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略伝自由の哲学第八章a

 この回から、八の章に入ります。とにかく、まずは読んでみてください。

 

 これまでの章において得たことを、まとめつつ繰り返そう。世は、人に、よろずくさぐさとして、いちいちの和としてやってくる。そのいちいちのうちのいち、あまたのもののなかのひとつのものが、人みずからである。そうした世のつくりを、わたしたちは、与えられたと称し、また、わたしたちが意識してする働きを繰り出すのではなく、前に見いだすかぎりにおいて、覚えと称する。覚えの世のうちにおいて、わたしたちは、みずからを覚える。そのみずからの覚えは、もし、その覚えのただなかからなにかが浮かび上がつてこないのであれば、ひとえに、あまたの覚えのなかのひとつのままであろうが、そのなにかは、覚えのかずかずを、よってまた覚えという覚えの和をも、みずからと結びつけることに適っていることが明らかになる。その浮かび上がるなにかは、もはやたんなる覚えではないし、覚えのように、ただ前に見いだされるだけでもない。それは、する働きによって呼び出される。それは、さしあたり、わたしたちがみずからと覚えるところに縛りつけられて現れる。それは、しかし、その内なる意義からすれば、みずからをはみだす。それは、いちいちの覚えにイデーの定かさを添えるが、しかし、その定かさのかずかずは、たがいに重なり合い、ひとつのまるごとに根ざしている。それは、みずからの覚えによって得られたところをも、そのほかの覚えという覚えをも、同じようにイデーをもって定め、みずからの覚えによって得られたところを、主もしくは〈わたし〉として、客のかずかずに対させる。そのなにかは、考えるであり、イデーの定めは、〈考え〉とイデーである。よって、考えるは、さしあたり、みずからの覚えについて表れるが、しかし、たんに主によるのではない。そもそも、みずからがみずからを主と称するのは、考えるの助けをもってこそである。その、考えの、みずからへの重なりが、わたしたちの人となりの生の定めのひとつである。それによって、わたしたちは、まぎれのないイデーを切り盛りする。わたしたちは、それによって、みずからを、考える者と感じる。その生の定めは、もし、そのほかの、みずからの定めが加わってこないのであれば、まぎれのない考え〉の(論理の)定めのままであろう。ならば、わたしたちは、覚えと覚えのあいだ、および覚えとみずからのあいだに、まぎれのないイデーの重なりを生みだしつつ生きるだけに尽きる者であろう。そのような考えのかかわりを生みだすことを、知ると呼び、それによって得られる、みずからのありようを、知っていると呼ぶならば、わたしたちは、右の前提が当てはまるみずからを、きっと、たんに知る者、または知っている者と見なすであろう。

 

 いまひとたび、はじめの文から見ていきます。

 

 これまでの章において得たことを、まとめつつ繰り返そう。

 

 人は、自由に考え、自由に振る舞うことができるのか、それとも、どこまでも自然法則のままなのかという問いは、人がするにおいて、なぜするかを知ってすると、知らないでするとは、どう違うのか、そもそも、知る、ないし考えるは、どういうことなのかという問いをもって、リアルな問いとなります(ーの章)。そこから、わたしたちは、これまで七つの章を辿りつつ、考える、知る、それとの重なりにおいて、感じる、欲する、および、覚える、おもう(憶、念、想、思)を、そもそもから、ありのままに意識しようとしてきました。そして、その、そもそもからの、ありのままの意識を得ようとする七つの章の道筋が、この八の章において、ふたたび辿られることになります。それは、なるほど、同じことの繰り返しですが、しかし、それだけには尽きません。新たな手順による、あらためての繰り返しは、新たなものを呼び込み、新たなことを生みだします。(「まとめつつ繰り返す」に当たるのはrekapitulierenであり、ラテン語rekapitulareから来て、「まとめめつ繰り返すzusammenfassendwiederholen」という解があります。それを一くどいかもしれませんが一そのまま借りたのは、re繰り返し〉を生かしたかったからです。「得る」に当たるのはgewinnenであり、いうならば「(する働きをして)勝ち取る」の意です。なお、そのことばは、すでに四の章(4-a-1の回)に出てきています。)

 

