· 

略伝自由の哲学第七章c−2

 なにをもって現実とするか、すなわち現実原理を巡って、前の回においては、ものごとのほかに、いわば真のものごととして、ものそのものというもの、ことそのことということを、覚えに準えて思いもうけつつ云々する、すなわちメタフィジカルな現実論から、ものごとが、覚えと〈考え〉という二つの元手の重なり(五の章)であるのを見抜きつつ云々する、すなわち一元論へと歩を進めました。さて、この回においては、その二つの論の違いを、さらに踏み込んで見ていきます。すなわち、この回は七の章の三十一の段からです。

 

 異なるありようをした者ならば、異なるありようをした知をもつであろう。わたしたちの知は、わたしたちという者によって立てられた問いに答えるのに、じゅうぶん間に合う。

 

 わたしたちとは異なるありようをした者、いわゆる神とか霊、あるいはアメーバーやバクテリアが、どのようにして世を知るのかということを、あれこれと思いめぐらすかわりに、とにもかくにもひとりの人として、みずからのなりたちと、みずからのする働きとを意識してとらえてみるにおいては、きっと、こういうことが言えます。そもそも、問い、ないし謎は、迎えると向かうという、みずからの二重のなりたちによって、ものごとが覚えと〈考え〉という二つの元手に分かれるにおいて生じ、答え、ないし解は、みずからがその二重のなりたちを釣り合わせるによって、その二つの元手が重なり合い、ものごとがまさしくリアルなものごととなるにおいて得られます。(7-a-1~7-a-4)

 三十二の段です。

 

 メタフイジカルな現実論は、きっと、こう問う。覚えとして与えられるものは、なにによって与えられ、主は、なにによって刺激されるのか。

 

 〈考え〉を主によるものと見なし、現実の元手のひとつと認めることができない論は、もうひとつの元手である覚えをもとにして、覚えの向こうにあるもの、もしくは覚えの主に働きかけてくる覚えられない客を問うことになります。その問いがみずからの思いもうけによっていること、および、その思いもうけが「覚えられないのに覚えられるがごとき客」という矛盾を含んでいることには、いささかも気づくことなく・・・。(7-b-1~7-b-2)

 三十三の段です。

 

 一元論にとって、覚えは主によって定まっている。しかし、主は同時に考えるにおいて、主によって呼び出された定かさを、ふたたび捨て去る手立てを有する。

 

 なるほど、覚えは、覚えの主によって、それなり定かに迎えられています。しかし、覚えの主が、覚えに向かうにおいて、覚えの定かさが、ほかでもなく考えるから改まります。そもそも、主と客はひとつの対であり、言い換えれば相対的であり、考えるはその対を超えてあり、言い換えれば絶対的です。まさにその考えるから、わたしは、みずからによる覚えの定かさに縛られることなく、その定かさを新たに定めることができます。(7-c-1)

 さて、三十四の段です。

 

 メタフィジカルな現実論は、ひとりひとりの世の相がたがいに似ているということを説き明かそうとして、さらなる難題を前にする。その現実論は、きっと、こう問う。わたしが、わたしの、主によって定まる覚えと、わたしの〈考え〉とから築き上げる世の相と、ほかのひとりが、その同じ二つの、主によるファクターから築き上げる世の相が、どうしてたがいに同じようであるのか。いったい、わたしは、わたしの、主による世の相から、ほかの人の世の相へと、どうして繋がりをつけることができるのか。人と人が実際にはたがいの代わりをつとめるということから、メタフイジカルな現実論者は、人と人の、主による世の相がたがいに似ているというように、推して決めることができると信じる。その、世の相のたがいが似ているということから、その現実論者は、さらに、ひとりひとりの覚えの主のもとにあるインディピジュアルな精神、もしくは主のもとにある「〈わたし〉そのもの」が、たがいに同じようであるというように、推して突きとめる。

 

 いまひとたび、はじめの文から見ていきます。

 

 メタフィジカルな現実論は、ひとりひとりの世の相がたがいに似ているということを説き明かそうとして、さらなる難題を前にする。

 

 わたしはここに住んでいます。ここにはじめて来る人には、最寄りの駅からここまでの道順を、図で示すなり口で言うなりして伝えます。それで用が足りることを、わたしはまったく疑っていません。もちろん、これまでには、道に迷ってしまい、なかなか辿り着けない人もいました。が、それは、主であるわたしの伝え方が悪かったか、客である人が思い違いをしたかではあっても、客である人の世の相と主であるわたしの世の相が違っていたからだとは、主であるわたしには考えられませんし、おそらくまた客である人にとっても考えられないでしょう。しかし、メタフイジカルな現実論にとって、ことはそう単純ではありません。

