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略伝自由の哲学第八章b

 わたしたちが生きるということを、まさにことたらしめるファクターとして、まず覚えると考えるを見てとりました。ここからは、さらなるファクターとして、感じるに目を向けます。わたしたちは、生きるということを、考えるとともに、感じるによって賄っています。そのことを、さらに、からだとの重なりで言うと、わたしたちは頭とともに胸や肩、肚や腰を持ち合わせています。よって、わたしたちが覚えつつ考えるだけならばという前提、さらに、わたしたちのからだが頭だけであるならばという前提は、わたしたちの生に当てはまりません。

 すなわち、八の章の二の段が、こう切り出されます。

 

 しかし、その前提は、当たらない。わたしたちが覚えをみずからに重ねるのは、たんにイデー、〈考え〉によってのみか、すでに観たとおり、情によってでもある。わたしたちは、すなわち、ただに〈考え〉としての生の内容をもつものではない。それどころか、ナイーブなリアリストは、情の生において、ただのイデーという弁えるの元手におけるよりも、なおさら現実的な人となりの生を視る。そして、そのリアリストがそのようにその事柄をとりはからうのは、そのリアリストの立場からすると、まったく正しい。情は、主の側にあって、客の側にある覚えと、さしあたりまさしく同じものである。よって、ナイーブな現実論の原則、すなわち、覚えられるものはすべて現実であるということからすると、情は、みずからの人となりのリアリティを保証するものである。しかし、ここにいう一元論は、覚えがまるまるの現実として表れるにつき欠かせないこととして認める補いを、情についても、きっと盛んに捗らせる。その一元論にとって、情は、足りていない現実であり、そのまずもってのかたち、すなわち、わたしたちに与えられてあるというかたちにおいては、さらなるファクター、すなわち、イデーもしくは〈考え〉を、まだ含んではいない。だからこそ、生きるにおいて、いずこであろうとも、感じるは、覚えると同じく、知るに先立って出てくる。わたしたちは、みずからを、まずあるものとして感じ、そして、ゆったりとした育つ歩みにつれて、おぼろに感じられていたあるのうちに、いよいよ、みずからという〈考え〉が開ける点へと漕ぎつける。わたしたちにとって後に出てくるところは、しかし、みなもとにおいで情と分かちがたく結びついている。ナイーブな人は、そのことから、こう信じるはめになる、すなわち、感じるにおいては、あるが、じかに、弁えるにおいては、ただ間接的に表れる、というようにである。それゆえ、情の生を培うことは、その人にとって、なによりも重きをなすことのように見えるであろう。そのリアリストが世のかかわりをつかんだと信じるのは、そのかかわりを感じるのうちに受け入れてこそである。その人が求めるのは、弁えるでなく、感じるを知るの手立てに仕立てることである。情はまったくインディビジュアルなもの、覚えと似通うものであり、情の哲学者は、みずからの人となりの内においてのみ意味をもつ原理を、世の原理に仕立てる。その哲学者は、まるごとの世を、みずからでもって浸そうとする。ここにいう一元論が〈考え〉においてつかもうと勤めるところに、情の哲学者は情をもって到ろうとし、そのようにみずからが客とともにあるのを、より直接的であると見なす。

 

 繰り返し、はじめの文から見ていきます。

 

 しかし、その前提は、当たらない。

 

 「その前提」については、すでにふれました。詳しくは前の回を見てください。すなわち、一の段の十四の文からお終いの文までです。

 二の文です。

 

 わたしたちが覚えをみずからに重ねるのは、たんにイデー、〈考え〉によってのみか、すでに観たとおり、情によってでもある。

 

 これも前の回においてふれたことですが、ことに三の章と六の章との重なりにおいていきいきと見てとられるとおり、〈考え〉は、情のとりなしによって、覚えに重なり、深みを湛えた想いとなります。たとえば「腑に落ちる」や「身にしみる」というのも、それです。

 三の文です。

 

 わたしたちは、すなわち、ただに〈考え〉としての生の内容をもつものではない。

 