 また、これまでの七つの章は「自由の知識」というタイトルによって、ひとつに括られ、これからの七つの章は「自由の現実」というタイトルによって、ひとつに括られています。振り返れば、ことに四の章と五の章との重なりにおいて明らかに考えられるとおり、考えるは、主客や内外といった対を凌ぎます。すなわち、わたしたちは、考えるの助けをもって、主客や内外といった定めはもとより、定めという定めを新たに定めることができます。さらに、ことに三の章と六の章との重なりにおいていきいきと見てとられるとおり、〈考え〉は、情のとりなしによって、覚えに重なり、深みを湛えた想いとなります。すなわち、わたしたちは、感じるによって、〈考え〉を覚えの世にもたらし、みずからに重ねつつ、覚えの世のものごとをみずみずしく迎え、みずからを深くから立てることができます。さらにまた、ことに二の章と七の章との重なりにおいて、たわわに確かめられるとおり、覚えと〈考え〉が離れるにおいて、問いが生じ、覚えと〈考え〉が重なるにおいて、知るが生じるとともに、ものごとのリアリティが生まれます。その意味において、知るには越えられない限りがありません。すなわち、わたしたちは、知るに勤しみつつ、ものごとをまさにものごととして豊かに知るとともに、みずからをまさにみずからとして富ますことができます。

 

 そのとおり、わたしたちは、考えるにおいて自由を謳歌し、その自由を、感じるにおいて深め、欲して勤しむにおいて、富ますことができます。まさにその意味において、知識は、現実と応じ合おぼい、携え合いますし、理想(憶えとなった〈考え〉、想いとなった〈考え〉、思われるイデー、念じられるイデー)は、現実に重ね合わされながら、まさにその現実において実現されます。すなわち、まとめて言うならば、これまでの七つの章が目指しているのは「人が人と世のなりたちを知る」ことであり、これからの七つの章が目指しているのは一先取りして言ってしまいますが一「人がするにおいて世と人がなる」ことです。そして、そのふたつのこともまた、応じ合い、重なり合います。たとえば、この冊子の「川柳コーナー」に

 

 散歩道今は帰りかまだ往きか

珠絵

 

 という旬がありましたが、要は道の往き来です。はたして、道は、人が辿るにおいて、往く道にもなれば来る道にもなりますし、そのこと(ありていに言えば、往きつつ来つつ、来つつ往きつつであること)に、人が気づくのも、まさに道を辿りつつです。

 二の文です。

 

 世は、人に、よろずくさぐさとして、いちいちの和としてやってくる。

 

 なにかが聞こえる、なにかが見える、なんだか寒いといったかたちにおいて、わたしたちは、いちいちがやってくるのを迎えつつ、目覚めます。朝の目覚めはもとより、そのつど、見える色、聞こえる音、からだの冷え、こころの寒さなどによっても、目覚めが促されます。逆に、なにも見えなくなり、なにも聞こえなくなり、寒くも熱くもなくなり、なにもやってこなくなるとともに、わたしたちは眠り込みます。(「やってくる」に当たるのはgegeniibertretenであり、gegeniiber〈こちらへ〉treten〈歩む〉というつくりで、「(こちらが)迎える」との対です。)

 三の文です。

 

 そのいちいちのうちのいち、あまたのもののなかのひとつのものが、人みずからである。

 

 色が見えているにおいて、色を見ているわたしみずからがあり、音が聞こえている、その音を聞いているわたしみずからがあり、味がしているにおいて、その味とともに、わたしみずからがあります。その意味においては、味や音や色があることと、わたしみずからがあること、または、いることに、なんらの違いもありません。(なお「ものWesen」については、ことに4-a-3の回を見てください。)

 四の文です。

 

 そうした世のつくりを、わたしたちは、与えられたと称し、また、わたしたちが意識してする働きを繰り出すのではなく、前に見いだすかぎりにおいて、覚えと称する。

 

 わたしみずからへと、たんにやってくるだけのいちいちと、そのいちいちがやってくるままに任せるだけのわたしみずからを、「与えられた」ということばでもって、また、わたしみずからをも含めて、やってくるだけのいちいちを、「覚え」ということばでもって、この略伝の書き手は、指し示し、言い表わします。(「前に見いだす」に当たるのはvorfindenであり、vor〈前に〉finden〈見いだす〉というつくりで、いわば「覚ゆ」ないし「おのずから迎えている」の意です。なお「与えられたgegeben」は、いわゆる所与の「与」であり、「覚えWahrnehmung」は「見」や「目覚め」との縁で選びました。そのふたつのことばについては、ことに4-a-4と4-b-1の回を見てくださし。)

