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略伝自由の哲学第九章b-1

 この回は九の章の六の段からです。

 

 〈わたし〉の意識は、人のなりたちの上に建てられている。そのなりたちから、欲しての振る舞いが湧きだす。これまで述べてきたことの向きにおいて、考えると、意識される〈わたし〉と、欲しての振る舞いとのかかわりへの視野が得えられるのは、欲しての振る舞いが、人のなりたちから、いかに出てくるかが、いよいよ見られるにおいてこそである。

 

 これまでに見てとったとおり、考える、もしくは悟るは、まぎれのない精神のことであり、想い、思い、問いは、考えるの、こころのかようからだにおけるおもかげであり、〈わたし〉の意識、もしくは自己意識は、あまねき意識のうちに、こころのかよう生きたからだが、考えるからの働きかけをもって生みだす意識です。

 そして、欲する、振る舞うは、こころのかよう生きたからだから発してきます。ここからは、まさにそこへと目を向けながら、欲する、振る舞うと、〈わたし〉の意識と、考える、〈わたし〉とのかかわりを見てとります。自由ということ、まさに〈わたし〉が欲してするということが、リアルなことでありうるかどうかを確かめるには、いうところのかかわりを見てとるべく、こころのかよう生きたからだから、欲する、振る舞うがどのように発してくるかに、目を向けることが欠かせません。

 なお、一の段からこの六の段までは1918年(初版から24年の後)版を改めるに際して書き換えられ、書き加えられたと註がつけられています。(「欲しての振る舞い」に当たるのはWillenshandlungであり、Willens〈欲りの〉handlung〈振る舞い〉というつくりです。そしてhandlung〈振る舞い〉はhand〈手〉から来て、「行為、行状、商業、取引、(劇の)筋、所作」といった意です。「湧きだす」に当たるのはerfliefsenであり、er〈まさに〉fliefsen〈流れる〉というつくりで、「流動、経過、結果として生じる」といった意です。)

 七の段です。

 

 いちいちの欲するのアクトにとって見てとられるところとなるのは、モチーフと弾みである。モチーフは、〈考え〉としての、または想いに従う、欲するのファクターであり、弾みは、人のなりたちにおいてじかに決まる、欲するのファクターである。〈考え〉としてのファクター、もしくはモチーフは、欲するを定める、そのつどの基であり、弾みは、ひとりを定める、留まる基である。欲するのモチーフとなりうるのは、まぎれのない〈考え〉か、覚えるとの定かな重なりをもつ〈考え〉、すなわち想いである。あまねき〈考え〉と、ひとりなりの〈考え〉(想い)が欲するのモチーフとなるのは、その〈考え〉が人ひとりに働きかけ、そのひとりを、それなりの向きで振る舞うべく定めるによってである。しかし、ひとつにして同じ〈考え〉、または、ひとつにして同じイデーが、さまざまなひとりに、さまざまに働きかける。その〈考え〉、そのイデーが、さまざまな人にとり、さまざまな振る舞いのきっかけとなる。欲するは、すなわち、たんに〈考え〉と想いによるのみでなく、人のひとりなりの性によることでもある。そのひとりなりの性を、わたしたちは ーエドウアルト・フォン・ハルトマンに倣ってー 性格学にいう質と呼ぼう。〈考え〉と想いが人の質に働きかける、その働きかたが、人の生きるに、定かなモラルの、もしくは倫理の徴(しるし)を与える。

 

 くりかえし、一の文から見ていきます。

 

 いちいちの欲するのアクトにとって見てとられるところとなるのは、モチーフと弾みである。

 

 たとえばですが、なにかおいしいものが食べたいと思う時があります。さて、なにを食べようか、想いに思いを巡らします。天婦羅?寿司?焼肉?うなぎ?・・・と、からだに尋ねてみて、よし、焼肉にしようと、こころを決めます。というのも、天婦羅、寿司、うなぎという想いよりも、焼肉という想いによって、なおさらにこころが起こり、からだがもよおすからです。その、こころの起こり、からだのもよおしを、弾みと呼び、そのように、こころを起こし、からだのもよおしを誘いだす想い、ないし〈考え〉を、モチーフと呼ぶことにします。(「弾み」に当たるのはTriebfederであり、Trieb〈駆り立て、促しの〉feder〈羽、バネ〉というつくりで、「ゼンマイ」の意であり、「動機」とも訳されます。「モチーフ」に当たるのはMotivであり、motivum〈動かしつつある〉というラテン語から来て、「動機主題、楽想」といった意です。そのとおり、Triebfeder〈弾み〉にもMotiv〈モチーフ〉にも同じく「動機」という訳語が当たりますが、どうぞ、取り違えのないように。)