 これもまた前の回においてふれたことですが、わたしたちは、感じるによって、〈考え〉を覚えの世にもたらし、みずからに重ねつつ、覚えの世のものごとをみずみずしく迎え、みずからを深くから立てることができるものでもあります。たとえば「納得する」や「わかる」というのも、それです。(「生の内容」に当たるのはLebensinhaltであり、Lebens〈生きるということの〉inhalt〈内容〉という言い回しです。いうならば、なにを生きているのかの、「なに」を指し示す言い方です。)

 さて、四の文です。

 

 それどころか、ナイーブなリアリストは、情の生において、ただのイデーという弁えるの元手におけるよりも、なおさら現実的な人となりの生を視る。

 

 弁えるに、その人なりの弁えかたがあり、感じるに、その人なりの感じかたがあります。そして、その人なりの感じかたは、その人なりの弁えかたよりも、なおのことその人なりです。そこからナイーブなリアリストは、生きた情を、生きた考えよりも、なおさらリアルなものと見なすことになります。(「情の生」に当たるのはGefuhlslebenであり、Gefuhls〈情の〉leben〈生きる〉というつくりで言うならば「情の生きた繰り出し」または「感じつつ生きる」ということです。「弁える」に当たるのはdas Wissenであり、wissen〈知っている〉の名詞化です。なお、それについては、ことに二の章を見てください。また「元手Element」については、ことに7-a-1の回を見てください。ついでに言い添えると、イデーまたは〈考え〉が弁えるの元手であり、情または感じが感じるの元手であり、欲または意欲が欲するの元手であり、覚えと〈考え〉が知るの元手です。そして「人となりPersonlichkeit」については、ことに4-b-4の回と5-c-1の回を見てください。)

 五の文です。

 

 そして、そのリアリストがそのようにその事柄をとりはからうのは、そのリアリストの立場からすると、まったく正しい。

 

 その人なりの感じかたが、その人なりの弁えかたよりも、なおのことその人なりであるということから、生きた情が、生きた考えよりも、なおさらリアルなものであると思いなすのは、ナイーブなリアリズムの原則からすると、まさしく筋が通っています。(「とりはからう」に当たるのはzurechtlegenであり、zurecht〈ふさわしく〉legen〈置く〉というつくりで、「前もって考えて、それなりに処する」という解があります。)

 すなわち、六の文です。

 

 情は、主の側にあって、客の側にある覚えと、さしあたりまさしく同じものである。

 

 「感覚」ということばがいみじくも告げているとおり、「感じ」と「覚え」は、さしあたりひとつです。たとえば、いい感じの色があり、心地よい響きがあり、にくにくしい袈裟があります。

 七の文です。

 

 よって、ナイーブな現実論の原則、すなわち、覚えられるものはすべて現実であるということからすると、情は、みずからの人となりのリアリティを保証するものである。

 

 情は、さしあたり覚えとともに覚えられるものであり、覚えられるものはすべて現実であるというナイーブな原理からするならば、情は、みずからの人となりをリアルに知らせてくれるものです。(「原則」に当たるのはGrundsatzであり、Grund〈基の〉satz〈命題〉というつくりであり、まさに考えられるところです。それについては、7-b-1の回を見てください。)

 しかし、八の文です。

 

 しかし、ここにいう一元論は、覚えがまるまるの現実として表れるにつき欠かせないこととして認める補いを、情についても、きっと盛んに捗らせる。

 

 ここにいう一元論は、現実もしくはリアリティが、覚えと〈考え〉という二つの元手の重なりであることを見抜きます。よって、情の覚えがリアルであることにも、同じく〈考え〉が与っており、考えるからの働きかけが及んでいることを見抜きますし、さらなる〈考え〉が与り、考えるからの働きかけがなおさら盛んに及びくるようにと、こころがけます。なお、その働きかけは、前の段の六から十三の文、またことに4-a-4、4-b-1の回で見たとおりです。(「・・・として表れる」に当たるのはsichals···darstellenであり、sich〈みずからを〉als···〈・・・として〉darstellen〈そこに据える〉という言い回しで、「・・・と見える、・・・と分かる、・・・と思われる」といった意です。なお、それについては6-dの回を見てください。「盛んに捗らせる」に当たるのはgedeihen lassenであり、an〈ついて〉gedeihen〈栄える、捗るに〉lassen〈任せる〉という雅びやかな言い回しであり、「与える、授ける、叶える」といった意です。)