 

 なお、ここまで、やむをえずに「色、音、寒、味」といったことばを使ってきましたが、ここまでのことは、わたしたちがことばを用いようとする前に覚えられているか、または、ことばを用いるのを控えつつで覚えることです。(「称する」に当たるのはbezeichnenであり、zeichnen〈印をつける、名を記す〉から来て、いわば「しかじかのものに、しかじかの印をつける」「それなりのものを、それなりのことばでもって指し示す」といった意です。そして、もちろんですが、「印をつけける」も「指し示す」も、わたしたちのする働きです。)

 五の文です。

 

 覚えの世のうちにおいて、わたしたちは、みずからを覚える。

 

 わたしは、みずからを、まず、あまたのもののうちのひとつのものとして覚え、さらに、あまたのものを覚えるものとして覚えます。なお、ここまでのことは、ことに四の章と重なり合います。

 さて、六の文です。

 

 そのみずからの覚えは、もし、その覚えのただなかからなにかが浮かび上がつてこないのであれば、ひとえに、あまたの覚えのなかのひとっのままであろうが、そのなにかは、覚えのかずかずを、よってまた覚えという覚えの和をも、みずからと結びつけることに適っていることが明らかになる。

 

 あまたのものを覚えるものとしてのみずからの覚えは、ひとしお嵩じた覚えです。すなわち、あまたのものを覚えるものとしてのみずからは、あまたのもののなかにおいて、いうところのなにかにより、ひときわきわだち、ひとしお明るむものとなりますし、わたしは、そのきわだち、その明るみをもって、あの色に向かい、その音に向かい、この味に向かいつつ、あまたのものとかかわりをつけるようになります。(「浮かび上がる」に当たるのはauftauchenであり、auf〈上へと〉tauchen〈浮かびくる〉というつくりで、「浮上、出現」といった意です。「明らかになる」に当たるのはsicherweisenであり、sich〈みずからを〉erweisen〈告げ知らせる〉という言い回しで、「判明」の意です。)

 七の文です。

 

 その浮かび上がるなにかは、もはやたんなる覚えではないし、覚えのように、ただ前に見いだされるだけでもない。

 

 そのなにかは、もはや、やってくるだけではなく、おのずから迎えられるだけでもありません。いかがでしょうか。

 すなわち、八の文です。

 

 それは、する働きによって呼び出される。

 

 わたしたちは、色に向かい(しっかり目を向け)、音に向かい(しっかりと耳を傾け)つつで、いうところのなにかを呼び出すことができますし、はたまた、音を迎え(あるがままに耳に入れ)、色を迎え(ありのままに目に入れ)つつで、いうところのなにかを、いわば遠ざけることもできます。(「呼び出す」に当たるのはhervorbringenであり、hervor〈こちらへ〉bringen〈もたらす〉というつくりで、「もちだす、生みだす」といった解があります。)

 九の文です。

 

 それは、さしあたり、わたしたちがみずからと覚えるところに縛りつけられて現れる。

 

 いうところのなにかは、まずもって、すなわち現れるかぎりにおいては、もしくは浮かび上がるかぎりにおいては、みずからの覚えの域を越えていないように見えます。(「縛りつけられて」に当たるのはgebundenであり、binden〈結ぶ、縛る〉の過去分詞で、「束縛され、制限され、隷属させられて」といった意です。)

 十の文です。

 

 それは、しかし、その内なる意義からすればみずからをはみだす。

 

 いうところのなにかは、まさにそのなにかによってなされることからすると、わたしたちみずからの覚えに縛られているばかりではありません。いかがでしょうか。(「はみだす」に当たるのはhinausgehenであり、hinaus〈越え出て〉gehen〈行く〉というつくりで、さきのgebunden〈縛りつけられて〉と対をなします。なお「意義Bedeutung」については5-d-2の回を見てくださし。)

 すなわち、十一の文です。

 

 それは、いちいちの覚えにイデーの定かさを添えるが、しかし、その定かさのかずかずは、たがいに重なり合い、ひとつのまるごとに根ざしている。

 