 二の文です。

 

 その現実論は、きっと、こう問う。わたしが、わたしの、主によって定まる覚えと、わたしの〈考え〉とから築き上げる世の相と、ほかのひとりが、その同じ二つの、主によるファクターから築き上げる世の相が、どうしてたがいに同じようであるのか。

 

 覚えとともに、〈考え〉もまた主によると見なすならば、それぞれの人の抱く世の相も、それぞれに異なっているのではないかというようにも、問わざるをえなくなります。ひよっとすると、客である人には、道々の目印となるしかじかの建物が、建物とは違ったものに見えるのかもしれない、それどころか、まったくありはしないのかもしれないといった疑いも、まんざらいわれなきものではなくなります。いや、それだけには尽きません。

 三の文です。

 

 いったい、わたしは、わたしの、主による世の相から、ほかの人の世の相へと、どうして繋がりをつけることができるのか。

 

 そもそものこと、それぞれの人の世の相がまさにそれぞれなりであるとするならば、わたしが、ほかの人の世の相を云々しても、つまりは、わたしの世の相を云々しているだけではないかといった疑いも、やはり同じくいわれなきものではなくなります。(「繋がりをつける」に当たるのはanschliessenであり、an〈付けて〉schliessen〈結ぶ〉というつくりで、「結びつく」の意です。なお、そのことばは先の回に出て来たsich entschliessen〈こころを決める〉にも通じています。すなわち、schliessen〈結ぶ〉とentschliessen〈開く〉とは、通じ合いっつ対し合うかかわりです。)

 四の文です。

 

 人と人が実際にはたがいの代わりをつとめるということから、メタフィジカルな現実論者は、人と人の、主による世の相がたがいに似ているというように、推して決めることができると信じる。

 

 わたしの客である人に、わたしなりのもてなしをしようとして、いろいろ買いそろえてきたのですが、スーパーから下げてきた袋を、いざ開けてみると、ネリワサピを買い忘れていたことに気づきます。客である人が、じゃ、買ってきましょうというので、それじゃ、お願いしますと、近くのコンピニまでの道筋をこうこうこうですと教えると、客である人は、さっと出かけて、ほどなくネリワサビを買って帰ってきました。(「実際に」に当たるのはpraktischであり、ギリシャ語praktikos〈振る舞いに向けて〉から来て、「実用的に、実践的に」とも訳されます。「代わりをつとめる」に当たるのはsich abfindenであり、sich〈みずからを〉ab〈取って〉finden〈見いだす〉というつくりで、「債務を履行する、・・・に満足する、・・・に順応する」といった意です。)わたしは、そのことをもって、アア、客である人は、すんなり道がわかったんだと思うことはあっても、客である人が道々なにを覚えつつ、なにを考えていたかまでを推し量ることは、至難のわざのように思えてなりません。しかし、覚えも〈考え〉も主によるとするからには、ただひとつ、まさに推し量るということをもってしか、ほかの人の世に通じる道は残されていません。そして、メタフィジカルな現実論者は、まさにその推し量りをもって、それぞれの人のそれぞれなりの世の相が、なおかつたがいに似ているというように、決めることができると信じます。(「推して決める」に当たるのはerschliessenであり、er〈まさに〉schliessen〈結ぶ〉というつくりで、「開発、解明、推論」の意です。)

 五の文です。

 

 その、世の相がたがいに似ているということから、その現実論者は、さらに、ひとりひとりの覚えの主のもとにあるインディビジュアルな精神、もしくは主のもとにある「〈わたし〉そのもの」が、たがいに同じようであると推して突きとめる。

 

 たしかに、わたしの客である人も、主であるわたしがいつも歩いている道を同じように歩いて、ここにやって来ましたし、主であるわたしが口で伝えた道順を聞いて、こともなく出かけていき、ほどもなくネリワサビを買って帰ってきました。が、客である人が語る、その道における印象、対象、現象、表象、もしくは、その道についての想いは、主であるわたし、その道を通いなれているわたしにとって思ってもみなかったことを含んでいたりします。ホオ、あなたは、そんなものに眼をとめるのか、ヘエ、あなたは、そんなふうに考えるのかというように、主であるわたしは、その時、主であるわたしの精神とは異なる、まさに客である人の精神を、推し量りによってではなくて、まさしくじかに知ります。ほかでもありません、考えるからです。(「同じようである」にあたるのはGleichheitであり、「類似、同等、平等」といった意です。なお「似ている」に当たるのはahnlichであり、「類似、相似、相応」といった意です。)

 

