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略伝自由の哲学第九章a-1

 この回から九の章に入ります。章のタイトルは「自由のイデー」です。この章は、すなわち、これまでに見てとったことを踏まえながら、自由ということを考えてみる章です。まず一の段が、こうあります。

 

 木の〈考え〉は、知るにとり、木の覚えによって決まっている。わたしは、定かな覚えに対して、あまねき〈考え〉のシステムから、ただひとつの、まったく定かな〈考え〉を取り上げることができるのみである。〈考え〉と覚えのかかわりは、覚えについて考えるにより、間接に、かつ客として定められる。〈考え〉と覚えのつながりは、覚えのアクトの後に知られるが、その合わさりは、ことがらそのものにおいて定まっている。

 

 いまひとたび、順を追って見ていきます。一の文です

 

 木の〈考え〉は、知るにとり、木の覚えによって決まっている。

 

 わたしが知っている木は、わたしがこれまでに覚えた木であり、想った木であり、考えた木です。そして、その想いも、その考えも、その覚えがもとになっています。さらに、わたしがまだ知らない木を思い描こうとするにしても、その覚えにたよらざるをえません。(「木の〈考え〉」に当たるのはBegriff des Baumesであり、des Baumes〈木の〉Begriff〈考え〉という言い回しで、「木という概念」と読みかえることもできます。ただdes Baumes〈木の〉というかたちが生成格と呼ばれます。その生成ということを少しでも生かそうとしてみました。すなわち、木の覚えが与えられるところであるのと同じく、木の〈考え〉が、木の覚えにつき、考えるから生みだされます。つまり、木の覚えも、木の〈考え〉も、ともに木に属します。それについては、ことに5-b-1の回を見てくださいなお「〈考え〉Begriff」については、ことに3-bの回を、そして「決まるbedingen」については、7-a-4の回を見てください)。

 二の文です。

 

 わたしは、定かな覚えに対して、あまねき〈考え〉のシステムから、ただひとつの、まったく定かな〈考え〉を取り上げることができるのみである。

 

 覚えが定かになるのは、人が覚えと対しあう、ないし向きあうにおいてです。そして、まさにこれぞという覚えには、まさにこれぞという〈考え〉が重なっています。たとえば、幽霊の正体見たり枯尾花、という句がありますが、その正体は、覚える人が覚えと対しあい、向きあうにおいて定まります。そして、その正体を、その人が、ほかでもなく枯尾花という、まったく定かな名で呼ぶのは、まさにそう呼ぶべきいわれが、まさにその正体にあるからです。(「取り上げる」に当たるのはheraushebenであり、heben〈持ち上げて〉heraus〈外に出す〉というつくりで、「取り立てる、引き立てる、際立たせる」といった意です。)

 三の文です。

 

 〈考え〉と覚えのかかわりは、覚えについて考えるにより、間接に、かつ客として定められる

 

 〈考え〉と覚えの重なりは、定かな覚えであるとともに、すでにして想いです。すなわち、わたしたちは、定かな覚えを、後から想い起こすにより、ないしは追って考えるによって、〈考え〉と覚えのかかわりを、それとしてつきとめ、それとして取り立て、引き立てつつ、それと対しあい、向きあうことができます。言い換えれば、それを対象とし、客とすることができます(「客Objekt」については、ことに4-a-3の回を、「対象Gegenstand」については、ことに4-a-1の回を見てください。)

 四の文です。

 

 〈考え〉と覚えのつながりは、覚えのアクトの後に知られるが、その合わさりは、ことがらそのものにおいて定まっている。

 

 〈考え〉と覚えのつながり、もしくはかかわりは、三の文にいうとおり、まさに覚えた後に、想い起こし、追って考えて知ることができますが、〈考え〉と覚えの合わさり、もしくは重なりは、しっかりと覚えるにおいて生じています。(「アクトAkt」については、ことに5-d-1の回を見てください。)

 さて、二の段です。

 

