異なる場において途切れて現れようし、よって、かかわりの立て直しも、その者に固有なつくりをもつであろう。

 

 そのように思いもうけることもできるはずですが、それは、メタフイジカルな現実論にとって、こころがそそられない思いもうけでしょう。なぜなら、それは、人のなりたちと、人の知るのつくりに、あまりにも即しているからです。

 十二の文です。

 

 ナイーブな現実論とメタフイジカルな現実論、こころの内容のうちに世を理念として代表するもののみを視る、その二つの論にとってこそ、知るの境についての問いが立つ。

 

 「世は覚えである」とするナイーブな現実論と、「世は想いである」とするクリティカルな想念論(4-c-1~5-a-2)、および、その二つの論をないまぜにしているメタフィジカルな現実論は、こころの内へ、もしくは主の内へと萌す〈考え〉が、なおかつ、こころの外に、もしくは客に属していること(5-b-l~5-b-2)を、見落としています。そして、それゆえにこそ、主が迎える客の相、こころが抱く客についての想いを、疑わしく思い、主と対し合う客のほかに、そもそもの客、覚えられない客を思いもうけて、そのいかなるかを問うことになります。

 そして、十三の文から十六の文です。

 

 すなわち、その二つの論にとっては、主の外にあるところが、絶対のもの、それそのものに基づくものであり、主の内容が、その絶対のものの、どこまでも外にあるものの相である。知るのまったきは、相が絶対の客に多く似ているか少なく似ているかに基づく。感官の数が人より少ない者なら、世を少なく覚えようし、感官の数が人より多い者なら、世を多く覚えよう。それゆえ、前者は、後者よりも、まるまるではない知るを有するであろう。

 

 ナイーブな現実論とメタフィジカルな現実論が思いもうける、そもそもの客は、そもそも人の知りえない客であり、その客についての問いは、つまるところ答えのない問いであり、それを問うこころは、どこまでも満たされることがありません。せいぜいのところ、そのそもそもの客を絶対のものとして担ぎ上げつつ、思い上がり、そこから、わたしのほかの主を見下し、わたしのほかの主が迎える客を見下しつつ、憂さをはらすか、または、こころの抱く想いがそもそもの客に似ているか似ていないかを云々しつつ、知るの優劣を競うかして、かりそめの満ち足りを得るまでです。

 そして、三十の段です。

 

 一元論にとっては、ことのがらが異なる。覚える者のなりたちによって、世のかかわりが主と客に分かれて現れる場のつくりが定まる。客は、絶対のものではなく、ただに、その定かな主との重なりにおける、相対のものである。それゆえ、対し合いへの橋渡しも、まったく固有な、まさに人としての主ならではの仕方でこそなされる。覚えるにおいて世から分かれている〈わたし〉が、考えつつ見てとるにおいて、ふたたび、世のかかわりへと、みずからを組み込むや、分かれていることからこそ来ていた問いが、ことごとく止む。

 

 わたしは、わたしのなりたちにより、たとえば語るということを客として、いいかえれば謎として迎えます。その迎えかたは、わたしなりに定かな迎えかたです。わたしの客は、まさにわたしが迎えなければ客となりまん。わたしの迎える謎は、だれよりもわたしにとっての謎です。そして、わたしは、語りつつ聴き、聴きつつ語って、いよいよこれという語り、これという考えを見いだします。ソウカ!ソウダッタノカ!!ということばが思わずもれます。ほかでもなく、わたしの口からです。そして、主と客がもとのまるごとのうちに新たに納まっています。すなわち、わたしが満ちたりていますし、語るということがありありとリアルに、みずみずしく、親しくなっています。ヨシ!コレデキマリダ!コレデイコウ!!

 

 この回のお終いは三木露風の詩から『短唱』を引きます。

 

林の中の水の音、

聞きに来るとはなけれども、

林の中の水の音、

聴けば、心が慰まる。