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略伝自由の哲学第八章c−2

 この回は六の段からで、前の回に引き続き、欲するに目を向けます。

 

 しかし、ナイーブな現実論は、ここでもまた、考えるによって得られるよりも、はるかに現実的なあるを迎えると信じる。その現実論は、ことをいよいよ〈考え〉においてつかむ考えるに対し、欲りにおいて、みずからが、こと、ことの起こりに、じかに気づくための元手を見やるようになる。〈わたし〉が〈わたし〉の欲りによってなしとげることが、そのような観方にとっては、じかに生きられるプロセスとなる。その哲学を認める者は、欲するにおいて、世のことの片端を現実的につかんだと信じる。その者は、ほかのことごとを、覚えるによって外から追うことができるだけであっても、その者の欲するにおいて、リアルなことを、まったくじかに生きると信じる。その者にとっては、欲りがみずからの内側に現れてある、そのあるのかたちが、現実の現実原理となる。その者にとっては、その者の欲するが、あまねき世のことのスペシャルケ一スとして現れ、もって、あまねき世のことが、あまねき欲するとして現れる。欲りが世の原理となるのは、情の神秘主義においで情が知るの原理になるのと同じである。そのような観方が欲りの哲学(テリスムス)である。ただただインデイビジュアルに生きられるところが、そのような観方によって、世の組み立てるファクターに仕立てられる。

 

 くりかえし、一の文から見ていきます。

 

 しかし、ナイーブな現実論は、ここでもまた、考えるによって得られるよりも、はるかに現実的なあるを迎えると信じる。

 

 さきに見たとおり、情の神秘主義は、覚えられてある情を考えられてある〈考え〉よりもリアルであると思いなし、情を覚えるによってものごとのリアリティを得ようとします。それは、情とのかかわりにおいて、覚えられるということがリアリテイの証であるというナイーブなリアリズムを、それとは気づかずに生きているからです。同じく、ナイーブなリアリズムは、覚えられてある欲りが考えられてある〈考え〉よりも、ずっとリアルであると思いなします。そもそも、そのリアリズムは、欲りとのかかわりにおいて、覚えられるままがありのままであるという考え(イデー)に浸りながら、そのことを見過ごしています。だからこそ、覚えられてある欲りがそのままでリアルであると、いちずに思いなすことができます。

 二の文です。

 

 その現実論は、ことをいよいよ〈考え〉においてつかむ考えるに対し、欲りにおいて、みずからが、こと、ことの起こりに、じかに気づくための元手を見やるようになる。

 

 いうところのナイーブなリアリズムは、いうところの思いなしから、さらにこう見なすようになります。すなわち、考えるは、ことを後から追って考えつつ、〈考え〉においてつかむゆえに、そのつかまれたことは、もはやことそのことではなく、〈考え〉であり、かたや、欲りは、ことそのことを見せてくれる。言い換えると、〈考え〉という元手においては、ことが間接に知られ、かたや、欲りという元手においては、ことが直接に知られる。ただし、そのリアリズムは、その見なしがまさに見なしであることにも気づいていません。そもそも、見なすもまた、人が考えるによってする働き(アクト)です。(「つかむ」に当たるのはfassenであり、「把握、理解、会得」といった意です。それについては、ことに二の章を見てください。「気づ〈」に当たるのはgewahr werdenであり、gewahr〈まことに〉werden〈なる〉という言い回しであり、wahrnehrnen〈覚える〉すなわちwahr〈まことに〉nehrnen〈とる〉ということばに通じます。それについては、ことに3-b, 4-b-lの回を見てください。「・・・において・・・を見やる」に当たるのはin…,…erblickenであり、in…〈・・・において〉···erblicken〈・・・を見やる〉という言い回しで、「・・・を・・・と見なす」といった意です。)

 三の文です。

 

 〈わたし〉が〈わたし〉の欲りによってなしとげることが、そのような観方にとっては、じかに生きられるプロセスとなる。

 