 知る、もしくは、知るにおいて出てくる人と世のかかわりが見てとられるにおいては、プロセスが異なる。これまでの論において、このことを示す試みがなされている。すなわち、そのかかわりは、そのかかわりを囚われずに見るによって明らかにすることができる。その見るによって見られるところをふさわしく理解するならば、こういう見通しに行きつく。すなわち、考えるは、ひとつのそれそのことで決まることとして直接に観ることができる。考えるをそれとして説き明かすにつき、それとは別のこと、たとえばフィジカルな脳のプロセスとか、見られて意識された考えるの後ろに潜む、意識されない精神のプロセスとかを持ち出さなければならないと認める人は、考えるを囚われずに見るによって与えられるところを、知りそこねている。考えるを見る人は、見るあいだ、直接、精神のそれそのことで持ちこたえる織りなしのただなかに生きる。まさしく、こうも言うことができよう。すなわち、精神のことを、人へとまずもって出てくるつくりにおいてとらえようとする人は、それそのことで安らう考えるにおいてとらえることができる。

 

 くりかえし、一の文から見ていきます。

 

 知る、もしくは、知るにおいて出てくる人と世のかかわりが見てとられるにおいては、プロセスが異なる。

 

 一の段では、知るの元手である〈考え〉と覚え、および、その二つのかかわりを見てとりましたが、この二の段では、知るということそのことを見てとります。

 二の文です。

 

 これまでの論において、このことを示す試みがなされている。すなわち、そのかかわりは、そのかかわりを囚われずに見るによって明らかにすることができる。

 

 知るには、見ると考えるが与ります。そして、これまでに述べられていることのなかで、考えるを見る試みがなされています。なお、見るは、人が、人へと与えられる覚えに、しっかり沿おうとする働きです。色や光を見るはもとより、味をみる、湯加減を見る、さわってみる、さらには思ってみる、考えてみるなどの「みる」にまたがります。つまり、考えも、情も、欲りも覚えられるところであり、その覚えにしつかり沿おうとすることも、見るのうちに入ります。

 三の文です。

 

 その見るによって見られるところをふさわしく理解するならば、こういう見通しに行きつく。すなわち、考えるは、ひとつのそれそのことで決まることとして直接に観ることができる。

 

 考えるを見るにおいて、こういうことを見てとることができます。すなわち、考えるは、どこまでも〈わたし〉が生みだすことであり、考えるを見る〈わたし〉は、〈わたし〉のほかに、なんの支えも要しません。言い換えれば、考えるを見る時の考えると見るは、ぴたりと一つに重なりあいます。さらに言い換えれば、考えるを見る時の考えると見るのかかわりは、直接に、もしくは時を同じくして視野にはいります。そして、その視野は、世という、いたって広やかな視野です。(「ひとつのそれそのことで決まること」に当たるのはeine in sich beshlossene Wesenheitであり、eine〈ひとつの〉insich〈それそのことにおいて〉beschlossene〈決められた〉Wesenheit〈ことであること〉という言い回しです。なおbeschlossne〈決められた〉はschliessen〈閉ざす、結ぶ、決める〉から来ます。それについては7-c-2の回を見てください。)

 四の文です。

 

 考えるをそれとして説き明かすにつき、それとは別のこと、たとえばフィジカルな脳のプロセスとか、見られて意識された考えるの後ろに潜む、意識されない精神のプロセスとかを持ち出さなければならないと認める人は、考えるを囚われずに見るによって与えられるところを、知りそこねている。

 

 脳のプロセスであれ、意識されない精神であれ、それを説き明かすには、見ると考えるによるしかありません。そして、考えるを囚われずに見るによって与えられるところとして、こういうことがあります。すなわち、考えるの辿った跡は隈なく見通しがきますし、人は、脳のことをなにも知らなくても、考えることができます。

 五の文です。

 

 考えるを見る人は、見るあいだ、直接に、精神の、それそのことで持ちこたえる織りなしのただなかに生きる。

 