 しかし、覚えの向こうにある真のものごと、すなわち、いうところのものそのもの、ことそのことを思いもうけて、そのいかなるかを推し量る人は、主であるわたしと客である人が同じ道を同じように歩くということから、主であるわたしの世の相と、客である人の世の相とが似ているというように、推して突きとめ、そこからさらに、主であるわたしの精神と客である人の精神、いうところの〈わたし〉そのものが同じようであるというように、その論を結ぶことになるはずです。主であるわたし、客である人がそれぞれなりの想いを語ろうと語るまいと、いっこうにおかまいなく・・・。(「推して突きとめる」に当たるのはauf...schliessenであり、auf... 〈・・・に〉schliessen〈結ぶ〉という言い回しで、「推論、想像」といった意です。)

 三十五の段です。

 

 その突きとめは、すなわち果の和から、そのもとにある因の特徴への突きとめである。わたしたちは、じゅうぶんな数のケ一スから、ことのありようを知ると信じ、その突きつめられた因がほかのケースでどう働くかを弁える。そうした突きとめを、わたしたちは帰納しつつの突きとめと呼ぶ。わたしたちは、さらに見るにおいて、思いもよらなかったことが明らかになれば、その突きとめの成果を手直しすることを要する。なぜといって、その成果の特徴は、見られたことごとのインディビジュアルなつくりによってこそ定まつているからである。しかし、その、条件つきの、因の知でも実際に生きるには、じゅうぶんに事足りると、メタフイジカルな現実論者は言い立てる。

 

 いわば真のものごとが、ものごとの向こうにあり、そこから主への慟きかけ(Wirkung)によって覚えが生じるというのですから、覚えを遡るということをもって、おおもとのことがら(Ursache)である真のものごとを突きとめることもなされます。その遡りつつ突きとめるための手続きは、ほかでもありません、それなりの覚えを、そこそこに集めて、それをもとに推し足ることです。(「突きとめ」に当たるのはSchlussであり、ここまでにさまざまなつくりで出てきているschliessen〈結ぶ〉という動詞の名詞形であり、「終結、決議、推理、帰結、結論」といった意です。なお「因Ursache」と「果Wirkung」については、ことに5-c-1の回を見てください。)

 

 しかし、そのように推して遡りつつの突きとめによって得られるものは、それなりの覚えをいくら増やしてみたところで、かりそめのものでしかありません。なぜといって、その推して遡りつつの突きとめは、覚えをもとにしており、覚えは主によるのですから。(「帰納しつつの突きとめ」に当たるのはInduktionsschlussであり、induktio〈導き入れることによる〉schluss〈結び〉というつくりで、「帰納的推理」とも訳されますし、帰納的三段論法と呼ばれることもあるそうです。「成果」に当たるのはResultatであり、果は果でも、こちらは「働きかけWirkung」を受けるとともに、「する働きTatigkeit」をもって得る果です。)

 

 さて、人は、そのように突きとめて得られるものをもって、実際に生きることができるでしょうか。いや、それよりも前に、そのような突きとめにかまける主から、客として招かれたとしたら、どうでしょうか。うちとけるということは、まず望めそうもありませんし、いったい、ひとりの人として迎えられているのかどうかと、おおいに悩むことになるでしょう。そもそも、その主は、それなりの覚えをそこそこに集めること、それをもとにして考えを操ることに忙しく、もしくは思うことにかまけて、考える、ないし世、ないし〈わたし〉という、おおもとのことがら(Ursache)からの明らかな働きかけ(Wirkung)を意に介しません。したがつて、その主は、推して遡りつつの突きとめを認めるまでであって、いわば悟りつつの突きとめを認めてはくれません。したがつて、その主の口からは、さきに例としてあげたような、ホオ、あなたは、そんなものに眼をとめるのか、ヘエ、あなたは、そんなふうに考えるのかといった、ひとりの客の想いを諾うことばは、けっして聞かれることがないはずです。(なお「悟りIntuition」については、ことに5-d-3の回を見てください。)

 三十六の段です。

 