 いうところの見なしをする人は、たとえばですがコーヒ一を欲して飲むということにしても、その人が飲むほうを、ほかの人が飲むよりも、ずっとリアルなこととして迎えます。ただし、その人は、その迎え方がいうところの見なしによっていることに気づいていません。(「観方」に当たるのはAnschauungであり、an〈ついて〉schauen〈観る〉から来ます。そしてschauen〈観る〉もまた、わたしたちが考えるによってする働きです。)

 四の文です。

 

 その哲学を認める者は、欲するにおいて、世のことの片端を現実的につかんだと信じる。

 

 いうところの観方がまことだとする人においては、さまざまあることごとのなかでも、ただひとつ欲することのみがリアルなことであり、まさに世のことの一切れであるという思いが、しつかりと抱かれています。しかし、その人は、それがまさに思い込みであることに気づいていません。(「認める者」に当たるのはBekennerであり、bekennen〈認識する、告白する〉から来て、ことに「信条や信仰の告白者」の意です。)

 五の文です。

 

 その者は、ほかのことごとを、覚えるによって外から追うことができるだけであっても、その者の欲するにおいて、リアルなことを、まったくじかに生きると信じる。

 

 いうところの思い込みをもつ人にとってみると、ことの覚えによっては、リアルなことが間接に知られるばかりであり、みずから欲することの覚えによってこそ、リアルなことが直接に知られるということになります。しかし、その人は、みずからの欲りの覚えも、ほかの覚えと同じく、ただの覚えとして、リアリティを欠くことがあるのを、見落としています。

 六の文です。

 

 その者にとっては、欲りがみずからの内側に現れてある、そのあるのかたちが、現実の現実原理となる。

 

 いうところの思い込みをもつ人は、その人の外に覚えるもろもろをリアルではないと見なし、その人の内に覚える欲りのありようを、リアルであることの徴であると思いなします。しかし、その人は、原理というのが、すでにして考えであること、および、その人の内に覚えるもろもろも、その人の外に覚えるもろもろも、同じくただの覚えでありうることを、見落としています。そもそも、内といい外というのは、すでにしてく考え〉であり、内と外を分かつというのは、まさに人が考えるによってする働きです。(「現実の現実原理」に当たるのはRealprinzip der Wirklichkeitです。それについては、次の段でふれる

ことにします。)

 七の文です。

 

 その者にとっては、その者の欲するが、あまねき世のことのスペシャルケ一スとして現れ、もって、あまねき世のことが、あまねき欲するとして現れる。

 

 いうところの思い込みをもつ人は、その人の欲するが、世という、まるごとでひとつのことのうちの、ことさらなひとところであると見なし、そのまるごとでひとつのことが、まるごとでひとつの欲するであると見なします。しかし、その人は、世が、覚えられる(現れる)ところではなくて、考えられるところであることを(5-c-1, 5-c-2)、見落としています。ついでですが、たとえば手で壁を押すと、壁が手を押し返すというように中学の理科で習いましたが、その「押し返す」は、どういう意味で言われているのか、わたしはいまだに引っ掛かっています。わたしが他の人を押して、他の人がお返しにわたしを押すというのは、すんなり分かるのですが。たとえばまた、The door will not openという一文に英語の時間で出くわしましたが、イギリスやアメリカの人はドアも人のように欲すると思っているのだろうかと、わたしはおかしな気持ちになったのを、いまも憶えています。

 八の文です。

 

 欲りが世の原理となるのは、情の神秘主義においで清が知るの原理となるのと同じである。

 

 世は欲りであるという考えを立てる人も、知るば情によるという考えを立てる人も、ここまでに見てきたとおり、考えるを見落としつつ、それとは気づかずに思いなし、見なすによって立てています。原理にしても考えにほかならないことを、その人は見過ごしています。

 九の文です。

 

 そのような観方が欲りの哲学(テリスムス)である。

 

 右のような思いなし、見なし、思い込みのアクトをもって、世は欲りであるとする哲学がなされます。(「テリスムスThelismus」は「有神論Thcismus」のことでしょうか。どなたか教えてください。)

 十の文です。

 