 考えるを見る人は、脳にもよらず、意識されない精神にもよらず、ただひとつ、その人のする精神の働きによって、ありありとリアルに織りなす精神の働きに通われつつ生きます(三の章)。まさにその時、考えるは、〈わたし〉が生みだす精神の働きであるばかりか、覚えに重なり、覚えと覚えのかかわりを生みだす精神の働きでもあります。そもそも、かかわりというのは、〈考え〉です(四の章)。なお、一の段にいうところの〈考え〉のシステムは、〈わたし〉が後から追って考えつつ取り立てる、覚えと覚えのかかわりにほかなりません。(「それそのことで持ちこたえる織りなし」に当たるのはsich selbst tragendes Wesenswebenであり、sich selbst〈それそのことを〉tragendes〈支えつつの〉Wesensweben〈ことの織りなし〉という言い回しです。)

 六の文です。

 

 まさしく、こうも言うことができよう。すなわち、精神のことを、人へとまずもって出てくるつくりにおいてとらえようとする人は、それそのことで安らう考えるにおいてとらえることができる。

 

 ーの章には「考えるは、獣とともどもに授かるこころを、精神に仕立てる」という、ヘーゲルのことばが引かれていました。そして、ここにいう精神も、まさにその意味において、考えるによって意識されるこころのことを指しますが、それだけには尽きません。はたして、四の章では、ヘーゲルが、考えるでなく、〈考え〉をそもそものみなもととしていることに触れられていました(4-a-1)。すなわち、ヘーゲルによれば、〈考え〉があるから、考えるがなされます。しかし、考えるは、ひとえに〈わたし〉が生みだすことであり、ひとえに生みだして見るという、〈わたし〉の精神の働きのほかには、なんの支えも要しません。それは、からだにもよらず、欲りや、情や、〈考え〉といったこころのもろもろにもよらず、まさにそれそのことで安らいます。そのとおり『自由の哲学』は、〈考え〉を立てるのはもとより、考えるを見る〈わたし〉、精神としてのひとりひとりを立てます。(「それそのことで安らう考える」に当たるのはauf sich selbst ruhendes Denkenで、auf sich selbst〈それそのことの上に〉ruhendes〈安らいつつの〉Denken〈考える〉という言い回しです。なおruhen〈安らう〉については、3-cの回を見てください。)

 三の段です。

 

 考えるを見てとるにおいては、そのほかではきっと分かれて出てくるもの、すなわち〈考え〉と覚えが、ひとつに合わさる。そのことを見抜かない人は、覚えについて稼がれる〈考え〉を、その覚えの影のごとき残像にすぎないと視ようし、覚えをまことの現実であると思いなすようになる。その人は、また、覚えられた世をモデルにして、メタフィジカルな世を築きあげ、その世を、原子の世、欲りの世、意識されない精神の世などと、みずからの思いのありように応じて呼ぶようになる。そして、その人が、メタフィジカルな世を、みずからの覚えの世をモデルにして、仮に築きあげただけにすぎないことは、その人の意識から抜け落ちるようになる。しかし、考えるとの重なりにおいて迎えられるところを見抜く人は、このことを知るようになる。すなわち、覚えるにおいては、現実のひとところが迎えられるのみであること、そして、現実に属するもうひとところ、現実をいよいよもってまるまるの現実として現させるところが、考えるが覚えに通うこととして生きられることである。その人は、意識のうちに考えるとして出てくるところを、現実の影のごとき残像と視るのではなく、それそのことで安らう精神のことと視るようになる。そして、その人は、そのことについて、こうも語ることができよう。すなわち、そのことは、その人にとり、悟りによって、意識のうちにありありとあるようになる。悟りは、まぎれのない精神において繰り出す、まぎれのない精神の内容を、意識して生きることである。悟りによってこそ、考えるのことたるところが、とらえられる。

 

 いまひとたび、ーの文から見ていきます

 

 考えるを見てとるにおいては、そのほかではきっと分かれて出てくるもの、すなわち〈考え〉と覚えが、ひとつに合わさる。

 

 たとえばですが、木の覚えがあり、その覚えについてなにごとかを言うとします。なにごとかを言うことができるのは、なんらかの〈考え〉があってであり、なんら かの〈考え〉があるにいたるまでには、いささかなりとも間があります。そして、なんらかの〈考え〉があるにいたるのは、しっかり覚えてみれば、〈わたし〉へと及びくる考えるによってこそです。まさにその時、考えるは、覚えると合わさってひとつですそして、まさにその時は、木の覚えがひとしお嵩じつつ定かになる時でもあります(5-b-l)。