 帰納しつつの突きとめが、いまのメタフイジカルな現実論の方法の基である。かつてには、人が、〈考え〉から、〈考え〉ではないものを取り出すことができると信じた時があった。人が、〈考え〉から、メタフィジカルな現実論が必要としたメタフィジカルな現実のものを、知ることができると信じた。そのような哲学の仕方は、いまでは凌がれたことのうちに属する。しかし、そのかわり、人は、じゅうぶんな数の覚えの事実から、その事実のもとにあるものそのもの、ことそのことの特徴を、推して突きとめることができると信じている。かつては〈考え〉から、いまは覚えから、人が、メタフイジカルなものを、取り出すことができると思っている。人は、〈考え〉を、見通しのきく明らかさの内に迎えるゆえ、かつての人は、また〈考え〉から、メタフィジカルなものを、絶対的な確かさをもって導きだすことができると信じた。覚えは、同じく見通しのきく明らかさをもっては迎えられない。後の覚えのいちいちが、先の同じような覚えといささか異なるところを呈する。よって、根本的には、先の覚えから推して決められたところが、後の覚えのいちいちによって、いいさかなり手直しされる。メタフィジカルなものに向けて、そのようにして得られるつくりは、すなわち相対的に正しいとしか呼びようがなく、後のケースによって正されざるをえない。そうした方法原則によって定まる特徴を、エドゥアルト・フォン・ハルトマンのメタフィジックは有する。かれは第一の主著の扉にモットーとして「帰納しつつの自然科学的方法による思弁の成果」と記している。

 

 かつて、すなわち中世のヨーロッパにおいて、人が〈考え〉を巡って争いました。いわゆる唯名論と実在論のあいだの争いです。ついでに哲学事典を引くと、こうあります。

 

 実在論は、普遍すなわち類、種の概念が個物に対して時間・位階的に先在するとする「概念」実在論(実念論Begriffsrealismus)であり、唯名論を中世における唯物論のあらわれとする(マルクス)ならば、カトリック教会の要求によく合致した観念論的立場である。

 

 はなはだ大きなものいいですが、このかた二千年における人の育つ歩みのなかで、概念つまり〈考え〉は、人へと啓かれて与えられるものから、人がみずからで稼ぐものとなってきました。いうところの実在論(〈考え〉はいちいちのものに先立っているとする立場)と唯名論(あるのはいちいちのものであって、〈考え〉はいちいちのものの名にすぎないとする立場)のあいだの争いも、そのことのシンプトームと見てとることができるでしょう。(なお、「実在論」、「実念論」、「観念論」といったことばについては、前の回を見てください。)

 

 そして、いまや、〈考え〉は、おおむね人がみずからで稼ぐものであり、人の頭のうちにあるだけのものとされがちです。その意味においては、メタフィジカルな現実論も−名からすれば実在論のほうと通じ合いますが−唯名論のほうと通じ合います。すなわち、その現実論は、いちいちのものごと、覚えのいちいちをもとに、実在、メタフイジカルな現実を推し量ります。〈考え〉は、その推し量りの手立てにすぎません。加えて、覚えは、やって来ては去りゆき、そのたびにどこかしら異なるところを呈します。よって、それをもとに推し量って得られる実在、メタフィジカルな現実も、相対的な真実味しかもちあわせません。ついでに、いまの科学においては、いちいちのものごとについて、さまざまな説がありますし、そのうちのひとつが定説とされても、いつしかその座を別の説によって奪われます。すなわち、それらの説も、相対的な真実味を有するばかりです。はたして、人は、その相対的な真実味だけでもって、実際にいきいきと生きることができるでしょうか。

 そして、お終いの段、すなわち三十七の段です。

 

 メタフイジカルな現実論者が、いまにおいて、みずからいうところのものそのもの、ことそのことに与えるつくりは、帰納しつつの突きとめによって得られたつくりである。その現実論者は、「主にとり」覚えと〈考え〉によって知られる世のかかわりのほかに、客としてリアルな世のかかわりがあるということを、かたく信じている。その現実論者は、その客としてのリアリティがどのようであるかを、覚えから帰納的しつつ突きとめるによって定めることができると信じている。

 

 この『自由の哲学』には、「ひとつの現代的な世界観の基本線」という副題と、「自然科学の方法による、こころを見ることの成果」というモットーが付されています。その世界観、その成果、すなわち一元論は、推して遡りつつの突きとめの代わりに、悟りつつの突きとめを立てます。その論は、世も、かかわりというかかわりも、考えるから明らかになることを見てとります。その論は、なにかを信じるにはおよびません。そもそも、考える、ないし世、ないし〈わたし〉は、そこにもここにも、いたるところにおいて明らかにあります。まさにいまは、ひとりひとりの人が、その明らかさに気づき、目覚めつつでこそ、実際にいきいきと生きるようになり、真実にたがいをひとりの人として認めあうようになります。

 

 さて、この回のお終いには、二人の詩人のことばを引きます。

 

私みづからであること

それのみ絶対である

私みづからより大きい必要もない

私みづからである時のみ神をかんずる

 

八木重吉

 

やは肌のあつき血汐にふれも見で

さびしからずや道を説く君

 

与謝野晶子