 ただただインディビシュアルに生きられるところが、そのような観方によって、世の組み立てるフアクターに仕立てられる。

 

 世は欲りであるという考えを立てる人は、欲りという、まさにその人がその人なりに生きるところによって、あまねき世が仕立てられつつあるというように思い描きます。つまり、その仕立てられつつあるあまねき世は、まさにその人なりの思いのうちにしかありません。かたや、ありありと経験されるとおり、〈考え〉のいちいちは互いに織りなしあっていますし(四の章)、いちいちの〈考え〉は、人それぞれなりに生きられるとともに、それぞれなりに尽きないところを有しています。たとえば、三角形というひとつの〈考え〉は、あまたの人に考えられても、あまたなりにはなりません(五の章)。そして、〈考え〉と覚えの重なりにおいて、いちいちのものごとがみずたたみずしく深みを湛えてあり、ひとつの世がありありと広やかに繰り出し、はたまたその同じ時において、ものごとの想いがあらたに親しく、つくりをもって生まれ、人となりがひとしおたわわになりたちます(六の章)。(「組み立てる」に当たるのはkonstruierenであり、「建造、構成作図」といった意です。7-b-2の回を見てください。)

 七の段です。

 

 情の神秘主義を科学と呼ぶことができないように、欲りの哲学も科学と呼ぶことはできない。そもそも、そのふたつは、世を〈考え〉でもって浸すことでは事足りないと言い立てる。そのふたつは、あるの理想原理に並べて、もうひとつ現実原理を求める。それもそれなり正しい。しかし、わたしたちは、その現実原理に向け、つかみあげる手立てとして、覚えるをもつのみであるから、情の神秘主義と欲りの哲学の言い立ては、こういう見解と同じである。すなわち、わたしたちは、知るのみなもとふたつの源、考えるのそれと覚えるのそれをもつが、後者ば情と欲りにおいて、インデビジュアルに生きられることとして表れる。ひとつの源からの湧きだし、生きられることを、その世の観方は、もうひとつ、考えるからの湧きだしへと受けとることができないから、ふたつの知り方、覚えると考えるは、より高いとりなしを欠き、並んであるままである。弁えるによって得られる理想原理のほかに、もうひとつ、考えるにおいてはつかまえられない世の現実原理が与えられてあって欲しいのである。ことばを換えれば、情の神秘学と欲りの哲学は、ナイーブな現実論である。なぜなら、そのふたつは、じかに覚えられるところが現実であるという一文に惚れているからである。そのふたつは、ただ、もともとのナイーブな現実論に対して、こういうちぐはぐなことをしでかしている。すなわち、そのふたつは、覚えるの定かなかたち(感じる、あるいは欲する)を、あるを知る、ただひとつの手立てに仕立てるが、そうすることができるのは、覚えられるところが現実であるという原則に、あまねく惚れるからこそである。そのふたつは、そのことをもって、外を覚えるにも、同じ知るの値を付けなければなるまいに・・・。

 

 ある(現実、実在)と知る(認識、把握)を、情の神秘主義と欲りの哲学がどう見てとっているのか、いまひとたび見てとることになります。

 一の文から見てきます。

 

 情の神秘学を科学と呼ぶことができないように、欲りの哲学も科学と呼ぶことができない。

 

 科学は法則を探りだすことです。そして、探りだされた法則は知識として弁えられます。その意味において、情の神秘主義も欲りの哲学も、科学の名に値しません。信条ないし信仰に尽きるまでです。(なお、ここまでの訳において「科学」「知識」に当たるのはWissenschaftであり、「識る」「知っている」「弁える」に当たるのはwissenです。なお、これについても「ひとつの原語にひとつの訳語を」というモットーを

押し通せませんでした。あしからず。)

 二の文です。

 

 そもそも、そのふたつは、世を考えでもって浸すことでは事足りないと言い立てる。

 

 情の神秘主義も欲りの哲学も科学の名に値しないのは、すなわち、そのふたつが、考えるをもっては、リアルなありように迫れないとの考えに、どっぷりと浸るからです。(なお「浸すdurchdringen」については8-bの回を見てください。)