 九の文です。

 

 その一元論にとって、情は、足りていない現実であり、そのまずもってのかたち、すなわち、わたしたちに与えられてあるというかたちにおいては、さらなるファクター、すなわち、イデーもしくは〈考え〉を、まだ含んではいない。

 

 考えをさしおいて覚える覚え、いわばただの覚えがリアリティを欠いているように(4-a-4, 5-d-2)、ただに覚えられる情の覚えもリアリティを欠いています。そして、いわばおのずからに覚えられる覚えも、おのずからに覚えられる情の覚えも、同じくリアリティを欠いています。それは、すなわち、そこにイデーないし〈考え〉が与っていないためです。(「足りていない」に当たるのはunvollstandigでありvoll〈まるまる〉standig〈立っては〉un〈いない〉というつくりで、「不備、不完全」といった意です。)

 十の文です。

 

 だからこそ、生きるにおいて、いずこであろうとも、感じるは、覚えると同じく、知るに先立って出てくる。

 

 わたしたちは、なにかを生きるにおいて、まずは覚えつつ感じつつであり、そして、いっしか知るにいたり、そこから知っているようになり、もしくは弁えるようになります。それは、すなわち、わたしたちがなにを生きるのであれ、その生きるという生きるが、まずは〈考え〉を欠いて始まるからです。

 十一の文です。

 

 わたしたちは、みずからを、まずあるものとして感じ、そして、ゆったりとした育つ歩みにつれて、おぼろに感じられていたあるのうちに、いよいよ、みずからという〈考え〉が開ける点へと漕ぎつける。

 

 覚えと〈考え〉が重なるにおいて、知るが生じるとともに、ものごとがかかわりをもってリアルになるように(5-b-1~5-c-2)、なんとなく、夢のごとくに覚えられ感じられていたみずからが、いっしか、まさにみずからという〈考え〉の開けによって、明るみつつリアルになり、まさにみずからというものが知られます。言い換えれば、わたしがわたしに目覚めます。そして、その目覚めの時こそは、みずからが育ってきた歩みの節目、わたしが生ききた、いわばかけがえのない時ではないでしょうか。(「あるもの」に当たるのはDaseiendeであり、da〈そこに〉sein〈ある〉の現在分詞の名詞化です。「開ける」に当たるのはaufgehenであり、auf〈上へ、または開けて〉gehen〈行く〉というつくりで 、「昇る、現れる、膨れる、開く、ほどける、弾ける、浮かぶ、消える」といった意です。「漕ぎつける」に当たるのはsich durchringenであり、sich〈みずから〉durch〈通して〉ringen 〈闘う〉という言い回しで、「闘いぬく、自力で這い上がる」といった意です。)

 十二の文です。

 

 わたしたちに とって後に出てくるところは、しかしみなもとにおいで情と分かちがたく結びついている。

 

 いかがでしょうか。みずから想い起こすことのできるはじめの想い、それは言うならば 「わたしはわたし(3-d)」といった感じとひとつではないでしょうか。そして、その後の、鮮やかに想い起こすことのできる想いも「これがわたしなのだろうか」「わたしはだれなのだろうか」「わたしはとにかくわたしだ」といった、ういういしい感じとひとつではないでしょうか。とにかく、みずからという〈考え〉の開け、〈わたし〉という〈考え〉の悟りは、ういういしい感じ、みずみずしい情とひとつです。言い換えるなら、いきいきした自己意識は、〈考え〉と情 との重なりにおいて抱かれます。そして、わたしたちの人となりは、その、みずからの生と育ちの節目である、いきいきした自己意識の度重なりをもってなりたってきています。ちなみに、その、いきいきした自己意識を、『自由の哲学』 の書き手は、後にしばしばSelbstgefuhl (自己感情、もしくは、みずからの情)ということばで言い表わしてもいます(「みなもとにおいて」に当たるのはursprunglichであり、「源泉的」の意です。そのことばは、すなわち、みずからという〈考え〉がまさに開けるその時、〈わたし〉という〈考え〉をまさに悟るその時を指しています。なお、それについては3-eの回も見てください。)