 すなわち、二の文です。

 

 モチーフは、〈考え〉としての、または想いに従う、欲するのファクターであり、弾みは、人のなりたちにおいてじかに決まる、欲するのファクタである。

 

 すなわち、欲するがこととして生じるには、二つのファクターが与ります。そのひとつ、モチーフは、こころとからだをその気にさせる〈考え〉、ないし想いであり、もうひとつは、弾みは、こころとからだに出てくるその気です。(なお「ファクターFaktor」については、ことに8-bの回を見てください。)

 三の文です。

 

 〈考え〉としてのファクター、もしくはモチーフは、欲するを定める、そのつどの基であり、弾みは、ひとりを定める、留まる基である。

 

 わたしは、なるほど、天婦羅も、寿司も、焼肉も、うなぎも、いつごろからか味をしめてより今にいたるまで、ずっと好きですが、しかし、そのうちのどれを食ベようとするかは、そのときどきで違ってきます。(「ひとり」に当たるのはIndividuumであり、これまでにいうインディビジュアリティ〈Individualitat〉と根を同じくしており(ことに六の章を見てください)、からだはもとより、からだにかよう生きたこころ、〈わたし〉の意識、さらに〈わたし〉という、まぎれのない精神をもひっくるめて指します。どうぞ、取り違えのないように。なお「定めるbestimmen」については、ことに4-a-3, 5-c-1, 6-eの回を見てください。)

 四の文です。

 

 欲するのモチーフとなりうるのは、まぎれのない〈考え〉か、覚えるとの定かな重なりをもつ〈考え〉、すなわち想いである。

 

 わたしにとって、天婦羅、寿司、焼肉、うなぎといった〈考え〉は、すでに覚えとの重なりをもつ、想いでもあります。そして、お腹がすいているときには、それを想っただけでも、よだれが出てきたりします。しかしまた、わたしは、想いもよらなかったことをしたりもします。たとえば寿司を食べるにしても、ふと、あれのあとにこれを食べてみたらどうかと考えて、からだがもよおすのをこころで感じ、いざ、これを食べてみて、うん、やっぱりそうかと想うときもあります。(なお「かさなりBeziehung」については、ことに6-aの回を見てください。)

 五の文です。

 

 あまねき〈考え〉と、ひとりなりの〈考え〉(想い)が欲するのモチーフとなるのは、その〈考え〉が人ひとりに働きかけ、そのひとりを、それなりの向きで振る舞うべく定めるによってである。

 

 わたしが焼肉という想いをもって焼肉を食べるにいたるのは、その想いがわたしのこころとからだに訴え、わたしを焼肉を食べることへ向かわせるからであり、また寿司を食べるにおいて、あれのあとにこれを食べたらと、にわかにひらめく考えから、これを食べるにいたるのも、その考えがわたしのこころとからだをそそり、わたしをそのとおりに食べるよう促すからです。(「人ひとり」に当たるのはmenschliches Individuumであり、menschliches〈人の、または人間的な〉Individuum〈ひとり〉という言い回しです。)

 六の文です。

 

 しかし、ひとつにして同じ〈考え〉、または、ひとつにして同じイデーが、さまざまなひとりに、さまざまに慟きかける。

 

 焼肉ときいて、おお!いいね!!と応える人もいれば、いや!!ちよっと!と応える人もいます。また、自由ときいて、目を輝かせる人もいれば、冷たい笑いを浮かべる人もいます。(なお「ひとつにして同じ〈考え〉ein und derselbe Begriff」については、ことに5-c-1の回を、「〈考え〉Begriff」と「イデーIdee」については、ことに4-a-1の回を見てください。)

 七の文です。

 

 その〈考え〉、そのイデーが、さまざまな人にとり、さまざまな振る舞いのきっかけとなる。

 

 焼肉ときいて、いや!!ちよっと!と応える人のなかにも、焼肉を食べにいくのに付き合う人もいれば、付き合わない人もいます。また、自由ときいて、冷たい笑いを浮かべる人のうちにも、そんな話は聴いてもはじまらないと、はなから背を向ける人もいれば、とにかく話だけは聴いておきましょうと、耳をかす人もいます。

 八の文です。

 