 三の文です。

 

 そのふたつは、あるの理想原理に並べて、もうひとつ現実原理を求める。

 

 情の神秘主義も欲りの哲学も、あるが考えとしてつかまれるということ、いうならば考えのイデアルな原理では満ち足りずに、あるがじかに覚えられて、つかまれるということ、いうならばリアルな覚えの原理を求めます。(「理想原理」に当たるのはIdealprinzipであり、「現実原理」に当たるのはRealprinzipです。なお『自由の哲学』においては、理想原理がそのまま現実原理です。それについては、ことに7-a-4の回を見てください。)

 四の文です。

 

 それもそれなり正しい。

 

 わたしたちは、ただの覚えをもっては満ち足りず、そのただに覚えられるものごとが、そもそもなにごとであり、もともとなにものであるかを問います(二の章)。その意味においては、情の神秘主義も欲りの哲学も例外ではなく、ただの覚えのほかに、なんらかの手立てを求めざるをえません。

 五の文です。

 

 しかし、わたしたちは、その現実原理に向け、つかみあげる元手として、覚えるをもつきりであるから、情の神秘主義と欲りの哲学の言い立ては、こういう見解と同じである。すなわち、わたしたちは、知るのふたつの源、考えるのそれと覚えるのそれをもつが、後者ば情と欲りにおいて、インデイビジュアルに生きられることとして表れる。

 

 いうところの現実原理は、考えるをよそにした、ひとえに覚えるをよりどころにする原理です。しかも、その覚えるは、それぞれの人がそれぞれなりに生きる情と欲りを覚えるまでです。つまり、情の神秘主義と欲りの哲学は、考えも覚えられるところであることを見落としています。(「つかみあげる」に当たるのはauffassenであり、auf〈あげて〉fassen〈つかむ〉というつくりです。)六の文です。

 

 ひとつの源からの湧きだし、生きられることを、その観方は、もうひとつの湧きだしへとじかに受けとることができないから、ふたつの知り方、覚えると考えるは、より高いとりなしを欠き、並んであるままである。

 

 情の神秘主義にとって、覚えられる情は、〈考え〉との重なりを欠いだ情、いうならば、わけのわからない情であり、欲りの哲学にとって、覚えられる欲りは、〈考え〉との重なりを欠いた欲り、いうならば、やみくもの欲りであり、どちらにおいても、覚えると考えるは、どこまでもそれぞればらばらになされるまでです。(「並んで」に当たるのはnebeneinanderであり、einander〈互いに〉neben〈並んで〉というつくりで、「並列、平行、ばらばら」といった意です。)

 七の文です。

 

 弁えるによって得られる理想原理に並んで、もうひとつ、考えるにおいてはつかまえられない世の現実原理が与えられてあって欲しいのである。

 

 はたして、この一文は、並んだまま、交わることなく、ばらばらでなされる考えると覚えるを伝えていないでしょうか。いうところの現実原理、ひとえに覚えられるはずのこと、考えられないはずのことが、じつに考えられており、しかも欲されています。(「欲しいのである」に当たるのはsollenであり、wollen〈欲する〉の裏返しです。英語でいえばshallとwillのかかわりです。それについては、ことにーの章を見てください。)

 そして、八の文です。

 

 ことばを換えれば、情の神秘主義と欲りの哲学は、ナイープな現実論である、なぜなら、そのふたつは、じかに覚えられるところが現実であるという一文に惚れているからである。情の神秘主義も欲りの哲学も、情と欲りという、みずからの内側の覚えとのかかわりで、覚えられるままがありのままであるという考えに浸っています。そのふたつは、そのことにおいて、ナイーブな現実論と変わりありません。(「惚れている」に当たるのはhuldigenであり、「忠誠を誓う、入れ込む、耽る」といった意です。なお「惚れる」については、5-d-2の回を見てください。)

 九の文です。

 

