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略伝自由の哲学第七章b−1

 この回はナンバーを7-aから7-bにあらためて、七の章の十三の段からです。

 

 その現実原理を、ひとたび、まぢかに観てみよう。ナイーブな人(ナイーブなリアリスト)は、外の経験の対象を現実と見てとる。そのものを手でつかむことができ、目で視ることができるというのが、その人にとって現実の証である。「覚えられないものは、存在しないものである」というのが、そのままナイーブな人の第一公理と見なされようし、それを逆にして「覚えられるものは、存在するものである」というのも、同じく是りと認められよう。その言い立ての最たるしるしは、ナイーブな人の、不死や霊への信である。その人は、こころが細やかな、感官によって覚えられる物質であり、ことさらな条件のもとでなら、並の人にとってさえ目に見えるようになると思いなす。(ナイーブな、幽霊への信)

 

 いまひとたび、はじめの文から見ていきます。

 

 その現実原理を、ひとたび、まぢかに観てみよう。

 

 これまで、わたしたちは、覚えと考えをありていに見てとりながら、ものごとを知るということが、覚えと考えが一つに重なることであり、ものごとがあるということ、もしくは現実というものが、覚えと考えの一重(ひとかさ)なりであることを、かさねがさね明らかにし、それを現実の原理として引き立てました。ここからは、ものごとが一通りではないこと、現実の原理が、ナイーブに始まる一つのプロセスを経ながら、いよいよふさわしく引き立てられるにいたることを、つぶさに見ていきます。(「まぢかに」に当たるのはnaherであり、nah〈近い〉の比較級で、「より身近に、より詳しく」といった意です。それについては4-c-2の回も見てください。「観る」に当たるのはanschauenであり、an〈ついて〉schauen〈観る〉というつくりで、「直観する、観照する」といった訳もあります。それについては4-c-1の回も見てください。なお「原理Prinzip」については、3-fおよび7-a-4回を見てください。)

 二の文です。

 

 ナイーブな人(ナイーブなリアリスト)は、外の経験の対象を現実と見てとる。

 

 いうところのナイーブさは、わたしたちのありようとして、外に対する内ということを、見落としているか、ないがしろにしているありようです。言い換えれば、外を見てとっていながら、見ていることは意識していても、とっていることは意識していないありようです。(なお「ナイーブなnaiv」については、4-b-2の回を、「見てとるbetrachten」については、3-b, 4-b-4の回を見てください。)

 三の文です。

 

 そのものを手でつかむことができ、目で視ることができるというのが、その人にとって現実の証である。

 

 言うまでもありませんが、目に見えるもの、手でつかめるものについてならば、しっかり目で視るなり、しっかり手でつかむなりして、それが夢か現か幻かを確かめることができます。手でつかむこと、目で視ることは、その意味においてなら、現実の、まっとうな証です。たとえば幼い子が目にするものを手でつかみ、口に運ぶことから、たとえば年寄りじみた人が「幽霊の正体見たり枯雄花」とよむにいたるまで・・・。(「証し」に当たるのはZeugnisであり、ziehen〈(法廷へ)引く〉からきて、「証言、証拠、証明書」といった意です。)

 四の文です。

 

 「覚えられないものは、存在しないものである」というのが、そのままナイーブな人の第一公理と見なされようし、それを逆にして「覚えられるものは、存在するものである」というのも、同じく是りと認められよう。

 

 いうところのナイーブな人は、ひとえに、目、耳鼻口、手など、からだによる覚えが現実の証であるという考えを立てている人です。ただし、その人は、その考えがまさに考えであることに、ほとんど気づいていません。これまた言うまでもありませんが、念のため付け加えると、わたしもときどきナイーブな人です。(「公理」にあたるのはAxiomであり、ギリシャ語axiomaから来て、「絶対的に正しいと認められる、つまり証明を要しない命題」のことだそうです。「是りと認める」に当たるのはanerkennenであり、an〈ついて〉er〈まさに〉kennen〈知る〉というつくりで、「是認、承認、認知」といった意です。)

 さて、五の文です。

 

 その言い立ての最たるしるしは、ナイーブな人の不死や霊への信である。

 