 いうところのなにかは、ただの色、ただの音、ただのぬ〈もりを、まさにあの色、まさにその音、まさにこのぬくもりというように定かにしますが、なおかつ、その定かさという定かさは、覚えからくる定かさではなくて、考えの定かさであり、たがいにかかわりあい、考えのシステムという、まさにひとつの織りなしのうちにあります。(「添える」に当たるのはbeifogenであり、bei〈付け、合わせ〉fogen〈嵌める、仕組む〉というつくりで、「付加、添付」といった意です。なお「イデーIdee」については4-a-1の回を、「定かさBestimmtheit」については6-eの回を見てくださし。)

 十二の文です。

 

 それは、みずからの覚えによって得られたところをも、そのほかの覚えという覚えをも、同じようにイデーをもって定め、みずからの覚えによって得られたところを、主もしくは〈わたし〉として、客のかずかずに対させる。

 

 いうところのなにかは、まさにあの色、まさにその音というように、色や音の定かさをもたらし、まさにこの目、まさにこの耳というように、みずからの定かさをもたらし、さらに、まさにあの色、まさにその音には、客という〈考え〉、まさにこのみずからには、主という〈考え〉を添えつつ、対というイデーをもたらします。(なお「定めるbestimmen」については4-a-3の回を見てくださし。)

 十三の文です。

 

 そのなにかは、考えるであり、イデーの定めは〈考え〉とイデーである。

 

 『自由の哲学』の書き手がdasDenkenと称しているのは、まさにこれまでにいうところのなにかにほかなりません。それは、denkenという、人のする働きを指し示すことばから来ているとともに、覚えに定かさをもたらすという働きをしている、それそのものを指し示しています。なお、この略伝の書き手がdasDenkenに「考える」ということばを当てるのは、「向かう」との縁からであり、また「想う」との違いを引き立てようとしてです。(「定め」に当たるのはBestimmungであり、bestimmen〈定める〉の名詞形です。なお「考えるdasDenken」については、ことに三の章を、「想うvorstellen」については、ことに六の章を見てください。)

 そして、十四の文です。

 

 よって、考えるは、さしあたり、みずからの覚えについて表れるが、しかし、たんに主によるのではない。そもそも、みずからがみずからを主と称するのは、考えるの助けをもってこそである。

 

 なるほど、わたしは、みずから色や音に向かいっつ、あの色、その音を客とし、このみずからを主としますが、しかし、あの色、その音、このみずからという定かさは、考えの定かさであり、考えるから来ています。そもそも、定かさという定かさがなかったとしたら、わたしは、みずからを主とすることも、色や音を客とすることもできないはずです。(「表れる」に当たるのはsichiiulsernであり、sich〈みずからを〉aulsern〈外に出す〉という言い回しで、「出現、開陳」などの意です。)十五の文です。

 

 その、考えの、みずからへの重なりが、わたしたちの人となりの生の定めのひとっである。

 

 わたしたちは、みずからに重なる考えからも、生きるということを賄います。そこからも、みずからの生きるということが、定かに定まります。そして、その定かさも、人となりの定かさの内です。なお、この八の章のタイトルは、「生きるということのファクターDieFaktorendesLebens」です。(なお「人となりPersonlichkeit」については、ことに六の章を見てください。)

 十六の文です。

 

 それによって、わたしたちは、まぎれのないイデーを切り盛りする。

 

 わたしたちは、みずからに重なる考えによって、いうならば、ただの考えを紡ぎだし、織り上げ、切り取り、縫い合わせ、継ぎはぎし・・・。(「まぎれのないイデーを切り盛りする」に当たるのはeinreinideellesDaseinfi.ihrenであり、ein〈ひとつの〉rein〈純粋に〉ideelles〈理念である〉Dasein〈存在を〉fi.ihren〈運用する〉という言い回しで、いってみれば「抽象的に考える」ことです。)

 十七の文です。

 

 わたしたちは、それによって、みずからを、考える者と感じる。

 

 わたしたちは、みずからに重なる考えによって、ただの考えを紡ぎだし、織り上げ、切り取り、縫い合わせ、継ぎはぎしつつ、つまり考えつつ、みずからを感じます。たとえば「自分はこう思うということばは、その感じをもってこそ、口にされます。(「感じる」に当たるのはfuhlenであり、いわば、わたしたちが情をもってする働きです。)

 十八の文です。

 

 その生の定めは、もし、そのほかの、みずからの定めが加わってこないのであれば、まぎれのない〈考え〉の(論理の)定めであるままであろう。

 