 そもそも、覚えの定かさは、想いの定かさであり、覚えに重なる〈考え〉の定かさです逆に、〈考え〉との重なりを欠く覚えは、定かではない覚えであり、たとえば、なんとなくの覚え、うろ覚え、上の空の覚えなど、いうならば覚えの数に入らない覚えであり、また、うつろな覚え、あるいは幽霊のごとくたゆたう覚え・・・。

 二の文です。

 

 そのことを見抜かない人は、覚えについて稼がれる〈考え〉を、その覚えの影のごとき残像にすぎないと視ようし、覚えをまことの現実と思いなすようになる。

 

 覚えは、考えるが及びくるによって定かになり、その定かさは、後に想いとして想い起こされ、その想いからそれなりの〈考え〉が取り立てられ、引き立てられます。しかし、考えるが及びくることを見過ごす人は、覚えと想いと〈考え〉のみを見据えて、想いと〈考え〉は覚えの名残りであると見なし、覚えこそがリアルなものであると思いなすようになります。

 三の文です。

 

 その人は、また、覚えられた世をモデルにして、メタフィジカルな世を築きあげ、その世を、原子の世、欲りの世、意識されない精神の世などと、みずからの思いのありように応じて呼ぶようになる。

 

 覚えこそがリアルなものであると思いなす人は、さらに、覚えの向こうにあるらしい覚えられない覚えというような、筋の通らないことを考えだして、それこそがまことの現実であると思いこみます。いまの科学においてとやこうされる原子や量子というものも、また一時代前の哲学においてとやこうされた「ものそのもの、ことそのこと(物自体)」も、またメタフィジカルなものごとをあれこれと論じる論の多くも、そのようにして考えだされ、思い思いに思いもうけられたものにほかなりません。はたして、それらのものは、考えられ、思われるばかりで、覚えられはしません。

 四の文です。

 

 そして、その人が、メタフィジカルな世を、みずからの覚えの世をモデルにして、仮に築きあげただけにすぎないことは、その人の意識から抜け落ちるようになる。

 

 覚えられない覚えというものを考えだし、覚えられるフィジカルな世の向こうにあって、覚えられはしないメタフィジカルな世を思いもうけた人は、それがどこまでも考えや思いでしかないことに気づかないか、またはそのことを忘れるか、あるいは意に介さないようになります。そして、そのことのゆえに、仮の説が、実の説のごとくに罷り通るようにもなります。

 五の文です。

 

 しかし、考えるとの重なりにおいて迎えられるところを見抜く人は、このことを知るようになる。すなわち、覚えるにおいては、現実のひとところが迎えられるのみであること、そして、現実のもうひとところ、現実をいよいよもってまるまるの現実として現させるところが、考えるが覚えに通うこととして生きられることでる。

 

 考えるは、〈わたし〉が生みだしつつ、〈わたし〉へと及びきたり、覚えに重なります。そのことを見過ごさない人は、さらにこういうことにも敏く気づくようになります。すなわち、ただの覚えも、ただの〈考え〉も、同じくリアリティを欠き、〈考え〉と覚えの重なりにおいてリアリティが生まれます。言い換えれば、ものごとは、〈考え〉と覚えが重なるにおいて、ありありと生じ、リアルにものを言います。ちなみに「現実」に当たるのはWirklichkeitであり、wirken〈働く、働きかける〉から来て、Wirk〈働きが〉lich〈ある〉keit〈こと〉というつくりです(4-a-2, 5-c-1)。はたして、その働きは、ほかでもありません、考えるの働きです。すなわち、考えるは、ものごとをありありとあらしめます。(ついでに、一の段のはじまりにおいて「木の覚え」という言い方はすんなりとできましたが、「木の〈考え〉」という言い方をするには、ためらいがありました。それは〈考え〉が〈わたし〉の生みだす考えるによって生みだされるゆえです。しかし、考えるは、生みだし手である〈わたし〉に働きかけもすれば、ものごとに重なりつつ、ものごとをものごととして、ありありとあらしめもします。)

 六の文です。

 

 その人は、意識のうちに考えるとして出てくるところを、現実の影のごとき残像と視るのではなく、それそのことで安らう精神のことと視るようになる。

 