 からだによる覚えこそが現実の証であるという考えが、あらわにものをいっていることを、なによりも証し立てるのは、死の後に霊があるといように、なんとなく信じる人、または、さしたるわけもなしに堅く念う人がいることです。(「しるし」に当たるのはBeweisであり、be〈まさに〉weisen〈示す〉から来て、「立証、実証、証拠」といった意です(5-a-1)。「信」に当たるのはGlaubeであり、いうならば強い念い〈Meinung〉であり、考えのひとつのかたちです。なお「霊Geister」と「精神Geist」とは、はっきり使い分けられています。すなわち、一の章に引かれているヘーゲルの、こういうことばの意味においてです。「こと考えるが、獣ともどもに授かるこころを、精神に仕立てる。」)

 六の文です。

 

 その人は、こころが細やかな、感官によって覚えられる物質であり、ことさらな条件のもとでなら、並の人にとってさえ目に見えるようになると思いなす。(ナイーブな幽霊への信)

 

 すなわち、死の後の霊へのナイーブな信は、その霊がそれなりの条件のもとでなら、だれの目にも見えるようになるとか、ときどきの写真にも映るとかいった信でもあります。はたして、死んだ人の霊が写真に映るのならば、生きている人の精神やこころだって映ってもよさそうなものですが。(←でも、あんた、心霊写真とかいって、ぎょうぎょうしく見せられるのは、きもい顔とか、歪んだからだだけですから、ザンネーン!!)そもそも、いうところのナイーブさは、外に対する内を、つまり、こころと精神を見落とすか、ないがしろにして、外、からだによる物質の覚えをこそ、現実の証と思いなしている人のありようです。(「幽霊」に当たるのはGespensterであり、spanen〈誘く、魅せる〉から来て、「亡霊、死霊、霊魂」といった意です。)

 十四の段です。

 

 ナイーブなリアリストにとって、その人の現実の世に引き換え、ほかのすべて、わけても理念の世は、現実でなく、「ただの理念で」ある。わたしたちが対象につき考えて加えるところは、ものについての、ただの考えである。考えは、覚えへと、いささかもリアルなところを付け加えない。

 

 外の対象こそが現実であると考える人は、内の対象、こころというもの、ないし意欲、情、ことに考えというものを、ものの数には入れていません。そこからまた「ただの考え」ということばを「非現実」の意で用いたりもします。(「理念で」に当たるのはideellであり、ギリシャ語idea〈現れ〉から来るIdee〈理念〉の形容詞形です。なお、それについては4-a-1の回も見てください。)

 

 すなわち、ナイーブなリアリストの考えに従うなら、ものの覚えへと、考えるから付け加わる考えは、ただの考えであり、ものがあるということにいささかもかかわってはいないと信じることにもなります。(「・・・ついての」に当たるのはuberであり、いわば「·・・に属さず、・・・の上に浮かんだ」の意です。なお「uber」については、ことにの6-a回を見てください。)

 十五の段がこう続きます。

 

 しかし、ナイーブな人が感官による覚えを現実の唯一の証と思いなすのは、ものがあるということについてのみでなく、ことが生じるということについてもである。その人の見解に従えば、ひとつのものがもうひとつのものに働きかけることができるのは、感官による覚えにとって存在する力がひとつのものから及んで、もうひとつのものをとらえるにおいてである。かつての物理学は、ごく細やかな物質が、物体から流れ出て、わたしたちの感官を通り、こころに浸み透ると信じた。その物質をまさに視ることは、その物質の細やかさに対する、わたしたちの感官の粗さのゆえに、できない。原理の上では、その物質が現実とされたが、それは、感官の世における対象が現実とされるのと同じ理由からであり、すなわち、感官にとっての現実に準えて考えられた、その物質のあるのかたちの故である。

 

 ナイーブなリアリストは、ものについてのみでなく、ことについても、現実の証は、からだによる覚えであると考えています。ただし、その人は、その考えもまさに考えであることにも、ほとんど気づいてはいません。(「ことが生じる」に当たるのはGeschehenであり、geschehen〈生じる、起こる、出来る〉という動詞を、そのまま名詞にしたかたちです。なお、そのことばについては3-eや6-bの回も見てください。)

 

 たとえば、いま、わたしの机の上に灰皿があります。それに指でふれ、かすかに押す力を加えると、かすかに逆らう力が覚えられます。さらに力を加えると、逆らう力も強まり、ついには押す力が勝って、灰皿が動きだします。

 

 たとえばまた、机の傍らには小さな本棚があり、本が並んでいます。本棚には、さぞかし力がかかっているでしょうが、その力を、わたしは覚えているのではく、考えています。その力を覚えるには、わたしが本か本棚の下敷きになってみなければなりません。