 みずからに重なる考えから定まる、みずからの定かさは、ことに頭においてきわだちます。たとえば「頭がいい、わるい」というのは、ほかでもなく、その定かさを指しています。もちろん、ひとりの人にも、頭がいいときがあり、わるいときがあります。(「論理の」に当たるのはlogischであり、ギリシャ語logoi〈語り、ことば、聞き分け〉から来ています。まった<もって、鋏も、ことばも、頭も、使いようです。)

 十九の文です。

 

 ならば、わたしたちは、覚えと覚えのあいだ、および覚えとみずからのあいだに、まぎれのないイデーの重なりを生みだしつつ生きるだけに尽きる者であろう。

 

 かりに、人が頭だけであったなら、みずからの覚えを含めて、いちいちの覚えに、あれこれと考えを璽ね、かかわりをつけるまでであり、なるほど、考えをたわわにもちあわせはするでしょうが、しかし、その考えは、まさにいちいちに対するあれこれであって、広さを欠き、また深みも欠いて、薄っぺらでしょう。(「生みだす」に当たるのはherstellenであり、her〈こちらに〉stellen〈据える〉というつくりで、「生産、制作、調合」といった意です。)

 二十の文です。

 

 そのような考えのかかわりを生みだすことを、知ると呼び、それによって得られる、みずからのありようを、知っていると呼ぶならば、わたしたちは、右の前提が当てはまるみずからを、きっと、たんに知る者、または知っている者と見なすであろう。

 

 かりに、ひとえに知的な、まったき知識人がいたとしたら、覚えと対し合いっつ、感じもせず、欲しもせずに、ひたすら考えることで満ち足りるはずです。ついでに、「頭でっかち」といいますが、人によっては、頭がでっかくなりがちで、心も手足もないがしろであったり、頭にとらわれがちがちで、冷たく、乾いた心や、重く、動きのない手足や、逆にまた、よりどころなく、きれやすい心や、やみくもで、荒々しい手足がきわだったりします。(「呼ぶ」に当たるのはnennenであり、「名づける、名をいう」の意です。また、ここまでに出てきた、そして、これからも出てくる「みずから」に当たるのはselbstまたはdasSelbstであり、そのかかわりはdenkenとdasDenkenに同じです。なおselbstは、英語のselfに通じ、dasSelbstは、theselfです。ただ、英語では、そんな言い方をしないようですが...)。

 

 なお、六の文からここまでのことは、ことに五の章に重なり合います。また、さきに「往き来」ということを言いましたが、その「往き来」には「昇り降り」というダイナミズムも含まれています。すなわち、わたしたちは、みずからを昇り降りする者でもあります。はたして、この一の段においては、ーの文から十三の文までが昇る道であり、十四の文から二十の文までが降りる道です。さて、この回のお終いには、「みずから」ということばにちなんでは、市川浩『身の構造』(講談社学術文庫)から、こういうー節を引きます。

 

 「身」という言葉は、第ーに、われわれが具体的に生きている身体のダイナミックスをたいヘんよく表現している。それから第二に、精神—物体あるいは精神—身体という二項固式とは異なったカテゴリー化の可能性を示しているのではないか、そういう可能性をはらんだ言葉として使いたいと思ったわけです。これはなにも日本語という特殊な国語とむすびついた特殊な力テゴリを、無理やり日本主義風におし広めよーうというわけではなくて、「身」という言葉は「ボディ」その他に比べてもわれわれの身体の具体的なあり方をよりよく表現していて、普遍性をもった概念として使うことができると感ずるからです。

 

 そして「み」ということばの使い方が次のとおり十四に分けられています。じつに、その十四の使い方はこれまでの七つの章とこれからの七つの章とに重なり合います。どう重なり合うかは、たがいを読みくらべつつ確かめてみてください。

 

一、      木の実、おつゆの実

二、      魚の切身、酢で魚の身をしめる

三、      お臀の肉、身節が痛む

四、      生き身、身もちになる、身二つになる

五、      半身にかまえる、身もだえする、身様

六、      身丈、身ごろ、身ぐるみ

七、      身あってのこと、身の代金

八、      身すぎ世すぎ、身売り

九、      身つから(自ら)、身がまま、身のため

十、      身ども、身の方(味方)、身身

十一、   身内、身の方(味方)、外身内

十二、   身のほど、身をたてる

十三、   身にしみる、身をこがす、身をあらわす

十四、   身をもって知る、身をもって示す