 欲するは、すなわち、たんに〈考え〉と想いによるのみでなく、人のひとりなりの性によることでもある。

 

 欲する、ないし、振る舞うが、こととして生じるには、〈考え〉と想いが与るばかりでなく、ひとりひとり、その人なりのこころとからだのなりたちが与っています。〈考え〉と想いは、すなわち、ひとりひとり、その人なりのこころのかよう生きたからだに、それぞれなりに働きかけ、ひとりひとり、その人なりの振る舞いのきっかけとなります。(「性」に当たるのはBeschaffenheitであり、schaffen〈生みなす、つくりだす〉から来て、Be〈まさに〉schaffen〈生みなされ、つくりだされてある〉heit〈こと〉というつくりで、「性質、状態、事情」といった意です。なお「さが」は「すがた、さま」に通じるらしく、「もって生まれた性質、宿命」および「ならわし」の意だそうです。つまり、それは先天的な質も後天的な質も指します。はたして、ここにいう性」は、どうとらえることができるでしょうか。これから述べられることに付き合いつつ、それぞれで見てとってください。)

 九の文です。

 

 そのひとりなりの性を、わたしたちは ーエドゥアルト・フォン・ハルトマンに倣ってー 性格学にいう質(たち)と呼ぼう。

 

 ハルトマンの名は、はや一の章からたびたび出てきています。人の欲するは、人の質に左右されるゆえ、自由ではないという立場の人です。また、きくところによると、きわめて几帳面な人だったそうですが、はたして几帳面な質の人が、まさに几帳面に振る舞うことができるのは、不自由なことでしようか。(「性格学にいう質」に当たるのはcharakterologische Anlageという言い回です。Anlage〈質〉はan〈付けて〉legen〈置く〉から来て、「施設、設備、資本、資質、素地、構想」といった意であり、Charakterologie〈性格学〉はバ一ンゼンという人が1867年に打ち出した論だそうです。)

 十の文です。

 

 〈考え〉と想いが人の質に働きかける、その働きかたが、人の生きるに、定かなモラルの、もしくは倫理の徴を与える。

 

 〈考え〉と想いが、ひとりひとりの人の質にどう働きかけるかは、〈考え〉と想いにもよりますし、ひとりひとりの人の質にもよります。そして、その働きかたが、人のひとりひとりの振る舞いかた、生きかたとして、きわだちます。(なお、ことわるまでもありませんが、ここにいう「モラル Moral」「倫理 Ethik」は、あまねく広く、ひとりひとり、あらゆる人の振る舞いかた、生きかたを指します。だれそれの「よき」振る舞いや、かれそれの「まじめな」生きかただけを指すのではありません。)

 八の段です。

 

 質がつくりなされるのは、永かろうとも短かろうとも留る、主の生きるの中身、すなわち、わたしたちの想いの中身と情の中身によってである。わたしの内にいま出てくる想いが、わたしを欲するへと促すかどうかは、その想いが、ほかの想いの中身と情の固有さにどうかかわるかに懸かる。わたしの想いの中身は、しかしまた、わたしがわたしなりに生きるにつれ、覚えに触れるにいたった〈考え〉、すなわち想いとなった〈考え〉の和によって決まっている。その和は、はたまた、わたしの大きかろうとも小さかろうとも悟る力と、わたしの見るの境に懸かる。すなわち経験の主に属するファクターと客に属するファクター、内の定かさと生きる現場に懸かる。わたしの質は、ことにわたしの情の生によって定まっている。わたしが、ひとつの定かな想いか〈考え〉に喜びか痛みを感じるによって、わたしが、その想いか〈考え〉を振る舞いのモチーフにしようと欲するかどうかが左右されよう。 ーそれらが、欲するのアクトにおいて見てとられるところとなる元手である。まさにいまの想いか〈考え〉が、モチーフとなって、わたしの欲するの目指すところ、狙いを定め、わたしの質が、わたしを、その狙いにむけて、わたしのすることを立てるべく定める。あと半時ほどしたら散歩をするとの思いが、わたしの振る舞いの目指すところを定める。しかし、その思いが欲するのモチーフヘと引き上げられるのは、その思いがそれなりの質に訴えるにおいてである。すなわち、わたしのこれまでの生きるによって、わたしの内に、たとえば散歩の狙いのふさわしさについての想いや、健康の値についての想いがつくりなされているにおいてであり、さらには散歩をするとの想いが、わたしの内において、快の情と結びつくにおいてである。

 

 いまひとたび、一の文から見ていきます。

 