 

 さらに、かつての物理は、ものが目で見えるということも、ものから目を通してこころへと、かすかな物質が及び入るからであるというように考えたとのことです。その物質は覚えられません。そして、覚えられないのは、その物質がかすかすぎるからである、というのがかつての物理学の考えであるとのことです。その考えは、たとえばものを押すなどして覚える物理的な力の覚えを手本にして考えだされた考えです。(「細やかfein」と「粗いgrob」については6-cの回も見てください。「準えて」に当たるのはanalogであり、analogosというギリシャ語からきて、「相応、相似、類似」といった意です。ついでに「デジタルdigital」はラテン語digitus〈指で数える、その指〉から来ているそうです。)

 さらに、十六の段です。

 

 理念として生きられるもののものたるところは、ナイーブな意識にとって、感官によって生きられるものと同じ意味で現実として立てられているのではない。「ただの理念」としてつかまれる対象は、感官による覚えによって現実の確かな証が供されるまでは、ただの幻想として立てられるのみである。ナイーブな人は、要するに、理念としての、考えるの証に加えて、感官のリアルな証を求める。そのナイーブな人の要求のうちに、顕れへの信のプリミテイブなかたちが生じる基がある。考えるによって与えられてある神は、ナイーブな意識にとって、どこまでも「考えられた」神のままである。ナイーブな人は、感官によって覚えられる手立てでもって知らせが与えられることを求める。神は、きっと、からだをもって現れ、人は、考えるの証にほとんど重きを置かず、たとえば、神であることが、水を酒に変えるといった、感官で確かめられることによって証し立てられることにこそ、重きを置く。

 

 くりかえし、はじめの文から見ていきます。

 

 理念として生きられるもののものたるところは、ナイーブな意識にとって、感官によって生きられるものと同じ意味で現実として立てられているのではない。

 

 「覚えがある」「考えがある」といいます。また「覚えというもの」「考えというもの」といいます。そう言うことができるのは、わたしたちが、覚えに対し合い、考えに対し合うにおいてです。すなわち、わたしたちは、覚えをも、考えをも、同じく対象とすることができます。(たとえば「理念Idee」「公理Axiom」「原理Prinzip」「命題Satz」なども、考えを指すことばであり、わたしたちが考えと対し合えばこそ用いることができることばです。)

 

 そして、わたしたちは、覚えと考えとに対し合うばかりか、覚えと考えとを取り立てもします。しかし、わたしたちは、覚えというものと、考えというものとを、同じく取り立てているとはかぎりません。そして、いうところのナイーブな意識は、ひとえに覚えというもののみを取り立て、考えというものをなおざりにしている意識です。(「もののものたるところ」に当たるのはin sich ruhende Wesenheitであり、sich〈それそのものの〉in〈うちに〉beruhend〈基づく〉Wesenheit〈ものであること〉という言い回しです。なおruhen〈基づく〉は、ruh〈安らかな、静かな〉から来ています。それについては3-b, 3-cの回を見てください。またWesenheit〈ものであること〉については、ことに4-a-3, 5-c-2, 6-d, 7-a-1の回を見てください。)

 二の文です。

 

 「ただの理念」としてつかまれる対象は、感官による覚えによって現実の確かな証が供されるまでは、ただの幻想として立てられるのみである。

 

 覚えというものをのみ取り立てる意識にとって、考えというものは、はかなく、虚ろに立てられるのみであり、さながら幻のごとくです。考えがなんの役に立つのか、考えてなんになるといったことばが吐かれるのも、おうおうにしてその意識からです。その意識にとっては、「ただの考え」ということばが「非現実」の意であり、「ただの理念」ということばが「幻想」の意となります。(「つかむ」に当たるのはfassenであり、「とるnehmen」や「とらえるgreifen」などとともに、わたしたちのする精神の慟きです。それについては、ことに2および7-a-1の回を見てください。「確かな証」に当たるのはUberzeugungであり、Uber〈重ねての〉zeugung〈証〉というつくりで、「説得、確証、確信」といった意です。「幻想」に当たるのはSchimareであり、ギリシャ語のchimairaから来て、「幻像、妄想」の意です。)

 三の文です。

 

 ナイーブな人は、要するに理念としての、考えるの証しに加えて、感官のリアルな証を求める。

 