 そのふたつは、ただ、もともとのナイーブな現実論に対して、こういうちぐはぐなことをしでかしている。すなわち、そのふたつは、覚えるの定かなかたち(感じる、あるいは欲する)を、あるを知る、ただひとつの手立てに仕立てるが、そうすることができるのは、覚えられるところが現実であるという原則に、あまねく惚れるからこそである。

 

 ただひとつ、感じるによって、ありのままが知られるというのも、ただひとつ、欲するによって、リアルなことがつかまえられるというのも、覚えられるままがありのままであるという考えを、ただひとつの、おおもとの考えとして奉じているからできることです。そもそも、感じる(情を覚える)も欲する(情を覚える)も、覚えるに変わりはありません。その意味において、情の神秘学と欲りの哲学は、筋が通っていません。

 十の文です。

 

 そのふたつは、そのことをもって、外を覚えるにあたいも、同じ知るの値を付けなければなるまいに・・・。

 

 情の神秘主義も欲りの哲学も、筋を通すならば、外の覚えにしても、情や欲りという内の覚えと同じくリアルであるとしなければなりません。それどころか、考えられる考えもまた覚えられるところであり、考えの覚えもまたリアルであるとしなければなりません。ちなみに、コーヒーを欲して飲むということにしろ、わたしが飲むのも、ほかの人が飲むのも、わたしにとっては、リアルであったり、リアルでなかったりします。つまり、わたしは、なにか考えごとをしながら上の空で飲んでいたりもすれば、ほかの人が飲むのを、ぼんやり見るともなく見ていたりもします。(なお「値」も「意義」も「意味」も、覚えとく考え〉の重なりにおいて出てきます。それについては、ことに5-d-2の回を見てください。)

 さて、八の段にしてお終いの段です。

 

 欲りの哲学は、欲りを、はたまた主の内でのようにじかに生きることはできない時空へと移し置くにおいて、メタフィジカルな現実論となる。そかりの哲学は、主の外にひとつの原理を仮に思いもうけるが、その原理に向けては、主によって生きられるということが、ただひとつの現実の標である。メタフィジカルな現実論として、欲りの哲学は、さら前の章に挙げた批判に曝される。すなわち、その批判は、いちいちのメタフィジカルな現実論の矛盾した点を、きっと凌いで、このことを、きっと認める。すなわち、欲りがあまねき世のことであるのは、欲りが、イデーによって、欲りの他の世へと重なるにおいてである。

 

 欲りの哲学は、みずからの外に覚えられることごとも、まことその実は欲りであるとしています。しかし、その欲りは、みずからの内に覚えられる欲りのように覚えられはしません。その欲りは、つまり考えだされてあり、推し量られてあり、思い描かれてあるまでです。言い換えれば、メタフィジカルなリアリティであるまでです。

 

 欲りの哲学は、みずからの外のこととして、リアルな欲りということを考えだし、推し量り、思い描き、そのリアルな欲りのありようが、みずからのいきいきと覚える欲りのありようと同じであるとしています。しかし、みずからがいきいきと覚えることができる欲りは、ほかでもなく、みずからの内に湧きくる欲りばかりです。

 

 そのとおり、欲りの哲学もメタフィジカルなリアリズムであり、覚えられない覚えという矛盾を抱えています。そして、七の章において見たとおり、その矛盾は、〈考え〉もまた覚えられるところであり(三の章)、覚えと覚えの重なりが覚えとしてでなくて、考えとしてあるところであり(四の章)、覚えと〈考え〉の重なりがリアルなものごとであるのを(五の章)、まさに見てとるによって凌がれます。(なお「標Kriterium」も「批判Kritik」も、ともにギリシャ語krinein〈裁つ、分かつ、判じる〉から来ています。

 

 そして、わたしたちは、ひとりひとりが考えるから欲してするにおいて、または、しようと思ってするにおいて、あまねき世に、ひとりひとりの印を、ありありとリアルに記すものです。

 

 さて、この回のお終いにも、西田幾多郎『善の研究』から、「版を新にするに当って」の一節を引くことにします。

 

 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗(うららかに)に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。まだ高等学校の学生であった頃金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される・・・