 考えるを見る人は、考えるの働きとして、さらにこういうことにも聡く気づくようになります。すなわち、考えるは、〈わたし〉の意識の明るみに、明らかさをもたらします。そもそも、〈わたし〉の意識(自己意識)の明るみも、考えるからの明るみです。すなわち、考えるは、〈わたし〉と世を照らす、あまねく、安らかな光のごとくです。

 七の文です。

 

 そして、その人は、そのことについて、こうも語ることができよう。すなわち、そのことは、その人にとり、悟りによって、意識のうちにありありとあるようになる。

 

 ここにいう悟りは、〈考え〉の内容がまずもって現れるときのかたちを指します(5-d-3)。六の文を踏まえて言えば、〈わたし〉の意識の明るみに、考えるからの明らかさが宿ることです。

 なお「悟り」に当たるのはIntuitionであり、もとはラテン語で「じかに観る」の意です。哲学では「直観」「直覚」とも訳されます。ふつうにいう「ひらめき」や「勘」も当たるでしょう。また「さとし、さとる、さとす」と訓じられる字には、「敏」「聡」「慧」「喩」「覚」などがあります。「敏」は「祭事につかえる婦人が、髪を整えている形」で「敏捷に祭事に奔走している姿」であり、「聡」は旁が「窓明かりの形」で「神明を迎え」「耳に神の声をきくこと」であり、「彗」は「帚をもつ形」で「寝廟を祓い清めるのに用いられる」ゆえ、「慧」はいわば清められたこころでしょうか。「喩」は旁が「外科的方法で病を愈すことをいう。これを治癒といい、その安らぐ心情を愈・愉という。喩・諭とはことばでその迷誤を教えなおす意」であり、「覚」は「目覚め」、そして「悟」には「こころの爽明をまもる意がある」とのことです(白川静『字統』『字訓』)。いかがでしょうか。ここにいう悟りには、右のことばと字の伝えるところがすべて含まれていないでしようか。すなわち、広やかさ、あまねさ(観)、直接さ(勘)、アクティブさ、かいがいしさ(敏)、明らかさ(聡、ひらめき)、清らかさ、澄みやかさ(慧)、健やかさ(喩)、目覚め(覚)です。

 さらに、考えるを見る、ないし悟りにも、また〈考え〉を見る見方にも、人をならせる働きが及びます。はたして、この段の二の文からここまでに出てくる六つの「なる」も、まさにその働きでなくしてなんでしょうか。そして、さらなる「なる」が、次の段から見てとられることになります。(なお「なるwerden」については、ことにーの章を見てください。)

 八の文です。

 

 悟りは、まぎれのない精神において繰り出す、まぎれのない精神の内容を、意識して生きることである。

 

 悟りは、考えるという、ひとえに精神のことから来る、あまねく、あきらかな〈考え〉の織りなしを、じかに、アクテイブに、澄みやかに、健やかに、いきいきと覚えることです。

 九の文です。

 

 悟りによってこそ、考えるのことたるところが、とらえられる。

 

 悟りをふさわしくとらえてみるならば、こういうことが分かります。すなわち、考えるは、ほかのことと同じく、ことであるとともに、ほかのことよりもなおさらリアルなことです。(「考えるのことたるところ」に当たるのはWesenheit des Denkensであり、des Denkens〈考えるの〉Wesen〈こと〉heit〈であること〉という言い回しです。)

 さて、この回のお終いには、まさに考えるにちなんで、くどうなおことのはらみんなの「のはらうた」から、こんなうたを引きます。

 

 かんがえごと

こねずみしゅん

 

こねずみはみんな

どんぐりをかじりながらかんがえごとをする

ひとつかじって・・・・はてな?

ふたつかじって・・・・なるほど

みっつかじって・・・・そうか

よっつかじって・・・・でもね

いつつかじって・・・・ええと

むっつかじって・・・・しかし

ななつかじって・・・・たとえばさ

やっつかじって・・・・つまり

ここのつかじって・・・・やっぱり

とうでとうとうわかった!

きょうは10こかじったので

10こぶんかんがえごとができた