 とにかく、ひとえに覚えというもののみを取り立てる人は、なにかを明らかに考え、なにかが明らかに分るだけでは満ち足りずに、そのなにかを目で見るなり、手でつかむなりして満ち足ります。言うまでもありませんが、その満ち足りは、ほかでもなく目に見え、手でつかむことができるものごとについてなら、まつとうな満ち足りです。たとえば梅干しを知らない人には、梅干について話を聞いてもらうよりも、梅干しを目で視てもらい、舌で味わってもらうのがなによりです。いわゆる体験学習の理念であり、方針や命令であったりもします。

 さて、四の文の文です。

 

 そのナイーブな人の要求のうちに、顕れへの信のプリミティブなかたちが生じる基がある。

 

 梅干は梅干でも、手塩にかけ、こころをこめ、愛をこめて漬けたものがあります。その手塩、こころ、愛は、目に見えているのではなく、さながら目に見えているがごとくです。言い換えれば、しみじみと感じられ、ありありと考えられています。しかし、ナイーブな意識は、その「手塩」「こころ」「愛」を、目に見えているというように取り違えることにもなります。言い換えれば、こころに現れるもの(感じや考え)も、からだの感官に現れるもの(覚え)と思いなすことにもなります。(「顕れ」に当たるのはOffenbarungであり、Offen〈オープンに〉bar〈なりうる〉ung〈こと〉というつくりで、「顕現、啓示、 黙示」といった意です。なお、いうところのOffen 〈オープンな〉は、いってみるなら「ありありとあらわれでているさま」を言います。また「プリミティブ primitiv」というのは、いわば始まりの意でもあり、その先があるということでもあります。)

 五の文です。

 

 考えるによって与えられてある神は、ナイーブな意識にとって、どこまでも「考えられた」神のままである。

 

 ひとえに覚えというもののみを取り立て、引き立てて、考えというものをないがしろにし、遠ざける意識においては、考えというものが、富むことも、深まることも、広がることもありません。神や愛について考えるとしても、その神や愛は、やはり「考えられた」もの、つまり非現実であるままです。

 六の文です。

 

 ナイーブな人は、感官によって覚えられる手立てでもって知らせが与えられることを求める。

 

 ナイーブな人は、感官による覚え(物質とからだ としての現れ)と、こころにおける覚え(感じや考えの現れ)を取り違えるところから、こころに おける覚えについても、感官の覚えによる現実の証を求めることにもなります。

 七の文です。

 

 神は、きっと、からだとして現れ、人は、考えるの証にほとんど重きを置かず、神であることが、水を酒に変えるといった、感官で確かめられることによって証し立てられることに重きを置く。

 

 ナイーブな人は、たとえば福音書のなかでも、イエスが水を酒に変えたといったことにこころをそそられることになります。しかしまたキリストは、見なければ信じないと言いはるトマスに現れて、「わたしを見たから信じたのか、見ないで信じる人は、幸いである」とも言っています(「ヨハンネスによる福音」20:29『新約聖書』講談社学術文庫)。まさに考えてみてしかるべきことばではないでしょうか。そもそも、ここ二千年、イエスを目で見たという人はいないようですが、おびただしい人がキリストについて語ってきました。(「証し立てる」に当たるのはerweisen であり、er〈する働きをもって〉weisen 〈示す〉というつくりで「実証、表明、判明」といった意です。) 

 十七の段です。

 

 知るということにしても、ナイーブな人は、感官のプロセスに準じたことと思いなす。ものごとすがたがこころに印象を与えるとか、ものごとが相を放ち、それが感官とおして入ってくるとかである。

 

 そもそも、外に対する内ということを忘れているか、ないがしろにしている人は、外と内のかかわりについても、外が内へと印されるとか、外から内へとなにかがやってくるといった、からだが属する物質の世のプロセスに倣って思いもうけることにもなります。(それについては、ことに6-aの回を見てください。)

 

 そして、ここまでのことが、こうまとめられます。すなわち、十八の段がこうあります。

 

 ナイーブな人は、感官によって覚えられるところを、現実と見なし、そのような覚えが得られないもろもろ(神、こころ、知るということなど)を、覚えられたものに準えて思いえがく。

 

 さて、この回の終わりには、草野心平の「聾のるりる」から、大いなるナイーブなことばを引きます。大いに考えてみてください。

 

うごく光は。

ほたるさん。

動かないのは。

おほしさん。