 さて、 十三の文です。

 

 ナイーブな人は、そのことから、こう信じるはめになる、すなわち、感じるにおいては、あるが、じかに、弁えるにおいては、ただ間接的に表れる、というようにである。

 

 ものごとの覚えが、それに重なる〈考え〉をもってリアルになるように、みずからの情も、みずからという〈考え〉をもってリアルになります。しかし、覚えがそのまま現実であるというように、はっきりとであれ、なんとなくであれ、あらかじめ思いなしている人は、みずからの情が覚えとともに覚えられることから、そこに与る〈考え〉を見落として、弁えるよりも、感じるをもって、ものごとのありのままを、より直接的に迎えることができると信じることになります。(「ある」に当たるのはdas Daseinであり、da〈そこに〉sein〈ある〉の名詞化です。)

 十四の文です。

 

 それゆえ、情の生を培うことは、その人にとって、なによりも重きをなすことのように見えるであろう。

 

 その人は、情をいきいきと育むこと、感じる(いわゆる感性)を培うことのほうが、考えをいきいきと育むこと、弁える(いわゆる知性)を培うことよりも、大切なことであると思いなすことにもなります。(「培うこと」に当たるのはAusbildungであり、aus〈外へと〉bilden〈つくりなす〉の名詞化で、「養成、鍛練、形成」といった意です。なお、bilden〈つくりなす〉については、4-a-1の回を見てください。)

 十五の文です。

 

 その人が世のかかわりをつかんだと信じるのは、そのかかわりを感じるのうちに受け入れてこそである。

 

 その人は、世のかかわりを弁えるだけでは満ち足りず、それを感じるのうちに引き込んでこそ、真にとらえたと信じることにもなります。(「つかむ」に当たるのはerfassenです。それについては、ことに3-f,の回と5-c-1の回を見てください。)

 十六の文です。

 

 そのリアリストが求めるのは、弁えるでなく、感じるを知るの手立てに仕立てることである。

 

 その人は、 弁えるではなく、感じるをもって、ものごとを知ろうとすることにもなります。

 十七の文です。

 

 情はまったくインディビジュアルなもの、覚えと似通うものであるかり、情の哲学者は、みずからの人となりの内においてのみ意味をもつ原理を、世の原理に仕立てる。

 

 情は、まさにひとりひとりそれぞれです。ものごとは、感じるによってこそ、じかに迎えることができるという考えは、ものごとのうちでも、ただひとつ、みずからの人となりというものに当てはまるのみです。その考えをもって、ものごとのありのままを云々する人は、その考えの用いかたを履き違えています。

 十八の文です。

 

 その哲学者は、まるごとの世を、みずからでもって浸そうとする。

 

 その人は、ものごとというものごと、客という客を 、主漬けにしようとします。たとえば「思い入れ」というのも、それです。また、その人は、主漬けにならない客があると、その客を払いのけたり、無きものにしたりもします。(「浸す」に当たるのはdurchdringenであり、durch〈貫き〉dringen〈徹す〉というつくりで、「透過、浸澗、飽和」といった意です。)

 十九の文です。

 

 ここにいう一元論が〈考え〉においてつかもうと勤しめるところに、情の哲学者は情をもって到ろうし、そのようにみずからが客とともにあるのを、より直接的であると見なす。

 

 「Begriff〈考え〉」ということばがいみじくも告げているとおり、〈考え〉は「とらえbegreifen」られるものです(3-b)。つまり、わたしたちは、覚えに重なる〈考え〉をとらえつつで、ものごとををつぶさにとらえ、その〈考え〉をつかみつつで、ものごとを詳らかに弁えます。しかし、件の人は、みずからの客であるものごとに、みずからの情をもって迫ろうとし、みずから情が通うものごと、主漬けとなった客が、ありのままのものごと、リアルな客であると思いなします。たとえば「感情移入」というのも、それです。(「ともにある」に当たるのはZusammenseinであり、zusammen〈ともに〉sein〈ある〉の名詞化です。「見なす」に当たるのはansehenであり、an〈ついて〉sehen〈視る〉というつくりで、「じっと見る、見てとる、考えに入れる」といった意です。)