 質がつくりなされるのは、永かろうとも短かろうとも留る、主の生きるの中身、すなわち、わたしたちの想いの中身と情の中身によってである。

 

 そもそも、情は、ことにひとりひとりそれぞれなりであるとともに(八の章)、〈考え〉と覚えのとりなし手であり、想いは、覚えと〈考え〉の重なりにおいて生じます(六の章)。そして、ひきつづき想いかえされる想いと、その想いにまつわる情が、欲する、振る舞うにおいて質としてきわだちます。ちなみに、さきほど、味をしめるといいましたが、そのしめられた味も、ひきつづき抱かれる想いと情にほかなりません。もちろん、味をしめるの逆で、懲りるでも同じです。(「つくりなす」に当たるのはbildenであり、いうならば「かたちをなさしめる」、さらには「構える」といったところでしょうか。なお、それについては、ことに4-b-2, 5-c-1の回を見てください。)

 二の文です。

 

 わたしの内にいま出てくる想いが、わたしを、欲するへと促すかどうかは、その想いが、ほかの想いの中身と情の固有さにどうかかわるかに懸かる。

 

 たとえば、うなぎが食べたいと思う時があります。でも、今月はお金のやりくりがきびしいし、ついこのあいだも焼肉を食べたばかりだし、今日うなぎというのは贅沢ではないかという思いが、うなぎを食べたいという思いに歯止めをかけます。でも、やっぱり食べたい。

 三の文です。

 

 わたしの想いの中身は、しかしまた、わたしがわたしなりに生きるにつれ、覚えに触れるにいたった〈考え〉、すなわち想いとなった〈考え〉の和によって決まっている。

 

 で、うなぎ屋さんに向かう道々、こんな想いが蘇ります。そうだ、子どものころは、夏、ラジオ体操に行くまえに、引き潮でごろごろと現われた石を、エイーとひっくりかえすと、うなぎがうじゃうじゃいて、ソレーとすばやく手でつかんでは陸にほうりなげる。そんな遊びをしたものでした。また、夕方には、大人の漁をまねて延縄をしかけ、それを夜がふけてから引き上げる。次から次に上がつてくるうなぎ、懐中電灯が照らしだす、そのくねくねと針糸にからまってうねるすがた、そのつやつやと白い腹、ぼんやりと黒い頭、あせた青緑の側面と尾・・・海にいるうなぎの大きなやつは、そんな色でした。でも、そのうなぎを食べた憶えは、まったくない。とにかく、とるのが楽しみでした。

 四の文です。

 

 その和は、はたまた、わたしの大きかろうとも小さかろうとも悟る力と、わたしの見るの堺に懸かる。すなわち経験の主に属するファクターと客に属するファクター、内の定かさと生きる現場に懸かる。

 

 想えば、わたしは、なぜか海辺に生まれて、十八の時までそこで育ったのだ。漁師の息子として、海のことに目覚めつつ、親しみつつ、また船酔いがはなはだしいのを負い目に感じつつ・・・。なんだか、しんみりしてきました。

 五の文です。

 

 わたしの質は、ことにわたしの情の生によって定まっている。

 

 そうそう、わたしは、いま、うなぎ屋さんへと向かっているところでした。まったくもう、昔はうなぎが食べたいなどとは思わなかったのに、としのせいかしら、この十年でうなぎをおいしいと思うようになりました。けっこう油っぽい食べ物ですが、開いて、蒸して、焼いて、タレに浸して、また焼いて、山椒をふりかけ、肝吸いを添え、時には小さな茶碗蒸しなんかもついてくる。なんともうまい食べかたが考えだされたものです。その味は、わたしの田舎では味わえなかった味です。たぶん、そのくらいエ夫できたら、あらゆる魚がおいしく喰えます。

 六の文です。

 

 わたしが、ひとつの定かな想いか〈考え〉に喜びか痛みを感じるによって、わたしが、その想いか〈考え〉を振る舞いのモチーフにしようと欲するかどうかが左右されよう。

 

 そして、これもとしのせいでしょうか、生きたうなぎを見るのが、なんだかちょっぴり痛ましく感じるようにもなりました。そういえば、老いて、底引き網の大きな船から小舟にのりかえ、一本釣りをするようになった父が、ふと、こうもらしたことがあります。魚がかかって釣り上げるのは気持ちがいいものだが、釣り上げてその目をみると、なんともいえない気持ちになる・・・。どうやら、わたしも、その年頃のようです。