 そして、 三の段です。

 

 右にきわだたせた向き、情の哲学は、しばしば神秘主義と称される。たんに情のみをもとにして立てられた神秘主義的な観方の過ちは、弁えるべきところを、まさに生きようと欲すること、インディビジュアルなもの、情を、ユニバーサルなものへと育てあげようと欲することにある。

 

 右に見てきたとおり、ものごとのありのまま、客のリアリティを、ただに感じるをもって得ようとする向きは、迎える向きを引き立てるあまり、向かう向きとのバランスを欠いています。よって、考えがふさわしく取り合われないために、ほかの人からは、おうおうにしてミステリアスに見えることにもなります。(「向き」に当たるのはRichtungでありrichten〈向ける、正す、整える、裁く〉から来て、「方向、進路、傾向、方針」といった意です。なお「迎える」「向かう」という二つの向きについては、ことに二の章を見てください。「きわ だたせる」に当たるのはkennzeichnenであり、kenn〈標識を〉zeichnen〈記す〉というつくりで、「特徴を示す、特徴づける」といった意です。「神秘主義」に当たるのはMystikであり、mysticus〈神秘的〉というラテン語から来て、「こうごうしいものとの結びつきを得ようとする、宗教的なものの観方」といった解があります。なお、その解は歴史を踏まえた解ですが、しかし、そのことばが件の向きを称するのに用いられるにおいては、せいぜい「わけがわからない」の意です。)

 

 右にいう向きは、すなわち、考えるによってこそ得ることができる、ものごとのありのまま、世のリアリティを、感じるによって得ようとし、情という、ひとりひとりなりのものを、あまねき世のものに仕立てようとしています。しかし、そもそも、あまねき世は、感じられるでなく、考えられるところです。(「まさに生きる」に当たるのはerlebenであり、er〈まさに〉leben〈生きる〉というつくりで、「生きて巡り会う、体験(体得)する」といった意です。)

 

 そして、 情はとりなして手であり、それによって〈考え〉のかずかずが、まずもって具象的な生を得ます。(なお、そのことについては6-eの回を見てください。)

 さらに、四の段がこう続きます。

 

 感じるは、ただにインディビシュアルなアク卜であり、外の世をみずからに重ねることである、その重なりが、たんに主の生のうちに表わされるかぎりは。

 

 感じるは、ここまでに見てきたとおり、ひとりひとりの人がそれぞれの情をもってすることであり、それによって、ものごとがひとりひとりの人にとってのものごととなるとともに、ひとりひとりの人の人となりがなりたっていきます。(なお「アクトAkt」については5-c-1~d-3の回を見てください。ついでに、 そのことばは「ファクターFaktor」ということばと通じ合います。)

 

 そして、考えるは、ユニバーサルであり、主客や内外といった対を凌いでます。その考えるからじかに醸される情が、「すべてでひとつのもの(5-c-2)」の情、または「わたしみずからであること(7-c-2)」の情です。その情は、主のとも客のとも言えない、言わばインデイビジュアルでユニバーサルな情です。

 

 そして、その情こそは、情の生の培いの、ふさわしい導き手です。

 

 さて、この回のお終いには、「みずからの情」ないし「わたしみずからであること」の情にちなんで、三人の詩人の、まさしく三様のことばを引くことにします。

 

うづみ火や我かくれ家も雪の中

うづみ火や終には煮る鍋のもの

与謝蕪村『蕪村俳旬集』から

 

夜の帳にささめき尽きし星のいまを

下界の人の鬢のほつれよ

みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ

緋鯉のせなに梅の花ちる

与謝野晶子『みだれ髪』から

 

心象のはひいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめん諂曲模様(てんごくもよう)

 

宮沢賢治『春と修羅』から