 七の文です。

 

ーそれらが、欲するのアクトにおいて見てとられるところとなる元手である。

 

 そんなふうに道々、あれこれを想い思い、うなぎ屋さんまでやってきました。が、うなぎ屋さんの佇まいを目にして、足がとまってしまいます。

 八の文です。

 

 まさにいまの想いか〈考え〉が、モチーフとなって、わたしの欲するの目指すところ、狙いを定め、わたしの質が、わたしを、その狙いにむけて、わたしのすることを立てるべく定める。

 

 わたしは、うなぎを食べようと思って、うなぎ屋さんへとやってきたのだ。あとは、戸を開けて、なかに入っていけばいいのだ。なのに、このためらいはなんなのだ。なにがこわくて、はいれないのだ。お金の心配だろうか?贅沢に対する負い目だろうか?生きたうなぎへのうしろめたさだろうか?たしかに、それもあるけれど、どうも、それだけのせいではない。どうやら、わたしには、いざとなるとひるむ質が出てくる。この質は、いったい、どういう想いがつくりなしているのか?ふりかえっても、これといって思い当たるふしがない。いや、まて、このひるむ質は、獏たる想いと言えなくもない。ならば、この獏たる想い、ひるむ質は、わたしのすることとして、いかなることを立てることができるだろうか・・・。

 思わぬなりゆきになりました。うなぎ屋さんの前で佇むわたしは、ひとまずおくことにします。欲するが止むでなく、繰り出す例に戻りましょう。すなわち、欲するの目指すところが、いま出てきている〈考え〉または想いによって定かになり、欲する人が、質によって定かになって、まさに欲するが繰り出し、振る舞いがなされます。(「目指すところ」に当たるのはZielであり、そもそもは「とりはからわれたことAbgemessenes」だそうで、「目標、目的、ゴール」といった意です。「狙い」に当たるのはZweckであり、そもそもは「突き刺された枝」だそうで、「目的、目標、志望」といった意です。)

 九の文です。

 

 あと半時ほどしたら散歩をするとの思いが、わたしの振る舞いの目指すところを定める。

 

 人が散歩をするのは、散歩しようと思ってです。その思いを欠いて歩いている人は、用があって歩いているか、さまよっているか、ほっつきあるっているか、いずれにしても散歩はしていません。

 十の文です。

 

 しかし、その思いが欲するのモチーフヘと引き上げられるのは、その思いがそれなりの質に訴えるにおいてである。すなわち、わたしのこれまでの生きるによって、わたしの内に、たとえば散歩の狙いのふさわしさについての想いや、健康の値についての想いがつくりなされているにおいてであり、さらには散歩をするとの想いが、わたしの内において、快の情と結びつくにおいてである。

 

 散歩ということを想う人が、かならずしも散歩するとはかぎりません。その想いが、欲する、行うに変じるには、あの道この道を歩くという想いや、まだ歩いたことのない道を歩くという思い、はたまた散歩が気晴らしになり、健康によく、楽しいといった経験が欠かせません。

 九の段です。

 

 もって、わたしたちは、こう分かつことを要する。

1.ありうる主の質で、定かな想いと〈考え〉をモチーフヘと仕立てるに適っている質、

2.ありうる想いと〈考え〉で、欲するが生じるよう、わたしの質に働きかけうる想いと〈考え〉。

前者が行いの弾みであり、後者が行いの目指すところである。

 

 「ありうるmoglich」想いと〈考え〉は「いま出てくることができる」想いと〈考え〉であり、「ありうる」質は「いまつくりなされうる」質です。なお「ある」に「企る(生じる)」の意があり、「いま」に永い「いま」と短い「いま」があります。(「行い」に当たるのはSittlichkeitであり、Sitte〈そもそもは「ありよう、流儀」の意だそうです〉から来て、「風紀、風習、作法」といった意です。なお、さきにEthik

〈倫理〉とMoral〈モラル〉を「生きかた」「振る舞いかた」と言い換えてみましたが、そのでんでSittlichkeitは「ありかた」と言い換えることもできるでしょう。)

 さて、この回は、書き手のことを書いてしまいましたが、その勢いで、書き手が若いころに夢の光景をよんだ歌、二首を引きます。もちろん、欲するのモチーフと弾みにちなんだつもりです。

 

鳥瞰!

 

僕の故郷の

君を見んと

飛び立つ 僕は

むささび

 

しじま

まどろむ海

をつらぬき

夜の河は

流れていった